付き合い始めた直後から、かみさんと俺は、暇さえあれば散歩ばっかりしていた(ような気がする)。

実際には散歩ばかりしていたわけではない。
旅行をしたり、映画を見に行ったり、買い物に行ったり、外食をしたり、ただテレビを見ているだけだったりもしていたはずだ。

それなのに、何故だか散歩の記憶はとても濃い。

かみさんのおしゃべりに耳を傾けながら、周囲の風景を眺めつつ、俺たち二人はのんびり歩くのが好きだった。
あまりにのんびり歩くので、後ろから歩いてくる人々に追い抜かれることも多かった。

かみさんも俺も、のんびり歩くのが癖になっていたらしい。
二人のうちのいずれかが、ひとりで街を行くときも、周囲の風景を見ながら、のんびり歩いていたからだ。

・・・

いつの頃からだったか覚えていない。
俺の歩行が速くなった。

のんびり歩くことができなくなってしまった。
周囲の風景には目もくれず、前を行く人々をどんどん追い越して、高速で歩いていくようになったのだ。

そんなふうになったのは、かみさんが亡くなったばかりの頃ではないと思う。
かみさんが亡くなってからの数年間、俺の中はカラッポだったので、まるでゾンビか何かのように、フラフラと歩いていた記憶があるからだ。

脇目も振らずに速く歩くようになったのは、多分ここ数年のことなんだろう。

周囲の風景に目もくれず、視線はまっすぐ前を向き、ひたすら高速で歩き続ける。
これは「ゴール」以外に関心がないからだ。
ゴールに至るまでの「過程(プロセス)」に興味がないからだ。

かみさんが元気だった頃。
俺たち夫婦は、いつだって過程を楽しんで生きてきた。
あまりに過程が楽しくて、途中で予定のコースを外れ、想定外のゴールにたどり着いたことも少なくなかった。

だが…
あれこそが人生だったんだと思う。
あれこそが夫婦の幸せだったんだと思う。

あらかじめ定めた「目標」という名のゴールに拘束されて、そこに到達すべく、あらゆる犠牲を払うなんて人生じゃない。

かみさんと俺は、とりあえずの目標を定めたものの、それだけがすべてではなく、「今ここ」という過程を楽しんで生きてきた。
かみさんと俺は、幸せだったんだと思う。

しかし、それも終わってしまった。
俺は過程を楽しむことができなくなってしまった。
かといって、達成すべき目標など持っていない。

それでも俺は、ゴールを目指している。
たったひとつだけ、俺が目指すべきゴールが見えている。
俺は周囲の世界に目もくれず、一心不乱にゴールを目指している。

そのゴールこそ、人生の終焉なのだ。

にほんブログ村 家族ブログ 死別へ
にほんブログ村←いつもありがとうございます。ポチッとクリックお願いします。