シェイクスピアの戯曲「マクベス」に、次のような一節がある。

悲しみに言葉を与えよ。
語られない悲しみは、膨らみすぎた心にささやいて、心を打ち砕くことを命じる。

・・・

40年以上も生きていると、俺だって、人並みに悲しいことは経験した。
その中でも、とりわけ辛かったのが、毒親からの虐待だ。
その虐待による深い心の傷は、様々な悲しい体験の源になった。

だが、それらの悲しみは、かみさんが癒してくれた。
かみさんが傍にいてくれる。
その事実が俺の心の傷を癒し、過去に味わった悲しみを記憶に留めつつも、その記憶と共存できるようになった。

・・・

かみさんが亡くなった。

決して癒されることのない悲しみ、
決して共存することはできず、翻弄されるしかない悲しみ、
生涯抱えていかざるを得ない、決して消滅することのない悲しみ、
そんな悲しみを味わったのは、生まれて初めてだ。

かみさんを亡くした悲しみは、次元が違う。
生まれて初めて味わう、あまりにも大きくて激しい悲しみだ。

俺は自分の半身をちぎり取られたのだ。

・・・

人間にとって、最愛の人を亡くすことほど悲しい体験は無い。

今までずっと傍にいてくれて、触れ合うことも、語り合うことも、一緒に笑うこともできたのに、
もはやその姿を見ることさえかなわない。

これからもずっと、二人で寄り添って生きていくはずだったのに、
もはや隣には誰もいない。

愛おしくて、愛おしくて、自分の身を賭してでも守りたい人なのに、
もはやこの世界にその人はいない。

人を愛する歓びを教えてくれて、人に愛される歓びを教えてくれた人は、
もうこの世にはいない。

こんなに悲しいことはない。
こんなに苦しいことはない。

最愛の人の死は、残された者の心と身体をボロボロにし、崩壊させかねないほどの残酷な体験だ。
前記の「マクベス」の言うとおり、その悲しみには言葉が与えられなくてはならない。
悲しみは表出されなければならない。

・・・

だが、世の中には、悲しみを押し殺せ!と言う人がいる。
悲しみを否定し、悲しみを抑圧せよ!と言う人もいる。
最愛の人を喪う残酷な体験をしたことが無いにも関わらず、
死別体験者の心に土足で踏み込んで、悲しみにくれる人々を嘲笑う人がいる。

だが俺は、悲しみを消すつもりはない。
他人の前では「仮面」を被り、悲しみを押し隠すこともあるだろうが、心の中にはいつだって、悲しみが宿っている。

悲しみは言語化されてこそ、昇華されうる。
もちろん、昇華されないかもしれないし、ましてや消滅することなど決してないだろう。

だが、運が良ければ、悲しみが多少は穏やかになり、それと共存していくこともできるようになるかもしれないじゃないか…

・・・

こんなことを書いてはみたものの、悲しみが穏やかになることもないだろうし、
悲しみと共存していくことも無理だろう。

いずれは悲しみが穏やかになるなんて期待しているわけじゃない。
悲しみを抱えたまま、前向きに生きる日が来るなんて希望を持っているわけじゃない。

俺は既に絶望しているのだ。

ただ、心の中に渦巻く悲しみが、出口を求めて暴れているのだ。
その出口を作ってやるべく、悲しみに言葉を与えているのだ。

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