想いすぎれば哀しくなってしまう。
考えすぎれば苦しくなってしまう。

だから俺は、ときおり頭の中をカラッポにする。
それができるようになったのは、つい最近のことかもしれない。

頭をカラッポにするためには、自分の内部から意識をそらし、外部に集中すればいい。
見えるもの、聞こえるもの、香るものなど、五感に触れるものに意識を向けるのだ。

それができれば少しは楽になる。
ほんの短い間ではあるが、哀しくもないし、苦しくもなくなる(ような気がする)のだ。

しかし、その状態を維持しておくことは不可能だ。
頭をカラッポにしておくと、カラッポのはずの内部に「何か」がポッと生まれる。
心臓や胃のあたりに違和感が生ずるのだ。

その「何か」は不安感の源泉だ。
初めは微かな不安であるが、それは次第に強度を増していく。

心臓のあたりに閉じ込めておけばいいのだが、それは全身に染み渡っていく。
すると、俺の全身が震えだすのだ。

俺は不安を抑圧しようとする。
だが、抑圧すれば圧力が増していき、俺はますます不安になっていく。

この「不安」の原因は不明だが、「恐怖」と違って「不安」の正体が分からないのは当然なのだろう。

原因が分からないのなら、それを解消する方法もない。
それならば、あきらめて受け入れるしかないだろう。

不安に曝されることも、伴侶と死別して「ひとりぼっち」になってしまった者たちの宿命なのかもしれない。

・・・

この記事の冒頭で、「想いすぎれば哀しくなってしまう。考えすぎれば苦しくなってしまう」と書いた。
たしかに想いすぎれば哀しくなってしまうのは事実だ。

しかし…
耐えがたい不安感に苛まれてしまったとき、やはり俺はかみさんを想うのだ。

かみさんを想い、かみさんの名前をつぶやけば、自分がかみさんを喪ってしまった者であることを再確認せざるを得ない。
そこに生まれる大きな喪失感は、とても深い「哀しみ」を生み出すことになる。

しかし、その「哀しみ」があまりにも深ければ、たかが「不安」など吹き飛んでしまうのだ。

どうやら、ある感情や感覚に耐えられなくなったとき、より強度の高い別の感情や感覚によって、前者を打ち消すことができるらしい。
だから俺は「不安」を解消するために、「哀しみ」を利用している(のかもしれない)

もちろん「哀しみ」は心地好い感覚ではない。
だが、「哀しみ」にはかみさんの痕跡がある。
喪失感は切ないけれど、それは大切なモノを失った証であり、かつては確かに大切なモノがあったという証でもあるからだ。

それに対して「不安」には救いがない。
かみさんの痕跡があるわけではないし、かみさんの気配があるわけでもないからだ。

だから俺は、「哀しみ」という強烈な感情によって、「不安」という不愉快なモノを打ち消そうとするのだ。

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