いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2018年01月

東京では、例年にないほど寒い日が続いている。
関東地方に寒波が来ているらしいのだ。
先週に引き続き、
今週も雪が降るかもしれないそうだ。

かみさんの実家(北海道)
に比べ、東京の寒さは身に凍みる。
一方、北海道の寒さは、
どこか暖かい。

変な言い方かもしれないが、北海道の寒さには「
包容力」があるのだ。
それに対し、東京の寒さは「痛い」。
皮膚を切り裂くような、人々を排除しようとするような、そんな冷たさがあるのだ。

俺は東京の冬が大嫌いだ。

・・・

通勤途中が寒いのは仕方がない。
だが、
せめて会社で仕事をしている時や、自宅にいる時くらい、暖かいほうがいい。

頼りになるのは暖房だ。
我が家には、
エアコンが4台と、床暖房がある。

真夏の暑い日には、
エアコンがフル稼働するが、冬にはエアコンを使わない。
床暖房で十分だからだ。

かみさんは、
足元から全身を暖めてくれる床暖房が大好きだった。

・・・

俺が大学3年生の時。
俺はオンボロのアパートに住んでいた。

生活費どころか、学費まで自分で稼がなくてはならない俺だ。
床暖房やエアコンどころか、ストーブさえ持っていなかった。
そんなとき、かみさんが俺にコタツをプレゼントしてくれた

あのコタツは暖かかった。
小さなオンボロのアパートの中、
かみさんと俺はコタツに入り、いつまでも語り明かした。

あのころ確かに、かみさんと俺は笑顔だった。
かみさんと俺は、
いつまでも一緒にいられると想っていた。

だからこそ、
あんなに無邪気に笑っていられたんだろう。

・・・

あのコタツはどこに行ったんだろうか。
俺の記憶にはない。

大学4年生の時、かみさんと俺は、
千葉県浦安市のアパートで同棲を始めた。
そのころ、
あのコタツがあった記憶はない。

だが、
かみさんがプレゼントしてくれたモノだ。
俺が自らの手で処分するはずがない。

だとしたら、
かみさんが捨ててしまったんだろう。

・・・

ここ最近、
やたらと寒い。
人を排除し、人を侮蔑するような、嫌な寒さだ。

だから想ったんだ。
かみさんがプレゼントしてくれたコタツに入りたい…と想ったんだ。

そしたらきっと、
かみさんが傍にいるような気がすると思うんだ。

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人間は誰だって、いつかは死ぬ。
誰かが死ぬたびに、
誰かが遺される。

だとすれば、死別なんて「たいしたこと」
ではない。
特別なことでも何でもない。
ありふれた日常の一幕にすぎない。

人間という種のうちの「一匹」
が死んだからといって、大騒ぎすることではないし、悲しむほどのことでもない。

自分にとって、
最愛の人が死んでしまったとしても、時間の経過とともに、その人が「最愛の人」ではなくなってしまうことだってある。
そうなった時、かつての「最愛の人」は、人間の中の「一匹」に堕してしまう。

そのようにして、
遺された人は立ち直っていくのかもしれない。

乱暴な言い方をすれば、見ず知らずの人が死んでも悲しくないのと同じだ。
その人は自分にとっての愛する人ではない。
人間という種のうちの「一匹」にすぎない。

しょせんは人間も動物だ。
メスのライオンが、自分の子どもの死骸を食べて平然としているように、人間だって、「最愛の人」の死を糧にして生きていくことができるんだろう。

だが俺は、「
死別なんて特別なことじゃない」という言葉の中に、「死のリアリティ」を感じることができない。
あの、「
足元から世界が崩れていくような絶望感」を読み取ることができない。

・・・

俺が亡くしたのは、
かみさんだ。
俺にとって、世界で一番大切な人だ。

見ず知らずの人が死んだわけじゃない。
人間のうちの「一匹」
が死んだわけでもない。

俺が喪ったのは、「このかみさん」
であり、「あのかみさん」なのだ。

大勢の中の一人ではない。
代わりのいない、唯一無二の人なんだ。

そんな彼女のことを忘れられるはずがない。
かみさんの死を「
特別なことではない」なんて言われても、俺は絶対に受け入れない。

・・・

愛する人が亡くなったとしても、
その人はたぶん、いろいろな意味で「生きている」。
だが、「
死別なんて特別なことじゃない」と言われた瞬間、その人は人間のうちの「一匹」に堕す。

そして、もう一度、
死ぬんだ。
この世界から、本当に葬り去られてしまうんだ。

だから。
俺は「
死別なんて特別なことじゃない」なんて絶対に言えない。
俺は死別について、「評論家」のように語れるほど(頭の良いフリをした)馬鹿にはなれない。
悟ったようなフリをして、「特別じゃない」なんて言ってる自分に酔うこともできない。

俺はもう二度と、
かみさんを死なせたりはしない。
俺が生きている限り、俺はかみさんを死なせたりはしない。


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世間には、いろんな夫婦がいる。
その中には、仲の悪い夫婦も少なくない。

俺の親戚(おじ・おば)や友人、部下たちを見回せば、家庭内別居の夫婦なんてザラにいる。
何年も口をきいていないとか、顔を合わせばケンカばかりとか、別室で生活していて普段は顔も合わせないとか、そんな夫婦は決して珍しくはない。
子供のことは愛してるけど、奥さんのことは愛してないと公言する人だっている。

そんな夫婦であれば、片方が亡くなったとしても、遺された方が生きる力を失うことはない。
事実、「私は夫を亡くしたけど、長生きしたいよ」と言う人が、俺の知人の中にいる。

夫婦仲が悪ければ、配偶者を亡くしても、自分の余生を謳歌したいと思う人がいても不思議ではない。

・・・

だが、仲の良い夫婦は別だ。

俺の身近には、妻に先立たれ、その後、10数年も経ちながら、いまだに塞ぎこんでいる人がいる。
夫を亡くして20年以上も経ちながら、「夫に逢いたい…」とつぶやく女性もいる。

仲の良い夫婦の場合、伴侶を失った後の哀しみは、あまりにも深くて大きい。
しかも、その哀しみが、いつまでも続いてしまうケースも少なくない。

・・・

かみさんと俺も、仲の良い夫婦だった。
俺の会社の同僚や、大学時代の友人たちや、親戚の中でも、かみさんと俺の夫婦仲の良さは有名だった。

そんな「仲良し夫婦」が死別すると、ロクなことはない。
哀しいのだ。
寂しいのだ。
苦しいのだ。

俺を遺して逝かざるを得なかったかみさんも哀しいだろう。

だが、遺された俺だって哀しいのだ。
身を切り裂かれるような哀しみに打ち震え、人生に絶望せざるを得ないのだ。
余生は真っ暗で真っ黒だ、余生なんかいらないとさえ思うのだ。

・・・

俺は某SNSで、伴侶を亡くした人たちとお付き合いさせていただいている。
みなさん、仲の良かった夫婦・恋人同士だった人たちばかりだ。
みんな苦しんでいる。
みんな喘いでいる。

みなさんの哀しみや苦しみを見ても、俺自身の哀しみや苦しみを見ても、同じことを想う。
やはり、仲の良い伴侶は一緒に死ぬべきだ。

片方が遺されるのは、お互いにとって辛すぎる。
やはり、仲の良い伴侶なら、死ぬときは一緒がいい。

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ここ最近、やたらと眠い。
毎晩7時間前後は寝ているし、土日なんて12時間近くも眠っているのだが、それでも日中、やたらと眠い。
肝硬変になり、肝機能が低下しているせいかもしれない(ちなみに、肝機能が低下した場合、過度の眠気が起きる場合もあるが、逆に不眠になる場合もあるそうだ)。

また、全身がダルい。
疲労感・脱力感・倦怠感がハンパじゃない。
これも肝硬変の自覚症状だが、身体が重たくて仕方がない。

眠気がひどいせいだろうか、それともダルさのせいだろうか。
今の俺は無気力だ。
無気力と言うより、心がカラッポと言った方が良いかもしれない。

無気力だからと言って、日常を放棄しているわけではない。
かみさんに線香を手向け、お供えをする。
スーツに着替えて出勤するし、仕事は全力でこなしている。
食事だってするし、風呂にだって入るし、排泄だってする。

だが、心はカラッポなのだ。

カラッポという状態は、決して悪いものではない。
周囲の人々が放つ幸せそうなオーラに心を乱されることもない。
肝硬変の合併症で死ぬことも怖くない。
激しい悲しみに身を引き裂かれるような感覚もない。
かみさんを守れなかった罪悪感でさえも(一時的なものかもしれないが)影を潜めている。

・・・

ここまで書いて思ったのだが、「心がカラッポ」という表現は不適当かもしれない。
カラッポという言葉を使うことによって、心の中には「何もない」と受け取られかねないからだ。

カラッポと言っても、何もないわけではない。
そこには確かに、「何か」が居座っている。

・・・

カラッポの心を研ぎ澄ます。
心の中の雑念が、少しずつ消えていく。
それでも最後に「何か」が残される。

それは「哀しみ」だ。
あまりにも深くて、重たくて、大きな「哀しみ」だ。
激しい「悲しみ」、身を引き裂かれるような「悲しみ」とは明らかに異なる、深くて、深くて、とても深い「哀しみ」だ。

かみさんに会いたくて、かみさんに触れたくて、それでも絶対にかみさんに会うことはできない。
かみさんを守ってあげたいのに、かみさんのために何かをしてあげたいのに、それでも絶対に俺の想いは届かない。

ほぼ何もない純度の高い心の中に、唯一残されるものがあるとすれば、それは「かみさんを喪った哀しみ」だ。

・・・

何もない空虚な余生。
惰性で続く余生。
あまりにも静かで、あまりにも単調で、あまりにも淋しい余生。
かみさんのいない余生。

俺はもはや、未来に何の期待もしていない。

何もない余生でありながら、それをやり過ごすことにも慣れてきた。
人間は自らの人生における主人公であることはできないし、心からの願いや祈りはかなわないし、何ひとつとして思い通りにはならないということも知ってしまった。

もはや俺は、すべてを諦めたのだ。


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かみさんが元気だった頃。
俺は金曜日が大好きだった。

夜になったら会社から解放される。
仕事の忙しさに伴う疲労感からも、難しい仕事に頭を悩ませるプレッシャーからも、上司としての責任感からも、鬱陶しい人間関係からも解放される。

日曜日の夜までの約48時間、俺は自由だ。
かみさんと一緒にたっぷり遊ぼう。

金曜日の夜。
容ちゃんと一緒にビールでも飲みながら映画を観よう。

土曜日。
容ちゃんと一緒に散歩をしよう。
夕飯はどこかで美味しいモノを食べよう。

日曜日。
容ちゃんと一緒に買い物に行こう。
そのあとはゆっくり、のんびりと過ごそう。

そんなことを考えて、
ちょっぴりウキウキすることのできる金曜日が大好きだった。

・・


かみさんが亡くなって数年が経つ。
それなのに、金曜日には途方に暮れてしまう。
そして、憂鬱になってしまうのだ。

金曜日の夜、土曜日、そして日曜日。
どうやって過ごしたらいいんだろう。
俺はいまだに分からないのだ。

もちろん、かみさんへのお供えは欠かさない。
1日に何度も線香をあげたりもする。

また、
最低限の家事だってやっている。
最低限とは言っても、
専業主婦のかみさんに家事を任せっきりにしていたせいで、掃除や洗濯にも一苦労だ。

そうだ。
それなりに時間は潰れている
のだ。

だが、かみさんにお供えをしたり、線香を手向けたり…
掃除をしたり、洗濯をしたり…
それで48時間のすべてが埋まるわけじゃない。
やるべきことのない空虚な時間が長すぎるのだ。

そうだ。
俺は時間を持て余しているのだ。

だからこそ、趣味でも作れば?
と言われるし、夢中になれるモノを見つければ?とも言われてしまう。
だが、そんな余裕は持ち合わせていない。

だって俺は、哀しいんだ。
俺の中は、カラッポなんだ。

会社に行く平日とは違い、何の義務や責任も無い中で、何かに夢中になれるようなエネルギーなんて俺には無い。

・・・

夫婦仲の悪い人々に言われてしまう。
自由でいいね…

だが、
こんな自由は、「自由」と呼べるモノなんだろうか?

違う。
こんなのは本当の「自由」じゃない。

自由でいいね?
そうか…
オマエはこんな反吐の出そうな自由が欲しいのか…
欲しいのならばクレてやる。

こんなクソみたいな自由、俺にはいらない。
こんな憂鬱な週末、俺にはいらない。


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