いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2019年10月

親を亡くした者は過去を失う。
配偶者を亡くした者は現在を失う。
子どもを亡くした者は未来を失う。

この言葉を知ったのは、かみさんが亡くなって数週間が経ったころだった。

最初に覚えたのは怒りと違和感だ。
配偶者を亡くした者が失うのは現在だけなのか?
未来だって失ってしまうんじゃないのか?
それが俺の抱いた違和感の正体だ。

かみさんと俺は、自分たち二人の未来を思い描き、さまざまな夢を語り合ってきた。

かみさんはいつも言っていた。
おじいちゃん、おばあちゃんになっても、二人で一緒に散歩をしよう…
おじいちゃん、おばあちゃんになっても、二人で一緒に温泉に行こう…
おじいちゃん、おばあちゃんになっても、二人で一緒に毎年、旅行をしよう…

二人で一緒に年を取り、じいさん、ばあさんになったとしても、今までと同じように暮らしていきたい。
それがかみさんの夢だったのだ。

そして何よりも。
二人で一緒に死ねたらいいね…
死ぬときは二人一緒がいいね…
かみさんはいつも呟いていた。

二人で一緒に年を取ろう。
些細なことかもしれないが、かみさんがとても大切にしていた夢だ。

だが…
その夢が破壊されてしまった。
かみさんと俺が失ったのは、目の前にある現在だけではないのだ。

そうだ。
俺たち夫婦は現在だけではなく、未来も失ったのだ。

あの日以来、俺は未来を見通すことも、想像することもできなくなった。
あえて想像するならば、俺には孤独死が待っている。

残されたのは絶望だ。
真っ暗で、カラッポで、唾棄したくなるような未来だ。

こんな未来なんかいらない。
こんな未来なんか必要ない。
俺は自ら未来を絶とうと思った。

いつ死んでもいいと思うようになった。
何もかも、どうにでもなってしまえと思うようになった。

それ以来、俺はアルコールに溺れている。

・・・

今の俺はヤケクソだ。
投げやりで、やさぐれている。
自暴自棄で、破壊的で、破滅に向かって進んでいる。

それなのに…
何故だか不安になるのだ。
何故だか心細いのだ。

何もかも、どうにでもなってしまえ…という思いに嘘はない。
その思いに従って行動し、俺は確実に破滅に向かっている。

それでもやはり、俺はかみさんの気配を求めてしまうのだ。
それでもやはり、俺はかみさんを探してしまうのだ。

かみさんがいない。
その事実に慣れることができない。

だから俺は、いつだって心細いのだ。

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最愛の人を喪ってしまうこと。
伴侶や子どもを亡くしてしまうこと。

それはあまりにも悲しい出来事だ。
あまりにも悲しくて、「悲しい」という形容詞では、とてもじゃないが表現できない。

あの喪失感、欠落感、絶望感といった様々な感情を言葉にしようと思ったら、「悲しい」という単語に代表させることしかできないだろう…ということは分かっている。
だが、あの破裂してしまいそうな感覚は、やはり「悲しい」という単語では言い表すことができない。

あの感覚を正確に伝えてくれるのは、「悲しい」という言葉よりも「涙」だった。

そうだ。
涙を流すほうが、「悲しい」という形容詞より遥かに雄弁だったのだ。

・・・

かみさんのお通夜の日。
俺は涙を流せなかった。
弔問に訪れてくれた親族や姻族、友人や知人への対応に追われていたからだ。

お通夜という儀式が、俺を緊張させていたのかもしれない。
そして何よりも、他人の見ている前で涙を流したくなかったのだ。

そんな俺を見て、人々は言った。

思ったより元気そうで良かった…
しっかりしていて良かった…


これらの言葉に悪意はない。
だが、俺は微かな怒りを覚えた。
何も知らないくせに!と叫びたかったのだ。

俺は元気だったわけじゃない。
自分の心がザックリ割れて、欠けていた。

泣きたかった。
叫びたかった。
それでも俺は涙をこらえ、喪主の務めを果たさなければならなかった。

涙を流していないかぎり、誰も俺の中の悲しみには気づかない。
本当は悲しみで破裂しそうだったけど、それでも俺の悲しみに気づいた人はいない。

・・・

かみさんの告別式の日の早朝だった。
俺はひとりで棺の横に立っていた。
棺の中では、かみさんが笑顔で眠っていた

かみさんの遺体が火葬されてしまう。
かみさんの顔を見ることができるのは、今日で最期だ。
これで「お別れ」なんだ。

そう思ったら、身体の奥から悲しみが込み上げてきた。

周囲には誰もいなかった。
誰も俺を見ていなかった。

俺は声を殺して咽び泣いた。
俺はようやく自分自身に泣くことを許したのだ。

その直後だった。
俺の親族や姻族が背後から近づいてくるのを感じた。

俺は他人に涙を見られたくなかった。
自分が泣いているのを悟られたくなかった。

しかし、もはや遅かった。
俺が泣いていることに気づかれてしまった。

だが…
そのとき誰もが知ったのだ。
俺が必死で涙を堪えていたこと、本当は泣き叫びたかったことを知ったのだ。

単純な「悲しい」という単語より、「涙」のほうが分かりやすい。
最愛の人に先立たれたことのない人たちであったとしても、流れる涙を見れば、そこに隠された悲痛な感情を知るのだろう。

・・・

その後、俺は再び涙を封印した。
ひとりぼっちの時には泣いたけど、誰かが見ていれば決して泣かなかった。

それは今でも変わっていない。
ときおり咽び泣きたくなるけれど、決して他人の前で涙を流すことはない。

こうして俺の中の「悲しみ」が忘れられていく。
それはとても悲しいことだ。

俺が悲しんでいることを知ってほしい…というわけではない。

ただ、俺の中にある「悲しみ」を通して、誰かにかみさんの存在を感じ取ってほしいとは思うのだ。
かつてこの世界には、かみさんが存在していたってことを知っていてほしいとは思うのだ。

たぶん俺の「悲しみ」だけが、かみさんが存在していたという証だからだ。

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かみさんが元気だった頃。
俺は週末が大好きだった。
週末が来るのが楽しみで、平日を乗り切ってくることができた。

理由は単純明快だ。
週末は会社に行かなくていいからだ。
深夜までキツい仕事をしなくていいからだ。

休日出勤せざるを得ないことも少なくなかったが、基本的には週末は”お休み”だ。
かみさんと一緒に自由な時間を満喫することができる。

そうだ。
かみさんと二人で過ごす時間の中にこそ、俺の生きる意味はあったのだ。

かみさんと一緒に昼から夜まで散歩した。
かみさんと二人で軽く酒を飲みながら外食をした。

かみさんと一緒に買い物に行った
かみさんと二人で映画を見に行った。

かみさんはいつでも俺の横で「おしゃべり」をしていた。
俺の隣はいつでも賑やかで、いつでも明るくて、いつでも温かかった。
おしゃべりとともに醸し出されるかみさんの空気に触れて、俺は癒されていた。

週末のたび、判で押されたように過ごしていたが、「飽きてしまう」ということはなかったのだ。

・・・

かみさんがいなくなった今。
相変わらず仕事は辛い。
身体がダルいからなおさらだ。

平日には「早く週末が来ないかな…」と思っている。
金曜日の夜になるとホッとする

しかし…
気分が楽になるのは金曜日の夜だけだ。
土曜日の朝を迎えると、ひとりぼっちに耐えられなくなるのだ。

淋しいのだろうか。
虚しいのだろうか。
なんて表現したらいいのか知らないが、薄ら寒くて仕方がないのだ。

掃除や洗濯をしている間はいい。
だが、家事が終わると何もやることがない。

俺は仏壇の傍に座り込む。
すると、周囲の世界が動いていないことに気づく。

空気でさえ動いていないかのようなのだ。
何も聞こえないし、何も見えないのだ。

だんだん俺は不安になっていく。
身体の芯が震え始める。
自分が溶けていくかのようだ。

ひとりぼっちに耐えられず、俺は「早く月曜日が来ないかな…」と思うのだ。

・・・

平日に仕事をしていると、「早く週末が来ないかな…」と思う。
週末になると、「早く月曜日が来ないかな…」と思う。

結局、どちらも嫌なのだ。
結局、どちらも辛いのだ。

どこかに寛げる場所はないだろうか…と思って探し続けているのだが、いまだにそんな場所が見つかることはないのだ。

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身体の傷とは違い、心の傷は、周囲の人々の目に見えない。
その心の傷が、たとえ伴侶や子どもを亡くしてできたような、とても深くて鋭利な傷であったとしても、周囲の人たちは誰も気づかない。

見えないからこそ、世界は心の傷を抱えた人々に対して冷淡だ。

周囲の世界に手を差し伸べてほしいなどと、虫の良いことを考えているわけではない。
だが、せめて身体の傷を抱える人たちと同じ程度に扱ってくれれば、多少は生きやすくもなるだろうに…とは思う。

・・・

かみさんが亡くなってから、俺はいつでも「今ここ」にはいない。
目の前の世界にリアリティが感じられない。
自分の肉体にさえリアリティがない。

世界は俺に関わってこない。
俺も世界に関わろうとしない。
まるで周囲の世界と俺との間に、見えないけれど、分厚い壁があるかのようだ。

心はいつでも「今ここ」にはおらず、目の前の現実とは別のところにある。
どこかを彷徨っているのかもしれないし、内側に引きこもっているのかもしれない。

・・・

かみさんの死によって、俺の心の半分が死んだ。
心の半分を削ぎ落とされて、失ってしまった。

残された半分の心は、いつでもかみさんを求めている。
だが、いくら求めても得られることはない。

あまりにも哀しくて、あまりにも淋しくて、自分の心を持て余してしまう。

半分しか残っていないなら、質量も半分になっているはずだ。
それなのに、残された半分の心はとても重い。

重たい荷物を背負って生きる。
これは本当に辛いことだ。

・・・

俺の心の半分は死んでしまった。
俺は心の半分を失ってしまった。
今、俺の中にあるのは心の残滓に過ぎない。

だが、その残滓が痛いのだ。
かみさんを求めて泣いているのだ。

いつか迎えに来てくれる日まで。
その残滓がかみさんを探して泣き続けるんだ。

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かみさんが亡くなってから。
俺は基本的に「独りぼっち」
で過ごしている。
会社で仕事をしている間は別として、自宅にいる限り、
時間や空間を共有してくれる人は誰もいない。

話をする相手もいなければ、一緒に笑うことのできる相手もいない。
誰にも見られることはなく、誰にも聞かれることもなく、誰とも触れ合うこともできない。

量子力学が明らかにしたとおり、
誰にも観測されていない対象は、「今ここ」には存在しない。
誰にも観測されていないのは俺も同じであって、俺も「今ここ」にはいないのかもしれない。

そのせいか、
自分の輪郭がボヤけていくような気がする。
自分の心と身体が希薄になっていくような気がする。

自分の存在が溶けていく。
溶けた後に残るのは、
表現しがたい感情だ。

その感情に、あえて言葉を与えるとすれば、
とても深い哀しみであり、生きていることに対するバカバカしさであり、叫び出したくなるような淋しさだ。

この哀しみやバカバカしさ、
淋しさが、俺を苦しめている。
とりわけ週末の連休は辛いのだ。

だが…
すべてが溶けてしまっても、残されるものがあるのなら、それは単なる残骸ではないはずだ。
すべてが崩れてしまっても、残されるものがあるのなら、それは俺の本質的な部分であるはずだ。

そうだ。
哀しみやバカバカしさ、淋しさは、決して異物ではない。

異物でないならば、免疫機能が働くことはない。
異物でないならば、排除することができるはずはない。

哀しみも淋しさも、俺の本質であり、俺の「真ん中」にあるんだ。

・・・

俺の中にある、本質的な部分を作ってくれた人。
俺の中にある、大切な部分を育ててくれた人。

それはすべて、
かみさんだ。

生前のかみさんは、俺の「真ん中」にいてくれた。
そして今だって、かみさんのいるべき場所は、俺の「真ん中」にあるはずだ。

かみさんが亡くなってから、俺の「真ん中」は空洞になってしまった。
しかし、還って来たくなったなら、いつでも還ってくればいい…と思っている。
俺の「真ん中」は、いつだって空いているんだ。

俺はかみさんのために、自分の「真ん中」を空けておくつもりなんだ。

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