かみさんが元気だった頃。
かみさんも俺も、身体を動かすのが好きだった。

だが、かみさんが亡くなってから、俺は運動らしい運動をしていない。
仮に運動をしたくとも、運動なんかできる身体ではなくなってしまった。

原因はいろいろとある。

まずは「鬱」が挙げられる。
死別反応複雑性悲嘆で会社を休職していた時期は、朝から晩まで仏壇の前に座り、焼酎を浴びるように飲んでいた。
その期間が長かったため、足腰の筋肉がすっかり萎えてしまったのだ。

次に挙げられるのは「アルコール性の肝障害」だ。
かみさんが亡くなってから酒に溺れてしまい、すでに何年も経っている。
とうとう一昨年の1月に、自宅のバルコニーで倒れてしまい、精密検査の結果、「肝硬変」だと診断されてしまったのだ。

他にも事情はあるのだが、主に上記2つの理由から、俺は身体を動かすのが苦痛になってしまった。

・・・

通勤の際になるべく速く歩いたり、駅の構内では階段を使ったり、細かいことを積み上げた結果、足腰の筋肉は(以前ほどではないにしろ)戻ってきたような気がしている。

しかし、慢性的な倦怠感・疲労感だけはどうしようもない。
早朝に目覚めた瞬間から、夜になって就寝するまでの間、俺はずっとダルいのだ。

幸いなことに脳だけは(今のところ)正常に機能しているらしく、仕事に支障はないし、他者とのコミュニケーションにも影響は出ていない。
したがって、俺がいつでもダルいなんてことは、周囲の誰にも気づかれていないはずだ。

だが、ダルい身体に鞭を打ち、普通の暮らしをするのは本当に辛いことだ。
身体が不自由になり、それでも死ねない独居老人の気持ちが分かるような気がしている。

こんなところにも、俺の死にたい理由がある。

かみさんが死んじゃって哀しい…
かみさんがいなくなって淋しい…
かみさんのいない世界で生きていくのは虚しい…

俺の希死念慮の背後にあるのは、いちばん大切な人の死であることに間違いはない。

しかし…
それだけではない。
ハンパじゃなくダルいのだ。

いわゆる「健康寿命」が尽きかけている。
それにも関わらず生きなければならない。

壊れかけた肉体を纏って生きること。
それがあまりにも苦しいのだ。


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