かみさんと出会う前のこと。
俺には俺自身のことが見えている…
と思っていた。
自分が本当はどういう人間なのか、
自分がいちばん分かっていると思っていた。

だが、
人間は自分で自分の姿を見ることはできない。
自分をいちばん分かっていないのは自分自身だ。

それは、
数学基礎論における「ゲーデルの不完全性定理」や論理学における「自己言及性のパラドックス」が示すとおりだろう。

かつて人間は、
自分の顔を見ることができなかった。
鏡(かがみ)
は太古の昔からあったので、そこに自分の顔を映すことはできただろう。
水溜まりをのぞいてみても、自分の顔を映すことはできたはずだ。

しかし、鏡や水溜まりに映った自分の顔は、本当の自分の姿ではない。
左右が反転している
からだ。

自分で自分を鏡に映し、右腕を挙げてみると、
鏡の中の自分は左腕を挙げていることから分かるだろう。
鏡や水溜まりでは、自分の本当の姿を見ることはできないのだ。

左右が反転していない本当の自分の顔を見ることができるようになったのは、「カメラ」や「写真」という技術が産まれて以降のことだ(ちなみにスマホの写真は、以前の「写真」より「鏡」に近い。スマホで写真を撮ると、鏡に映したように左右が反転してしまうことは、誰でも知っているだろう)。

子供のころ、初めて「写真」
を撮ってもらったとき、「これは自分じゃない!」と感じたことは、誰にでもあるだろう。
だが、
周囲の人たちからは、「これがアナタの顔だよ」と言われたはずだ。

これは、「
自分で自分のことを見ることはできない」、「自分のことをいちばん分かっていないのは自分自身だ」ということの証左だ。

人は誰だって自分で自分自身を理解するのは原理的に不可能なのだ。

誰かが「カメラ」
になって、「アナタはこういう人間だよ…」と教えてくれるのを待つしかない。
それは厳しい言葉であるかもしれないが、それを素直に、かつ謙虚に受け止めよう。

そうだ。
かみさんは俺の「
カメラ」になってくれた。
かみさんの厳しい言葉を受け止めて、
俺は自分自身の本当の姿を見ることができたのだ。

かみさんが言っていた。
自分の持っている「力」に溺れるな…

ここでいう「力」には、さまざまな意味がある。
いずれにしても、かみさんは俺の「カメラ」であって、
暴走しかねない俺に歯止めをかけてくれたのだ。

・・・

しかし…
俺はかみさんという「カメラ」を失ってしまった。
かみさんというストッパーを失ってしまった。

その後、
自分でも気づかないうちに、俺は暴走を始めてしまったのかもしれない。

かつて、俺には俺自身のことが見えている…と思っていた。
自分が本当はどういう人間なのか、自分がいちばん分かっていると思っていた。

だが、
俺は何も分かっていなかったのだ。
かみさんという「カメラ」
がない限り、俺は自分のことなんか見えていないのだ。

今の俺は、自分自身を見失ってしまった。
そして俺は暴走し、破綻し、自滅しつつあるらしいのだ。

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