「禅寺に行ってきた」
塾生のM君、職場体験が禅寺だったらしく、その時の様子を話してくれた。
写経をしたり、座禅をしたりしたとのこと。
全部で20名ぐらいの中学生が体験したらしい。
ふつう、中学生の職場体験といえば、
スーパーマーケット,病院,八百屋,ホテル、本屋、花屋 …
変わったところでは、学習塾だったりすることもある。
これまでで珍しいところでは、もうかれこれ10年ぐらい前のことだが
「今日は職場体験で大阪まで行ってきた」というので
びっくりして尋ねてみると、新幹線の売り子さんだという。
なるほどそれなら福岡から大阪まで一日で行って帰れるわけだ。

このたびの職場体験、禅寺が職場体験として選ばれるのはこれも珍しいのではなかろうか。
それにしても、はたして禅寺が職場なのかどうかは意見が分かれるところだろうが、
中学生が体験するのは大賛成!

禅といえば、「無念無想」とか「悟り」だとか、
なんだかむずかしそうな近寄りがたいイメージが一般にはあるが
実は世間で禅の世界が大きく誤解されているのは
これらの大げさなことばにあるのではないだろうか、と思う。

そもそも生きている以上、「無念無想」になんかなれるわけない。
「無念無想」になるためには死ぬしか方法がないのである。
(お坊さんの話の受け売りだけど… (^_^;))
実際に「座って」みるとよくわかるのだが、
「無念無想」どころか、雑念が湧きまくるのだ。
座禅すると無念無想の世界に浸るようなイメージがあるが
座ったときの方が座らないときよりも
頭の中は雑念でいっぱいのように感じるのである。

ただ「雑念でいっぱいのように感じる」だけで
座ろうが座るまいが、いつでも人間の頭の中は雑念でいっぱいなのだ。

「お腹、すいたあ〜。今夜、何を食べようかなあ〜」
「明日はテストだ。失敗したらどうしよう」
「あ〜あ、たいくつだ。終わるまであと20分もある」
「あのとき、あいつ、この、お、お、おれを馬鹿にしやがった。ゆ、許さんぞ!!!」
「今夜だったよな。例のドラマがあるの。楽しみだな♪」
「あの棚の中だったよな。どら焼きがあるの。これが終わったら食べよ♪」
「お、これが悟りかもしれない」
「お、これが無念無想というやつか」

と雑念がひっきりなしに湧いているのだが、
日常生活においては、この雑念は雑念として認識できない状況にある。
意識が雑念とほとんど同化しているのでそれとわからないのだ。


たとえてみれば、雑念はカメレオンのようなものだ。
カメレオンは周りの色に合わせて生息しているので発見されにくいが
もし周りの世界が透明になれば
当然のことながらカメレオンの体が透明になることはできないから
かんたんに発見されてしまう。
それと同じく、座ると意識が透明になるので
雑念が雑念として認知されやすくなるのである。

仏教では、この雑念こそが不幸の元凶とみる。
大晦日に108の煩悩を払うために除夜の鐘をつくが
煩悩を簡単なことばで言うと、雑念のことである。
今ふつふつと湧いている雑念に絶えず人間は振り回されている。
だから、人間は不幸になるのだ。

と仏教では教える。

たとえば、みんなの前でののしられたことを思い出して
はらわたが煮えくりかえるのも雑念のせい。
そもそも思い出さなければ、はらわたも煮えくりかえらなくてすむのだが
なぜかそういうことは何かあるたびにずっと思い出し続けてしまうのだ。

怒りや悲しみの雑念だけではない。
楽しくなる雑念もある。
テストでひとりだけ満点をとって先生にほめられた時のことを思い出して
ひとりにやけるのも、雑念のせい。
楽しくなる雑念ならいいのかといえば、仏教的にいえば、そうではない。
楽しい雑念にふけってにやけていると、
今現在していることがおろそかになり、仕事で大失敗ということもあるだろうし、
また「テストで良い点数を取って人からほめられる」ことに執着することにより、
「テストで良い点を取って人から褒められなくなる」と悲しくなるのが人間である。

つまり、人間というもの、常に雑念と同化して、
悲しんだり怒ったり喜んだりして、右往左往したりして
ちっとも落ち着けない状態にあるのだ。


では、座っても座らなくても同じく雑念が湧くのだったら
なぜ座禅するのか。
座禅の意味とは一体なんなのだろう。

本来、座禅に効用を求めてはいけないのだが、
あえて求めるとしたら
座禅は「思い」という雑念を切る練習である。
(「思い切って〜する」という表現があるが、おそらく「思い」(を)「切る」ことが語源ではないだろうか)

座るとき、意識の持ち方として大切なことは
「見る」ことを意識することだ。

座るとき、背筋をまっすぐにして、目線を斜め下に落とす。
その目は正面から見ると「半眼」と呼ばれる状態だ。
そうすると、壁(または畳)をじっと見つめることになる。
とにかくしっかりと「見る」ことに意識を向けることが大切だ。
だけど、実際に座ってみると実感していただけるが
すぐに壁(または畳)を見ることができなくなるのである。

壁や畳を見ていても、すぐに雑念が浮かんできて
雑念を見つめている状態になり、
頭の中でなにかしら考え事を始めているのだ。

そのとき、壁(または畳)を見ようと意識すると、
雑念はふっと消える。
しかし、しばらくするとまた雑念が浮かんできるので
また「見る」ことに意識を集中すると雑念が消える。

雑念が浮かんではそれを消し、雑念が浮かんではそれを消し、というように
連続して雑念を消すことが座ることの意味なのだ。


日常生活において、これが雑念だと意識することはないから
雑念を消すことはできない。
次から次へと押し寄せてくる雑念に翻弄され、不安が増大し、人間関係も悪化し、
体調を崩し、生きることが苦痛になる。
そのような様相を仏教では「地獄」と呼ぶ。
お釈迦さんは死後の世界は知ることはできないから
死後についてあれこれ議論しても無駄だという。
だから、仏教の原点はあくまでもこの現世だ。
原始仏教においては「地獄」は死後の世界ではなく、現世にあるのだ。

「座る」ことは「地獄」を創り出す大元である雑念を
消すことの連続に意味がある。

もちろん消しても消しても何度でも出てくるが
そのうち出てくる雑念と雑念の間隔が長くなることに気づく。
また雑念は雑念だからと放っておけるようになる。
雑念にとらわれないから、不安もたいしておきない。
何か起きても「ま、いいか」と思えるようになる。
思うに、「決め事」を作ってしまうから、人間、不幸になるのだ。

このことを、子育てで考えてみると

せめて平均点は取らないとね。
せめてA高校には入らないとね。

のような「決め事」があるから、
そうならなかったときに心に波風が立ち、いらいらして、
子どもに言ってはいけないことばを投げかけたりしてしまい
親子関係にひびが入ってしまうのだ。


このような「決め事」も仏教という視点からみれば、雑念にすぎない。
雑念を相手にしなければ、子どもがテストで何点取ろうが気にならなくなる。
もっと本質的な部分を子どもの中に見いだすことができるようになる。

前回の記事、「「考える力」を育てたいならば…」の最後で述べた部分、

つまり、「考える力」を育てたいならば、
親としてはまず「目の前のテストで良い点数を取らなくてはいけない」という呪縛を解いてあげ、
次に、じっくりと勉強に取り組める環境作りが大切だと思うのである。

だけど、このことが現代を生きる親御さんにとって
もっとも重たい課題であることも事実。
あとは子どものために親御さんがどれだけ覚悟できるかにかかっているのである。


と書いたが、頭でわかっていてもなかなか覚悟できないものだ。
特に、知り合いの子、近所の子が優秀な成績を収めたりすると
つい我が子と比べて、悲観してしまう。

我が子のテストがクラスの平均点よりも悪かったりすると
叱ってしまったりするのも、
「クラスの平均点よりも悪い点数を取ると、まずい状況になるぞ」
という根拠のない雑念にとらわれてしまっているがゆえのことである。

そのような子どもの状況に左右されない強い心を作るためにも
日常生活の中に「座る」ということを取り入れてみてはどうだろうか。


そうなれば、親子関係も円満になり、
それこそ、子どもの精神状態も安定するから
長い目で見て、かえって、子どもの成績も伸びる可能性も高くなっていることだろう。
もっともそのときは子どもの成績には大して興味がないから
前のように喜べないかもしれないが、
もっと深い本質的な部分で子どもの成長を喜べるような親になっていると思うのである。
そして、そのような状態が親子共々が幸せになる世界に導いてくれるのではないだろうか。


<参考サイト>
曹洞宗 普勸坐禪儀・坐禪入門

※ 結跏趺坐・半跏趺坐、どちらも難しい方は正式な座り方ではありませんが、正座でも構いません。
 大切なことは「思い」を切る練習ですから。(^^)/