いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

カテゴリ : かみさんと俺

部屋とYシャツと私。
ふとしたことがきっかけで、この曲を思い出し、聴いてみた。



この曲の中に、次のようなフレーズがある。

「あなた浮気したら うちでの食事に気をつけて 
     私は知恵をしぼって 毒入りスープで一緒に逝こう」

念のため言っておくが、
俺はかみさんと付き合い始めた平成2年以降、一度も浮気はしていない。

かみさんと付き合う前は、あれほど女性関係が乱れていたにも関わらず、
かみさんと出会ってからは、一度も浮気をしていない。

だが何度か、かみさんに聞いたことがある。
「もし俺が浮気したら、どうする?」

そんな時、かみさんはいつも、即座に答えた。
「チンポ、切ってやる」

・・・

この曲には、こんな歌詞もある。

「もし私が先立てば 俺も死ぬと言ってね 
     私はその言葉を胸に 天国へと旅立つわ」

本当は俺も、かみさんに言ってあげたかった。
「容ちゃんが死んだら、俺も一緒に逝く」

だが、「闘病記」に書いている通り、俺はかみさんが末期癌であることを隠し通した。
最期の最期まで、「必ず治るよ。大丈夫だよ」と言い続けてきた。

だから言えなかった。
「容ちゃんが死んだら…」とは言えなかった。
当然、「一緒に逝く」とも言えなかった。

でも今にして想うのだ。
「俺も容ちゃんと一緒に逝くよ」って言ってあげれば良かったと。 

・・・

いずれにしても…
この曲を聴いた時、なんだか、かみさんの声を聞いたような気がしたのだ。

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家の外は、まるで戦場のようだ。
周囲にいるのは味方ばかりではない。
敵もたくさんいるのだ。

そこには競争があり、対立があり、軋轢がある。
いつ敵に襲われるか分からない。
不快な緊張感が全身に染みわたる。

だから自ずと戦闘体制になってしまう。
いつ襲われても反撃できるように、心は研ぎ澄まされて、全身の筋肉に力が入る。

どうやら敵も同じみたいだ。
こちらに襲われることを警戒している。

お互いに刃を抜いて、にらみ合っているのだ。
これでは疲れてしまうけど、刃を引っ込めたら敵は即座に襲いかかってくるだろう。

だからと言って、こちらから斬りかかるわけにもいかない。
一瞬のスキができて、こちらが斬られてしまうかもしれないからだ。

敵も自分が同じ状況だということを知っているらしい。
自分から斬りかかってこようとはしない。

いつでも相手を斬れるように。
いつ相手が斬りかかってきても対応できるように。

お互いがお互いに刃を向けて、にらみ合っているのだ。
これでは疲れきってしまうのが当たり前だ。

そうこうしているうちに夜になる。
とりあえず明日の朝までは休戦だ。

お互いに刃を収め、自分の家に帰っていく。

朝から晩まで極限の緊張状態にあった。
すでに疲労は限界に達している。
それは敵も同じだ。

こんな毎日を送っていれば、お互いに疲れてしまうことは、お互いが分かっている。
それならば、平和条約でも締結すればいいのだが、この不毛な闘いは、いつまで経っても終わらない。

なんてクダラナイ世界なんだろう…とは思う。
しかし、これが世界の実相なのだとも思う。

人間の一生は、死ぬまで闘いなのだ。

・・・

こんな辛い世界に生まれてしまった。
楽しいことよりも、うれしいことよりも、苦しいことのほうが多い世界だった。

しかし…
それでも生きてくることができたんだ。

俺にはかみさんがいたからだ。

闘いに疲れ、傷を負い、その場に倒れてしまいたいと思った。
それでも俺は、かみさんの顔を見たかった。
だから俺は、這いつくばってでも家を目指した。

すると、そこにはかみさんが両手を広げ、満面の笑顔で待っていた。
俺はうれしかった。

明日からもまた、不毛な闘いが続くだろう。
しかし、かみさんの笑顔があれば耐えられた。

そうだ。
世界はあまりにもクダラナイ。
人生はあまりにも不毛だ。

それでも大好きな人の笑顔があった。

愛する人の笑顔があれば、人生には意味がある…なんて言うつもりはない。
だが、どんなに不毛な世界だろうとも、どんなに無意味な人生であろうとも、大切な人の笑顔があるだけで、なんとか耐えられてしまうものなのだ。

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友だちがたくさんいようとも、同僚や部下たちがたくさんいようとも、やっぱり俺は淋しいなぁ…と思うんだ。

人間にとって、「本当に大切な人」の数は、そんなに多くはない。
その人が死んでしまったら、自分の世界が足元から崩壊してしまう…それほどまでに大切な人の数は、そんなに多くはない。

俺が死んだとしたら、俺の友人や部下たちは、それなりに悲しんではくれるだろう。
だが、彼らや彼女らの平穏な日常が崩れてしまうわけではないし、いつまでも俺を想い続けてくれるわけでもないだろう。
そういえば、あんな人がいたなぁ…だとか、あのときは楽しかったなぁ…だとか、ときおり俺を思い出してくれる程度に違いない。

だからと言って、部下たちや友人たちを責めるつもりはない。
俺から見ても、彼らや彼女らは、その程度の存在にすぎないからだ。

人の死は悲しいが、ごく限られた、自分の「本当に大切な人」を喪ったわけではない限り、自分の半身を失うほどの衝撃はないのだろう。

この「本当に大切な人」という言葉を拡大解釈しがちな人もいる。
伴侶や子どもだけでなく、親戚も友だちも、み~んな「本当に大切な人」です!と言いたがる人がいるのだ。

しかし…
人間にとって、「本当に大切な人」の数は、そう多くはないのだ。

自分の命よりも大切で、自分の命をあげてもいいから守りたい。
そこまで想わせてくれる人は、そう多くはないはずなのだ。

・・・

人間関係はとても希薄なモノだ。
誰にとっても「本当に大切な人」はわずかしかいないからだ。

そのわずかな「本当に大切な人」を喪ったとき、遺された者は本当の孤独になってしまう。

そんなこと、とっくの昔から知っていたという人もいるんだろうし、人間関係なんて、しょせんはそんなもの…と達観している方もいるんだろう。
だが、俺にはそれが見えていなかった。

かみさんがいて、俺にも「本当に大切な人」がいた。
あの頃は、人間関係が希薄だなんて実感はなかった。
かみさんとの濃密な関係があったからこそ、俺は絶望もしていなかったし、厭世的でもなかったのだ。

人は濃密な関係を求め、「本当に大切な人」を探している。
そして俺は、かみさんに出会うことができたのだ。

自分にとって「本当に大切な人」が、自分を本当に大切にしてくれる…
それがどれだけ幸せなことなのか、俺は知ることができたのだ。

そうだ。
たったひとりでいいのだ。

自分にとって「本当に大切な人」がひとりでもいる限り、人間は世界を肯定することができるのだ。

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辛いことがたくさんあった。
俺を取りまく世界は、とても理不尽で、不条理で、卑劣で、残忍だったのだ。

それでも仕事中は堪えなければならなかった。
残業が多かったせいで、同僚たちと飲みに行って発散することもできなかった。

心と身体に「怒り」と「哀しみ」が溜まっていく。
それらを「相手」にぶつけてしまえば、ある種の恍惚感を得ることができるだろう。
だが、もはや子どもではない以上、「怒り」や「哀しみ」は抑圧されなければならない。

抑圧された感情が、心と身体の内側で膨張していく。
行き場を無くした「怒り」と「哀しみ」が、俺の中で沸騰し、心と身体を痛めつける。

痛い。
苦しい。
はち切れそうだ。

そんな毎日が本当に辛かった。

仕事が終わって帰路に就く。
もうすぐ容ちゃんに会えるんだ。
いまだに「怒り」や「哀しみ」は燻っているものの、心が少しずつ軽くなっていく。

自宅の玄関が開く。
家の中は明るくて、暖かい。
夕食の香りもする。

そして…
かみさんが「おかえり~」と言いながら、満面の笑顔で俺を出迎えてくれる。

その瞬間だ。
俺の中で沸騰していた「怒り」と「哀しみ」が消えてしまう。
心が鎮まって、全身の筋肉がほぐれていく。

あれこそが「癒し」だ。
俺は自分が安心して眠れる場所に帰ってきたのだ。

・・・

最近、辛いことが多すぎる。
かみさんの死に比べれば、どうということはないのだが…

だが、かみさんを亡くし、俺は絶望を見てしまったんだ。
見たくもないのに見せられてしまったんだ。

人生において、伴侶や子どもとの死別ほど辛くて悲しいことはない。
それほどの悲しみを味わわされただけで十分だ。
もうこれ以上、些細なことであったとしても、辛いこととは無縁でいたかった。

それなのに…
俺の周囲は依然として理不尽で、不条理で、卑劣で、残忍なのだ。

俺はかみさんの生前を想った。
家に帰れば、容ちゃんが俺を待っている。
そして、玄関を開けた瞬間、かみさんが「おかえり~」と言いながら、満面の笑顔で俺を出迎えてくれる。
すると、俺の心身は癒される。

しかし…
かみさんはもういないんだ。

帰宅した俺は、仏壇の前に座り、かみさんの遺影を見つめた。
あの満面の笑顔で俺を癒してほしい…と思った。

だが…
やっぱり、かみさんはいないんだ。

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かみさんと出会う前のこと。
俺には俺自身のことが見えている…
と思っていた。
自分が本当はどういう人間なのか、
自分がいちばん分かっていると思っていた。

だが、
人間は自分で自分の姿を見ることはできない。
自分をいちばん分かっていないのは自分自身だ。

それは、
数学基礎論における「ゲーデルの不完全性定理」や論理学における「自己言及性のパラドックス」が示すとおりだろう。

かつて人間は、
自分の顔を見ることができなかった。
鏡(かがみ)
は太古の昔からあったので、そこに自分の顔を映すことはできただろう。
水溜まりをのぞいてみても、自分の顔を映すことはできたはずだ。

しかし、鏡や水溜まりに映った自分の顔は、本当の自分の姿ではない。
左右が反転している
からだ。

自分で自分を鏡に映し、右腕を挙げてみると、
鏡の中の自分は左腕を挙げていることから分かるだろう。
鏡や水溜まりでは、自分の本当の姿を見ることはできないのだ。

左右が反転していない本当の自分の顔を見ることができるようになったのは、「カメラ」や「写真」という技術が産まれて以降のことだ(ちなみにスマホの写真は、以前の「写真」より「鏡」に近い。スマホで写真を撮ると、鏡に映したように左右が反転してしまうことは、誰でも知っているだろう)。

子供のころ、初めて「写真」
を撮ってもらったとき、「これは自分じゃない!」と感じたことは、誰にでもあるだろう。
だが、
周囲の人たちからは、「これがアナタの顔だよ」と言われたはずだ。

これは、「
自分で自分のことを見ることはできない」、「自分のことをいちばん分かっていないのは自分自身だ」ということの証左だ。

人は誰だって自分で自分自身を理解するのは原理的に不可能なのだ。

誰かが「カメラ」
になって、「アナタはこういう人間だよ…」と教えてくれるのを待つしかない。
それは厳しい言葉であるかもしれないが、それを素直に、かつ謙虚に受け止めよう。

そうだ。
かみさんは俺の「
カメラ」になってくれた。
かみさんの厳しい言葉を受け止めて、
俺は自分自身の本当の姿を見ることができたのだ。

かみさんが言っていた。
自分の持っている「力」に溺れるな…

ここでいう「力」には、さまざまな意味がある。
いずれにしても、かみさんは俺の「カメラ」であって、
暴走しかねない俺に歯止めをかけてくれたのだ。

・・・

しかし…
俺はかみさんという「カメラ」を失ってしまった。
かみさんというストッパーを失ってしまった。

その後、
自分でも気づかないうちに、俺は暴走を始めてしまったのかもしれない。

かつて、俺には俺自身のことが見えている…と思っていた。
自分が本当はどういう人間なのか、自分がいちばん分かっていると思っていた。

だが、
俺は何も分かっていなかったのだ。
かみさんという「カメラ」
がない限り、俺は自分のことなんか見えていないのだ。

今の俺は、自分自身を見失ってしまった。
そして俺は暴走し、破綻し、自滅しつつあるらしいのだ。

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