街を歩いていると、仲の良さそうな家族連れが目に入る。
テレビを見ていても、そこには家族連れの笑顔が映っている。

幸せそうな家族を目にすると、俺の意識は「今ここ」にある現実から遠ざかる。
そして、ある光景が脳裏に浮かぶ。

それは、かみさんが元気だった頃の記憶だ。

俺の隣には、かみさんがいる。
かみさんの隣には、俺がいる。

何か特別なことをしているわけではない。
ごく普通の、ありふれた日常の光景だ。

かみさんと俺が、二人で一緒に散歩をしている。
かみさんと俺が、二人で一緒に海を見ている。
かみさんと俺が、他愛のない会話をしている。

そんな平々凡々な光景ばかりがよみがえる。

目に入る家族連れと、かつての俺たち夫婦とを重ね合わせているのだろうか。
よく分からない。
かみさんと過ごした日々の記憶は、俺の意思とは無関係によみがえってくるからだ。

過去の記憶でありながら、それはとても鮮明で、色彩を持ち、リアリティを持っている。
まるで、「今ここ」にある現実のように錯覚してしまう。

しかし…
リアルな記憶でありながら、質感がないのだ。
触れることができないのだ。

あの幸せな日々は過ぎ去ってしまった。
手を伸ばしても届かない。

そうだ。
もう二度と手に入らないのだ。

そして俺は思うんだ
淋しいな…と思うんだ。

・・・

だが…
淋しいのは家族連れを目にしたときだけではないのだろう。

仕事をしていても淋しいし、食事をしていても淋しい。
酒を飲んでいても淋しいし、テレビを見ていても淋しい。
通勤電車の中でも淋しいし、街を歩いていても淋しい。

結局、生きている限りは淋しいのだろう
かみさんがいなければ淋しいのだろう。

しかし…
いくら「淋しい」という言葉を列挙しても、虚しいだけだ…とも思う。
何度も「淋しい」と言ったところで、この気持ちが他者と共有できるわけではないし、ましてや「淋しさ」が解消されるわけではないからだ。

だからと言って、この言葉をつぶやくことをやめることもできないのだ。


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