いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

カテゴリ : 闘病記

久しぶりの闘病記だ。
今日の記事は、平成22年6月24日のこと。

かみさんを看取った日が近づくにつれ、闘病記を書く筆が鈍ってしまう。
なかなか書き進めることができない。

怖いのだ。
平成22年6月27日のことを書くのが怖いのだ。

恐怖が絡みついて、俺の筆を鈍らせる。
だが、この闘病記だけは、書き遂げないわけにはいかない。

・・・

平成22年6月24日の木曜日。
癌研有明病院から帯津三敬病院に転院して三日目だ。

以前にも書いたかもしれないが、帯津三敬病院では、個室の病室を2部屋借りた。
1部屋は義母に使ってもらい、義母は夜、その部屋のベッドで寝る。
もう1部屋はかみさんと俺が使う。かみさんのベッドの横に付添い人用の簡易ベッドを置き、そこで俺が寝る。

そんな生活が始まって三日目のことだ。

・・・

この日の深夜、かみさんは夜中に何度も目を覚ました。

「暑いから団扇(うちわ)であおいで」
「お水飲みたい」
「うがいがしたい」
かみさんから声が掛るたび、俺は付添い人用のベッドから起き上がり、かみさんの面倒をみる。

かみさんの身の回りの世話ができることが嬉しかった。
かみさんに頼ってもらえることが嬉しかった。
かみさんと二人きり、わずかにでも会話ができ、わずかにでも笑顔を見せ合える時間が愛おしかった。

正直に言えば、俺の疲労も頂点に達していた。
平成22年6月19日以降、俺はほとんど眠っていない。
ほんの少しでいい、ぐっすりと眠りたいという想いが無かったとは言えない。

だがそれでも、真夜中にかみさんと二人きり、かみさんと話ができること、かみさんの髪を撫でてあげられること、かみさんに水を飲ませてあげること、そんな些細な時間がとても幸せだった。

隣の病室で寝ていた義母が起きてきた。
義母は俺に、少し寝た方がいい、私が容子の面倒をみるから、と言ってくれた。
俺の体調を心配してくれたのだ。

だが、俺は自分でかみさんの面倒を見たかったのだ。
わずかな時間でも、かみさんと触れ合えることが、とても大切だったのだ。

・・・

朝食の時間。
かみさんは和梨のゼリーを食べた。

食事を終えたあと、かみさんは眠った。

・・・

この日から、代替治療の一環として、漢方薬を処方してもらうことになった。

漢方薬とアラビノキシラン。それだけが病気に打ち勝つための武器。
毎食後、漢方薬とアラビノキシランを服用することになった。

・・・

かみさんが朝食を済ませ、眠りに就くと、俺は外の空気を吸うために病院の外に出た。

帯津三敬病院は田園の中に立地している。
周りは田んぼでいっぱいだ。

俺は田んぼの脇の水路を覗きこんだ。
水路には、たくさんのザリガニが泳いでいた。

そのザリガニを見ているうち、以前、かみさんと一緒に佐渡島に旅行に行った時のことを想い出した。
佐渡島の港近くの水路に、たくさんの小魚が泳いでいた。
かみさんと俺は、二人並んで、しゃがみ込んで、水路を泳ぐ小魚を飽きるまで見つめていた。
楽しかった想い出のひとつだ


俺は田んぼの水路を泳ぐザリガニを見ながら想った。
いつか、かみさんの病状が良くなって、外出許可が出たら、二人で一緒にこのザリガニを見たいな、と。
佐渡島に行ったときのように、二人で並んで、このザリガニを見たいな、と。

一緒に見たいな…と想っていたら、涙が出てきた。

・・・

午後2時ごろ。
かみさんは眠っていた。

義母は、俺の疲労がピークに達していることを察していたらしい。
2,3時間、昼寝をしろと勧めてくれた。
俺は義母が使っている病室のベッドに横になり、昼寝をしようとした。

だが、俺の頭の中は、かみさんへの想いでいっぱいだ。
「容ちゃんは治る! 容ちゃんは治る! 容ちゃんは治る!」
必死になって祈っていたせいか、俺は一睡もできなかった。

1時間ほどそうしていると、隣の部屋から義母とかみさんの声が聞こえてきた。
俺は、かみさんが目を覚ましたことに気づいた。
かみさんと話がしたい、かみさんと視線を交わしたい。
俺はベッドから飛び起き、隣の病室に入った。

かみさんと目が合った。
かみさんは俺に向かって、「ブイサイン」をしてくれた。

ブイサイン。
私は大丈夫だ。
絶対に完治して見せる。
私は生きる。

かみさんの強い意志を感じた。

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今日の記事は、久しぶりの闘病記
平成22年6月23日のことだ。

平成22年6月22日のことをブログに書いたのは、今年の5月31日だ。
あれからずいぶんと間が空いてしまった。

やはり闘病記を書くのはつらい作業なのだ。
かみさんと俺が、癌と闘ってきた日々を綴るのは、本当につらい作業なのだ。

だが、闘病していた約2か月間は、かみさんと俺とがすべてを共有し、一体感に包まれた、二人にとって、最も濃密な時間だった。

かみさんは、俺を遺して死ねないと言い、俺のために必死で生きようとしてくれた。
俺は、自分の命の半分をかみさんにあげてもいい、会社での地位を失ってもいい、財産なんか捨ててもいい、すべてを犠牲にしてもかみさんを守りたいと思った。

かみさんは俺にすべてを委ねてくれた。
俺はかみさんのすべてを受けとめた。
かみさんと俺とが溶け合い、一心同体になって過ごした2か月間。

その2か月間の記録は、どんなにつらくても、残しておきたい。

・・・

平成22年6月23日の水曜日。
癌研有明病院から帯津三敬病院に転院して二日目だ。

転院して本当に良かったと思う。
癌研有明病院でただ死を待つよりも、補完代替治療の可能性に掛けて帯津三敬病院に転院して良かったと思う。

そして何よりも、転院して以来、かみさんはとても穏やかな表情をしている。
癌研有明病院にいたときには、「もう病院はいいや。お家に帰りたい…」と言っていたのに、帯津三敬病院に来てからは、かみさんは落ち着いている。

かみさんが安心している、かみさんが希望を見出している。
転院して本当に良かったと思った。

ただ、帯津三敬病院のスタッフと俺との間には、認識のズレがあったことも事実だ。
病院側は、「緩和ケア」のためにかみさんの転院を受け入れたのだということを「診療計画書」を読んで知った。
だが俺は、かみさんの「緩和ケア」のために転院したのではない。

俺は奇跡を信じていた。
標準治療では治せなくても、補完代替治療で治せる。
いつかきっと、かみさんは病気を克服する。
いつかきっと、かみさんと俺の平穏な日々が戻ってくる。

そう信じて転院したのだ。

・・・

この日の前日の夕方、補完代替治療の一環として、鍼灸治療を行われた。
肝機能・腎機能が低下し、全身の浮腫みが取れないため、余分な水分を排出するために行った治療だ。

その効果があったのかもしれない。
この日の真夜中、何日かぶりにカテーテル無しで尿が出た。
この日の早朝にも尿が出た。

かみさんの全身が浮腫んでも、癌研有明病院は知らんぷり。
どうせ死ぬんだから、放っておこうとでも考えていたのかもしれない。

だが、帯津三敬病院では鍼灸治療をしてくれた。
そのおかげか、浮腫みの改善が見られた。

かみさんの体調のわずかな変化が、俺には嬉しかった。

・・・

この日の朝、かみさんの目に力が戻った。
そして、「野菜ジュース、飲みたい」と言った。

俺は病院1階の自動販売機に向かい、野菜ジュースを買って病室に戻った。

だが、病室に戻ると、かみさんの意識レベルは低下していた。
声を掛けても反応がない。

やるせなかった。
悲しかった。

・・・

俺はかみさんが大好きだ。

20年以上にわたって生活を共にしてきた。
彼女がいなくなるなんて想像したこともない。
もしも彼女がいなくなったら、誰もいない自宅マンションで俺ひとり、かみさんの名を呼びながら、毎日泣いて暮らすことになるんだろう。

そんなことを考えた。

・・・

この日一日、かみさんは食事時以外、ずっと眠り続けていた。
その食事さえ、ほとんど食べることができず、ゼリーしか食べられなかった。

・・・

俺はかみさんの耳元でささやいた。
「これからもずっと一緒にいようね」

かみさんには俺の声が聞こえていたらしい。
かみさんは微笑を浮かべ、はっきりと頷いてくれた。

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闘病記を書くのはつらい。
遅々として筆が進まない。

闘病記を書くことは、自分と向き合う作業でもあり、かみさんと向き合う作業だ。
かみさんと俺、二人の濃密な時間に触れる作業なのだ。

だが、濃密で、幸せで、なのに恐怖に苛まれた日々を綴るのは、本当につらい作業だ。

・・・

平成22年6月22日の火曜日。
 

真夜中12時過ぎ、かみさんは口の中が渇くらしく、頻繁に「うがい」をしたがった。 
俺はコップに水を汲み、水を吐き出す容器を用意して、「うがい」を手伝った。 

そして、何気ない会話をした。 

「俺は誰?」 
「プーちゃん」 
「キミは?」 
「容子ちゃん」 
「俺たちは何?」 
「夫婦」 
「どっちが偉い?」 
「容子ちゃん」 

微笑ましかった。 
かみさんは、俺を「プーちゃん」と呼んだ。 
20年間ずっと、俺を「プーちゃん」と呼んでくれた。 

この世界でたった一人、俺のことを「プーちゃん」と呼んでくれる人。 

それがかみさんだ。 

このとき、かみさんは自分のことを、おどけた調子で「容子ちゃん」と言った。 

普段だったら何でもない会話だ。 
だが、命の危機が迫った今、その何でもない会話がとても愛おしい。 

だが、次にかみさんは言った。 
「お金もいっぱい使っちゃったしね… ごめんね… ありがとね…」 

金なんかどうでもいい。 
かみさんが生きてさえいてくれれば。 
なのに、かみさんは治療費にたくさんカネが掛っていることを謝っていた。 

何故? 
俺は胸が苦しくなった。 
かみさんは、俺がかみさんとカネとを天秤にかけているとでも思っているのだろうか? 
そんなことを考えて、俺の胸は痛んだ。 

「何言ってんだよ!カネなんか、いくら使ったっていいんだよ!」 
「うん…」 

・・・

帯津三敬病院への転院。
 

かみさんは癌研有明病院の看護師たちの手で、ストレッチャーに寝かされた。 
看護師たちが集まって、かみさんの世話をしてくれた。 

看護師の一人がかみさんに声を掛けてくれた。 

「治療、頑張ってね。」 

また、ある看護師は、夜勤明けで勤務時間が終了しているにも関わらず、かみさんの世話をしてくれた。 

他の看護師に「私がやりますから、もう帰っていいですよ」と言われても、その看護師は「私はやりたいの!だって私、アライさんのこと、大好きなんだもん!」と言って作業を続けてくれた。 

病棟のスタッフ総出でかみさんの世話をしてくれた。 
今振り返っても、かみさんは病院の医師や看護師に好かれていたと思う。 

実際に、それを口にするスタッフもいた。 

ある医師は、「奥さんは明るいですね」と言ってくれた。 
ある看護師は、「私、アライさん(うちのかみさんのこと)のこと大好きだから!」と言ってくれた。 

・・・

帯津三敬病院へ出発する直前。
主治医のS医師がかみさんに向かって言った。 
「じゃあね」 

かみさんはストレッチャーに横になったまま、S医師に向かって言った。 
「お世話になりました」と。 

かみさんの病に対して何の手の施しようもなかった医師、 
一度だけ抗がん剤を投与したが効果が見られず、「手の施しようがない」と宣言した医師。 
自分を地獄に落とした医師に対して、かみさんは言った。 
「お世話になりました」と。 

この時、かみさんはどんな気持ちだったのだろう。 
「手の施しようがない」と言った医師、自分を地獄に突き落とした医師に対して、「お世話になりました」と言う気持ちとはどういうものだったのだろう。 

今でも想う。 
この時のかみさんの態度は立派だったな、と。 

俺はストレッチャーに横たわるかみさんを覗き込んだ。 
かみさんと目が合った。 
そしてお互い笑顔になった。 

俺は「行くぞ」と言った。
かみさんは黙って頷いた。 

その途端、俺は涙が溢れそうになった。
あわててかみさんの視線から顔をそむけた。 


・・・

民間の救急車で帯津三敬病院に向かう。 
その間、かみさんは眠り続けた。 
一度も目を覚まさなかった。 

帯津三敬病院には、かみさんと義母、俺の三人で向かった。 
病室を2室借り、1室にかみさんと俺が、もう1室に義母が寝泊まりすることになった。 

俺と義母。 

かみさんにとって最愛の人間2人が24時間、かみさんに付き添うことになった。 
かみさんも安心だろう。 

・・・

帯津三敬病院に到着。良い「気」が満ちている。
そう感じた。 


受入態勢は整っており、到着と同時にかみさんはレントゲン室に運ばれた。 
検査が終わって出てくると、かみさんは目を覚ましていた。 
俺はかみさんの手を握り締めた。かみさんもしっかりと手を握り返してくれた。 

病室に移動して血液検査。 
その後、しばらく会話をした。 
俺は言った。「もう大丈夫だよ。」 
かみさんは黙って頷いた。 

だが、昼食、夕食とも、かみさんは食べられなかった。 
出されたゼリーを食べただけ… 
食欲が落ちている。 

三人で会話をできることが何よりの救いだった。 

・・・

夜、俺は主治医に呼ばれた。 
血液検査の結果を見せられた。 
カリウムが体外に排出できていない、体内に蓄積しており、肝不全もしくは不整脈による心不全の可能性があると言われた。 
ここ2、3日の間に意識レベルが上がるか、もしくはむくみが取れれば数カ月は頑張れるかもしれない。 
そう言われた。 

医学的な見地からすれば、医師の言うことが正しいのだろう。 
だが、俺は奇跡を信じている。絶対に諦めない。 
口に出すことはなかったが、俺はそう心の中で誓った。 

かみさんの病室に付添い用の簡易ベッドを用意してもらった。 
義母には隣の病室のベッドを使ってもらった。 
かみさんが、深夜に水を飲みたがったり、「うがい」をしたがったりした時に対応できるよう、俺はかみさんの横に簡易ベッドを置いて寝た。 

眠れない俺に、目を覚ましたかみさんが言った。 
「疲れちゃうから、お母さんと交代しな。」 
自分のことで精一杯なはずなのに、かみさんはいつも俺の健康状態を気遣ってくれる。 
自分が死に瀕しているにも関わらず、俺の心配をしてくれる。 

俺は20年間、そういう女性と生活を共にしてきたのだ。


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今日は久しぶりの闘病記だ。

やはり闘病記を書くのはつらい。
書いていると、胸を抉られているような気持ちになる。

だが、闘病記を書くことは避けて通れない。
闘病記を完成させること。そして、それを永遠に残すこと。

それは、かみさんが生きた証を遺すことと同義なのだ。

・・・

平成22年6月21日の月曜日。

かみさんは前日の夕方4時から眠り続けている。
たまに目を開くものの、俺が話しかけても反応はなく、すぐにまた目を閉じて眠ってしまう。

確かにかみさんは、俺の目の前で寝ている。
なのに、まるでかみさんがそこにいないかのような錯覚に陥る。
寂しさと悲しさで胸が張り裂けそうだ。

・・・

かみさんが最期に作ってくれた料理は何だっただろう。
かみさんと最期に観に行った映画は何だっただろう。
かみさんとの最期のデートはどこに行ったのだろう。
かみさんと最期に一緒に見たテレビ番組は何だっただろう。

そんなことを考えながら、かみさんの寝顔を見つめ続ける。

自然と涙が溢れてきた。
かみさんの髪に触れ、俺は声を殺し、涙を流し続けた。

・・・

真夜中、看護師が病室に入ってきた。
そして、床ずれ防止のために、かみさんの体位を変えてくれた。
すると、かみさんはようやく目を覚ました。

「何か食べる?」と聞くと、かみさんは「シャーベット、食べたい」と答えてくれた。
俺がスプーンでシャーベットをすくい、かみさんの口に運ぶ。

シャーベットを食べさせながら、かみさんに話しかけた。
かみさんと俺、二人が初めて出会った頃の話だ。
かみさんは、「そんなこともあったね~」と、懐かしそうな表情で答えてくれた。

深夜の病室の中、かみさんと俺は二人きり。
二人きりの濃密な時間。
他愛ない会話。

かみさんのことが愛おしい。

・・・

その後、かみさんは朝まで起きていた。

「水を飲みたいな」と言えば、吸い飲みに水を入れ、かみさんに飲ませてあげる。
「熱いな~」と言えば、タオルを冷やして、かみさんの顔を拭ってやる。
そんな夫婦二人の時間が愛おしい。

「今、ここ」に、かみさんがいる。
「今、ここ」で、かみさんは生きている。

かみさんの命は、終わりを迎えようとしている。
だが、「今、ここ」にかみさんがいる。
そのことが、とても愛おしい。

幸せだった。
幸せなのに、悲しかった。

・・・

早朝、かみさんは再び眠りに就いた。
俺も、しばしの間、かみさんの病床の横で眠った。

午前10時頃、義母と義弟が見舞いに来てくれた。
かみさんは眠っていた。
義母と義弟に、かみさんの看病を任せ、俺はいったん自宅に戻った。

明日は癌研有明病院から帯津三敬病院に転院する日だ。
俺は自宅で転院の準備をした。
着替えや洗面用具等をカバンに詰めた。

転院の準備をしながら、誰もいない自宅の中で、俺はかみさんの名を叫んだ。
「容ちゃん! 容ちゃん!」と叫びながら、泣いた。

泣き叫びながら感じた。
「次に自宅に帰ってくるときは、容ちゃんを看取った後かもしれない…」
そんな考えが頭をよぎり、悲しくて、苦しくて、俺は泣き叫んだ。

まだ諦めていない。
絶対に諦めない。
そう想う一方で、「次に自宅に帰ってくるときは…」と考えてしまう。

自宅の中には俺しかいない。
俺は、かみさんが癌と診断されて以来、初めて感情を吐き出した。
悲しくて、悲しくて、俺は泣き叫び続けた。

・・・

荷物を抱え、俺は再び癌研有明病院に向かった。
病室に入ると、かみさんは眠っていた。

眠り続けるかみさんの耳元で、俺は根気強く話しかけた。
何度も何度も話しかけた。
すると、かみさんが目を覚ましてくれた。

かみさんと俺は、二人が初めて出会った時のことからの想い出を振り返った。
そして、病気が治ったら、どんなふうに暮らしていこうか、二人の夢を語り合った。

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久しぶりの「闘病記」だ。
前回からずいぶんと間が開いてしまった。

闘病記」を書くのは辛い。
あの、悲しくて、苦しくて、
それでも悲しみや苦しみを表現することはできなかった日々。

その一方で、かみさんと俺とが一緒に暮らした20年間の中で、最も濃密な時間を過ごした日々。

あの日々を振り返るのは辛い。

だが、振り返る必要があるのだ。
かみさんのことが愛おしい。
かみさんのことを、あれほど愛おしいと想った大切な日々なのだ。

・・・

平成22年6月20日の日曜日。

俺は午前4時30分に目を覚ました。
結局俺は、1時間半しか眠れなかった。
身体は疲労しているはずなのに、過度の緊張と不安で眠れない。

かみさんは、昨晩午前3時にようやく寝ついた。
起こしてはかわいそうだと想い、朝になっても寝かせておいた。

こんこんと眠り続けるかみさんの横に座り、俺はかみさんの寝顔を見つめ続けた。

かみさんのことが愛おしい。
俺はかみさんの髪を撫ぜ、手を握った。

・・・

朝食の時間になっても、かみさんは目を覚まさない。
やむを得ず、朝食は保管してもらった。

かみさんの笑顔が見たい。
かみさんの元気な顔が見たい。
だが、その想いはかなえられることはない。

かみさんは眠り続けた。

・・・

午前10時すぎ、かみさんは目を覚ました。
保管してもらっていた朝食を病室に届けてもらった。

だが、食は進まない。
一口食べる。
たったそれだけで、疲れきってしまい、ベッドに横になる。
しばらくして起き上がると、また一口だけ食べて、ベッドに横になる。
その繰り返しだ…

かみさんのそんな姿を見ているのは辛い。
苦しい。

生きようとするかみさんの強い意志。
それに反して、「もう頑張らなくても良いよ…」と俺の心が密かに叫ぶ。

段々と弱っていくかみさんの横で、俺は何もしてあげることができない。
段々と弱っていくかみさんの姿が、俺の胸を抉る。

心の中で祈ることしかできない。
「治れ!治れ!」と…

・・・

午後、義母と義弟が見舞いに来てくれた。
俺と義母、義弟の三人で、病院内の「家族控室」に向かった。

俺は今まで、かみさんの病状が末期であることを隠してきた。
「余命は年単位ではない」ことも、「全身に癌が転移している」ことも、すべて俺の心の中に閉まってきた。

だがもう隠しておけない。
これ以上、隠しておくことはできない。
義母と義弟に、かみさんの病状のすべてを話した。

そして俺は、かみさんへの想い、どれだけ俺がかみさんを愛しているかを義母と義弟の前で吐き出した。
かみさんと俺は、いつも一緒だった。
これからもずっと一緒にいたい。
そういう想いを義母と義弟の前で吐き出した。

かみさんへの想いを語り続ける間、俺は涙が止まらなかった。
義母も義弟も泣きながら俺の話を聞いていた。

・・・

義母と義弟、そして俺。
三人で病室に向かった。

かみさんは目を覚ましていた。
かみさんは、義弟が見舞いに来てくれたことが嬉しかったようだ。
笑顔を浮かべていた。

かみさんを愛する三人の人間。
俺と義母、義弟がかみさんを囲み、四人で会話が弾んだ。

俺はかみさんと話をしながら、
ひょっとすると、これが最期のかみさんとの会話になってしまうかもしれないと感じた。

・・・

愛する人と何気ない会話をすること。
そんなことは当たり前のこと、あえて望まなくても、かなうことだと思っていた。

だが、今は違う。
もう二度と、かみさんと話ができなくなるかもしれないと想うと、
ほんの一言の何気ない会話が愛おしい。
この時間が永遠に続けばいい。

・・・

義母と義弟が帰宅した。

その後、午後4時ごろ、かみさんの腹部に痛みが走る。
痛みを和らげるため、モルヒネを点滴した。

その後、かみさんは眠り続けた。
俺がいくら声を掛けても応じてくれない。

言いようのない孤独感に襲われた。

だが、無理やりかみさんを目覚めさせることはできない。
俺は付添人用の簡易ベッドに横になり、かみさんを見つめ続けた。

・・・

以上は、かみさんが息を引き取る8日前の出来事だ。

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