俺は先日、ブログに書いた。

一方には、かみさんと暮らした日々の俺の言動がある。
もう一方には、かみさんの死という悲しい現実がある。

その両者の間に因果関係はない。
俺がかみさんを癌にしてしまったわけではないからだ。
俺がかみさんを死なせてしまったわけでもないからだ。

そんなことは冷静に考えれば分かることだ。
それなのに、かみさんの死をめぐっては、俺は冷静ではいられない。

俺は自分自身を責めてしまう。
俺のせいでかみさんが死んじゃったんだ…と責めてしまうのだ。


この文章を改めて読み直し、俺はあることに気が付いた。
その「あること」というのは、俺の抱く罪悪感の背景にあるものの正体だ。

・・・

確かに俺がかみさんを癌にしてしまったわけではない。
俺のせいでかみさんが死んでしまったわけでもない。

だが「原因」がなければ「結果」は生じないはずだ。
どのような事象も何らかの「原因」の「結果」として現れるはずだ。

つまり…
かみさんが死んでしまったという「結果」には、何らかの「原因」があるということなのだ。

その「原因」が何なのかは分からない。
事実、最初に入院した癌研有明病院の医師も言っていた。

癌になった原因は分からない。
いつ癌になったのかも分からない。
分かるのは、余命が年単位ではない…ということだけだ。


おそらく「原因」を一つに求めるべきではない。
一つの「原因」が一つの「結果」として現れる…というほど物事は単純ではない(俺も含め、あらゆる事象をたった一つの「原因」に求めてしまいがちなのが人間だ)。

たくさんの「原因」が複雑に絡み合って、「結果」として現れているのだ。

最悪の「結果」を避けるためには、複雑に絡み合った多数の「原因」を解きほぐし、その上で、一つひとつの「原因」を潰していくことが必要だ。

しかし、それは原理的に可能でも、技術的には不可能だ。
だからこそ、事前に最悪の「結果」を予測して、それを避けることはできない。

想像もしていなかった最悪の「結果」は、あるとき突然、訪れるのだ。

・・・

確かに技術的には不可能だ。
だが、原理的には可能だったはずなのだ。

俺に「力」があったなら、俺はかみさんを救うことができた…ということだ。
俺が「ラプラスの悪魔」なら、俺はかみさんを助けることができた…ということだ。

それなのに…
俺はかみさんを守れなかった。

原理的には最悪の「結果」を回避することができたはずだ。
それにもかかわらず、俺はかみさんを死なせてしまった。

俺には「力」が足りなかったのだ。
俺は「ラプラスの悪魔」にはなれなかったのだ。

その事実が、俺の罪悪感の源になっている…
そんな気がしたのだ。


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