現在12月27日の午前6時55分。
いつものとおり、通勤電車の中でブログの記事を書いている。

今日はかみさんの月命日だ。
また月命日がやってきたのだ。

かみさんが亡くなって以来。
毎月の命日を迎えるたびに、「ひと区切り」がついたんだな…と思う。

しかし、いったい何の区切りなんだろうか…という疑問が微かに沸いてくる。
かみさんが亡くなってから数年が経つが、この疑問に対する答えは、いまだに得られていない。

ただ、「何か」の区切りがついたな…という哀しく切ない実感があるだけだ。

かみさんのところに逝ける日が近づいた…
そういう意味での区切りであれば大歓迎だ。

だが、どうやら違うようなのだ。
区切りがついたという感覚は、輪郭を捉えるにはあまりにも不鮮明で、その正体は分からない。
ただ、なんとなく哀しくて、なんとなく切ないのだ。

ひょっとしたら…
かみさんと一緒に暮らした日々が、また遠ざかってしまったな…という気持ちなのかもしれない。
時間の経過に伴って、あの頃の幸せな想い出は、どんどん過去に流されてしまうのだ。

・・・

今日は会社の仕事納めの日でもある。
俺は定時で退社して、羽田空港から北海道に向かうことになっている。
かみさんの生前からの習慣どおり、今年の年末年始もかみさんの実家で過ごさせてもらうのだ。

もうすぐ一年が終わる。
これもひとつの区切りだろう。

だが、区切りは「終わり」ではない。
区切りのあとには、新しい一年が始まってしまう。
そしてまた、去年や一昨年、あるいはそれ以前の年のように、なんの抑揚もない、平板で苦痛で退屈な日々が待っている。

そうだ。
かみさんの生前とは明らかに違うのだ。

かみさんが元気だった頃。
翌日には何が起こるか分からなかった。
未来を見通すことなんてできなかった。

その事実が人生を楽しいものにしてくれたのだ。

しかし…
今の俺には、春には自分がどうなっているか、夏には自分がどうしているか、秋には自分がどんな思いをしているか、すべてをあらかじめ見通すことができてしまう。
かみさんの死後、すべては同じ思いと同じ行動の繰り返しなのだ。

俺が言う「なんの抑揚もない、平板で苦痛で退屈な日々」とは、そういう意味だ。

そろそろ「繰り返し」から逃れたい。
区切りを越えたら別の世界が広がっていればいいのにな…と思う。

だが、「繰り返し」から逃れるためには死ぬしかない。
だから俺は、今年も区切りを前にして、ため息をついてしまうのだ。

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