おそらく人生に意味は無い。
人間が生きていることに意味なんか無い。

それは俺に限ったことではない。
すべての人間の人生に意味なんて無いんだろう。

かみさんが死んでしまったから、俺の人生が無意味になったわけではない。
初めから意味なんか無かったのだ。

かみさんがいた頃は、生きる意味なんて考える必要がなかっただけのことだ。
かみさんが俺の隣にいれば、生きる意味なんて、あろうとなかろうと、どうでもよかったのだ。
それだけ幸せだったという証だろう。

かみさんを亡くし、空虚な余生を生きる中、俺は自分が生きている意味を問わざるを得なくなってしまった。

この残酷で、不条理で、理不尽な人生にも意味があるはずだ。
トンネルの向こう側には「光」が見えるはずだ。
そうでも思わなければ、俺はやってられなかったのだ。

そんなとき、俺はスピリチュアリズムに触れた。
人生は修行の場であるという言葉を目にした。
人生という名の修行を終えたとき、必ず報われるという考え方に触れた。
藁をもつかむ思いで、俺はその言葉に縋ったのだ。

だが、無根拠な言葉が、数年間も説得力を持つはずもない。
嘘も方便という言葉があるが、嘘はやっぱり嘘に過ぎないと気づくまでに数年が掛かってしまった。

かみさんを喪って数年間、生きる意味を模索し続けた結果、俺はようやく真実に気づいた。

安楽な人生にも意味はないが、苦しみに満ちた人生にも意味はない。
生涯、苦しみ続けても、決して報われることはない。
どんなに苦しい人生を歩んでも、その先に「光」なんて無い。
何ごとも「偶然」と「運」に左右されている、それが人生の残酷さなんだ。

・・・

すべての人間は、自分の意志とは無関係に産まれてきた。
産まれてしまった以上は生きるしかないのだろう。

すべての人間には、種を保存する本能とともに、
個体を保存する本能も備わっているからだ。
人間はみんな、
本能に強制されて生きているのだ。

そうであったとしても、
人生が楽しいなら問題はない。
強制されて生きているなんて感じることもないだろう。

生きる意味を問う必要もないほどに幸せならば、毎日を楽しんでいればいいだけだ。
無意味であることに気づくこともなく、人生を謳歌していればいいだけだ。

だが。
人生に絶望してしまった奴は、どうすればいいんだ?
最愛の家族を喪い、大切な家庭を失い、すべてを無くしてしまった奴は、どうすればいいんだ?
こんなに悲しいのに、こんなに苦しいの
に、なぜ自分は生きているんだ?

俺はすでに絶望している。
それなのに、
なぜ自分は死のうとしないんだ?

本当は死にたいのに。
本当は消えたいのに。
それでも俺は、生きている。

それほどまでに、本能の拘束力は強いのだ。


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