地獄を見てしまった者がいる。
彼らや彼女らの心は、ごっそりと抉
られてしまった。
大きな穴が開いてしまった。
そこに「内面」
が産まれた。

精神分析学の創始者であるフロイトの言うとおり(?
)、心の傷は「内面」を産む。
そして、その「内面」は「告白」されなけれ
ばならない。

だから彼らや彼女らは、自分の見てきた地獄を語る。
その地獄は、とてもリアルで生々しい。

だが、それを生々しいと感
じられるのは、同じく地獄を見てきた者たちだけだ。

地獄を見たこ
とのない者たちは、地獄の話を聞いたとしても、そこにリアリティを感じることはできない。
地獄を見たことのない者たちの語る地獄
は、いつだって評論家的で、そこに悲しみや痛みの実感は無い。

からだろう。
地獄の話を聞いたとき、地獄を見たことのない者たち
は、疎ましがり、嘲笑い、上から目線で批評する。

仮に地獄を見ても、自分ならば耐えられると思っているのかもしれ
ない。
あるいは、地獄なんて無いと思っているのかもしれない。
ひょっとしたら、自分も地獄を見てきたつもりなのかもしれない。

そんな奴らは、地獄を語る者たちが滑稽に見えるらしい。
だからこそ、奴らは嗤う。
だからこそ、
奴らは評論する。

しかし、そんな奴らが本当の地獄に落ちてしまう
こともある。
そのとき奴らは、彼らや彼女らに共感を求めてくる。
つて本当の地獄を見て、地獄を語る彼らや彼女らならば、自分に同情してくれると思い込んでいるのだ。

そのとき彼らや彼女らは、
決して奴らを見捨てたりはしない。
彼らや彼女らは、
奴らに共感し、同情するのだ。

だが、彼らや彼女らは、
忘れたわけではない。
かつて奴らに疎外されたこと、嘲笑されたこ
とを忘れたわけではない。

奴らが堕ちてきたことを見て、密かにほ
くそ笑んでいるのかもしれないのだ。

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