いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

カテゴリ : あの世、魂

現在11月20日の午前6時32分。
いつものとおり、通勤電車の中でブログを書いている。
早朝のせいか、電車の中は空いているものの、それなりに人が乗っている。

この中に、ひとりぼっちの人はいるんだろうか。
この中に、家族のいない人はいるんだろうか。
ふと、そんなことを考えた。

たぶん誰もが家庭を持っているのだろう。
家を出るときには家族に見送られ、家に帰れば家族が待っているのだろう。

それは俺にとっても、ありふれた日常の光景だった。
かみさんが元気だった頃、俺にも家庭があったのだ。
かみさんが元気だった頃、かみさんはいつでも俺を待っていてくれたのだ。

会いたい人には、いつでも会える。
それはとても平凡なことだけど、こんなに嬉しいことはない。

当たり前の日常だったものを失って、それがどれほど大切なものだったのか。
俺はかみさんを亡くして初めて知ったのだ。

・・・

かみさんが亡くなってからの数年間。
いつだって俺は、かみさんに会いたかった。
かみさんに会うためには、どうすればいいんだろうか…と真剣に考えてきた。

どうしたらかみさんを取り戻せるんだろうか。
こちらから会いに行くためには、どうしたらいいんだろうか。
そんなことばかりを真面目に考えていた。

かみさんに会いたい…という強い思いが鎮まったのは、いつ頃だったのだろうか。
正確には覚えていない。
多分ここ1~2年前からのことだろう。

強い思いが鎮まった原因は曖昧だ。
かみさんが亡くなってから何年もの間、俺はずっと、かみさんに会いたいと願い続けてきたけれど、その何年間もの努力が徒労に終わってしまった。
強く思うことや強く願うことに対し、俺は疲れてしまったのかもしれない。

・・・

今朝(11月20日)は午前5時半に目が覚めた。
どうやら寝不足らしく、頭がぼんやりしていた。

俺はかみさんの仏前に座り、いつものとおり線香をあげ、お供えをした。

その瞬間だった。
かみさんに会えるまでには、まだ相当な時間が掛かるな…と感じた。

普段は深層に隠れているモノも、意識と無意識の境界が曖昧になると、意識に上がってくることがある。
寝不足でぼんやりしていたせいか、俺の脳は無防備だったんだろう。

いずれにしても…
どうやら俺は、心の深層で、いずれはかみさんに会えるんだ…と思っているらしい。

本当に会えるのかどうかは分からない。
だが、俺が死んで「無」になったとしても、もう二度とかみさんに会えないとしても…

自分が死ぬ寸前まで、いずれはかみさんに会えるんだ…と思っていられたら、それはそれで幸せなことだと思うんだ。

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心と身体は区別できるんだろうか。
精神と肉体とを別々に論ずることは正しいのだろうか。

たしかに心理学のベースには、心身二元論がある。
身体とは別に、心という実体があるという前提に立たない限り、心を対象にした科学は生まれないはずだ。

だが、心理学は科学ではない…という厳しい説もある。
物理学などと比較して、実験の再現性が著しく低いからだ。

果たして心と身体とは別の実体なんだろうか。
そもそも肉体とは独立した精神というものが実在するのだろうか。

それさえ俺にはわからない。
だとすれば、「肉体」とは別に「魂」という実体があるのかと聞かれると、なお一層わからなくなってしまう。

しかし…
それでも俺は、「魂」というものが存在していると思うのだ。

その根拠は?と聞かれたら、答えを言語化するのは難しい。
魂の存在は、俺の実感にすぎないからだ。
その実感を表現するのに相応しい言葉を持ち合わせていないからだ。

だが、あえて表現するならば、ある種の「摩擦」であり、「不協和音」だと言っていい。

何かが決定的にズレている。
そこに軋轢が起きている。

そうした実感の中にこそ、俺は魂の存在をかすかに感じるのだ。

・・・

何かが決定的にズレている。
かつては収まるべきところに収まっていたものが、かみさんの死とともに、収まるべきところからズレてしまった。

収まるべきものは、収まるべきところに戻ることができない。
収まるべきところに戻りたい。
それなのに、決して戻ることができない。

だから苦しい。
だから痛い。
これはとても不快な感覚だ。

いっそのこと戻るのは諦めよう。
そして「ここ」から出ていこう。
それができたなら、不快な感覚は消えて、俺は調和を取り戻すだろう…


これが俺の実感のすべてだ。

ご覧のとおり、主語は不明瞭だし、前置詞の目的語も不明確だ。
もそも何を言っているのかわからない。

しかし…
この訳のわからない実感の中にこそ、俺は「魂」の存在をかいまみるのだ。


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かみさんが死んだ。
俺のいちばん大好きな人は死んじゃった。

かみさんは、もういない。
それでも俺は、かみさんに逢いたい。

たったひとつの俺の望み。
それは、かみさんと再会することだ。
もしも、かみさんに逢えるなら、ほかには何にもいらない。

だが、どんなに逢いたいと想っても、亡くなった人に逢うことはできない。
ひょっとすると「あの世」があって、俺が死んだら再会できるかもしれないが、少なくとも俺が生きている限り、かみさんに逢うことは絶対にできない。

俺の理性は、その哀しい事実を知っている。

・・・

だが…
理性とは別の場所で、俺はかみさんに逢えるだろう…と感じている。
理性の壁の奥底で、俺はかみさんに逢えるだろう…と想っている。

わざわざ「感じている」とか「想っている」と書いたのは、俺が「信じている」わけではないからだ。

しかし…
少なくとも俺は、感じているし、想ってもいる。
いずれ俺が死んだなら、かみさんに逢えるだろう…と感じているのだ。

だから俺は手を伸ばす。
手を伸ばし、かみさんの姿を捉えようとする。

だが、俺の手がつかむのは「虚空」だけだ。
そこにかみさんの姿は無い。
だから俺は絶望する。

でも…
いつの日か、俺はこの手でかみさんの気配をつかむだろう…と想っている。
信じようと信じまいと、俺は再びかみさんと”ひとつ”になれるだろう…と想っている。

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時間が経過するにしたがって、記憶は次第に薄れていくのかもしれない。
手放すまいとは思っても、「それ」は俺から離れていくのかもしれない。
必死で手繰り寄せようとはするけれど、「それ」は決して戻って来ないのかもしれない。

想い出したいとは思っても、想い出すことができない。
どこか遠くに行ってしまったんだろうか。
それとも「無」
になってしまったんだろうか。

いずれにしても、とても哀しい。

だが…
それは突然やってくる。
俺の意思とは無関係に、
かみさんは突然やってくるのだ。

想い出そうとはしても、
想い出すことはできなくなりつつある。
だが、想い出そうとはしなくても、
かみさんの記憶は突然に蘇ってくるのだ。

かみさんと出逢った時の記憶。
かみさんと一緒に暮らした20年間の記憶。

そして…
かみさんが闘病中の、二人の濃密な時間の記憶。
二人が「ひとつ」
になり、絆を確かめ合った「最期の日々」の記憶。

それらの記憶が噴き出してくることがあるのだ。
俺の意思とは無関係に…だ。

だが、俺は泣かない。
2年くらい前なら泣きじゃくっていただろうが、今の俺は泣かない。

しかし、
かみさんと一緒にいた日々の記憶に全身を委ねるとき、俺はかみさんを身近に感じることができる。
かみさんが俺の「中」にいるような温かさを覚えるのだ。

そうだ。
かみさんは俺の傍にいる。

いつでも傍にいるわけではないかもしれない。
でも、
時折かみさんは、俺に寄り添ってくれる。
そのとき俺は、
かみさんの存在をリアルに感じることができる。

想い出そうとしても想い出せないが、想い出そうとしなくても、
かみさんは俺の傍にやってくる。

そして彼女は…
俺の心に触れてくれるんだ。

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肉体とは別に魂という実体がある。
そう信じている人もいるけれど、俺にはよく分からない。

信じられるようになりたいとは思っている。
信じられるようになったら、今より楽に生きられるだろう…とも思っている。

信じたいなら信じればいいじゃないですか!と言われたことがある。
だが、根拠もないのに、信じたいだけで信じられてしまう人のことが理解できなかった。

また、第三者の体験談を盲信するほど単細胞ではない。
体験談が説得力を持つためには、そこに再現性がなくてはならないはずだ。
それがないのに自分の体験を吹聴して回るのは、怪しげな宗教と変わりはない。

・・・

人が死んでも魂は生き続ける。
俺は以前より信じられるようになってきた(のかもしれない)。

霊や魂を見たわけではない。
あの世を垣間見たわけでもない。

理由は別のところにある。
俺自身の肉体が衰えたからだ。

かみさんがいなくなってから、俺はずっと自暴自棄に生きてきた。
俺は自分自身を破壊しようとして生きてきた。

運動をしなくなってしまった。
毎年の健康診断は受けなくなってしまった。
すっかりヘビースモーカーになってしまった。
毎日、焼酎やウィスキーを浴びるように飲んできた。

そんな暮らしを続けてきたせいだ。
同年代の人たちよりも、俺の肉体は衰えてしまった。

外見的には何らの違いもない。
それなのに、内臓や筋肉などの見えない部分が、あちこち壊れてきたのだ。

あちこちが壊れてきたことで、肉体に対して違和感を覚えるようになった。
まるでサイズの合わない着ぐるみを着ているかのようだ。

精神と肉体とが調和を失い、決定的にズレてしまった。
この肉体を脱ぎ捨てたら楽になれるんじゃないだろうか…とも思うようになった。

しかし…
この違和感を覚える「主体」は何なんだ?
肉体とズレている「精神」とは何なんだ?

ひょっとすると…
それこそが魂なんじゃないか?…なんて思うようになったのだ。

・・・

胸の皮膚を引き裂いて、大胸筋を断ち切って、胸骨を叩き割る。
すると心臓が剥き出しになる。

そのとき俺はどうなるんだろうか。
出血多量で死ぬか、痛みでショック死するかだろう。

だが…
その後に待っているのが「無」だとは限らない。
血みどろになった死体から、俺自身の魂が解放されるかもしれないのだ。


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