眠たいのを堪え、早朝に無理やり起床するのは、いったい何のためだろう?
ダルい身体に鞭を打ち、スーツに着替えて家を出るのは、いったい何のためだろう?
倦怠感でフラフラになりながら、それでも会社に出勤するのは、いったい何のためだろう?
立ち直ったフリをして、元気に仕事に勤しむのは、いったい何のためだろう?
哀しみと寂しさを抑圧し、
笑顔で部下たちに接するのは、いったい何のためだろう?

そこには意味なんて無い。
俺が望んでいるわけでもない。

社会が、
制度が、慣習が、そして残酷な”神”が、俺に強制するから仕方がなく動いてるんだ。

・・・

かみさんがいた頃は、「容ちゃんのために頑張ろう!」と想って生きてきた。
かみさんのために…と想えば、
俺はどんなに高い壁でも乗り越えてくることができたし、どんなに辛いことにも耐えてくることができた。
平凡な日常にだって、意味を見い出すことができた。

それなのに。
今の俺は何なんだ?
いったい何のために耐えているんだ?
いったい何のために堪えているんだ?
答えが見つからない。

それでは、あんまりにもバカバカしいじゃないか。
あんまりにも虚しいじゃないか。

・・・

かみさんが元気だった頃。

生きる意味なんて問う必要は無かった。
毎日を二人で楽しんでいれば良かったからだ。

あの頃は、意味など考える必要もないほどに、人生は意味で満たされていた。

だが。
かみさんのいない世界で、俺は自分の存在する意味を問わずにはいられない。
すべてが無意味で、すべてが虚しい。

カラッポだからこそ、器を満たそうとして、意味を求めてしまうのだろう。
意味に満たされているならば、あえて意味を探す必要は無いが、意味が欠けているからこそ、意味を求めてしまうのだ。

そうだ。
今の俺は「生きる意味」
を問うている。
かみさんがいないのに、なぜ俺は生きているんだろう…
という疑問への答えを探している。

だが、答えは決して見つからないことも分かっている。

・・・

おそらく人間には、生きる意味なんて初めから無い。
産まれてきたから生きているだけなのだ。

だが、幸せに暮らしていれば、虚無感を覚えることもない。
以前は俺も、かみさんのおかげで虚無とは無縁に生きてきた。
幸せという「幻想」の中にいる限り、「生きることに意味なんて無い」という「真実」を忘れていられるのだろう。

俺は最愛のかみさんを喪った。
唯一無二のかみさんを喪った。
そして俺は、「生きることに意味なんて無い」という「真実」に気づいてしまった。

しょせんは人間も動物に過ぎない。
産まれてきたから生きているだけなのだ。

それならば。
生きる意味を問うこと自体、意味のないことだとは分かる。

それでも俺は、なぜ自分が生きているのかを問わざるを得ないのだ。


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