いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2016年12月

世界で一番大切な人を喪えば、誰だって悲しい。

その悲しみは、あまりにも激しくて、遺された者の心と身体を切り刻み、生命力を減退させる。

愛する人の死とともに、半身が削ぎ落とされ、心にはポッカリ大きな穴が開き、周囲の世界が自分から遠ざかっていく。

幸せで、平穏で、笑顔の絶えなかった日々は足元から崩れ落ち、いくら泣き叫んでも、もう二度と幸せだった頃には戻れないことを知って絶望する。

悲しみは大きな質量を持ち、心の中に居座って、心身を重くさせる。

かみさんを亡くして数年。
俺は悲しみに押し潰されそうになりながら生きてきた。

・・・

苦しくて、苦しくて、苦しくて、そこから逃れようと足掻いた。
もうこんな苦しい気持ちから解放されたいと願った。

解放されるためには、悲しみを排除するしかないのだろうか。

だが、悲しみは異物ではない。
遺された者の心の本質的な部分だ。

異物ではない以上、排除しようとしてもできるものではない。

悲しみは、最愛の人を亡くした者にとって、ごく自然な反応なのだ。

・・・

お子さんを亡くした女性が、「私はもう二度と、心の底から笑うことはできない」と言っていた。
確かにその通りだろう。

俺もきっと、心の底から笑うことは二度とない。

だが、悲しみがあってもいいじゃないかとも思う。
心の底から笑えなくたっていいじゃないかと思う。

たとえ笑えなくても、歩いていくことはできるかもしれない。

悲しみがあってはいけない。
悲しみがあると歩んでいけない。
そう思うことは間違いなのかもしれない。

人間はきっと、悲しみとともに歩むことができるんだ。
悲しくても、進んでいくことはできるんだ。

悲しみを嫌うことはやめよう。
悲しみを排除したり、抑圧したりするのはやめよう。

悲しみとともに歩んでいく。
きっと、そんな生き方もあるはずだ。


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かみさんと俺との間には、子どもがいない。
このことは、過去の記事の中でも何度か触れたと思う。

子どもを作らないということは、かみさんと俺が相談して決めた。
もうずいぶんと昔のことだ。

そうは言っても、その後もずいぶんと悩んだものだ。
20歳代、30歳代の頃は、時折、「やっぱり子ども作ろうか?」などという話題が出た。

かみさんと二人で散歩をしている時などに、子どもを連れた夫婦とすれ違うと、やっぱり羨ましく感じたものだ。

子どもを作るか、作らないか。
いろいろと話しあうのだが、結局は「まだ、いいか…」という結論になり、先延ばしにしてきた。

そうこうしているうちに、かみさんが40歳になってしまった。
その頃から、「子ども作ろうか」という話題は出なくなった。

・・・

かみさんが亡くなって、俺は様々な後悔と罪悪感に苛まれた。

もっとたくさん、かみさんを抱き締めれば良かった。
もっとたくさん、かみさんに触れておけば良かった。
もっとたくさん、かみさんと手をつないでおけば良かった。
もっとたくさん、かみさんのおしゃべりを聴いてあげれば良かった。

数え上げればキリがない。

そうした後悔と罪悪感の中に、とりわけ俺の心を抉るものがあった。
それは「容子の生きた証を残してあげられなかった」というものだ。

容子の生きた証。
それは、容子の血を引く子どもの存在だ。
容子の遺伝子を継ぎ、容子の血を引く子どもだ。

容子が生きた証を残してあげたかった。

それができなかったこと、しなかったことが無念だ。
容子が可哀想だ。

容子が亡くなってしばらくの間、そのことを思うたびに、俺は声を張り上げて泣いた。
容子のことが可哀想で、不憫で泣いた。

・・・

もし子どもがいれば、俺は「独りぼっちの廃人」になることはなかっただろう。
哀しくて、寂しくて、どんなに辛かろうと、子どものために、何とか日常の生活を送ることができたかもしれない。

だが、そんなことじゃないのだ。
子どもは俺の寂しさ、哀しさを紛らわすための「道具」じゃない。

何よりも哀しいのは、
容子の遺伝子を残してあげられなかった無念、
容子の生きた証を残してあげられなかったことが無念なのだ。

・・・

かみさんを記憶してくれる人。
かみさんを想い続けてくれる人。

今は俺がいる。
また、義親や義弟もいる。
俺たちが生きている限り、かみさんのことは語り継がれる。

だが、俺が死に、義親や義弟も死ねば、かみさんのことを語り継いでくれる人はいなくなる。
その時、かみさんの生きた証も消えてしまう。

もし子どもがいれば、俺たちが亡くなった後も、子どもがかみさんのことを想い続けてくれるだろう。
語り継いでくれるだろう。

でも、それは叶わない。

何よりも、そのことが哀しいのだ。
かみさんのことが不憫で、可哀想なのだ。

子どもを作らなかったこと。
かみさんの遺伝子を残してあげなかったこと。
容子の生きた証を残してあげられないこと。
容子の生き様を語り継いでくれる人がいないこと。

そのことが、俺にとって、何よりも切ない。

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12月28日は会社の御用納めだった。
終業時間後、俺の所属する部の管理職だけで飲み会(打ち上げ)をやろうということになった。
メンバーは部長が1名、課長が俺を含めて7名。合計で8名。


だが、先日の記事に書いた通り、俺は夜の飛行機で北海道(かみさんの実家)に向かわなければならない。
俺は飲み会(打ち上げ)を欠席した。


・・・


終業時間が過ぎて、俺は執務室を出ようとした。
出口には、飲み会に出席する予定の管理職がたむろしていた。


俺は「おつかれさま」とだけ言って、エレベーター・ホールに向かった。
すると、俺の背後から、飲み会に出席する人たちの声が聞こえてきた。
「良いお年を~」

俺は振り返り、苦笑いを浮かべつつ、みんなに手を振った。


・・・


この日、仕事は暇だった。
俺の部下も、半分は有給休暇を取っていたし、俺自身もやることがなかった。
時間をつぶすため、会社の中でブラブラしていた。


俺の執務室は、本社ビルの20階にあるのだが、エレベーターで1階まで降りてタバコを吸ってみたり、32階まで上がって喫茶室でコーヒーを飲んだり、あるいは他のフロアーの様子を見に行ったり、ダラダラと一日を過ごした。


そんなことをしていると、どういうわけか、友人や知人に出くわしてしまう。
彼ら・彼女らに会えば、それなりに雑談をせざるを得ない。
そして別れ際、彼ら・彼女らは、判で押したように、同じセリフを言うのだ。
「良いお年を~」


この日一日だけで、俺は何回、「良いお年を~」という言葉を聞かされただろう。
数えきれない。


・・・


「良いお年を~」と言われるたびに虚しくなってしまう。
2017年がやってくる。
はたして「良い年」になるんだろうか。


そもそも、俺にとって「良い年」とは、どういうものなんだろうか。
わからない。


かみさんが生き返ってくれるなら、「良い年」になる。
それだけは確かだ。
だが、それは決してあり得ないことだ。


かみさんのいない一年が、また始まるだけのこと。
哀しくて、寂しくて、辛い一年が始まるだけのこと。
だからこそ、「良いお年を~」という言葉は虚しく響くのだ。


・・・


「良いお年を~」なんて言葉は社交辞令にすぎない。
それは分かっている。


だが、社交辞令にさえ過敏に反応してしまうのだ。
そんな自分に嫌悪感を抱いたりもする。

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昨日1227日は、かみさんの月命日だった。
ここ数日、ひょっとすると、俺はちょっとした「命日反応」の中にいたのかもしれない。

・・・

前日の26日、睡眠導入剤を飲んだのに、なかなか眠れなかった。
不安感だろうか、軽い興奮状態と言えばいいだろうか。
なにか得体のしれない感覚が、俺の心をザワつかせ、眠りを妨げた。

午後10時前には床に入ったのだが、いつまで経っても眠れない。
数時間後、わずかに眠れたようだが、午前2時半には目が覚めてしまった。

その後は浅い眠りの中にいた。
熟睡できない自分に焦りを感じつつ、夢を見ていた。

27
日の午前550分、目覚ましが鳴った。
熟睡できなかったせいで、疲労感が抜けていない。
重たい身体に鞭を打ち、俺は床を出た。

そして、かみさんの仏前に座った。
線香を手向け、かみさんの遺影を見つめた。

その時だ。
今日は容ちゃんの月命日だな…と想ったら、悲しかった。
容ちゃんが死んじゃった日なんだな…と想ったら、悲しかった。
もう何年も容ちゃんに会ってないな…と想ったら、悲しかった。
これからもずっと、容ちゃんに会えないんだな…と想ったら、無性に悲しかった。

そして、かみさんのことがかわいそうで、胸が苦しかった。
遺影の中のかみさん、どう見たって30歳前後にしか見えない。
43歳の時に撮った写真なのに、30歳前後にしか見えない。
童顔で、いつも実年齢より若く見られていたかみさんの写真だ。

もっともっと生きたかったろうに…と想ったら、かみさんがかわいそうで、苦しかった。
まだまだやりたいことがあっただろうに…と想ったら、かみさんがかわいそうで、切なかった。
普段から、死ぬときは二人一緒がいいねと言っていたかみさん。
プーちゃんを遺して死にたくないと言ったかみさん。
その想いをかなえてあげられなかったことが悔しかった。

かみさんの遺影を見つめていたら、悲しくて、切なくて、悔しくて、胸が押し潰されそうだった。
腹の中から悲しみが噴き上がってきた。

俺は泣いた。
涙が滲み出て、視界が霞んだ。


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夜が来て、1日が終わろうとするとき、翌朝には何かが変わっているんじゃないかと期待する。
1週間が終わり、週末を迎えると、週明けには少しだけ、光が見えているんじゃないかと期待する。
月末になり、次の月が始まろうとするとき、翌月になれば、少しは悲しみも薄れ、わずかな希望が見えるんじゃないかと期待する。
年末を迎え、新しい年が始まれば、「複雑性悲嘆」からも解放され、かみさんへの想いを抱きつつも、新しい人生を歩み始めることができるんじゃないかと期待する。

だが、それらの期待はいつでも裏切られる。
毎日、毎週、毎月、毎年、この繰り返しだ。
それが「複雑性悲嘆」の正体なのかもしれないが、期待が大きい分、それが裏切られた絶望は耐えがたい。

・・・

2016
年が終わろうとしている。
とりあえず、2016年を乗り切れば、その後は何とかなるはずだ。
俺は何の確信もないのに、そう信じていた。
2017年になれば、何とかなるはずだと思っていた。

だが、「何とかなる」ってなんだ?
何がどう変わるっていうんだ?
年が明けたって、結局は、悲しくて、寂しくて、不安で、苦しい日々が続くだけなんじゃないのか?
そう気づいた途端、俺は絶望した。

2017年になれば、何とかなるはずだ」という根拠不明な確信が揺らいだのは、ある情報番組を見ていた時のことだった。
その番組に出演しているアナウンサーが、「来週はもう2017年なんですね!あっという間の1年でした!」という趣旨の発言をした。

その発言を聞いたとき、俺は愕然とした。
アナウンサーの言葉を聞いたとき、2016年もあと一週間しか残されていないことに気づいたのだ。
たった一週間で何かが劇的に変わるんだろうか、そうは思えない。

何にも変わらないじゃないか。
結局、また長くて辛い1年が始まるだけじゃないか。
長くて、退屈で、悲しくて、寂しい1年が始まる、ただそれだけのことじゃないか…
そう思った瞬間、俺は愕然としたのだ。

・・・

俺は「終わり」を渇望している。
「終わり」の形は、どんなものであってもかまわない。

複雑性悲嘆」が終わること。
抱えきれないほどの悲しみが、日常を滞りなく送れる程度まで軽くなること。
悲しくたっていい、寂しくたっていい、日常生活を支障なく送れるようになること。
それがダメなら、俺の心臓が鼓動を止めるという形での「終わり」でも構わない。

どんな形でもいい。
俺は「終わり」を求めている。

だが、どんなに求めても、「終わり」はやって来ない。
1日が、1週間が、1か月が、1年が辛くて堪らない。

「終わり」までの時間が長すぎるのだ。

40歳代前半での伴侶との死別。
残された余生の長さにうんざりするのだ。


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