いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2018年07月

朝が来て、俺は自然と目を覚ます。
そこに爽快感はない。
不快な1日が、また始まってしまった。

ダルくて重たい心と身体を起こし、俺はかみさんの仏壇の前に座る。
かみさんに線香をあげて、
位牌を見つめる。
俺は身体の真ん中から深いタメ息を吐き出す。

バルコニーに出て、タバコを吸う。
肝硬変のせいだろうか。
俺の全身が微かに震えている。

タバコを吸い終わり、部屋に戻る。
かみさんにお供えをし、再び線香を手向ける。

しばしの間、
仏前でボンヤリと過ごす。
仕事を休み、
夜までウィスキーを飲んでボンヤリしていたいな…と思う。

そんな誘惑に逆らって、俺はスーツに着替えて出勤する。

・・・

通勤電車の中。
俺は依然としてボンヤリしている。
心が深い所まで落ち込んでいて、気分がとても重たい。

哀しいのとは違う。
淋しいのとも違う。

重いんだ。
虚しいんだ。
バカバカしいんだ。

ボンヤリしている…なんて言ったけど、本当はボンヤリしているわけじゃない。
抑鬱状態なのだ。

以前、「
鬱は周囲の人々に伝染するから、無理にでも明るく元気に振る舞え」と言われたことがある。
こんなに重たい気分で出勤したら、部下たちに鬱が伝染して迷惑を掛けてしまうかもしれない…と不安になる。

だが、どうにもならないん
だ。
俺は重たい鬱を抱えたまま出勤する。

・・・

会社に到着すると、俺の意思に関わらず、心のスイッチが"ON"になる。
俺はごく自然に「
明るく元気な課長さん」の仮面を被ることができる。
鬱を伝染させてしまう…とか、部下たちに迷惑を掛けてしまう…とか、すべては杞憂だった。

だが…
仕事が終わって帰路に就くと、
仮面は自然と剥がれ落ちる。
そして、再び鬱がやってくる。
真っ暗な自宅に帰り、自分が「ひとり」であることを実感する。

かみさんに夜のお供えを済ませると、あとは「やるべきこと」は何もない。
シャワーを浴びて、飯を食い、酒を飲んでは酔いつぶれるだけだ。

アルコールのおかげで脳と身体が弛緩していく。
このまま安らぎを感じられればいいな…と思う。

しかし…
目の前に現れるのは虚無なのだ。
大きくて、真っ黒で、真っ暗な穴が開いているのだ。

あの穴と対峙するたびに思うんだ。
俺はいったい、何をやっているんだろう…
俺はいったい、何のために生きているんだろう…と思うんだ。


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夜になっても気温が30℃近くもあって、寝苦しい日々が続いている。
エアコンを点けっぱなしにして、
室温を26℃まで下げているが、日中の熱が身体に溜まっているらしく、皮膚の表面が涼しさを感じても、身体の芯から熱が噴き出してくる。

睡眠薬(
ハルシオンとレンドルミン)を飲んではいるが、やはりなかなか寝付くことができない。
ようやく眠ったと思っても、エアコンを点けっぱなしで寝ているせいか、寒さで目が覚めてしまうことも少なくない。

エアコンの設定温度を上げて、身体の芯だけを冷やすことができたなら、
朝まで熟睡できるかもしれない。
そこで俺は、保冷剤で体温を下げてみることにした。
首の後ろと脇の下、
左脚の付け根を保冷剤で冷やしながら床に就いてみたのだ。

幸いなことに、寝付きは良かった。
だが、やはり夜中に目が覚めてしまい、その後はすっかり覚醒してしまった。

おかげで眠たくて仕方がない。

・・・

夜中に目が覚めたとき。
エアコンのおかげで部屋の中は涼しかった。

だが、得体の知れない焦燥感が、俺の中で蠢いていた。
心の中がザワザワしていたのだ。
不安が強くて居たたまれなかったのだ。

心がザワザワするのは、今に始まったことではない。
だが、深夜に強い不安感に苛まれるのは初めてだった。

この焦燥感の背景には何があったのだろうか。
それは俺にも分からない。

哀しかったんだろうか。
それとも寂しかったんだろうか。
あるいは、ひとりぼっちだから不安だったんだろうか。

周囲に目を凝らして見ても、何もかもが静止している。
耳を澄ませてみても、何の音も聞こえない。

俺の姿は誰にも見られておらず、俺が声を出しても誰も聞いていない。
俺には誰の姿も見えないし、俺には誰の声も聞こえていない。

他者との関係が完全に断たれている。
まるで拘禁状態にあるみたいだ。

ひとりぼっちに耐えられず、俺はかみさんの遺影に目を向けた。
だが、部屋の中が真っ暗で、かみさんの表情が見えなかった。

かみさんはどんな表情で俺を見ていたんだろうか。
そのことが多少、気掛かりだった。

・・・

ここ最近、深夜に中途覚醒することが増えてしまった。
深夜の真っ暗な部屋の中、ひとりぼっちで目を覚ますのだ。

そして俺は、自分が孤独であることを再確認する。
この世界には、まるで俺しかいないみたいだ。

暑いくせに、完全に凍りついた世界の感覚は怖い。
心がザワつくなんてものじゃない。
そのザワつきを抑えるために、俺は消えてしまいたくなるのだ。


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仕事に追われている時は、少しばっかり気が紛れたりもする。
家事で忙しい時も、ちょっぴり忘れることができるような気もする。

わずかな時間であったとしても、何かに集中することで、かみさんを亡くした「哀しみ」から自由になれることがある(ような気がする)。

ほんの一瞬かもしれないが、
何かに夢中になることで、かみさんのいない「寂しさ」から解放されることがある(ような気がする)。

1年4か月前までは、そんなことさえできなかった。
だとすれば、
俺も少しは進歩(?)したのかもしれない。

だが…
肩の力を抜いた瞬間に気づくんだ。
自分の心の真ん中に、
大きな空洞があることに気づくんだ。

何かに意識を集中していれば、その穴の存在を忘れることができる(ような気がする)。
それなのに、ふとした瞬間、空洞が俺の意識を引き付ける。

ポッカリ穴が開いている。
とても大切な「
何か」が決定的に欠けているのだ。

かみさんが亡くなってから。
俺は欠落を埋めようと努力してきた。
穴を塞ごうと努めてきた。

それなのに…
依然として穴が開いている。

その穴から何かが流れ出している

血液なのか
、涙なのかは知らないが、何かが絶えず流れ出している。

痛いんだ。

やっぱり俺はダメなんだ。
生きてることが苦しいんだ。

哀しいんだ。
寂しいんだ。
虚しいんだ。

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かみさんは、両親からの良質な愛情を受けて育った。

だからこそ、
あんなに包容力があって、温かくて、柔らかかったんだろう。
だからこそ、あんなに明るくて、お茶目で、元気いっぱいだったんだろう。
だからこそ、あんなに楽天的で、
人懐こくて、物怖じしない性格だったんだろう。

そんなかみさんが俺に与えてくれたのも、
やはり良質な愛情だ。
かみさんは、
俺のすべてを受け容れてくれた。
あるがままで良いんだよ…
と教えてくれた。

だが、俺はどうだったんだろうか。
俺はかみさんに、良質な愛情を注いであげられたんだろうか。

わからない。

かみさんが生きていれば、確認することもできる。
かみさんの笑顔を見れば良いのだ。
かみさんの笑顔がすべてを語ってくれるはずなのだ。

俺を見上げ、
父親に甘える娘のような笑顔を浮かべてくれたかみさん。
俺に寄り添い、安心しきった笑顔のかみさん。
あの笑顔さえ見られたら、俺は自信を持って、「俺は容ちゃんをたっぷり愛してあげられている」と確信することもできるだろう。

だが、かみさんはいないんだ。
かみさんは死んじゃったんだ。

もはや確かめることはできない。

・・・

行き場を失った想いが空回りしている。
その想い
は、俺の中で暴れ狂い、俺の脳を、内臓を、神経や血管を傷つける。

愛されていたかどうかより、
愛してあげられたかどうかが気に掛かる。
かみさんが死んで、
もはや確認する「すべ」もない。

だから、
想いはこれからもずっと空回りし続けるんだろう。
俺の想いは、
かみさんを探し続け、虚空をさまよい続けるんだろう。

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会社で仕事をしているときは、明るく元気なフリをしている。
同じマンションの住人とすれ違えば、明るく笑顔で挨拶をしている。

かみさんが亡くなってから数年。
ようやく俺は、「上手な演技」
ができるようになってきた。
立ち直った「フリ」が、
板に付いてきたようなのだ。

だが、演技が上手くなってから、
まだ1年4か月しか経っていない。
俺は「にわか役者」
に過ぎないわけで、仮面がいつ外れてもおかしくない。

・・・

自宅に引きこもっているとき。
街を歩いているとき。
通勤電車の中。
会社の喫煙室で、
一人でタバコを吸っているとき。
周囲に顔見知りはおらず、
誰もが俺には無関心だ。

そんなとき、
仮面は自然と剥がれ落ちていく。
心の中から哀しみが、寂しさが、
虚しさが込み上げてくる。

ため息が止まらない。
眉間に深い皺が刻まれる。
涙が滲んできてしまう。

誰も見ていなくても、哀しみや寂しさ、
虚しさを抑圧することはできるかもしれない。
だが俺は、
あえて抑圧しない。
一人ぼっちのときまで抑圧していたら、
疲れきってしまうだけだ。

哀しみに蓋をして、
明るく元気に振る舞えば、膨大なエネルギーが消費される。
事実、
一日中、演技を続けた結果、夜には疲労困憊だ。
は疲弊し、全身が重い。

誰も見ていないときくらい、
哀しみを垂れ流し、寂しさに潰されて、虚しくて死にたくなってもいいだろう。
誰も見ていないときくらい、泣きじゃくったっていい、死にたい…と呟いたっていいだろう。

それこそが、俺のあるがままの姿なんだ。


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