伴侶や子どもを喪った。
いや、伴侶や子どもとは限らない。
亡くしたのは両親かもしれないし、ペットかもしれない。

ここで言いたいのは「最愛の人」を喪った…ということだ。
言うまでもないのだが、最愛の人というのは「世界でいちばん大切な人」のことだ。

最愛の人を亡くした後に、遺族たちは自らに問うだろう。
いったい俺は、何のために生きているんだろうか?
いったい私は、なぜ生きなければならないんだろうか?

これは本質的で、核心的な疑問だ。
俺自身、いったい何のために生きているのか分からないのだ。

この疑問に解答を与えるのは難しい。
中には真剣に考えてくれる人がいるけれど、そうした人々ほど安易に答えを出したりはしない。

だが、地に足のついていない奴らほど、安易にチャラい答えを出すものだ。

何のために生きているかだって?
それは「自己実現をする」ためだ…
それは「社会を発展させる」ためだ…
それは「人類を存続させる」ためだ…

言うまでもないかもしれないが、こんな解答を出した連中には共通点がある。
最愛の人を亡くした経験のない者たちばかりなのだ。

最愛の人を喪う悲しみを知らない。
最愛の人を喪った後の絶望を知らない。
最愛の人がいない世界の中で、ひとりぼっちで生きていかなければならない虚しさを知らない。

知らないならば、知らないと言えばいいだけだ。
分からないならば、分からないと言えばいいだけだ。
分からないならば、語る資格はないはずだ。

それなのに、奴らは「すべて」を分かっているフリをする。
奴らは「すべて」を語りたがるのだ。

自分を知的な人間だと思わせたいのだろう。
自分がすべてを鳥瞰できる人間だと思い込んでいるのだろう。

そんな姿は痛々しい。

・・・

自己実現をするために生きている…
社会を発展させるために生きている…
人類を存続させるために生きている…

こんなに恥ずかしいセリフをよくも吐けたものだ。
だが、呆れてばかりはいられない。
こんなセリフを吐かれた瞬間、一人ひとりの「単独性」は失われてしまうからだ。

一人ひとりの人間は、誰かにとっての「かけがえ」のない人だ。
その人が「特殊」だからではない、「単独」だからだ。

しかし、「人類を存続させるため」と言われた瞬間、「かけがえ」のない人は、人間という種の「一匹」に堕してしまう。
一般名詞にすぎない「人類」こそが主体であって、固有名詞を持つ「一人ひとり」の「かけがえのなさ」を否定しているからだ。

俺はそれが嫌なのだ。
かみさんは「かみさん」だ。
人間という種の「一匹」ではないのだ。

自己実現のために生きている…
社会の発展のために生きている…
人類存続のために生きている…

そういう歯の浮くような言葉を吐いた連中は、かみさんの「単独性」を否定した。
俺の最愛の人を、人間という種の「一匹」に貶めた。

だから俺は、奴らを憎悪しているのだ。

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