いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2019年07月

かみさんがいなくなってから、ずいぶんと時間が経った。
とても長い時間が経ったはずなのに、いまだに俺は、かみさんのいない日々に慣れることができない。

食事の支度に困ってしまうというわけではない。
掃除や洗濯が面倒だというわけでもない。
主婦としての役割を果たしてくれる人がいないことが辛いというわけではないのだ。

かみさんが俺の横にいないこと。
かみさんの笑顔が見られないこと。
かみさんの賑やかなおしゃべりが聞こえてこないこと。

それらに慣れることができないのだ。
それらは俺にとって不自然なのだ。

俺を取り巻く世界が、俺の肌に馴染まない。
周囲の世界と俺との間に、越えがたい壁がある。
この世界に身を置いていることに、表現しがたい違和感を覚えるのだ。

なぜ俺はここにいるんだ?
なぜ俺は生きているんだ?

俺はいつだって「終わり」を求めている。
その「終わり」が自らの死なのか、それともかみさんの不在に慣れることなのかは判然としない。

ただ、哀しくて、淋しくて、単調で、抑揚のない日々の連続に疲れてしまった。
だから俺は、何らかの「終わり」を求めているのだ。

そうだ。
俺は世界と自分との間にある不調和を終わらせたいと願っているのだ。

・・

この記事の冒頭で、「ずいぶんと時間が経った」と書いた。
確かに第三者からは、「もう9年も経ったのに…」と思われるだろう。

だが、俺にとっては「まだ9年」だ。
いや、「まだ9年」というよりも、時間の感覚が狂っているような気がするのだ。

時間が連続しているという感覚を失い、その後は”ブツ切り"の不連続な時間が続いている。
その”ブツ切り”の時間を「時間」と呼んでいいのかどうかは疑問だが、俺の中の時間の感覚は、明らかに狂っている。

だからこそ、俺は「もう9年も経った」という実感を持てないでいる。
かみさんが亡くなった「あの日」は、すぐ目の前にあり、手を伸ばせば触れることができるような気がするのだ。

・・・

かみさんが俺の横で笑っている。
それこそが俺の「日常」であり、俺が慣れた世界のあり方だ。

その慣れていた世界が崩壊し、残されたのは、俺の見知らぬ荒んだ世の中だけだ。
まるで悪夢を見ているみたいだ。

9年間も続いた悪夢。
そこから逃れたくて、俺は「終わり」を求めているのだ。


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かみさんが元気だった頃。
毎週土曜日には夫婦二人で散歩に行った。

健康のためというのではない。
体力づくりのためというのでもない。

かみさんと俺は、他愛のない会話を交わしつつ、周囲の風景を眺めながら、気ままな散歩をしていたのだ。

あの頃、俺たち夫婦は「ゆっくり、のんびり」歩いていた。
目的地は決まっていない。
時間は無制限にある。
気の向くままに歩いていたので、足早になる必要がなかったのだ。

振り返ってみれば、散歩をするときだけではなかったような気がする。
一緒に買い物に行くときであろうとも、二人で外食に行くときであろうとも、その他どんなときであろうとも、かみさんと俺は「ゆっくり、のんびり」歩いていたはずだ。

急いでゴールに着こうなんて思わなかった。
当然ゴールには楽しいことが待っているのだが、楽しいのはゴールだけではない。
ゴールにたどり着くまでのプロセスだって楽しかったのだ。

プロセスを楽しむこと。
それは「今 ここ」を肯定することと同じだ。

かみさんと俺は、一瞬一瞬を楽しんで生きてきた。
俺たち夫婦は、いつだって「今 ここ」を肯定することができたのだ。

・・・

かみさんが亡くなってからの数年間。
俺は「とぼとぼ」と歩いていた。

心が張りを失っていた。
身体に力が入らなかった。
かみさんを喪って、俺は抜け殻の廃人になってしまった。

そんな俺には「とぼとぼ」歩くことしかできなかったのだ。

しかし…
一昨年くらいからだろうか。
俺は足早に歩くようになった。

目的地を目指し、脇目も振らずに歩いている。
俺の前を行く人々をどんどん追い越して、全速力で歩いている。

ゴールに着けば、楽しいことが待っている…わけではない。
そこには何にも無いし、誰も俺を待っていないことを知っている。

それでも俺は、ゴールに向かって全力で歩くようになった。

理由は分かっている。
ゴールにたどり着くまでのプロセスがウザいのだ。

一緒に歩いてくれる相手はいない。
同じ風景を見てくれる相手もいない。
他愛のない会話をする相手もいない。

そうだ。
かみさんがいないのだ。

俺は一瞬一瞬を否定して生きている。
だからこそ、ゴールまでのプロセスに意味を見出すことができない。
どうしても「今 ここ」を受け入れることができない。

だから俺はプロセスを排し、ゴールだけを目指して全速力で歩いている。
そこには何も無いけれど、それでも俺は「今 ここ」を肯定することができないのだ。


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かみさんが元気だった頃。
俺は真夏の夕方が大好きだった。

気温は高いし、湿気もあって、不快指数はハンパじゃない。
それでも俺は、夏の夕方が大好きだった。

いっぱい汗をかいて、
身体はベトベトで、決して気持ちが良くはない。
それでも俺は、
夏の夕方が大好きだった。

かみさんと俺にとって、
夏はバーベキューの季節でもあり、かき氷の季節でもあり、冷たいビールの季節でもあった。
また、祭りや盆踊りを見物する季節でもあり、自宅のバルコニーから打ち上げ花火を見る季節でもあり、海外のリゾート地でのんびりする季節でもあった。

そういう夏の食べ物やイベントは、かみさんと俺の夏を彩ってくれた。

この季節には、
真夏の夕方に特有の匂いがある。
空気が蒸れる匂いであり、「
人いきれ」の匂いだ。
そこにはカレーライスや焼き鳥の匂い、
花火の火薬の匂い、草木の匂い、その他いろんな匂いが混ざっていて、なんだかウキウキしてくる。

そのウキウキした感覚は、かみさんを亡くした今でも思い出すことができる。
今この瞬間に感じることだってできる。

だが、
かみさんのいない今、その感覚は「空回り」するばっかりだ。

真夏の夕方の匂いを感じた瞬間、俺のテンションは一瞬だけ高くなる。
何か楽しいことが起こるんじゃないか…と思う。

だが…
次の瞬間、それが幻想でしかないことに気づくんだ。

あぁ、そうだっけ…
容ちゃんはもういないんだっけ…

何か楽しいことが起こるかも…というのは気の迷いにすぎないことを痛感する。

夏の夕方であろうと、それ以外の季節であろうと関係ない。
俺は何の変化もない、抑揚もない、単調で退屈な日々を無駄に生きていかなくてはならない。
そして、
いつかは老いさらばえて、朽ち果てていくんだ。

独りぼっちで生きて、独りぼっちで死んでいく。
その過程に高揚はない。
哀しくて、寂しくて、
虚しい日々の連続があるだけだ。

夏の夕方。
街を行く人々は楽しそうだ。

そこに俺の居場所はないってことに、
今更ながら気づいたのだ。

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朝から全身がダルい。
身体があまりに重たくて、
起床するのもしんどいし、通勤や仕事もツラくて仕方がない。
おまけに抑鬱の症状もひどくて、他人と関わることが疎ましい。

楽しいことなど何もない。
面白いことも何もない。
嬉しいことだって何もない。

俺にあるのは深い哀しみと、ひとりぼっちの寂しさと、
生きている苦しみだけだ。

・・・

しょせん人生なんて、
苦しみの連続だ。
生きることは苦しくて、バカバカしくて、
くだらない。

死んだほうがマシだと思う人もいるだろう。
だが、
人間に組み込まれた生存本能は、死にたい奴を死なせてはくれない。

だから仕方なく生きている。
苦しいのに、バカバカしいのに、くだらないのに生きている。

生きたからって、何かが得られるわけではない。
寿命が尽きるまで生きたとしても、残されるのは、「意識のない肉体」、「動かなくなった肉体」だけだ。

それならせめて、
生きている間は好き勝手にやらせてもらおうと考える奴だって現れる。
他人を貶めたり、他人を傷つけたり、
他人を道具や踏み台にしたり、他人の心を踏みにじることに、何らの抵抗も感じない人間が現れる。
そんな奴らは誰かに裁かれることもなく、なんの不自由もなく、得てして長生きしたりもする。

一方で、
明るくて、優しくて、人を和ませてくれるような人たちが、短命だったりもする。

どちらのタイプの人間だって、いずれは「
動かなくなった肉体」になる。
その先はたぶん無い(そうは思いたくないのだが…)。

ゴールが同じなら、前者のほうが利口なのかもしれないし、
前者であれば、生きることは苦しいなんて思わずに済むのかもしれない。

しかし、
いくらなんでも不条理すぎる。
他人を傷つけ、道具にすることに、
良心が痛まない奴ら、快感を覚える奴らがいて、苦しみを知らずに生きている。

こんな不条理な世界。
俺には受け入れることができない。

こんなにも不条理な世界。
俺は大嫌いだ。

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現在7月26日の午前6時43分。
金曜日の早朝だ。
いつものとおり、通勤電車の中でブログを書いている。

どうしてだろうか。
いつにも増して淋しい。
朝から深く沈み込んでいる。

かみさんが元気だった頃。
俺は金曜日が大好きだった。

キツい仕事から解放されて、かみさんと二人でマッタリと過ごす週末を迎えること。
大切な家族とすべての空間・時間を共有することのできる週末を迎えること。

こんなに嬉しいことはない。

あんなに安らかだったのは、かみさんがいてくれたからだ。
あんなに軽やかだったのは、かみさんがいてくれたからだ。

だが…
今はかみさんがいない。

会社が休みなのは嬉しいが、一緒に過ごす家族がいないのは、とても淋しいことだ。
週末の空虚で空疎な時間を想うと、やはり気が滅入ってしまうのだ。

・・・

世間は夏休みに入った。
俺の部下たちも、休暇の取得に励んでいる。

そのせいだろうか。
人々の放っている空気が軽い。
多くの人々は、家族と共に過ごす予定を持っているのだろう。

かみさんが元気だった頃ならば、俺たち夫婦は海外旅行をしていた時期だ。
当時は俺たち夫婦の放つ空気も軽かったはずだ。

かみさんと一緒に思いっきり羽を伸ばすこと。
気の置けない相手と二人っきりで過ごすこと。

こんなに幸せなことはない。

あんなに楽しかったのは、かみさんがいてくれたからだ。
あんなに幸せだったのは、かみさんがいてくれたからだ。

しかし…
もはや俺は、あの軽い空気を纏うことはできない。

部下たちが夏休みの予定を話してくれる。
俺は笑顔を浮かべて聴いてはいるが、心の中は真っ暗だ。

やっぱり俺は思うのだ。
一緒に過ごす家族がいないのは、とても淋しいことだ…と思うのだ。


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