最愛の人を喪ってしまうこと。
伴侶や子どもを亡くしてしまうこと。

それはあまりにも悲しい出来事だ。
あまりにも悲しくて、「悲しい」という形容詞では、とてもじゃないが表現できない。

あの喪失感、欠落感、絶望感といった様々な感情を言葉にしようと思ったら、「悲しい」という単語に代表させることしかできないだろう…ということは分かっている。
だが、あの破裂してしまいそうな感覚は、やはり「悲しい」という単語では言い表すことができない。

あの感覚を正確に伝えてくれるのは、「悲しい」という言葉よりも「涙」だった。

そうだ。
涙を流すほうが、「悲しい」という形容詞より遥かに雄弁だったのだ。

・・・

かみさんのお通夜の日。
俺は涙を流せなかった。
弔問に訪れてくれた親族や姻族、友人や知人への対応に追われていたからだ。

お通夜という儀式が、俺を緊張させていたのかもしれない。
そして何よりも、他人の見ている前で涙を流したくなかったのだ。

そんな俺を見て、人々は言った。

思ったより元気そうで良かった…
しっかりしていて良かった…


これらの言葉に悪意はない。
だが、俺は微かな怒りを覚えた。
何も知らないくせに!と叫びたかったのだ。

俺は元気だったわけじゃない。
自分の心がザックリ割れて、欠けていた。

泣きたかった。
叫びたかった。
それでも俺は涙をこらえ、喪主の務めを果たさなければならなかった。

涙を流していないかぎり、誰も俺の中の悲しみには気づかない。
本当は悲しみで破裂しそうだったけど、それでも俺の悲しみに気づいた人はいない。

・・・

かみさんの告別式の日の早朝だった。
俺はひとりで棺の横に立っていた。
棺の中では、かみさんが笑顔で眠っていた

かみさんの遺体が火葬されてしまう。
かみさんの顔を見ることができるのは、今日で最期だ。
これで「お別れ」なんだ。

そう思ったら、身体の奥から悲しみが込み上げてきた。

周囲には誰もいなかった。
誰も俺を見ていなかった。

俺は声を殺して咽び泣いた。
俺はようやく自分自身に泣くことを許したのだ。

その直後だった。
俺の親族や姻族が背後から近づいてくるのを感じた。

俺は他人に涙を見られたくなかった。
自分が泣いているのを悟られたくなかった。

しかし、もはや遅かった。
俺が泣いていることに気づかれてしまった。

だが…
そのとき誰もが知ったのだ。
俺が必死で涙を堪えていたこと、本当は泣き叫びたかったことを知ったのだ。

単純な「悲しい」という単語より、「涙」のほうが分かりやすい。
最愛の人に先立たれたことのない人たちであったとしても、流れる涙を見れば、そこに隠された悲痛な感情を知るのだろう。

・・・

その後、俺は再び涙を封印した。
ひとりぼっちの時には泣いたけど、誰かが見ていれば決して泣かなかった。

それは今でも変わっていない。
ときおり咽び泣きたくなるけれど、決して他人の前で涙を流すことはない。

こうして俺の中の「悲しみ」が忘れられていく。
それはとても悲しいことだ。

俺が悲しんでいることを知ってほしい…というわけではない。

ただ、俺の中にある「悲しみ」を通して、誰かにかみさんの存在を感じ取ってほしいとは思うのだ。
かつてこの世界には、かみさんが存在していたってことを知っていてほしいとは思うのだ。

たぶん俺の「悲しみ」だけが、かみさんが存在していたという証だからだ。

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