家にひきこもっていたい。
何ものにも縛られず、ボンヤリ余生を過ごしたい。
できることなら、一日中、酒に溺れていたい。
そして、朝から晩までかみさんに寄り添っていたい。

時間に拘束されたくない。
早朝に起床しなければならないことも、スーツに着替えて出勤しなければならないことも、全力で仕事をしなければならないことも、帰宅後、翌日に備えて様々な準備をし、決まった時間に就寝することも、すべてが鬱陶しい。

仕事や人間関係に拘束されたくない。
管理職に求められるレベルの仕事をすることも、部下を指揮監督しつつ、明るく元気に「立ち直ったフリ」を装うことも、すべてが鬱陶しい。

病に拘束されたくない。
アルコール性の肝障害に伴うダルさ、脱力感や疲労感、腹部の圧痛や膨満感など、あらゆる症状が鬱陶しい。

鬱や不安感に拘束されたくない。
あの重苦しくて、もの悲しくて、死ねないくせに、死にたくなる感覚が鬱陶しい。

・・・

すべてから解放されて「自由」になりたい。
この自由は、「腐敗した自由」とは異なるものだ。

あらゆる義務や責任から解放されて、喪に服す。
それこそが俺の求める「自由」だ。
自宅にひきこもり、ただひたすら、かみさんを想って余生を過ごしたいのだ。

心静かに、かみさんを想う。
それ以外のすべてから解放されたいのだ。

・・・

自死する勇気が無い以上、生きざるを得ない。
生きざるを得ないとすれば、「あらゆる義務や責任から解放」されることなんてできやしない。
やりたくないことだってやらなきゃならないし、さまざまなモノに拘束されざるを得ないだろう。
それがどんなに苦痛であろうとも、歯を食いしばって耐えていかなければならない。

生きる(遺されてしまう)ってことは、本当に辛いことだ。

・・・

かみさんが元気だった頃ならば、
どんな苦痛にも耐えてこられたし、苦痛を苦痛として感じることさえ少なかった。

かみさんがいた頃ならば、
かみさんのために頑張るぞ!と思うだけで、どんな障害も乗り越えてくることができた。

かみさんが生きていた頃ならば、
家に帰れば、容ちゃんが待っている…と思うだけで、どんなストレスにだって耐えてくることができた。

だが、今の俺は、些細なことが苦痛で仕方がない。
ただ生きているだけなのに、苦しくて仕方がないのだ。

でも、俺は求めている。
何ものにも拘束されない「自由」を求めている。

定年退職したら、そんな「自由」が手に入るんだろうか。
たぶん、そんなことはないだろう。

本当の「自由」を手に入れる。
それはおそらく、俺が死ぬ瞬間なのだ。

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