俺が小学生の頃。
周囲の人々が「子どもっぽい」のは、「まだ子どもだからだ」と思っていた(「周囲の人々」というのは俺の同級生という意味ではない)。

ここで言う「子どもっぽい」というのは、自意識過剰で、世界は自分を中心に回っていると思っている奴らのことだ。
また、プライドが高いわりにはガラスのように脆く、その壊れやすいプライドを守るため、衝動的に破壊的な行動を取る奴らのことだ。

殴りかかって来るなら(正当防衛の成立する範囲内で)返り討ちにしてやればいい。
しかし、そういう奴らは概して陰湿な手段を選ぶのだ。
いわゆる「いじめ」だとか「陰口」だとかが大好きなのだ。

だが、彼らや彼女らだって、いずれは大人になるだろう。
彼らや彼女らが年を取り、おじさん・おばさんになれば、「子どもっぽさ」は無くなって、脆い自分を守るために他人を破壊するような行為をやめるだろう。

子どもの頃の俺は、そんなふうに漠然と考えていた。

しかし、彼らや彼女らは、中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても変わらなかったようだ。
それどころか、30歳を過ぎても変わらなかったし、40歳を過ぎても、50歳を過ぎても、60歳を過ぎても変わらなかったようだ。

人間はいつまで経っても「子どもっぽい」。
いつまで経っても幼稚だ。
外見だけは大人に見えるが、中身は小学生と大差ない。
それが人間という動物なんだ。

そんな単純な事実に気づいたとき、俺は絶望的な気分になった。
人間(当然、俺自身のことを含んでいる)は、これほどまでに愚かしいのか…と思い、人間という動物に嫌悪感を抱くようになった。

そういう人間の愚かさと、どのように関わっていけばいいのだろう。

かみさんが言っていた。

受け入れてしまえばいい。
仕方がないと諦めてしまえばいい。


かみさんと俺が30歳代の前半のことだったと記憶している。

かみさんの言葉は、相手に迎合しろという意味ではない。
相手に対して下手(したて)に出ろという意味でもない。

放っておけという意味であり、相手にするなという意味だ。
要するに、俺の意識の中から相手を排除してしまえばいいという意味であり、相手と同じ土俵に立つなという意味だ。

かみさんが俺のために遺してくれた言葉は少なくない。
それらの言葉が俺に救いを与えてくれた。

受け入れてしまえばいい…という言葉も同様だ。
俺は楽に生きられるようになった気がしている。

しかし…
放っておくこと、相手にしないことにも膨大なエネルギーが必要だ。

伴侶と死別した者の心の中に土足で入り込み、めったに見られない光景を見て楽しんでいる奴らがいる。
そういう連中の言葉に心を抉られて、内心では強烈な怒りを抱いておりながら、それを聞き流して放置する。
それは膨大なエネルギーを消費することになるのだ。

しかし、そうすることで、くだらない波風を立てずに済むだろう。

だが、内心で沸騰している怒りの感情は、いくら抑圧したとしても、伴侶と死別した者の全身から噴き出してくる。
噴き出した怒りは大きく拡散し、あの「子どもっぽい」連中を圧倒し、圧迫し、恐怖を与えてしまうのだ。


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