かみさんは、賑やかで、いつでもケラケラと笑っていた。
とても明るくて、とてもおしゃべりだった。

おしゃべり好きなかみさん。
そんな女性と暮らしていると、俺の「時間」はかみさんのおしゃべりに付き合うことに費やされる。

そんなわけで、俺にはあまり自由な時間がなかった。

かみさんの生前、平日は会社で仕事をし、帰宅してからは、かみさんの話を聞いてあげる。
俺が「読書でもしようか…」とも思っても、かみさんが「プーちゃん、私の話、聞いて~」と言って
その日一日あったことをペラペラとしゃべっていたので、時間は俺の自由にならない。

休日も、かみさんの話を聞いてあげたり、家族サービスで旅行や散歩、食事に行ったり、あるいは買い物に付き合ったりで、
俺が自分の意思で自由に使うことのできる時間は、そう多くはなかった。

時には「ほんの少しでいいから自由な時間が欲しいなぁ」なんて考えたこともないではない。

・・・

かみさんの死後、俺は常に自由だ。
会社で仕事をしている時間以外、何物にも拘束されることなく、自分の時間のすべてを自分の意思で消費することができる。

だが、少しも嬉しくない。楽しくもない。
ただ寂しくて、虚しいだけの時間が流れている。

確かに俺は、自由だ。
だが、この自由は空虚だ。この自由は腐っている。

俺の自由を奪うかみさんのおしゃべり。
それが俺にとって、どれほど貴重なものだったのかを思い知らされている。

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