いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2014年11月

かみさんが亡くなった後、
俺は独りぼっちで「生き地獄」の中を生きている。

あまりにも悲しい。
凍えるほど寂しい。
その上、かみさんを守ってあげられなかった罪悪感に押し潰されそうだ。

悲しみも、寂しさも、罪悪感も、
俺が生きている限り、俺の中に居座り続けるだろう。

時には、悲しみや寂しさ、罪悪感、その他もろもろの感情が俺の中で暴れ出す。
そんな時、全身が震え、ボロボロと涙を流し、頭を抱え、身体を掻き毟る。

生きていることが苦しい。
生きていることから逃げたくなる。
だが、その勇気もない。

死にたいのに死ねない、だから生きていかざるを得ない。
これは「生き地獄」だ。

・・・

当然ながら、「生き地獄」から解放されるのは、俺が死ぬ瞬間だ。

だが最近、たとえ死ななくても、この世界を「生き地獄」と感じなくなる日が来るんじゃないかと思うようになった。
世界を「生き地獄」とは感じなくなる日、それは、俺が老人になったときだ。

・・・

老人になれば、余生はわずかだ。
余生が短いという事実は、「もうすぐ生き地獄から解放される」という希望につながるような気がするのだ。

現在40歳代半ばの俺にとって、余生は長い。
その長さが、この世界を「生き地獄」と感じさせる要因なんじゃないか。

余生が長いがゆえに、これからもずっと、悲しみや寂しさ、罪悪感に苦しみ続けなければならないと感じるのであって、余生が短ければ、「もうすぐ解放される」と思えるようになるんじゃないか。

・・・

俺は、早く老人になりたい。
早く時間が経って欲しい、早く年を取りたい、早く爺さんになりたい。

余命いくばくもない年齢になれば、俺も「生き地獄」から解放されるだろう。

それだけじゃない。
余命がわずかになったとき、今よりももっと、
かみさんのことを身近に感じることができるんじゃないかとも想うのだ。

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社会学者や心理学者の指摘を待つまでも無く、
人間は自らに与えられた役割を演じて生きている。

上司の前での自分、同僚や友人の前での自分、部下の前での自分。
その他、あらゆる人間関係において、人は自分の役割を演じている。

そう考えれば、人間というのはなかなか疲れる生き物だ。
常に肩に力が入っている。

だが、肩の力が抜ける瞬間がある。
無防備になって、あらゆる緊張感から解き放たれる瞬間がある。
それは、愛する家族と一緒にいる時だ。

もちろん、お子さんのいる方は、父親あるいは母親としての役割を演じなければならない場面もあるだろう。

だが、かみさんと俺には子どもがいなかった。
そのお陰で(?)、俺はかみさんと二人でいる時には、完全に無防備だった。

かみさんが亡くなった今、俺は独りぼっちだ。
ある意味では、今だって無防備だ。
だが、かみさんの生前の無防備さと、今の無防備さとでは質が違う。

かみさんが元気だった頃、俺は、無防備である自分が快感だった。
居心地が良いと言えばいいだろうか。
何とも表現しようのない至福感に包まれていた。

そう。
かみさんがいた頃は、かみさんの傍にいるだけで、あらゆる緊張感から解放されて、心地よい気分に浸っていられたものだ。

だが、今は違う。
無防備であるという意味では同じだが、この無防備さが苦痛なのだ。

無防備さでさえ苦痛だ。
会社で「課長」としての役割を果たさなければならないことは、なおさら苦痛だ。

苦痛な無防備。
それは、生きていること自体が苦痛だということだ。

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朝目覚めると、俺は周囲を見回す。
そして気づく。
かみさんがいない…
かみさんは死んじゃったんだ…

世界というものは残酷で、毎朝目覚めた瞬間、「かみさんは亡くなった」という事実を俺に突き付ける。
そのたびに、俺の気分は、深い闇の底に落ちる。
身動きすることさえできず、しばしの間、呆然とする。

やっとのことで床から起き上がると、かみさんの仏前に座る。
そして線香を供える。

その後バルコニーに出て、タバコを吸いながら、かみさんに想いを馳せる。
幸せだった頃の想い出だったり、
「あの世」はあるのかな…だったり、
俺が死んだら、かみさんに逢えるかな…だったり、
あるいは、早くお迎えが来てほしいな…だったり。
闇の底に落ちた気分とともに、それらの想いと戯れる。

タバコを吸い終わると、米が炊けるのを待っている間にシャワーを浴びる。
米が炊けたら、かみさんにお供えをし、遺影に向かって手を合わせる。

スーツに着替え、もう一度、仏前に座る。
かみさんの遺影を見つめ、骨壷に触れながら、「行ってくるね…」と話しかける。
そして重い身体を引きずるようにして出勤する。

通勤電車の中では目をつぶり、かみさんとの幸せだった頃の想い出に耽る。
想い出はあまりにも温かくて、その温かさと現在との落差がやりきれない。
涙がこぼれそうになることもあるが、歯を食いしばって堪える。

会社では仕事をしているものの、かみさんの生前とは違い、仕事に対するモチベーションは低い。
一日中ひきこもり、仕事に必要な最低限の会話だけで、ほとんど誰とも雑談をせず、一日が終わる。

帰宅する際の電車の中でも目をつぶり、かみさんとの楽しかった日々を想う。
もう二度と、あの楽しかった日々は還ってこないんだと想うと、涙が溢れそうになったりもする。

自宅の最寄り駅で電車を降りて、帰路に着く。
帰宅途中でコンビニや弁当屋に寄り、夕食を確保する。

帰宅すると、真っ先に、かみさんの仏壇の前に座る。
線香を手向け、手を合わせる。
かみさんの遺影を見つめ、「ただいま…」と声をかける。

その後、悲しみや寂しさを紛らわすため、浴びるように焼酎を飲む。
泥酔したら、睡眠導入剤と抗うつ剤を服用し、倒れ込むように眠りに落ちる。

・・・

俺の平日は、毎日がこんなものだ。
ちなみに土日や祭日は、会社に行かない代わりに、朝から晩まで一日中酒を飲んで、寂しさをやり過ごす。

何の歓びもなく、何の楽しみもなく、なんの面白味もない毎日が
判を押したように繰り返される。
ただただ単調で、無為で、何の抑揚もなく、くだらない、唾棄すべき日常が繰り返される。

かみさんが亡くなった後の俺の余生。
これからもこんな風に過ぎていくんだろう。

・・・

かみさんの生前、毎日が楽しかった。
仕事も充実していたし、同僚との付き合いも楽しかった。
そして何よりも、家に帰れば、かみさんが俺を待っていてくれた。

そうだ。
その頃はすべてが輝いていた。
世界は抑揚に富み、歓喜に満ち溢れていた。
かみさんと俺は、この世界のすべてを肯定していた。

だがもはや、かみさんはいない。
俺の眼前には、不毛でグレーな光景だけが広がっている。
それを眺めただけで、うんざりする。

でも、いつかは終わる。
どんなに不毛で、無為な日々であったとしても、いつかは終わる日がやってくる。

俺にとって、「終わりは救い」なのだ。

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秋も終わりに近づく、ある日の夜。
就寝する直前のことだ。

俺は突然、激しい感情に襲われた。
そして、かみさんの仏壇の前で泣きじゃくった。
声を張り上げ、顔をグチャグチャにして泣きじゃくった。

悲しくて泣いているわけではないようだった。
寂しくて泣いているわけでもないようだった。

泣きながら脳裏に浮かんできたのは、かみさんと俺が幸せだった頃の光景だ。
たぶん、あれは、かみさんへの感謝の涙だった。

かみさんが、この世に生まれてきてくれたこと。
かみさんが、両親からの良質な愛情に恵まれて育ってくれたこと。

かみさんが、俺と出会ってくれたこと。
かみさんが、俺を好きになってくれたこと。

かみさんが、20年以上もの間、俺と一緒に暮らしてくれたこと。
かみさんが、俺を支えてくれて、俺を癒してくれて、温めてくれたこと。

かみさんが、俺にたっぷりの愛情をくれたこと。
そして何よりも、かみさんが、俺の愛情を全身全霊で受け容れてくれたこと。

俺は「ありがとう…。ありがとう…」とつぶやきながら泣いた。

・・・

泣きやんだとき、ふと想った。
人間という生き物は、たとえ最愛の人が亡くなったとしても、その人への感謝の気持ちを忘れることはないんだな…

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かみさんが亡くなった。
俺は、悲しい。

最愛の人を喪えば、誰だって悲しむはずだ。

だが、「悲しみ」って何だろうか。
最愛の人を亡くして味わう感情や感覚は、「悲しみ」という、たった一つの言葉で表現できるほど、単純ではない。

・・・

喪失感。

いつでも傍にいてくれた人、
たとえ傍にいなくても心はつながっていて、いつでもお互いを想い合っていた人、
永遠に寄り添って生きていくと信じて疑わなかった人、
死ぬときは二人一緒が良いねと誓い合ってきた人。

そんな人がいなくなると、遺された者の心に大きな空洞ができる。
自分の半身を失ったかのような感覚がいつまで経っても消えず、
ふと、「半身を無くしたのに、なぜ俺は生きているんだろう…」と不思議な気持ちになったりもする。

・・・

罪悪感。

かみさんが病魔に侵されていることに気づいてあげられなかったこと、
何が何でも直してみせると誓ったのに、結局かみさんを助けてあげられなかったこと、
自分の命よりも大切な存在だったのに、かみさんを守ってあげられなかったこと、
そもそも何故、癌になってしまったのか、ひょっとすると俺のせいなんじゃないか、
俺がかみさんを殺してしまったんじゃないかとさえ考えてしまう。

それらの観念は俺を押し潰す。
頭を掻き毟りながら、俺は泣きじゃくる。

・・・

孤独感や寂しさ。

かみさんは俺にとって、たった一人の家族だった。
かみさんが亡くなって、俺は独りぼっちになった。

一緒に旅行したり、一緒に食事をしたりする相手がいないどころか、
一緒に笑う相手もいないし、他愛ない会話をする相手さえいない。
真っ暗で静まり返った部屋の中、身も凍るような寂しさに震える。
紛らわすことも、ごまかすこともできず、孤独感から逃れるため、眠りの中に逃避する。

・・・

そして絶望感。

かみさんのいないこの世界。
未来には、ひとかけらの希望もない。
死なないから、ただ息をしているだけだ。

眼前には、真っ暗な闇が広がっていて、先を見通すことは不可能だ。
その真っ暗な闇の中、光を求めて手探りで歩いてきたものの、
いまだに微かな光さえ見えない。

生きている意味が分からない。
生きる気力さえ失い、死にたいと願う。

・・・

喪失感、罪悪感、孤独感や寂しさ、絶望感…
これらが混ざり合い、「悲しみ」は生まれる。

まだまだ表現しきれてはいないのだが…
俺の貧困なボキャブラリーと稚拙な表現力で言い表せるのは、このくらいのことだけだ。

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