ごく稀に、伴侶を亡くした人から「うらやましい」と言われることがある。
なんで俺のことが「うらやましい」
んだろう。

理由は俺が、「ひとりぼっち」だからだそうだ。

子どもはいない、親とも同居していない、正真正銘の「
ひとりぼっち」であれば、泣きたいときに泣けるだろう。
自分には子どもがいるから、泣きたいときに泣けない。
自分は親と暮らしているから、泣きたいときに泣けない。
そんな自分と比べれば、泣きたいときに泣ける俺のほうが「うらやましい」と言う人がいる。

・・・

そもそも「ひとりぼっち」
だからって、泣きたいときに泣けるわけじゃない。
本当に泣きたいときは、涙なんか出やしない。
悲しみが内部に鬱積し、暴れているのに苦しむだけだ。

涙が出るのはいつだって突然で、俺の意思とは無関係だ。

まぁ、
そんなことはどうでもいい。
本題はここからだ。

・・・

かつての哲学や心理学では、独立した「主体」
のAとBとが存在し、その二人が「関係」を作るのだと考えられていた。

だが、数学や一般言語学、
文化人類学、精神分析学等に導入された「構造主義」により、その考え方は否定された。
AもBも、初めから独立した「主体」
なのではない。
二人が「関係」す
ることで、初めてAとBは「主体」になるのだ。

後に「構造主義」
も批判されたが、「主体」よりも「関係」が先にあるという考え方は、今でも否定されていない。

・・・

子どもや親のいる人から「うらやましい」と言われるが、
そういう人は、本当に「ひとりぼっち」になりたいのだろうか。
ひとりぼっち」になって、本当に耐えられると思っているんだろうか。

上記のとおり、他者との「関係」がなければ「主体」もない。
俺のことを「うらやましい」という人は、その状況に耐えられるんだろうか。

誰とも会話ができないどころか、誰の姿も見えず、
誰にも見られず、誰とも「関係」しないとき、「主体」は溶けて、崩れていく。
あの「アイデンティティー」
が溶けていくような感覚を、「ひとりぼっち」になりたいと言う人は、本当に味わいたいんだろうか。

ひとりぼっち」が「うらやましい」と言う人は、本当の「ひとりぼっち」を知らない。
気が狂いそうになりながら、
それでも狂うことができず、歯を食いしばって「主体」の溶解に抗う。

あの何とも表現しがたい感覚を
味わいたいのなら、「ひとりぼっち」になってみるのも良いかもしれない。
だが、本当に「ひとりぼっち」になってしまった時、「あの感覚」に耐えられるんだろうか。


にほんブログ村 家族ブログ 死別へ
←いつもありがとうございます。ポチっとクリックお願いします。
にほんブログ村