いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

タグ:癌研有明病院

プーちゃんも一緒に…
20年以上一緒に暮らしている中で、俺は、かみさんの口から何度もこの言葉を聞いた。

プーちゃんも一緒に…
この言葉は、かみさんの口癖のようなものだった。

・・・

かみさんが美味しいものを食べていると、俺にも食べさせてあげたいと想うのだろう。
かみさんは「プーちゃんも一緒に、これ食べな」と言って、自分が食べている物をシェアしてくれた。

かみさんが面白いテレビ番組を見つけると、俺にも見せてあげたいなと想うのだろう。
「プーちゃんも一緒に見てみな」と声をかけてくれた。

天気の良い土日、買い物に出ようとしているかみさんは、「プーちゃんも一緒に買い物に行こうよ」と言った。
観たい映画があれば、「プーちゃんも一緒に観に行こうよ」と誘ってくれた。

かみさんはいつも、「プーちゃんも一緒に…」と言っていた。

・・・

最期にかみさんからこの言葉を聞いたのは、平成22年5月9日のことだったと思う。
かみさんが、癌研有明病院に検査入院をした日だ。

かみさんはベッドに横になり、俺はベッドの脇にある椅子に座っていた。

俺は絶対にかみさんの病気を治す、絶対にかみさんの病気は治るんだと自分に言い聞かせていた。
その一方で、かみさんを喪ってしまうかもしれない、かみさんがいなくなってしまうかもしれないという悲しみと不安を抱えつつ、それを押し殺していた。
かみさんを不安にさせないために、俺は無理に笑顔を作り、かみさんとの他愛ない会話に興じていた。

朝からずっと椅子に座っていたためだろうか、それとも、悲しみや不安を抑圧し、無理に明るく振る舞っていたためだろうか。
俺の精神と肉体に疲労が蓄積していった。

かみさんは、俺が疲れきっていることに気づいてくれたのだろう。
かみさんが言った。
「プーちゃんも寝な…」
「二人で一緒にベッドに横になろうよ」

だが、検査のために入院した部屋は四人部屋だったため、さすがに他の患者さんたちの目も気になるし、看護師さんに見つかったら叱られてしまうだろう。
かみさんに添い寝をすることは憚られた。

俺の記憶に間違いがなければ、かみさんの口から「プーちゃんも一緒に…」という言葉を聞いたのは、この日が最期だったと思う。

・・・

かみさんは笑顔で逝った。
神々しいとしか表現しようのない微笑を浮かべて息を引き取った。

今振り返れば、息を引き取る直前、かみさんが「プーちゃんも一緒に逝こう」と言ってくれれば良かったのに…と想う。
もし言ってくれれば、俺も本当に、一緒に逝くことができたかもしれない。

なぜ言ってくれなかったんだろう。
そのことが切なくて、やるせない。

いつだって、「プーちゃんも一緒に…」と言っていたかみさん。
それなのに、最期だけは「プーちゃんも一緒」とは言ってくれなかった。

そのことが、とてつもなく哀しいのだ。

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以前、「平成22年6月9日のこと ~医師がかみさんを地獄に落とした日~」というタイトルでブログを書いた。
この記事に出てくるO医師は、かみさんと俺にとって、永遠に憎むべき敵だ。

俺は今でもO医師のことが赦せない。
かみさんを地獄に突き落としたO医師のことは、絶対に赦せない。

かみさんが亡くなった後、O医師は癌研有明病院を辞め、某国立大学医学部附属病院を経て、現在は自由診療のクリニック代表を務めているようだ。

またO医師は、数冊の著書を発表して印税を稼いだり、某週刊誌とはすっかり仲良くなったりもしている。
先日発売された某週刊誌にも、O医師の書いた記事と顔写真が掲載されていた。

O医師は、「自分はこれまでの医師人生の大半において、癌治療の最前線に身を置いてきた。自分は外科医と腫瘍内科医の両方の顔を持つ、世界的に見ても稀有な医師であり、一人ひとりの癌に対し、様々なアプローチから最善の治療情報を提供できると自負している」そうだが、俺はO医師の本性を知っている。

繰り返して言う。
俺はO医師を絶対に赦せない。

彼がかみさんを地獄に突き落としたんだ。

・・・

平成21年、かみさんの伯母が肝臓癌で亡くなった。
伯母は癌専門の病院に行ったが、その際、医師から言われたそうだ。
「あんたは来年の桜は見れないよ」

医師は伯母に対し、平然と「死の宣告」をした。
そこに同情もなければ、心のケアをしてあげようという意志も見られない。

ただ事務的に、淡々と、「あんたはもうすぐ死ぬよ」と告げただけだった。
伯母は医師の一言で、突然地獄に落とされた。


・・・


かみさんも医師の一言で地獄に落とされた。
そのことは、「平成22年6月9日のこと ~医師がかみさんを地獄に落とした日~」という記事の中で書いた。


癌研有明病院のO医師は、俺と約束をしていた。
かみさんには絶対に余命を宣告をしないこと。
かみさんの病状についての説明は、かみさんにはせず、俺にすること。
かみさんの病状がどれほど悪かろうと、かみさんには病状を告げないこと。
病状や治療の効果について、どうしてもかみさんに告げなくてはならないと判断した場合、必ず俺を同席させること。


俺はかみさんを「死の恐怖」から守りたかったのだ。
かみさんを不安にさせたくなかった、絶望させたくなかったのだ。
必ず治る、そして元の生活を取り戻すことができると信じていて欲しかったのだ。


癌研有明病院のO医師は、この約束を守ると言ってくれた
だが、平成22年6月9日、O医師は俺との約束を反故にした。
俺が病室から離れている間、医師はかみさんを地獄に突き落としたのだ。


「抗がん剤が効いていないし、これ以上、抗がん剤は使えません」
「だから病院から出てって下さい」


かみさんを「死の恐怖」から守りたい。
だからこそ、医師とよく話し合い、約束をしていたにも関わらず、医師はあっさりと約束を破った。


・・・


こういうエピソードに対し、俺のブログを読んだ医療関係者からコメントを頂くことがある。
その内容は、概して次のようなものだ。
「患者に余命を告げることも、医師や看護師の仕事だ」
「治療が不可能な患者に退院してもらうことは、病院の運営上、当然のことだ」


こういうコメントを読むと感じることがある。
コメントを書いた医療従事者たちは、大切な人を亡くしたことの無い人なんだろうということだ。


もし、その医療従事者が配偶者や子どもを喪いかけていたとしても、自分の伴侶や子どもに余命を宣告できるんだろうか。
「治療は不可能だから諦めてね」
「死ぬ準備をしてね」
「もうすぐアンタは死ぬからね」
自分の伴侶や子どもに対し、そんな残酷なことを平然と言えるんだろうか。

自分の家族ではないからこそ、こんな残酷なことを言えるのだ。


そもそも、癌研有明病院の医師たちは、俺との約束を守ると言っていた。
結局は「病院の運営」だの「仕事」だのを言い訳にして約束を反故にするのなら、
初めから約束なんてしなければよかったはずだ。


・・・


伴侶やお子さんを喪ったことの無い人々は、上から目線で屁理屈をこねる。
医療関係者だけじゃない。
伴侶やお子さんを亡くした経験のない人は、屁理屈をこねて余計な「お説教」をしたがる。


いずれにしても…
俺は医療関係者に対する不信感が拭えない。
「お前達こそ、伴侶を喪ってみろ!」という暴言を吐きたくもなる。

医療従事者たちも、伴侶を亡くせば知るだろう。
「大切な人を守りたい」という気持ちは、屁理屈などで消そうと思っても無理なのだ。

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以前、「平成22年6月9日のこと ~医師がかみさんを地獄に落とした日~」というタイトルでブログを書いた。
この記事に出てくるO医師は、かみさんと俺にとって、永遠に憎むべき敵だ。

俺は今でもO医師のことが赦せない。
かみさんを地獄に突き落としたO医師のことは、絶対に赦せない。

かみさんが亡くなった後、O医師は癌研有明病院を辞め、某国立大学医学部附属病院を経て、現在は自由診療のクリニック代表を務めているようだ。

またO医師は、数冊の著書を発表して印税を稼いだり、某週刊誌とはすっかり仲良くなったりもしている。
先日発売された某週刊誌にも、O医師の書いた記事と顔写真が掲載されていた。

O医師は、「自分はこれまでの医師人生の大半において、癌治療の最前線に身を置いてきた。自分は外科医と腫瘍内科医の両方の顔を持つ、世界的に見ても稀有な医師であり、一人ひとりの癌に対し、様々なアプローチから最善の治療情報を提供できると自負している」そうだが、俺はO医師の本性を知っている。

繰り返して言う。
俺はO医師を絶対に赦せない。

彼がかみさんを地獄に突き落としたんだ。

・・・

平成21年、かみさんの伯母が肝臓癌で亡くなった。
伯母は癌専門の病院に行ったが、その際、医師から言われたそうだ。
「あんたは来年の桜は見れないよ」

医師は伯母に対し、平然と「死の宣告」をした。
そこに同情もなければ、心のケアをしてあげようという意志も見られない。

ただ事務的に、淡々と、「あんたはもうすぐ死ぬよ」と告げただけだった。
伯母は医師の一言で、突然地獄に落とされた。


・・・


かみさんも医師の一言で地獄に落とされた。
そのことは、「平成22年6月9日のこと ~医師がかみさんを地獄に落とした日~」という記事の中で書いた。


癌研有明病院のO医師は、俺と約束をしていた。
かみさんには絶対に余命を宣告をしないこと。
かみさんの病状についての説明は、かみさんにはせず、俺にすること。
かみさんの病状がどれほど悪かろうと、かみさんには病状を告げないこと。
病状や治療の効果について、どうしてもかみさんに告げなくてはならないと判断した場合、必ず俺を同席させること。


俺はかみさんを「死の恐怖」から守りたかったのだ。
かみさんを不安にさせたくなかった、絶望させたくなかったのだ。
必ず治る、そして元の生活を取り戻すことができると信じていて欲しかったのだ。


癌研有明病院のO医師は、この約束を守ると言ってくれた
だが、平成22年6月9日、O医師は俺との約束を反故にした。
俺が病室から離れている間、医師はかみさんを地獄に突き落としたのだ。


「抗がん剤が効いていないし、これ以上、抗がん剤は使えません」
「だから病院から出てって下さい」


かみさんを「死の恐怖」から守りたい。
だからこそ、医師とよく話し合い、約束をしていたにも関わらず、医師はあっさりと約束を破った。


・・・


こういうエピソードに対し、俺のブログを読んだ医療関係者からコメントを頂くことがある。
その内容は、概して次のようなものだ。
「患者に余命を告げることも、医師や看護師の仕事だ」
「治療が不可能な患者に退院してもらうことは、病院の運営上、当然のことだ」


こういうコメントを読むと感じることがある。
コメントを書いた医療従事者たちは、大切な人を亡くしたことの無い人なんだろうということだ。


もし、その医療従事者が配偶者や子どもを喪いかけていたとしても、自分の伴侶や子どもに余命を宣告できるんだろうか。
「治療は不可能だから諦めてね」
「死ぬ準備をしてね」
「もうすぐアンタは死ぬからね」
自分の伴侶や子どもに対し、そんな残酷なことを平然と言えるんだろうか。

自分の家族ではないからこそ、こんな残酷なことを言えるのだ。


そもそも、癌研有明病院の医師たちは、俺との約束を守ると言っていた。
結局は「病院の運営」だの「仕事」だのを言い訳にして約束を反故にするのなら、
初めから約束なんてしなければよかったはずだ。


・・・


伴侶やお子さんを喪ったことの無い人々は、上から目線で屁理屈をこねる。
医療関係者だけじゃない。
伴侶やお子さんを亡くした経験のない人は、屁理屈をこねて余計な「お説教」をしたがる。


いずれにしても…
俺は医療関係者に対する不信感が拭えない。
「お前達こそ、伴侶を喪ってみろ!」という暴言を吐きたくもなる。

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「大切な人を守りたい」という気持ちは、屁理屈などで消そうと思っても無理なのだ。

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俺は、かみさんの髪が大好きだった。
父親 (俺のお義父さん) 
に似たらしく、生まれつきの茶髪だ。
細くて柔らかい「猫っ毛」
だった。
そして、いつも良い香りがした。

かみさんは、
髪を撫でられるのが好きだった。
俺が「良い子だね~」
と言いながら、髪を撫でてあげると、かみさんは俺を見上げ、ニッコリと笑ってくれた。



かみさんが癌研有明病院に入院していた頃のこと。

抗がん剤での治療が始まると、かみさんの髪は、
次第に艶やかさを失っていった。
かみさんも気づいていたらしく、
「髪の毛がパサパサになっちゃった…」と言っていた。
俺は「
大丈夫だよ。病気が治ったら、すぐ元に戻るから」と応えた。
かみさんも「そうだよね~」と応じてくれた。

医者から末期癌だと言われようと、
余命は年単位ではないと告げられようと、俺は奇跡を信じていた。
俺の力でかみさんを治してみせると思っていた。

そして何よりも、
かみさんを絶望させたくなかった。
かみさんには、希望を持ち、
病気を治し、穏やかな日常を取り戻すことができると信じて欲しかった。
かみさんには、明るい未来を信じて欲しかった。

だからこそ、俺は「
病気が治ったら…」という表現を使ったのだ。



かみさんは帯津三敬病院で息を引き取った。
遺体は葬儀会社の車で自宅に運ばれた。

自宅のリビングに寝かされたかみさん。
納棺の直前、
葬儀会社の人から「髪を切りますか?」と聞かれた。

かみさんの身体の一部を残しておきたい。
遺体が火葬される前に、
せめて髪だけでも残しておきたい。

だが、俺は迷った。
髪を切ってしまったら、かみさんがかわいそうだと想った。

俺はかみさんの髪に触れた。
かつての艶やかだった髪ではなく、
パサついていた。
なんだか切なくなって、
涙がボロボロとこぼれてきた。
俺は「
あんなにきれいな髪だったのにね…」とつぶやきながら、ボロボロと泣いた。
結局、お義母さんが勧めてくれて、
俺はかみさんの髪を少しだけ切ってもらい、箱に入れてもらった。

その箱は、かみさんの位牌の傍に置いてある。
なぜだか分からないが、俺はその箱を開けてみる勇気がない。

いずれ俺が死んだとき、その箱は、
俺と一緒に火葬してもらうことになっている。

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5月19日の金曜日。
俺は出張した。

目的地までは「ゆりかもめ」
に乗らなければならない。
東京臨海新交通 臨海線、通称「ゆりかもめ」
豊洲と新橋を結ぶ無人運転のモノレールみたいなものだ。

かみさんが元気だったころ。
かみさんは「ゆりかもめ」
に乗るのが好きだった。
ちょっとした旅行気分になれるから…
というのが理由だった。

かみさんと俺は二人で「ゆりかもめ」に乗り、
窓外の景色を眺めながら、他愛ない会話を楽しんでいた。



かみさんが癌研有明病院に入院していたころ。
俺は毎日「
ゆりかもめ」に乗った。
病院が「ゆりかもめ」の停車駅「有明」
にあるからだ。

かみさんを個室に移してもらい、
俺が病院に寝泊まりするようになってからは、「ゆりかもめ」の世話になることはなくなったものの、かみさんが大部屋に入院していた時期は、毎日「ゆりかもめ」を利用していた。

毎朝病院に行くときは、
少しでも早くかみさんの顔が見たくて、俺はタクシーで病院に向かったが、面会時間が終わって帰宅するときは、いつも「ゆりかもめ」だった。



かみさんが亡くなってから数年間。
俺は一度も「
ゆりかもめ」に乗っていない。

怖かったのだ。
かみさんが死んじゃうかもしれないという恐怖や不安に脅えつつ、
それでも奇跡を願い、奇跡を信じ、
奇跡を祈っていた日々を想い出してしまいそうだったからだ。



仕事だからやむを得ない。
俺は数年ぶりに「ゆりかもめ」
に乗った。

やっぱりだ。
窓の外を見ていると、
奇跡を祈っていた日々の記憶が鮮明に蘇る。

空を見上げては祈り、
木々を見つめては祈り、運河の流れを見ては祈った。
容ちゃんは死なない、容ちゃんは絶対に治る、俺が絶対に容ちゃんを守ってみせる。
そしてまた、
幸せな日常を取り戻すんだ。
全身全霊で祈っていた日々を想い出す。

だが、
願いは届かなかった。
かみさんと俺の祈りを受けとめてくれる者などいなかった。

人生に対する諦念と絶望。
それを「ゆりかもめ」は象徴している。


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