死にたい…と思う。
それができないのなら、死ぬまで眠っていたい…と思う。

かみさんが死んだあとの余生は、確かに「最期の修行」なのかもしれない。
その修行をやり抜くことが、俺の義務なのかもしれない。

だが、毎日がとても辛いのだ。
生きていることが、あまりにも苦しいのだ。

かみさんが死んでしまって、哀しいから…だけではない。
かみさんがいなくなって、淋しいから…だけではない。
身体がダルいとか、鬱がひどいからだけでもない。

生きていてもつまらないのだ。
毎日が退屈なのだ。

楽しいことは何にもない。
面白いことも何にもない。

出社して仕事をし、飯を食い、風呂に入って寝るだけだ。
翌朝が来れば、また出社して仕事をするだけだ。

毎日がこれの繰り返しだ。

これは人間の生き方ではない。
俺はただの「労働力」にすぎない。

俺が生きている限り、この円環から脱け出すことはできないだろう。
なにせ「人生100年の時代、死ぬまで働け!」というご時世だ。

この際限のないループから脱け出すことができるのは、俺が死ぬ瞬間だろう。
俺はその瞬間を待ち望んでいる。

単調で抑揚のない日々は、人を死にいざなうのだ。

しかし…
自ら命を断つことができない。
すでに終わったはずの人生なのに、俺は幕を下ろすことができない。

生存本能の拘束力は、それほどまでに強いのだ。

・・・

かみさんはいつも言っていた。

おじいちゃん、おばあちゃんになっても、二人で一緒に散歩しようねぇ…
おじいちゃん、おばあちゃんになっても、二人で一緒に毎年、旅行に行こうねぇ…
おじいちゃん、おばあちゃんになっても、二人で一緒に温泉に行こうねぇ…


そして、こんなことも言っていた。

二人で一緒に死ねたらいいねぇ…
死ぬときは二人一緒がいいよねぇ…

かみさんがいたならば、さぞかし穏やかで、やわらかくて、温かい晩年を迎えたことだろう。
そして最期には、二人で一緒に笑顔で逝くことができたかもしれない。

だが、もはやそれは望むべくもない。
だから俺は、未来に何も望んでいない。

ただ、この退屈で、つまらない円環から脱け出したい…と願っているだけなのだ。


にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

にほんブログ村← いつもありがとうございます。ポチッとクリックお願いします。