いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

カテゴリ : 日々の想い

以前、ある新聞に出ていた。
男性は「
配偶者より先に死にたいと考える人が多い」のだそうだ。

日本ホスピス・緩和ケア振興財団が行った調査によれば、「
自分が先に死にたいか、後に死にたいか」と質問したところ、既婚男性のうちの8割近くが「自分が先に死にたい」と回答したそうだ。

自分が先に死にたい…と答えた人たちに対し、
その理由も聞いている。

3番目に多かったのは、「
パートナーがいないと生活が難しい」
2番目に多かったのは、「
死ぬときに傍にいて欲しい」
そして1番多かったのは、「
パートナーを失う悲しみに耐えられない」だった。

・・・

この調査の結果に違和感はなかった。
俺もかみさんより先に死にたいと思っていたからだ。

理由はひとつ。
かみさんを失う悲しみに耐えられないだろう…
と思っていたからだ。

かみさんを喪って、
予想していたとおりの事態になってしまった。
俺は悲しみに耐えられなかった。
壊れてしまったのだ。

かみさんを亡くした後、「複雑性悲嘆」と診断されて、
3年半も会社を休職してしまった。
そこから何とか這い上がってきたものの、今だってマトモではない。

楽しくもない。
面白くもない。
身近なところに「死」があって、親近感さえ覚えてしまう。

俺にとって、「死」
は恐れるものではないし、忌避するものでもない。
むしろ、
憧れの対象にさえなっている。

伴侶と死別しても立ち直る人だっているんだろうが、俺はたぶん、
決して元の自分には戻ることはできないだろう。

・・・

パートナーを失う悲しみに耐えられない。
かみさんだったら、
どうだろう…と考えた。
答えは出なかった。

ただ、
かみさんはいつも笑顔で言っていた。

二人で一緒に死ねたらいいねぇ…
死ぬときは二人一緒がいいよねぇ…

こんな辛い思いを彼女に味わわせなくて良かった…
のかもしれない。

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俺が小学生の頃。
周囲の人々が「子どもっぽい」のは、「まだ子どもだからだ」と思っていた(「周囲の人々」というのは俺の同級生という意味ではない)。

ここで言う「子どもっぽい」というのは、自意識過剰で、世界は自分を中心に回っていると思っている奴らのことだ。
また、プライドが高いわりにはガラスのように脆く、その壊れやすいプライドを守るため、衝動的に破壊的な行動を取る奴らのことだ。

殴りかかって来るなら(正当防衛の成立する範囲内で)返り討ちにしてやればいい。
しかし、そういう奴らは概して陰湿な手段を選ぶのだ。
いわゆる「いじめ」だとか「陰口」だとかが大好きなのだ。

だが、彼らや彼女らだって、いずれは大人になるだろう。
彼らや彼女らが年を取り、おじさん・おばさんになれば、「子どもっぽさ」は無くなって、脆い自分を守るために他人を破壊するような行為をやめるだろう。

子どもの頃の俺は、そんなふうに漠然と考えていた。

しかし、彼らや彼女らは、中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても変わらなかったようだ。
それどころか、30歳を過ぎても変わらなかったし、40歳を過ぎても、50歳を過ぎても、60歳を過ぎても変わらなかったようだ。

人間はいつまで経っても「子どもっぽい」。
いつまで経っても幼稚だ。
外見だけは大人に見えるが、中身は小学生と大差ない。
それが人間という動物なんだ。

そんな単純な事実に気づいたとき、俺は絶望的な気分になった。
人間(当然、俺自身のことを含んでいる)は、これほどまでに愚かしいのか…と思い、人間という動物に嫌悪感を抱くようになった。

そういう人間の愚かさと、どのように関わっていけばいいのだろう。

かみさんが言っていた。

受け入れてしまえばいい。
仕方がないと諦めてしまえばいい。


かみさんと俺が30歳代の前半のことだったと記憶している。

かみさんの言葉は、相手に迎合しろという意味ではない。
相手に対して下手(したて)に出ろという意味でもない。

放っておけという意味であり、相手にするなという意味だ。
要するに、俺の意識の中から相手を排除してしまえばいいという意味であり、相手と同じ土俵に立つなという意味だ。

かみさんが俺のために遺してくれた言葉は少なくない。
それらの言葉が俺に救いを与えてくれた。

受け入れてしまえばいい…という言葉も同様だ。
俺は楽に生きられるようになった気がしている。

しかし…
放っておくこと、相手にしないことにも膨大なエネルギーが必要だ。

伴侶と死別した者の心の中に土足で入り込み、めったに見られない光景を見て楽しんでいる奴らがいる。
そういう連中の言葉に心を抉られて、内心では強烈な怒りを抱いておりながら、それを聞き流して放置する。
それは膨大なエネルギーを消費することになるのだ。

しかし、そうすることで、くだらない波風を立てずに済むだろう。

だが、内心で沸騰している怒りの感情は、いくら抑圧したとしても、伴侶と死別した者の全身から噴き出してくる。
噴き出した怒りは大きく拡散し、あの「子どもっぽい」連中を圧倒し、圧迫し、恐怖を与えてしまうのだ。


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倦怠感がハンパじゃない。
ただでさえダルいのに、その上とても疲れやすい。

身体が重たい。
全身のあらゆる場所が痛い。

あまり眠ることができない。
日中は眠たくて仕方がない。

呼吸が浅くて荒い。
ときには肩で息をしているようだ。

単なる老化現象なのか、健康を害しているのかは分からない。
それでも俺はエネルギーを無理やり絞り出し、全力で仕事を処理しているが、おかげで退社した後は疲労困憊だ。

どうやら俺の健康寿命は既に尽きつつあるらしい。

どこが悪いのか特定しようがない。
仕事が忙しくて病院に行く暇もないし、そもそも自分の健康状態に関心がないからだ。

俺の臓器はボロボロで、血管はズタズタで、心はとっくに壊れている。

俺なんかより、俺の部下たちのほうがよっぽど元気そうだ(俺の部下たちの3分の2以上は俺より年上だ)。
それどころか俺の義母(かみさんのお袋さん)でさえ、俺よりはるかに健康そうだ(義母は80歳を超えている)。

外見とは裏腹に、俺の内部は徐々に崩れているのだろう。

・・・

かつては俺も健康だったはずだ。

長時間の残業にも耐えてくることができた。
徹夜で仕事をしても倒れなかった。

運動をするのが好きだった。
かみさんと一緒に散歩をするのは特に好きだった。

そうだ。
かみさんが元気だった頃は、俺も十分以上に元気だったのだ。

心と身体がボロボロになってしまった今、かみさんが元気だった頃を振り返る。

あの頃、俺はどんなふうに元気だったんだろうか。
そもそも「元気である」というのは、いったいどういう状態だっただろうか。

自分が元気だった頃を思い出そうとしてみるが、どうしても思い出すことができない。
どうやら俺は、健康だった頃の自分の状態を忘れてしまったらしいのだ。

・・・

街を歩いていると、杖をついてヨボヨボと歩いている老人を見かけることがある。
休日の早朝にウィスキーを買いに行くと、公園のベンチに座ってボンヤリしている老人を見かけることもある

いずれも身体が不自由そうだ。
そして、とても寂しそうだ。

この老人たちだって、以前は健康で元気だったのだろう。
そして、一緒に年を取ってくれる伴侶がいれば、こんなに寂しい姿を見せることもなかったのだろう。

あの人たちの寂しそうな姿を見ると、やはり胸がチクリと痛む。

それは同情や共感ではなく、自己憐憫なのかもしれない。
あれは近い将来の俺自身の姿だからだ。

・・・

どうやら俺の健康寿命は既に尽きつつあるらしい。
ひとりぼっちで年を取るのが、これほど切ないことだとは思わなかった。

もしもかみさんがいたならば…
二人で一緒に「老い」を楽しむこともできただろう。

そして何よりも、次第に弱っていく互いを慈しみ、優しい眼差しで見つめ合っていくこともできただろう。


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街を歩いていると、仲の良さそうな家族連れが目に入る。
テレビを見ていても、そこには家族連れの笑顔が映っている。

幸せそうな家族を目にすると、俺の意識は「今ここ」にある現実から遠ざかる。
そして、ある光景が脳裏に浮かぶ。

それは、かみさんが元気だった頃の記憶だ。

俺の隣には、かみさんがいる。
かみさんの隣には、俺がいる。

何か特別なことをしているわけではない。
ごく普通の、ありふれた日常の光景だ。

かみさんと俺が、二人で一緒に散歩をしている。
かみさんと俺が、二人で一緒に海を見ている。
かみさんと俺が、他愛のない会話をしている。

そんな平々凡々な光景ばかりがよみがえる。

目に入る家族連れと、かつての俺たち夫婦とを重ね合わせているのだろうか。
よく分からない。
かみさんと過ごした日々の記憶は、俺の意思とは無関係によみがえってくるからだ。

過去の記憶でありながら、それはとても鮮明で、色彩を持ち、リアリティを持っている。
まるで、「今ここ」にある現実のように錯覚してしまう。

しかし…
リアルな記憶でありながら、質感がないのだ。
触れることができないのだ。

あの幸せな日々は過ぎ去ってしまった。
手を伸ばしても届かない。

そうだ。
もう二度と手に入らないのだ。

そして俺は思うんだ
淋しいな…と思うんだ。

・・・

だが…
淋しいのは家族連れを目にしたときだけではないのだろう。

仕事をしていても淋しいし、食事をしていても淋しい。
酒を飲んでいても淋しいし、テレビを見ていても淋しい。
通勤電車の中でも淋しいし、街を歩いていても淋しい。

結局、生きている限りは淋しいのだろう
かみさんがいなければ淋しいのだろう。

しかし…
いくら「淋しい」という言葉を列挙しても、虚しいだけだ…とも思う。
何度も「淋しい」と言ったところで、この気持ちが他者と共有できるわけではないし、ましてや「淋しさ」が解消されるわけではないからだ。

だからと言って、この言葉をつぶやくことをやめることもできないのだ。


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巨大な台風が過ぎ去って、気温は急激に低下した。
日照時間は短くなって、早朝5時に起床しても、外はまだ真っ暗だ。
これから本格的に秋になり、そして冬がやって来るだろう。

かみさんが亡くなってから、ずっと世話になっている心療内科の主治医が言っていた。
こういう気候は鬱(うつ)を悪化させる場合が多いのだそうだ。
今後しばらくの間、鬱の悪化に気を付けたほうがいいとのことだった。

主治医の言葉は俺の心に響かなかった。
気を付けたほうがいいと言われても、いったい何をどう気を付けたらいいんだよ!と心の中でツッコミを入れた。

気温が高かろうと、日照時間が長かろうと、俺が鬱であることに変わりはない。
かみさんが亡くなって以来、俺はずっと鬱に潰されそうになりながら生きてきたのだ。

・・・

かみさんが亡くなってからの数年間。
喪失感に耐えられずに泣いていた。
自分の半身をザックリ裂かれたみたいで泣いていた。
かみさんの気配と痕跡を探して泣いていた。

だが、人前で泣いたことは、ほとんどない。
俺の涙を見たことがあるのは、義母と義弟のK君くらいだったはずだ。

そうだ。
俺は誰にも自分の涙を見せなかった。
俺は誰にも自分の心の中を見せなかった。

かみさんを亡くした悲しみや喪失感を押し殺し、涙を抑圧していたのだ。

悲しみや喪失感を押し殺す。
自分の心身に閉じ込めてしまう。

しかし、閉じ込められても消えたわけではない。
確かに「ここ」にあるものに蓋をして、周囲から見えないように隠しただけだ。

隠しただけであれば、悲しみや喪失感は次第に密度を高めて沸騰していく。
中心部に向かって急速に収縮し、巨大な重力場となって、俺を引きずり込もうとするのだ。

それでも俺は、誰にも涙を見せなかった。

本当は、他人の目を気にせず泣いてしまえばよかったのかもしれない…と思う。
衆人環視の中で、泣き叫んで悲しみを放出してしまえばよかったのかもしれない…と思う。
喪失感に耐えられず、誰彼かまわず助けを求めてしまえばよかったのかもしれない…と思う。

だが、俺は涙を抑圧し続けたのだ。
まるで能面のような無表情で、心の内側を隠し続けたのだ。

この「悲しみや喪失感を隠す」という行為こそ、俺が鬱(うつ)になってしまった原因なのだと思う。

・・・

ひとりぼっちのときは泣き叫んでしまえばいい。
だが、他人の前では決して泣かない。

誰にも見せない。
誰にも聞かせない。
誰にも気づかせない。

俺は徹底的に涙を堪え、感情を押し殺していた。

泣かなかったからと言って、笑えるわけではなかった。
また、普通に会話ができるわけでもなかった。
たぶん周囲の人々からすると、俺の心は”ここにあらず”に見えたはずだ。

あの頃の俺は、確かに茫然自失としていた。
ひとりぼっちのときは泣き叫んで発散していたが、周囲に人がいるとき、俺は鬱状態に沈み込んでいたのだ。

・・・

あれから数年が経ったものの、俺はいまでも鬱を引きずっている。
以前と違うのは、周囲に人がいる時に「普通の人」を演じることができるようになったことだ。
今の俺は、笑うことだってできるし、普通に会話をすることもできる。

本当は笑うのも面倒くさいし、会話をするのも鬱陶しい。
それでも俺は、やはり「普通の人」を演じなければならない。

しかし、ひとりぼっちになったとき、鬱に縊り殺されてしまいそうだ。

死にたくなるんだ。
消えたくなるんだ。

拒絶したくなるんだ。
破壊したくなるんだ。

何故ひとりのときに鬱が酷くなるのだろうか。
主治医に状況を説明したが、今のところ納得のいく診断は下されていない。

だが…
かみさんが亡くなったばかりのころ、俺は悲しみを抑圧すべきではなかったのだろうとは思う。
喪失感を隠すべきではなかったのだろうとも思う。

発散されるべき時に発散されなかった悲しみが、密度を高めて巨大な重力場と化しているのだ。


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