いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2019年05月

毎朝5時半すぎに目が覚める。
全身の筋肉は弛緩している。
寝床を出るのがとても辛い。

それとは反対に心は緊張して張り詰めている
心臓のあたりに得体の知れない不安感が蹲っている。

眠っている間に緊張していたはずはない。
心が緊張していたら眠れないはずだ
おそらく目覚めた瞬間に心が凍りつくのだろう。

正体の分からない不安感だ。
対象の不明瞭な不安感だ。

何かを恐れているわけでもないのに、それは目覚めた瞬間、俺の内側から沸き上がってくる。
そして、それは全身に染みわたり、俺は日常から逃避したくなるのだ。

・・・

こわばる心と緩みきった身体に抗って、俺は寝床から這い上がる。
そして、かみさんの仏前に座って線香をあげる。

この間、俺の全身は不安感で小刻みに震えている。
とてもじゃないが、日常生活を始められる状態ではない。
会社に行くためには、この不安感を鎮静させるか抑圧しなければならない。

だから俺はバルコニーに出る。
そしてタバコに火を点ける。

タバコを吸っている時間は5分程度だろう。
その間、俺は自分の内面に意識を集中する。
そして絡み合った糸を一本ずつ解きほぐす。

そこには激しい苦痛が伴う。
まるで口から手を突っ込んで、自分の精神をグチャグチャにかき回しているかのようだ。
るで自分の皮膚を鋭利なカミソリで切り刻んでいるかのようだ。

が…
そうした精神的な作業を通じて不安感が鎮まっていくようなのだ。

・・・

不安感は全身に染み渡る直前、心臓のあたりから生まれているような気がする。
たぶん、そこにあった何かが欠けているのだろう。

きっと、そこにはいつだって、かみさんがいてくれた。
一緒にいる時はもちろん、離れていても、かみさんはいつでも、そこにいてくれた。

その部分が欠けている。
かみさんの死によって、そこには大きな空洞ができてしまったのだ。


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身体がダルくて重たい。
全身のあちこちが痛い。

頭の中がボンヤリしている。
いつだって憂鬱だ。

かみさんを亡くした悲嘆もあるんだろう。
だが、多分それだけではない。

恐らく老化も原因のひとつだ。
生まれてから今日までの間、使い込んできた精神と肉体とにガタが来ているのだろう。

無理が利かなくなってきた。
日々、生命力が減衰していく。

かみさんが元気だった頃。
俺は笑うことが好きだったはずだ。
身体を動かすことが好きだったはずだ。

しかし…
もう、かみさんがいた頃のように溌剌と生きることはできない。

あとは次第に崩れていくだけだ。

・・・

かみさんの生前。
俺たち夫婦は老後の暮らしについて語り合った。

じいさんばあさんになっても、二人で一緒にたくさん散歩をしよう…
じいさんばあさんになっても、たくさん旅行をしよう…
そして、死ぬときは二人で一緒がいい…

それが、かみさんの想い描いた俺たち夫婦の老後だった。

そこには老いに付きまとう陰惨な空気は感じなかった
むしろ優しそうで、柔らかそうで、暖かそうだった。

老いていく自分たちを楽しむことができる。
それは伴侶がいるからこそできることなのだろう。

・・・

いずれ俺は朽ち果てる。
そして、ひとりで死んでいくだろう。

それはいい。
死ぬこと自体は怖くない。

だが、次第に弾みを失う心と身体が、死ぬことよりも生きることを不安にさせる。

しかし…
かみさんがいたら、それはそれで楽しかったのかもしれない。
二人で一緒に老いていけるなら、それはそれで幸せだったのかもしれない。

孤独な奴が老いていく。
余生は思っていた以上に辛いものになるだろう。


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まだ5月だというのに猛暑が続いているせいだろうか。
湿度が高くてジメジメしているせいだろうか。

それとも風邪がいつまでも治らないからだろうか。
最近、熟睡できていないからだろうか。

あるいは…
かみさんの祥月命日が近づいているからだろうか。

どうやら鬱が悪化してしまったらしい。
ここ数日間、やたらと気分が重いのだ。

んなときは、立ち上がることさえ面倒になってしまう。
できることならば、かみさんの仏壇の前に座っていたい。
仕方がないので出勤するが、俺は伏し目がちで、視線は地面に落ちている。

それでも部下たちの見ている前では明るく元気なフリをしているが、相当な負担になっているらしく、夕方には疲れきってしまう。

帰りの電車の中では立っているのもしんどいが、さすがに席を譲ってくれとも言えず、帰宅をしたらグッタリだ。

しかし…
よくぞ今日まで生きてきたものだと思う。

かみさんが息を引き取った瞬間、時間が断ち切られたような気がしたことを覚えている。

俺の『人生』も終わったんだ…という絶望感。
それとは反対に、まだ終わってはいないかもしれないが、真っ黒な『余生』が待っているだろう…という予感。

かみさんが亡くなったとき。
そんな相反する二つの感覚が、俺の中にあったのだ。

だが…
いま振り返ってみれば、それらは相反してなんかいなかったんだ…と思う。

俺は「あの日」から、確かに真っ黒な『余生』を過ごしてきた。
それは決して『人生』と呼べるようなものではなかった。

そうだ。
俺の『人生』は確かに終わったが、真っ黒な『余生』は続いているのだ。
たぶん『人生』が終わったという実感と、真っ黒な『余生』を生きているという感覚は、両立しうるのだろう。

しかし…
これは「消化試合」だ。
ここは「生き地獄」だ。
それを耐え忍んだとしても、未来に何かが得られるわけではない。

お迎えが来ないから生きている。
ただそれだけのことであり、本当は既に「終わっている」のだ。


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5月27日の月曜日。
また、かみさんの月命日がやってきた。

月命日が来るたびに、いまだに俺は、かみさんが亡くなった日からの年月を数えてしまう。
そんなふうに過ごしてきたせいか、「奥さんが亡くなって何年くらい経ったんですか?」と聞かれても、俺は即座に「○年○か月です…」と答えることができてしまう。

これは決して健全なこととは言えないような気がする。
だが、俺はこんなふうにして、かみさんの死後も、かみさんと一緒に歩んできたのだ。

みさんが亡くなったばかりの頃は、せいぜい2、3年もすれば、かみさんが亡くなってからの年月を数えることもなくなるだろう…と思っていた。
ひょっとしたら、命日さえ忘れてしまうんじゃないだろうか…とさえ思っていた。

しかし…
俺は今でもかみさんが亡くなってからの時間の経過を指折り数えている。

・・・

以前、俺はかみさんの叔父から言われたことがある。
いずれ立ち直ることができたなら、その頃には亡くなった日からの年月を数えることもなくなっているだろう…
そう言われたのは、かみさんの三回忌法要が過ぎた頃だった。

かみさんの叔父も伴侶に先立たれ、20年もの間、ひとりぼっちで生きてきた人だ。
叔父の言葉を聞きながら、20年も経てば、伴侶が亡くなってからの年月を数えなくなってしまうのか…と思い、何故だか哀しくなってしまったのを覚えている。

かみさんがどこか遠くに行ってしまうかのような気がしたのかもしれない。

だが、その叔父自身、今でも奥さまが亡くなってからの年月を数え続けている。
叔父も立ち直ってはいないということなのかもしれない。

・・

来月には祥月命日がやってくる。
その日はひとつの「区切り」ではある。

しかし、「終わり」ではない。
新たな日々の「始まり」なのだ。

かみさんと俺との関係性は、かみさんの死とともに大きく変わってしまった。

だが、かみさんと俺は、一緒に歩み続けている。
そういう意味では、かみさんの生前と何ひとつ変わっていないはずなのだ。


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目覚めた瞬間から哀しくて、
寂しくて重たくて、どうしようもない。

人の気配がない。
音がない。

何も動くことのない静止した風景。
淀んだ空気。

押し潰されそうだ。

周囲の世界と俺との間には、
見えないけれど、とても分厚い壁がある。
壁のこちら側には、
俺が独りで佇んでいる。
壁の向こう側の人々は、
不安も恐怖も絶望も知らず、皆とても幸せそうだ。

そうだ。
あちら側はかつて、かみさんと俺がいた場所だ。
不安も恐怖も絶望も知らず、かみさんと俺とが笑っていた場所だ。

かつてはいた場所なのだから、
こちら側から手を伸ばせば届きそうなのに、その壁は、決して俺を受け付けない。

・・・

この壁を意識したのは、
かみさんが息を引き取った直後だ。

帯津三敬病院において、
かみさんの死亡が宣告された。
泣きじゃくる義母と、
呆然と佇む俺。

そんな俺の視界に、窓外の光景が映った。
広がる田園。
ジョギングに勤しむ男性。
高速で走るトラック。

なんの変哲もない日常があった。
かみさんが死んじゃったのに、
世界は幸福と歓喜で満たされていた。

あの瞬間、
世界と俺との間には、高くて厚い壁ができてしまった。

壁のこちら側には、生きる意味がない。
死のうと思った。
かみさんと一緒に逝こうと思った。

だが、数年が経ち、
俺は再び壁のあちら側に脚を踏み入れてみようとも思った。
それにも関わらず、壁は依然として俺を拒絶している。

・・・

本当は壁なんて存在しないのかもしれない。
あるとすれば、
それは俺の「中」にあるんだろう。

そうだ。
世界が俺を排除しているわけではない。

俺が世界を拒絶しているのだ。

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