体重が増えたわけではない。
抗うつ剤や精神安定剤だって飲んでいる。
それなのに、
やたらと心と身体が重いのだ。

まるで、足元の「重力」
が大きくなってしまったみたいだ。
まるで、
コールタールの海に浸っているみたいだ。

俺を取り巻く空気の粘度が増して、俺の心身の自由を奪っている。

考えることも、感じることもメンドクサイ。
立ち上がることはもちろん、
座っていることさえ苦痛だ。

朝起きて、かみさんの仏前に座る。
俺は線香に火を灯し、かみさんの位牌や遺影を見つめる。

仏壇の前は、最も「重力」の強い場所だ。
いったん座ってしまうと、心身が深く沈み込んでいく。
俺はなかなか立ち上がることができない。

その「重力」
に抗うことが苦しくて、1日中、仏壇の前に座っていようかな…と思ってみたりもする。
だが、俺の中の義務感と責任感が、
それを許してはくれない。

大きな「重力」に抗うためには、
心の張りと、筋肉の強さが必要だ。
だが、今の俺は、
そんなモノを持ち合わせていない。

かみさんが亡くなって以来。
俺の心と身体は萎えてしまった。
生きる気力も萎えてしまった。

それでも心臓は勝手に動いていて、止まりそうな気配は微塵もない。
永遠に眠っていたいけど、どうやら願いは叶いそうにない。

あまりにも苦痛だ。
これは地獄だ。

俺は今、奈落の底にいるんだ。

・・・

かつての俺は、思っていた。
どんなに生きることが辛くても、人は生きようとするものだ。
自分の心がままならず、
身体がどんなに不自由だったとしても、死ぬよりは生きているほうが良いのだ。

だが。
死んだほうが楽だ…と真剣に考える人もいることを知った。
生きて苦痛に身を焼かれるよりは、死んで解放されたいと願う人がいることを知った。

大きな「重力」
に囚われたとき、人は抵抗しようとするだろう。
海で溺れそうになったとき、人は必死でもがくだろう。
大脳皮質が「死にたい」と思っていても、本能は生きようとしている証だ。

だが、本能が本来の機能を停止することだってあるかもしれない。
拷問を受けている人間が、殺してくれと叫ぶように、本能が生きることを拒絶することだってあるのかもしれない。

生きる気力を失ったとき、
あえて抵抗するのをやめてしまうこと。
心身の力を抜いて、流れに任せてしまうこと。

それができれば楽になれるのかもしれない


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