かみさんが亡くなってから数年。
その数年間の俺自身を振り返り、ふと気づいたことがある。
かみさんが死んでしまったにもかかわらず、俺は希望を捨てていなかったのかもしれない。
かみさんがいなくなってしまったにもかかわらず、俺は期待をしすぎていたのかもしれない。

どんな希望を持っていたの? 誰に何を期待していたの? と聞かれても、はっきりとは分からないのだが、俺は多分、何かに縋りたかったんだろうし、希望を捨てたくなかったんだろうし、期待しすぎていたんだろう。

人生は思い通りになんてならない。
期待はいつだって裏切られるし、希望はいつだって絶望に変わる。
そんなこと、かみさんと出会う前の人生において、俺はよく知っていたはずなのだ。

それなのに、かみさんが俺に光を見せてくれた。
希望を持ち、願いさえすれば、想いはかなうということを教えてくれた。
かみさんが癌と診断され、余命を宣告された後だって、できることをすべてやり、希望を捨てず、祈りさえすれば、かみさんの病だって治るはずだと信じていた。

しかし、祈りは届かず、かみさんは息を引き取った。
その時点で、俺はすべてを断念すべきだったのだろう。

なのに、心の底には、得体のしれない希望、正体のわからない期待が残っていた。
その希望や期待がどこへ向けられているのか、何を願っているのか、俺自身にも分からないのだが、俺はたぶん、ずっと光を求め続けていたのだろう。

・・・

希望を持ち、期待し続けること。
それは「甘え」なのかもしれないし、「不安」の原因なのかもしれない。

何かを期待し、誰かに甘える。
期待や甘えを嗅ぎ取った周囲の人々は、俺が放つ不快な臭気を嫌悪する。
そして、期待や甘えが満たされないことに、不安を覚え、苦痛に苛まれる。

こんな苦痛は、まっぴらだ。
苦痛を味わうくらいなら、希望を捨てた方がいい、期待をするのはやめたほうがいい。

・・・

俺はまだ、絶望しきっていなかったのかもしれない。
ブログには、「絶望」と書いたことが何度もあるが、深い闇の底まで堕ちきっていなかったのかもしれない。

それならば。
堕ちるところまで堕ちてみよう。
正真正銘の絶望を味わってみよう。

底まで堕ちきれば、あとは浮かび上がるしかないのだから。


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