2007年に亡くなった城山三郎という小説家がいる。
彼は生前、多くの経済小説、歴史小説などを生み出した。
その著作の中に、「そうか、もう君はいないのか」という異色の作品がある。
2000年に亡くなった奥様への追悼文のような作品だ。
奥様の名前は「容子さん」。
偶然にも、俺のかみさんと同じ名前だ。
・・・
奥様を亡くされた後、城山三郎さんは、どんな気持ちで生きていたのだろう。
城山さんの娘さんによれば
「2000年2月24日、母が桜を待たずに逝ってから、父は半身を削がれたまま生きていた」らしい。
「以後の7年間、父はどんなに辛かったか、計り知れない」、
「想像以上の心の傷。その大きさ、深さにこちらの方が戸惑った」、
「連れ合いを亡くすということは、これほどのことだったのか。子や孫は慰めにはなっても代わりにはなれない」、
「ポッカリ空いたその穴を埋めることは決してできなかった」のだそうだ。
城山三郎氏の言葉をそのまま引用すれば
「もちろん、容子の死を受け入れるしかない、とは思うものの、彼女はもういないのかと、ときおり不思議な気分に襲われる」
「容子がいなくなってしまった状態に、私はうまく慣れることができない」
「ふと、容子に話しかけようとして、われに返り、『そうか、もう君はいないのか』と、なおも容子に話しかけようとする」
・・・
奥様の没後、城山三郎さんは酒に溺れた。
眠れず、食べられず、赤ワインのみで命をつなぐ日々が続いた。
・・・
奥様の七回忌を終えた直後から、城山三郎さんの心身は、さらに弱り始め、
その翌年、肺炎で亡くなった。
だが、死に顔は穏やかだったらしい。
娘さんの表現を借りれば、「なんとも幸せそうな顔」をしていたそうだ。
「ほっとしたような、嬉しそうにさえ見える、不思議な死顔」だったそうだ。
娘さんは言う。
「お母さんが迎えに来てくれたんだ」、
「お父さん、お母さんのこと探していたものね。きっとお母さんが、『あなた、もういいですよ。この7年間よく頑張りましたね、お疲れ様』って迎えに来てくれたのよ」、
「よかったねえ、お父さん。やっとお母さんの所に行けて」。
・・・
今の俺には、娘さんの言うことの意味がよく分かる。
伴侶と死別し、遺された方は半身を削がれたまま生きていかざるを得ない。
伴侶の死によって受けた心の傷は、周囲の誰であっても埋めようがない。
酒に溺れるということだってあるだろう。
だが、きっと、遺された方が死ぬ時には、先立った伴侶が迎えに来てくれる。
きっと笑顔で死んでいける。
きっと至福の中で死んでいける。
・・・
城山さん同様、俺もかみさんに先立たれた。
城山さんと同じく、俺も半身を削がれたまま生きている。
半身を失い、残された半身が、血の涙を流している。
生きていることが苦しい。
城山さんの場合、7年間、そんな風に生きてきた。
俺があと何年生きるのかは分からない。
生きる苦しみをいつまで味わわなくてはならないのかは分からない。
だが、それもいつかは終わるのだ。
その終わる瞬間、かみさんが迎えに来てくれるだろう。
その瞬間、すべての苦悩から解放されて、至福の中で死んでいけるに違いない。
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彼は生前、多くの経済小説、歴史小説などを生み出した。
その著作の中に、「そうか、もう君はいないのか」という異色の作品がある。
2000年に亡くなった奥様への追悼文のような作品だ。
奥様の名前は「容子さん」。
偶然にも、俺のかみさんと同じ名前だ。
・・・
奥様を亡くされた後、城山三郎さんは、どんな気持ちで生きていたのだろう。
城山さんの娘さんによれば
「2000年2月24日、母が桜を待たずに逝ってから、父は半身を削がれたまま生きていた」らしい。
「以後の7年間、父はどんなに辛かったか、計り知れない」、
「想像以上の心の傷。その大きさ、深さにこちらの方が戸惑った」、
「連れ合いを亡くすということは、これほどのことだったのか。子や孫は慰めにはなっても代わりにはなれない」、
「ポッカリ空いたその穴を埋めることは決してできなかった」のだそうだ。
城山三郎氏の言葉をそのまま引用すれば
「もちろん、容子の死を受け入れるしかない、とは思うものの、彼女はもういないのかと、ときおり不思議な気分に襲われる」
「容子がいなくなってしまった状態に、私はうまく慣れることができない」
「ふと、容子に話しかけようとして、われに返り、『そうか、もう君はいないのか』と、なおも容子に話しかけようとする」
・・・
奥様の没後、城山三郎さんは酒に溺れた。
眠れず、食べられず、赤ワインのみで命をつなぐ日々が続いた。
・・・
奥様の七回忌を終えた直後から、城山三郎さんの心身は、さらに弱り始め、
その翌年、肺炎で亡くなった。
だが、死に顔は穏やかだったらしい。
娘さんの表現を借りれば、「なんとも幸せそうな顔」をしていたそうだ。
「ほっとしたような、嬉しそうにさえ見える、不思議な死顔」だったそうだ。
娘さんは言う。
「お母さんが迎えに来てくれたんだ」、
「お父さん、お母さんのこと探していたものね。きっとお母さんが、『あなた、もういいですよ。この7年間よく頑張りましたね、お疲れ様』って迎えに来てくれたのよ」、
「よかったねえ、お父さん。やっとお母さんの所に行けて」。
・・・
今の俺には、娘さんの言うことの意味がよく分かる。
伴侶と死別し、遺された方は半身を削がれたまま生きていかざるを得ない。
伴侶の死によって受けた心の傷は、周囲の誰であっても埋めようがない。
酒に溺れるということだってあるだろう。
だが、きっと、遺された方が死ぬ時には、先立った伴侶が迎えに来てくれる。
きっと笑顔で死んでいける。
きっと至福の中で死んでいける。
・・・
城山さん同様、俺もかみさんに先立たれた。
城山さんと同じく、俺も半身を削がれたまま生きている。
半身を失い、残された半身が、血の涙を流している。
生きていることが苦しい。
城山さんの場合、7年間、そんな風に生きてきた。
俺があと何年生きるのかは分からない。
生きる苦しみをいつまで味わわなくてはならないのかは分からない。
だが、それもいつかは終わるのだ。
その終わる瞬間、かみさんが迎えに来てくれるだろう。
その瞬間、すべての苦悩から解放されて、至福の中で死んでいけるに違いない。

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コメント
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今夜は静かです。
亡くなった主人も来ていません。
田村正和さんが
ドラマ主演されていたのを見ました。
つい、呼び掛けてしまう…。
二人で通ったお店
店舗がかわったり
無くなったりしている。
いつも、ずっと、一緒に
買い物へ、食事へいっていた場所
思い出すらも
消されてしまうのか。
歩いた道に、
歩く影に、貴方がいない。
守られてる気がするけれど
何より
会いたい
話したい
寄り添って暖めて欲しいのに
願うは、貴方をも苦しめるのか
貴方に会える日まで
耐えるしかない
朝から 泣いてしまいました。
涙が 流れて 目が赤く、、、
仕事、電車に乗れないよー
ぷーちゃんさん、あなたはどこから こうした言葉や文章を
見つけていらっしゃるのですか?
私たち、女性の立場だったら、
そうか、もう あなたはいないのね、になりますね。
そうした思いに戸惑い、寂しく、 悲しく、 辛く
涙が流れる日々が途切れなく続きます。
本当に半身を剝され奪い去られた、、そんな思い。
やっぱり、後何年これが続くの?と気が遠くなります。
死ぬことが楽しみ、唯一の望み。
穏やかな顔で死ねると 信じます。
やっと、愛していた主人と会えるのですから。
愛情が深いほど、愛情が大きいほど、
悲しみは大きく長いそうです。
競争するわけではないけれど、そう考えたら
よし、ずっとずっと長く悲しんでもいいのだ、、、と。
ありがとうございます。
昨年11月に夫を膵がんで亡くしました。55歳でした。私たちにも子どもはいません。
不慣れなパソコンを、香典返しや年賀状欠礼のために使いだしているうちにこちらのブログの読者になっていました。
外面(そとづら)のいい私は、励ましてくれる人に不快な思いをさせては悪いと、自分の気持ちが自分でよくわからなくなっていましたが、プーちゃんさんの言葉に共感を覚えて、素直に悲しめるようになりました。
昨年病院のテレビで、広島の大災害や御岳噴火のニュースを見てて、ご夫婦で災害に合われて亡くなられたという場面で、心の底からうらやましいと思いました。不謹慎なことはよくわかっているので誰にも言えないけど、正直な気持ちです。
今、やりたいと思ってしている唯一のことが、このブログを読むことです。
ありがとうございます。
だから 何を見ても 何を聞いても
「ああ あなたはいないんだった」と そのたびに思うのです。
主人のいない日常には慣れても
死んでしまったことがわからない。
抜け落ちた記憶が命日が近づき 日々鮮明になり狂いそうです。
あなたがいないわけがない。私を置いて逝くわけがない。
日常は日々過ぎていますが、
妻が亡くなってから、タンスの服、
下駄箱の靴、ドレッサーや化粧品、
茶碗、等々
様々な物がそのままになっている
毎日毎日偽っては、何のためなのか
そばで僻みの一つ、愛嬌の一つ、
愛情の一つ、笑顔の一つ、怒りの一つ
早く妻に会いたい
その瞬間の事を考えている時~いつも笑顔になる自分が居ます。
見てしまえば知ってしまう。
実例だから尚更自分が鎧を着せた心が拒否する。
でも見なきゃ俺は今のままだろうね。
"遺された意味を探す"なんて大層なことを言ってみても俺はあの夜から少しも動けちゃいない。