かみさんが亡くなってから。
俺は基本的に「独りぼっち」
で過ごしている。
会社で仕事をしている間は別として、自宅にいる限り、
時間や空間を共有してくれる人は誰もいない。

話をする相手もいなければ、一緒に笑うことのできる相手もいない。
誰にも見られることはなく、誰にも聞かれることもなく、誰とも触れ合うこともできない。

量子力学が明らかにしたとおり、
誰にも観測されていない対象は、「今ここ」には存在しない。
誰にも観測されていないのは俺も同じであって、俺も「今ここ」にはいないのかもしれない。

そのせいか、
自分の輪郭がボヤけていくような気がする。
自分の心と身体が希薄になっていくような気がする。

自分の存在が溶けていく。
溶けた後に残るのは、
表現しがたい感情だ。

その感情に、あえて言葉を与えるとすれば、
とても深い哀しみであり、生きていることに対するバカバカしさであり、叫び出したくなるような淋しさだ。

この哀しみやバカバカしさ、
淋しさが、俺を苦しめている。
とりわけ週末の連休は辛いのだ。

だが…
すべてが溶けてしまっても、残されるものがあるのなら、それは単なる残骸ではないはずだ。
すべてが崩れてしまっても、残されるものがあるのなら、それは俺の本質的な部分であるはずだ。

そうだ。
哀しみやバカバカしさ、淋しさは、決して異物ではない。

異物でないならば、免疫機能が働くことはない。
異物でないならば、排除することができるはずはない。

哀しみも淋しさも、俺の本質であり、俺の「真ん中」にあるんだ。

・・・

俺の中にある、本質的な部分を作ってくれた人。
俺の中にある、大切な部分を育ててくれた人。

それはすべて、
かみさんだ。

生前のかみさんは、俺の「真ん中」にいてくれた。
そして今だって、かみさんのいるべき場所は、俺の「真ん中」にあるはずだ。

かみさんが亡くなってから、俺の「真ん中」は空洞になってしまった。
しかし、還って来たくなったなら、いつでも還ってくればいい…と思っている。
俺の「真ん中」は、いつだって空いているんだ。

俺はかみさんのために、自分の「真ん中」を空けておくつもりなんだ。

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