俺にとって、かみさんの死は過去の出来事ではない。
常に目の前にある現実だ。

かみさんが息を引き取った瞬間から今日までの間、ずっと続いてきた哀しい出来事だ。
将来、俺が死ぬ瞬間まで続くであろう哀しい出来事だ。

かみさんを忘れることなんてできないし、かみさんを亡くした哀しみを捨て去ることも、消し去ることもできはしない。
かみさんがいないという現実は、いつだって俺の心の中に深くこびりつき、俺を絶望させるんだ。

だが、第三者たちにとって、かみさんの死は過去の出来事だ。
そう言えば、そんなこともあったかなぁ…という程度の認識であり、みんな忘れてしまっている。

第三者たちの中には、俺がすっかり立ち直っていると思っていたり、かみさんのことを忘れて前向きに生きていると思っている人も少なくない。
そんな人たちは、依然として俺が哀しんでいることを知ると、「忘れろ」と強制したりもする。

俺はそれらのことが哀しい。

かみさんがかつて存在していたことを忘れられてしまうことが哀しい。
かみさんが死んだことを忘れられていくことが哀しい。

俺が立ち直っていると思われていることが哀しい。
かみさんを忘れろと強制されることが哀しい。

だが、仕方がないのかもしれない。
しょせん第三者たちにとって、かみさんは他人だ。

他人が死んだところで哀しくもないだろう。
また、第三者たちが伴侶やお子さんを亡くした経験のない人々である以上、遺族の気持ちだって分かるはずもない。

俺の気持ちを共有してくれ、かみさんの死を哀しんでくれと言っても、どだい無茶な話だ。

そうやって忘れられていくんだ。
かみさんは忘れられていくんだ。

そのことがとても哀しいんだ。

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