友だちがたくさんいようとも、同僚や部下たちがたくさんいようとも、やっぱり俺は淋しいなぁ…と思うんだ。

人間にとって、「本当に大切な人」の数は、そんなに多くはない。
その人が死んでしまったら、自分の世界が足元から崩壊してしまう…それほどまでに大切な人の数は、そんなに多くはない。

俺が死んだとしたら、俺の友人や部下たちは、それなりに悲しんではくれるだろう。
だが、彼らや彼女らの平穏な日常が崩れてしまうわけではないし、いつまでも俺を想い続けてくれるわけでもないだろう。
そういえば、あんな人がいたなぁ…だとか、あのときは楽しかったなぁ…だとか、ときおり俺を思い出してくれる程度に違いない。

だからと言って、部下たちや友人たちを責めるつもりはない。
俺から見ても、彼らや彼女らは、その程度の存在にすぎないからだ。

人の死は悲しいが、ごく限られた、自分の「本当に大切な人」を喪ったわけではない限り、自分の半身を失うほどの衝撃はないのだろう。

この「本当に大切な人」という言葉を拡大解釈しがちな人もいる。
伴侶や子どもだけでなく、親戚も友だちも、み~んな「本当に大切な人」です!と言いたがる人がいるのだ。

しかし…
人間にとって、「本当に大切な人」の数は、そう多くはないのだ。

自分の命よりも大切で、自分の命をあげてもいいから守りたい。
そこまで想わせてくれる人は、そう多くはないはずなのだ。

・・・

人間関係はとても希薄なモノだ。
誰にとっても「本当に大切な人」はわずかしかいないからだ。

そのわずかな「本当に大切な人」を喪ったとき、遺された者は本当の孤独になってしまう。

そんなこと、とっくの昔から知っていたという人もいるんだろうし、人間関係なんて、しょせんはそんなもの…と達観している方もいるんだろう。
だが、俺にはそれが見えていなかった。

かみさんがいて、俺にも「本当に大切な人」がいた。
あの頃は、人間関係が希薄だなんて実感はなかった。
かみさんとの濃密な関係があったからこそ、俺は絶望もしていなかったし、厭世的でもなかったのだ。

人は濃密な関係を求め、「本当に大切な人」を探している。
そして俺は、かみさんに出会うことができたのだ。

自分にとって「本当に大切な人」が、自分を本当に大切にしてくれる…
それがどれだけ幸せなことなのか、俺は知ることができたのだ。

そうだ。
たったひとりでいいのだ。

自分にとって「本当に大切な人」がひとりでもいる限り、人間は世界を肯定することができるのだ。

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