いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2016年03月

死別による悲嘆から立ち直るというのは、どういうことなのだろうか。
悲しみを抱えつつ、それでも前向きに生きる(あるいは、悲しみから解放されることで、自然と前向きに生きられるようになる)というのは、どういう意味なのだろうか。

俺はその意味を知っているはずなのだ。
父親の死から立ち直った経験を持つ俺には、その意味が分かっているはずなのだ。

俺が高校生のとき、実父が死んだ。
突然死だった。

毒親だったとは言え、父親が死んだときは悲しかった。
俺が悲しみから立ち直ったのは、父の死から数か月後だったと記憶している。
実父に対する「思慕」の情が消えたとき、俺は悲しみから立ち直ったのだ。

だが、父親の死とかみさんの死とでは、まったく違う。
かみさんの死に関しては、「死別による悲嘆から立ち直る」ということの意味がわからないのだ。

父親に会いたいとは少しも思わないが、かみさんには会いたくてたまらない。
かみさんが亡くなってから
6年が経とうとしているのに、今でも俺は悲しい。

かみさんを守れなかった罪悪感に苛まれ、気が狂いそうだ。
寂しくて、不安で、そこから逃げ出すために自分自身を消滅させたくなる。

かみさんのいない人生に意味が見いだせない。
かみさんのいない余生を生きていくのは、あまりにも切ない。

かみさんを喪ったという事実を否定し、かみさんを俺の手に取り戻したいと願っている。

かみさんへの「思慕」がいつまでも消えないのだ。
かみさんを想う気持ちがいつまでも薄れていかないのだ。

かみさんが亡くなったことで、俺は自分の半身を失った。
実父の死の際には感じなかった「半身を失ったような感覚」が、いつでも俺にまとわりついている。

この感覚は苦しい。
この感覚こそが「複雑性悲嘆」の正体なのかもしれないが、この感覚を抱えたまま生きていくのは、本当に苦しい。
何もかもを投げ出して、消えてしまいたい。

だが、たとえ消えてしまったとしても、俺のかみさんへの「思慕」だけは残るだろう。
たとえ俺が消滅したとしても、俺がかみさんを想う気持ちだけは、永遠に残って欲しいと思っている。


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一日のうちで、一番つらくて、悲しくて、苦しい瞬間。
一日のうちで、最も鬱が大きくなる瞬間。
それは目覚めた瞬間だ。

目覚めれば、俺は否応なく現実を認識せざるを得ない。
かみさんが死んじゃった。
かみさんがいない。
目覚めるたびに、「かみさんがいない」という事実が襲いかかって来て、俺は奈落の底に突き落とされる。

そこにあるのは絶望だ。
眠っている間はかみさんの不在から目を背けていられたのに、目覚めれば、そこには生き地獄が広がっている。

現実を否認したい。
もう一度、眠りに落ちたい。
もう一度、眠りに逃げたい。
だから俺は、目を閉じ続ける。

だが、「心」の中で眠りたいと叫んでも、「身体」は思い通りにはならず、もう一度眠りに落ちることなんてできはしない。

消えてしまいたい。
俺の意識を消滅させてしまいたい。
意識がなくなれば、かみさんの死と向き合わなくて済む。
そうすれば、この苦しみや辛さ、鬱から解放されるだろう。

そうだ。
俺は消えてしまいたいのだ。
消えてしまえば、かみさんを喪ったことも忘れてしまえるだろう。

もう嫌だ。
朝が来るのが嫌なのだ。
目覚めるのが嫌なのだ。

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かみさんは俺のすべてだ。
かみさんを妻として愛しただけじゃない。

父親として娘を愛するように、かみさんを愛した。
息子として母親を愛するように、かみさんを愛した。

かみさんは俺のすべてだ。
その気持ちは今でも変わらない。
それどころか、日を追うごとに想いは深まっていく。

愛おしい。
抱きしめたい。

想いが深まっていく背景には、
かみさんの不在という現実があるのだろう。
不在によって愛が深まるのは、俺がかみさんの死を受け入れていない証だ。

俺はまだ、
諦めていないのだ。
いずれはまた、かみさんに会える。
俺の深層が、そう叫んでいるのだ。

かみさんに会いたい。
かみさんに触れたい。
かみさんを抱きしめたい。
かみさんの笑顔が見たい。

あの世があるのかどうかは分からないが、もしも「ない」
と確信したら、俺は自らの命を絶つかもしれない。
かみさんとは二度と会えないと確信したら、俺は自らを破壊するかもしれない。

俺がかろうじて生きているのは、ひょっとしたら「あの世」
があるかもしれない、俺が死んだら、かみさんと抱きしめ合うことができるかもしれないと感じるからだ

俺はいつでもかみさんを探しているのだ。
俺はいつでもかみさんを求めているのだ。

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6時になると、自然と目が覚める。
俺はぼんやりとした頭の中で、かみさんを想う。
半分眠ったような意識の中で、かみさんに想いを馳せていると、心がほんのり温かい。
まるで、かみさんが傍にいるかのようだ。
まるで、かみさんが俺に寄り添っているかのようだ。

俺はしばしの間、かみさんへの想いに身を委ねる。
この時間が永遠に続けばいいと思うのだが、朝
6時半、米が炊けると同時に目覚まし時計が鳴り、俺は起床せざるを得ない。

覚醒すると同時に温かい心はどこかに消し飛んでしまい、深くて重たい哀しみに包まれる。
その哀しみは、俺の心と身体にまとわりつく。
現実から逃避するため、このまま眠ってしまいたいという誘惑に駆られたりもするが、俺は自分の身体に鞭を打ち、仏壇の前に座る。
そして、線香に火を灯し、かみさんの遺影を見つめる。
このまま動きたくない、このままここに座っていたい、一日中かみさんと向き合っていたいと想うのだが、自分を立て直すべく、俺はバルコニーに出てタバコを一本吸う。

だが、哀しみや寂しさは、癒えるどころか増すばかりで、会社をサボってしまいたくなる。
半分眠っていたような意識の中で感じたかみさんの気配。
その気配と一日中戯れていたい。
半分眠ったような状態になれば、かみさんの気配を感じることができるんじゃないだろうか…なんて思ったりもする。

だが、それらの想いを振り払い、かみさんにお供えを済ませると、スーツに着替えて会社に向かう。
玄関を出る瞬間、かみさんから離れてしまうようで、後ろ髪を引かれるような想いもするが、かみさんの写真に「行ってくるね…」と声を掛け、玄関を閉める。

・・・

会社に復帰して以来、毎朝判で押したように、同じことを繰り返す。
確かに感じたかみさんの気配を振り払い、出社するのは切ないし、やるせない。
この気配にどっぷりと浸かっていたい。
永遠にこの気配と戯れていたい。

だが、現実はそれを許してくれない。
かと言って、誰かが悪いわけじゃない。
現実というのはそういうものだ。
亡くなった人に向き合っていたいなどという願望をかなえてくれるようにはできていないのだ。
遺族にとって、現実は残酷なのだ。

生者への愛を表現することは許されている。
例えば「家族が病気になったから、看病したいので会社を休む」と言えば許してもらえる。
だが、死者への愛を表現することは難しい。
「今日は一日中、亡くなったかみさんと向き合っていたいから、会社を休みたい」なんて、とてもじゃないが言えない。

世界は生者の、生者による、生者のための世界だ。
亡くなった人の占めることのできる場所などない。

そのことが、とても哀しいのだ。
かみさんがかわいそうだ。


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以下は324日の木曜日に会社で起こった出来事だ。

俺は部下(女性の課長補佐。年齢は俺と同じくらい。以下、「
Sさん」)から仕事の相談を受けた。
俺がアドバイスと指示を終えた後、二人で雑談をした。

その際に知ったのだが、
Sさんには子どもがいないそうだ。
夫婦二人きりの家族なんだそうだ。
俺たち夫婦と同じだ。

Sさんはかみさんを喪った俺の気持ちがよく分かると言ってくれた。

S
さんは目を閉じて、ジッと考え込んでいた。
自分がご主人を亡くしたら、どうなってしまうだろう…なんて想像していたのかもしれない。

そして
Sさんは言った。
「もし私が旦那を亡くしたら…。悲しみ…。そんな言葉では言い表せないですよね…。いい言葉が見つからないな…」
「絶望…。そうですよ。たぶん絶望しちゃうだろうな…」
「私は何のために生きてるんだろう、誰のために生きてるんだろう…って思って絶望しちゃうだろうな…」

俺は少し驚いた。
俺の心の中を見透かされているような気持ちになったのだ。

俺は今まで、伴侶やお子さんを亡くした体験のない人には、死別による悲しみや寂しさ、絶望感なんて、決して理解できないと思っていたし、共感することもできないと思っていた。
だが、世の中には、体験していなくても、ほんの少しばかり理解できる人もいるということに驚かされた。

もちろん、その悲しみや寂しさ、絶望感を自ら感受しているわけではないのだろうが、伴侶を亡くしていない人の口から「絶望」という言葉や、「私は何のために生きてるんだろう、誰のために生きてるんだろう…」という言葉が出てくるのを聞いたのは、かみさんを亡くして以来、初めての体験だった。

・・・

S
さんの言葉を聞いたとき、俺は気づいた。
かみさんを亡くした悲しみや絶望は、たとえ誰かに共感してもらっても、救われるものではないということに気づいたのだ。

S
さんが共感してくれたことには確かに驚いた。
だが、共感してもらったところで、何の救いにもならないことも確かなのだ。
俺が求めているのは、かみさんを亡くした悲しみや絶望に共感してくれる人ではないのだろう。

俺が求めているのは、たったひとつ、かみさんだけだ。
かみさんに逢いたいんだ。
かみさんを抱きしめたいんだ。
かみさんと寄り添っていたいんだ。

だが、それは決してかなわない。
俺が生きている限り、絶対にかなわない願いだ。

だからせめて、かみさんの魂の存在を確かなものとして感じ取ることができたなら…と祈っている。


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