1日に何度も仏壇の前に座る。
そのたびに、かみさんの位牌や
遺影を見つめ、かみさんに想いを馳せる。
やっぱり俺は、かみさんのことが愛おしい。

この「想い」はなんだろう。
自分の「妻」に対する「想い」
であることに違いはない。
だが、そう単純に割り切れるような「
想い」でもないらしい。

朝と夜の1日に2回、必ず「お供え」
をしている。
毎日5、
6回は線香をあげている。
週末には位牌を磨き、
遺影に被ったホコリを拭い、仏壇の掃除をしている。
いまだに納骨していないくせに、1年に何度も墓参りに行く。

まるで、幼い「娘」の面倒を見る「父親」のようだ。
そんな暮らしを続けてきたせいか、かみさんは「妻」
としてだけではなく、俺の「娘」として認識されるようになっていく。

そうだ。
俺の中に、自分の「妻」のことが愛おしい…という「
想い」とともに、「娘」のことが愛おしい…という「想い」が同居しているのだ。

・・・

かみさんが元気だった頃から。
俺はかみさんを「妻」であると認識しつつ、同時に「娘」のようにも感じていた。

俺の友人には子どものいない夫婦が多い。
彼らの中にも、自分の奥さんのことを「
娘」のように想っている奴らがいる。

子どものいない夫婦って、そういうものなんだろうか。

俺たち夫婦にも子どもがいない。
そのせいか、かみさんは小
さな「娘」のように、俺に甘えてくれた。

そんなかみさんのことが
、愛おしくて仕方がなかった。

・・・

かみさんの遺影を見つめ、
かみさんの位牌を慈しむ。
そうした動作を続けているうちに、
かみさんは「妻」であるよりも、「娘」としての表情を色濃くしていく。

時間の経過とともに、
薄れてしまう記憶も少なくない。
しかし、俺にとって、
かみさんが「かけがえ」のない存在に昇華しつつあるような気がするのだ。

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