かみさんが元気だった頃。
俺にとって時間は、「過去」から「未来」へと一直線に流れるものだった。

毒親に育てられた俺にとって、「過去」は悪夢の対象でしかない。
思い出したくもないし、できることなら「過去」のすべてを否定したい。
俺にとって「過去」は、消し去ってしまいたい記憶でしかない。

だが、そんな俺も、かみさんとの「現在」の暮らしに幸福と安心を感じる中で、ある程度なら「過去」を受容し、「過去」を肯定することができるようになっていったような気がする。

・・・

「過去」を受容できるようになったのは、他ならぬ、かみさんのおかげだ。
かみさんが「現在」の俺、あるがままの俺を肯定してくれた、あるがままの俺を受け容れてくれたからこそ、俺も自分自身を肯定できるようになった。

かみさんと暮らした20年間。
幸せと安心を感じて生きてきた20年間。

幸せにどっぷりと浸かっていた時間は、俺の心に安定をもたらした。
安定した「現在」という時間が、連綿と、淡々と続いて行った。

・・・

かみさんと出会う前、俺は不安定な「現在」を生きてきた。
一寸先は闇。
未来の自分など想像もできない。

自分がどんな仕事に就くのか想像もできない。
かみさんと出会う前にも何人かの女性と付き合ったことがあるが、その人と結婚するだろうなどと想像することもできない。
ましてや、自分がどんなふうに死んで逝くのか想像もできない。

・・・

だが、かみさんと出会ったことで、俺の心が安定してきたのだろう。
「現在」が安定して見えてきた。

「現在」が安定してくると、ある程度「未来」を予測することもできる。
予測というのは正確ではないかもしれない。
むしろ希望というのだろうか。

そう。
俺はかみさんと一緒に暮らす中で、初めて「未来」への希望を持つようになった。

・・・

俺の描いていた未来。

「平日は仕事を頑張ろう。そしてこのまま順調に昇進しよう」

「土日や祭日は、かみさんとたっぷり遊ぼう。二人で散歩をしたり、映画を観に行ったり、買い物に行ったり、美味い物を食べに行ったり…」

「ゴールデンウィークと年末年始は、必ずかみさんの実家に遊びに行こう。かみさんや、かみさんの親兄弟と楽しい時間を過ごそう」

「夏休みは毎年、海外旅行に行こう。かみさんの大好きな海で泳げる場所に行こう」

「俺が定年を迎えたら、二人でゆったりと散歩をしたり、旅行に行ったりして、穏やかな老後を過ごそう」

「そして最期には、かみさんに看取ってもらって死んで逝こう。かみさんに『ありがとう』と言いながら、笑顔で死んでいこう」

かみさんとの出逢い、かみさんとの暮らしは、俺に未来を見通す力を与えてくれた。

ある程度「過去」を受け容れ、「現在」を楽しみ、「未来」を見通すことで、時間は「過去」から「未来」へと一直線に流れているという実感を得た。

・・・

「直線としての時間」という感覚が崩壊したのは、かみさんの癌が発覚した時だった。

かみさんが癌だと診断された時、(かみさんには内緒にしておいたが)医師からかみさんの余命を告げられた。

その瞬間、俺の時間に対する感覚は、「直線としての時間」から「今、ここ」という時間、言い換えれば「点としての時間」に変わった。

かみさんの闘病中、俺はかみさんの看病をするため、毎日かみさんの傍にいた。
かみさんの寝ているベッドの横で、かみさんと他愛ない会話をしていた時に感じていたのは、「今、ここ」としか表現しようのない時間の感覚だった。

「今、ここ」というのは「現在」とは似て非なるものだ。

これは実感した者でなければ分からないだろう。
言語表現の限界だ(いや、俺個人の表現力の限界かもしれない)。
言語では、「現在」と「今、ここ」は同じもののように受け取られるだろう。

だが実感として、「今、ここ」と「現在」とは似ても似つかない。
「今、ここ」は「点としての時間」。幅を持っていない。
一方で、「現在」は「今、ここ」と比べれば大きな幅を持っている。

かみさんの死期が迫っているのを知りながら、心に深い悲しみと恐怖を抱えていながら、それでも、かみさんと過ごす一瞬一瞬の時間が愛おしい。

かみさんと、「今」という時間を共有し、「ここ」という場所を共有していること。
そのことが、とても愛おしく感じられた。

「今、ここ」を大切にしよう、「今、ここ」を愛そう。
「今、ここ」にかみさんがいる、そのことに精一杯、感謝をしよう。

そう表現するしかないような感覚を持ち続けた。

・・・

かみさんの死と同時に、この「今、ここ」という感覚は消えうせた。
そして、俺の時間に対する感覚は狂った。 

言葉で表現するのは難しい。
かみさんと出会う前と同じような、一瞬先は闇の時間。
「未来」の予測、希望は消えうせた。

俺の「未来」には何が待っているのだろう。
まったく想像がつかない。

一直線に流れると感じられていた時間の感覚は無くなり、多くの分岐点が見えるようになった。
まるで、植物の根っこのような時間感覚。

・・・

そしてもう一つ。

かみさんが亡くなって以来、時間の流れる早さが変わってしまった。
と言うよりか、時間の流れる早さが、分からなくなってしまった。

かみさんが亡くなって4年が過ぎた。
この時間は、あっという間に過ぎたような気がする。
その一方で、物凄く長かったような気もする。

あっという間に過ぎたのか、それとも物凄く長かったのか。
まったく実感が無い。
分からない。

あえて言えば、時間が止まってしまったと言ってもいいかもしれない。

時間の感覚が壊れた、狂ってしまったらしい。

・・・

そんな俺でも、たった一つだけ確信している「未来」がある。
それは、俺が孤独死をするだろうということだ。
それだけは、俺の確実な「未来」だ。

その孤独死の瞬間までの未来が想像できない。
かみさんを喪って、真っ暗闇のトンネルの中に入り込んでしまったらしい。

・・・

最愛の人と死に別れると、みんな、こういう感覚を抱くのだろうか。
それとも俺個人に特有の感覚なんだろうか。

愛する人と死別した時、すべての人がこういう感覚に陥るのだとすれば、俺の抱いている感覚は、正常な(?)死別反応ということだろう。

もし俺だけが抱いている感覚なのだとすれば、かみさんを喪ったことをきっかけに、俺が狂ってしまったということだろう。

いったいどちらなのか。
いくら考えても答えは出ない。

�����祉�������㏍�井�� 絎倶�������㏍�� 罩糸�ャ��
←いつもありがとうございます。ポチっとクリックお願いします。
にほんブログ村