いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2016年05月

俺は幸せになりたいなんて思っていない。
一日をなんとかやり過ごし、余生を食いつぶしているような人間には、幸せを求める余裕なんか無い。
幸せを求めるには、ある種の「余裕」が必要なのだ。

かみさんが死んじゃった。
かみさんに会いたい。
こんなにも会いたいのに、どんなに願っても絶対に会えない。
そのことが悲しい。

心の中は、いつだって空虚なのに、絶望で満たされている。
心にポッカリと開いた穴が、幸せになりたいという欲求を奪い取る。
生きる力が枯渇してしまい、日々をやり過ごすだけで精一杯。
幸せになりたいと願えるだけの余力なんて、ありはしないのだ。

自分が幸せでなければ、あるいは、幸せになりたいという欲求がなければ、人は他人を幸せにすることはできないんじゃないかと思う。
自らが幸せになりたいと願うだけの余裕がなければ、他人を幸せにしてあげようという余裕も湧いては来ないんじゃないかと思う。

幸せになりたいと願うだけの余裕のない俺には、もはや他人を幸せにしてあげられるだけの力もなければ、意欲もないし、余裕もない。

・・・

幸せな人々は、自らの幸せを維持するだけじゃなく、今以上に幸せになろうとする。
それはいい。
かみさんが元気だった頃なら、俺だってそうだったはずだ。

だが、幸せな人々の中には、傲慢な連中も少なくないことに気づかされた。
自分たちが今以上に幸せになるために自助努力をするなら許せる。
だが、自分たちの幸せのために他人を犠牲にし、他人に対して、あれをしろ、これをしろと要求してくる連中も少なくないのだ。

傲慢な連中は相手を選ばない。
自分より不幸な人々に対して、何の遠慮も無く要求を突き付けてくる。
伴侶やお子さんを喪ってしまい、人生に絶望し、悲しみに押し潰されつつ、なんとか日々をやり過ごしている人々に対しても、あれをしてくれ、これをしてくれと要求してくる。

幸せな人々の中には、自分がもっと幸せになるために、何も持たない人々からさえも、何かを奪おうとする奴がいるのだ。

無茶だよ。
幸せな人々が、今以上に幸せになりたいからって、幸せでない人々を犠牲にしたり、幸せでない人々に尽くしてもらおうとするなんて、無茶だよ。

お願いだから、そっとしておいてほしい。
お願いだから、そっとしておいてあげてほしい。

伴侶やお子さんを亡くして悲しんでいる人々に、あれをしろ、これをしろと要求し、これ以上追い詰めるのはやめてほしいのだ。


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社会は「悲しんでいる人」が嫌いだ。
とりわけ「愛する人と死別して、深い悲しみに暮れている人」が嫌いだ。
社会は、愛する人を喪って、いつまでも悲しみ続けている人を忌避する。

「忌引き」という制度がある。
会社や学校では、親族や姻族が亡くなったとき、喪に服する期間として休暇が認められている場合が多い。
それが「忌引き」だ。

俺の会社では、配偶者を亡くした場合、10日間の「忌引き」が認められている。

だが、かみさんを亡くした直後、俺はこの「忌引き」という制度に対して、大きな違和感を感じた。
まるで「10日間も経てば、立ち直るはず」、「10日間で立ち直るべき」、そう言われているような気がした。
「10日間経ったら、悲しみを捨てて、社会の一員として復帰すべき」
暗黙裡にそう言われているような気がした。

・・・

平成22年の12月。
かみさんが亡くなって半年が経った頃のこと。
俺はある部署の課長だった。

課長の上には部長がいる。
当時の部長は、職場で暗い顔をしている俺、かみさんを喪った悲しみを隠そうともしない俺のことが鬱陶しかったらしい。

部長は俺に向かって
「さっさと奥さん離れしろよ!」
「もう半年も経ったのに、何でいつまでも元気がでないんだよ!」
「課長のくせに、部下の前で暗い顔見せてんじゃねえよ!」
と叱責された。

社会は「愛する人と死別して、深い悲しみに暮れている人」が嫌いだ。
だから悲嘆に暮れる期間にタイムリミットを設けようとする。

俺たちの住む社会は、死別後、短期間のうちに悲しみから立ち直ることを求めている。
亡くなった人のことなど忘れて、さっさと立ち直れと強制する。

・・・

「時薬」あるいは「日にち薬」という言葉がある。
この言葉は、死別の悲しみも、時間が経てば薄れていくということを意味している。

本当なのだろうか。
死別の悲しみは時間だけで解決されるものなのだろうか。

確かに、時間の経過と共に、気持ちは少しずつ変化していく(のかもしれない)。

俺の実感では、
胸が引き裂かれるような、身体の半分を削ぎ落とされたような、激しい悲しみは若干、薄れた(ような気もする)。
だが、時間が経つにつれて、悲しみの形は姿を変え、大きくて、深い悲しみが襲ってきた。
「強くて激しい悲しみ」から「深くて大きな悲しみ」へ。
一方、「寂しさ」という感情は、日を追うごとに深まっていく。

「時薬」あるいは「日にち薬」の本当の意味。
それは、死別後に襲ってくる様々な感情が無くなっていくことを意味するのではないような気がしている。

本当の意味は
時間の経過に伴って、「激しくて強い悲しみ」から、「深くて大きな悲しみ」に変わっていく。
そういうことなんじゃないだろうか。

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平成34月から平成73月まで、かみさんと俺は、千葉県浦安市の猫実という地区にあるアパートに住んでいた。
また、平成
74月から平成13年の夏くらいまで、東京都練馬区の石神井公園にある賃貸マンションに住んでいた。

今住んでいるマンションを買ったのは平成
13年のこと。
まだまだ、かみさんは元気だった。

いずれは癌になって死んでしまうなんて、これっぽっちも思っていなかった。

・・・

今のマンションに引っ越してから数年後。
かみさんと俺は、どちらからともなく、「前に住んでいたところに行ってみようよ」と言い出した。
かつて住んでいたアパートや賃貸マンションが、どんなふうに変わっているかも知りたかった。
また、かつて二人で散歩をした猫実や石神井公園の街並みが、どんなふうに変わったのかにも興味があった。
かつて散歩をした道を、二人で歩いてみたかったのだ。

今のマンションに引っ越してから、俺たちは何度も何度も、「近いうちに浦安に遊びに行ってみようよ」とか、「今度、石神井公園を散歩してみようよ」と話し合った。

だが、その計画は実行に移されることはなかった。
かみさんにも俺にも、いくらでも時間がある、今すぐに行かなくても、いずれ行けばいい、急ぐ必要はない。
そんな風にして、俺たちは浦安や石神井公園に行くのを先延ばしにしてきたのだ。

・・・

かみさんと俺は、「今度、二人で××に行ってみようよ」だとか、「近いうちに××しに行こうよ」だとか、いろいろと計画を立ててきた。
だが、かみさんと俺にはいくらでも時間があるという根拠のない確信が、さまざまな計画の実行を先延ばしにさせてきた。

きっと、かみさんも無念だろう。
俺と一緒に浦安の街を散歩したかっただろう、俺と二人で石神井公園を歩きたかっただろう。

かみさんの無念を想うとき、胸が痛い。

・・・

かみさんのお位牌を連れて、浦安や石神井公園を散策してみようか…とも考えた。
だが、やめた。

あまりにも切なすぎる。
かみさんとの想い出の地を独りぼっちで訪れるのは、あまりにも切なすぎる。

俺はもう二度と、浦安や石神井公園の地を踏むことはないだろう。


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大多数の人々、言い換えれば、ごく普通に幸せな暮らしを送っている人々は、「愛こそがすべて…」だとか、「この世で一番大切なものは愛だな…」なんて言葉を聞くと、どんな反応をするのだろう。

たぶん苦笑したり、嘲笑したりするんだろうし、心の中で「安っぽい言葉だなぁ…」とか、「クサいセリフだなぁ…」なんて感じるんだろう。

俺だって、かみさんが元気だった頃なら、「愛こそがすべて…」なんてセリフを真顔で言う人がいれば、「クサいなぁ」って感じたかもしれない。

だが、かみさんを亡くした今、俺はそんなふうに反応できる人々のことが羨ましい。
彼ら・彼女らは憂いを知らないからだ。
最愛の人と死別して、激しくて、深くて、大きな悲しみに陥ることがどういうことなのかを知らないからだ。

最愛の人を喪ってしまうという体験。
それは、日常が足元から崩れ去り、夢に描いていた未来が消滅してしまい、この世のすべてに絶望してしまう。
気が狂いそうなほどの悲しみに打ちひしがれ、最愛の人を守ってあげられなかった罪悪感に苛まれ、もっと生きたかったはずなのに死んでしまったことが不憫で、自分が生き残ってしまっていることにさえ罪の意識を覚えてしまう。

・・・

それらのさまざまな想いの中に、「愛こそがすべてだったんだ…」という“後悔”が含まれていることに気づいたのは、かみさんが亡くなった直後だった。

自分にとって、この世界で一番大切な人を喪ったとき、人は初めて本当のことを知るのだろう。
愛こそがすべて…、この世で一番大切なものは愛だ…、ということを知るのだろう。

本当はクサいはずの「愛こそがすべて…」という言葉が、何の疑いも無い真実として、心の中に響き渡る。
カネも財産もいらない、社会的な地位や名誉もいらない、贅沢をしなくてもいい、仕事や趣味なんてどうでもいい、何もかもを犠牲にしてもかまわない。

ただ、かみさんが生きていてくれさえすれば良かった。
本当に大切なのは、かみさんへの愛だった。
もっともっと、かみさんを愛してあげたかった。

だが、「愛こそはすべて…」と気づいたときは、もう遅いのだ。
かみさんはいない。
もっともっと愛してあげたいのに、かみさんはいないのだ。

気づくのが遅すぎた。
人間って、本当に愚かな生き物なんだ。

今なら真顔で「愛が一番大切だ」と言えるだろうが、その愛を受け取ってくれる人は、もういないのだ。


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平成21年に義母が札幌市に引っ越す前、かみさんの実家は北海道の旭川市にあった。
かみさんと俺は、毎年ゴールデンウィークや年末年始になると、旭川にあるかみさんの実家に遊びに行った。

一週間ほど滞在させてもらい、みんなで食事をしながら楽しい会話をしたり、かみさん、義母、俺の三人でラーメンや寿司を食べに行ったり、かみさんと二人で街中をブラブラと散歩したり、買い物に行ったりして過ごした。

だから北海道と言えば、札幌よりも旭川。
旭川には、かみさんと俺の想い出が、いっぱい詰まっている。

・・・

平成
9年の年末から翌年の年始にかけて。
この年、旭川には直行せず、函館を旅行してから旭川に行こうということになった。
羽田空港から飛行機に乗り、函館空港で降りて、湯の川温泉にあるホテルに
2泊した。

函館では、温泉に浸かったり、寿司や天ぷらを食べに行ったり、市場で海産物を買い込んだり、路面電車の線路沿いを延々と歩いたり、元町を散策したりして過ごした。

2
3日の函館旅行は、あっという間に終わり、かみさんと俺は、JRの函館駅から旭川に向かった。

当時、函館から旭川に向かうには
5時間ほどかかった。
函館から札幌まで特急で
3時間半。
その後、札幌から別の特急に乗り、旭川まで
1時間半。
長い旅程だった。

かみさんの実家に到着したのは、深夜だったと記憶している。

・・・

このときの函館旅行について、深く心に刻まれている想い出がある。
ホテルの温泉でのできごとだ。

ホテルの客室には露天風呂が付いていて、津軽海峡を見渡すことができた。
かみさんと俺は、二人で一緒に露天風呂に入った。
津軽海峡に浮かぶイカ釣り漁船の灯りを見ながら、二人で一緒に「津軽海峡
冬景色」を大きな声で歌った。

二人で同じ風呂に入り、二人で同じ景色を見て、二人で同じ歌を歌った。

俺たちは身を寄せ合っていた。
俺たちは一体感に身を委ねていた。

あのときのことを想い出すと、心がほんのりと温かくなる。
かみさんとの一体感が蘇ってくる。

だがそれも、ほんの一瞬のことにすぎない。

もう二度と、あの幸せだった頃には戻れない。
もう一度、あの一体感を取り戻したいのに、その願いは決してかなわない。

それでも俺は、願わざるを得ないのだ。

かみさんを取り戻したい。
あの幸せだった頃に還りたい。


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