筆ペンで描く日々

世界遺産を中心に

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ローマにあるカトリック教会の大聖堂。
ローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つに数えられる。

古代ローマ時代、ここにラテラヌス家という有力者の邸宅があった。
その後、コンスタンティヌス帝の妃ファウスタの邸宅となっていたが、
コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、この場所を寄進した。

324年、教皇シルウェステル1世により献堂式が行われ、「世界の母なる聖堂」と称された。
10世紀には、セルギウス1世が、洗礼堂を新築し、洗礼者ヨハネに奉献。
12世紀には、ルシウス2世が聖堂と宮殿を福音記者ヨハネに奉献し、2人のヨハネを記念する聖堂になった。

ところが、1309年にアヴィニョン捕囚が起こり、フランスのアヴィニヨンに教皇庁が移転。
1377年にローマに戻ったものの大聖堂は荒廃しており、以後はバチカンに居を移すことになった。

16世紀になると、シクストゥス5世はドメニコ・フォンターナに命じ宮殿と大聖堂を修復。
17世紀にはフランチェスコ・ボッロミーニによって大聖堂内の装飾が行われ、1735年にはファサードが完成した。

1929年にはラテラノ宮殿においてローマ教皇とムッソリーニの会談が行われ、
このときのラテラノ条約によって、バチカン市国が成立した。



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死海とアカバ湾の間の渓谷にある古代遺跡。
自然の要害であり、ガザ、ダマスカス、紅海に近い交通の要衝であった。
紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人が住み着き、貿易を独占して有力都市として栄えた。

完全な岩礁地帯で農業には不向きであり、雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過した。
ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、水道管を通して給水設備を作り上げた。

紀元前64年ごろからしだいにローマ帝国の支配が及び、106年にはローマの属州になった。
663年、イスラム帝国によって征服され、主要な通商路から外れると、衰退が始まった。
749年、ガリラヤ地震で大きな被害を蒙り、ペトラは放棄された。

1812年、スイス人探検家ルートヴィヒ・ブルクハルトが遺跡を発見。
20世紀初頭から発掘調査が始まり、今も続いている。
現在も遺跡の2割未満しか発掘されていないと推定されている。
遺跡の建築物のほとんどは砂岩の岩肌を彫って造られたものである。



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フィンランド中西部の町ペタヤヴェシにある木造教会。
地元の棟梁ヤーコ・レッパネンによって、1763年から1765年にかけて建てられた。
白いギリシャ十字形の土台に八角形の丸天井が載り、全体の建材には松が使われている。

1821年、棟梁の孫エルッキが、上部が張り出して渡り廊下になっている木造の鐘楼と、
東側の聖具室を付け加え、現在につながる教会を完成させた。
この時に窓も大きくし、教会と鐘楼は三角形のタイルで覆われた。

スカンディナビア半島の多くの古い教会に見られるとおり、
湖のそばに建てられており、冬でも水路を通じて容易に通えるようになっている。
教会は今でも、洗礼、結婚式、コンサートなど、宗教的な大きな行事の時には使われている。





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クシュはアフリカのナイル川の上流、現在のスーダン(古代ではヌビアとも言われた)にあたる。
ここに紀元前10世紀の頃、アフリカの黒人最古の王国が成立した。

はじめはナパタを都として栄え、エジプト新王国時代にはその征服を受けた。
前8世紀頃は勢いを盛り返し、エジプト末期王朝の時期にはエジプト全土を支配(第25王朝)。

しかし、前671年にアッシリアがエジプトに侵入すると、ナイル上流に後退した。
さらに上流域に移動し、前540年頃、都を南のメロエに定め、これ以降をメロエ王国という。

プトレマイオス朝エジプトやローマ帝国とも交易を行い、アフリカ内陸部の文化にも影響を与えた。
ローマ帝国はたびたびこの地に遠征している。
350年頃、アラビア半島からエチオピアに侵入したアクスム王国に圧迫されて滅亡した。


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ロンドン中心部、テムズ河畔に存在する宮殿。現在は英国議会が議事堂として使用している。
併設されている時計塔(ビッグ・ベン)とともにロンドンのシンボル的風景である。

宮殿のあるテムズ河畔は中世を通して戦略上の要衝であった。
サクソン朝のカヌート王(在位:1016-1035)によって初めて宮殿として用いられるようになった。
初期の建物は残っておらず、宮殿で最も古いものは、
ノルマン朝のウイリアム2世(在位:1087-1100)時代のものである。

1529年の大火までは王の宮殿だったが、1530年、ヘンリー8世はホワイトホール宮殿に移住。
その後は、ふたつの議会と裁判所として用いられるようになった。

1834年10月16日に発生した火災によって宮殿の大半は焼失。
再建委員会はチャールズ・バリーの設計したゴシック・リヴァイヴァル様式のデザインを採用した。
1840年に礎石が据えられ、貴族院議事堂は1847年に、庶民院議事堂は1852年に完成した。
その後建物の主要部分は1860年に完成し、最終的には1867年に工事が終わった。

1941年にドイツ軍の爆撃を受けて庶民院が破壊され、1950年に再建された。
現在は老朽化のため、両院の移転が決まっている。



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ピアウイ州にある面積約1,000平方kmの国立公園。
世界屈指の考古学遺産を保護するために制定された。
350以上の洞窟群に壁画があり、約500カ所で考古学的遺跡が確認されている。

岩絵は100メートル以上の高所に描かれたものや、6万年以上前に描かれた3万点に及ぶものがある。
これらの儀礼、舞踊、狩猟の様子から古代アメリカ先住民の暮らしを推測できる。
また、グリプトドンや巨大アルマジロなど、最終氷河期以前に絶滅した動物も描かれている。

2億5000万年前に形成された地形であり、特にペドラ・フラダ遺跡は印象深い。
厚い岩の上部に直径15mほどの大きな穴があいており、この公園の象徴的景観である。
ここでは、古代人が使っていたと思われる陶器製の道具類も見つかっている。



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シモノペトラ修道院は、ギリシャ、アトス山の修道院共同体に位置する、正教会の修道院。
後に正教会により列聖されることとなる、アトス山の聖シモンにより13世紀中に創設された。
アトス半島の南岸はごつごつとした岩だらけの土地であり、修道院が位置している場所自体も非常に険しい。
修道院は単独の巨大な岩の上に建てられており、その下は海まで330メートルの崖である。


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メキシコの首都メキシコシティにあるオペラハウス。
メキシコ国立芸術院などとも表記される。

19世紀末、当時メキシコを統治していたポルフィリオ・ディアスの
「パリのオペラ座に匹敵する大劇場を」との命により建設された。

宮殿は1901年にイタリアの建築家、アダモ・ボアリによってデザインされた。
イタリア直輸入の白大理石を使用したアール・ヌーヴォー様式の外観と、
ディエゴ・リベラ、ルフィーノ・タマヨ、ダヴィッド・アルファロ・シケイロス、
ホセ・クレメンテ・オロスコら壁画運動で知られたメキシコの巨匠たちの内部壁画で有名。

内装はアール・デコ様式に統一されている。
1905年に着工したものの、1910年のメキシコ革命でディアスは失脚し中断。
その後工事はメキシコ人建築家フェデリコ・マリスカルに引き継がれ、1934年に完成した。
やわらかい地盤とその建物全体の重量により、年々数cmずつ沈下している。



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プチトリアノンはルイ15世の公妾、ポンパドゥール夫人のために建てられた離宮である。
その後、ルイ16世が王妃マリー・アントワネットに与えた。
彼女は庭をイギリス式とし、農村に見立てた小集落「ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ」を作らせた。
日本語では「王妃の村里」と訳されている。

アントワネットは格式ばった宮廷の生活を嫌い、ここで静かに田園生活の風情を楽しんだ。
彼女が宮殿で最も愛した場所であり、死後、彼女の幽霊に出会ったという目撃談が相次いだ。



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武陵源は湖南省張家界市にある張家界国家森林公園、索溪峪自然保護区、天子山自然保護区、
楊家界自然保護区の4つの自然保護区の総称。

武陵源は、主に山岳地帯で珪岩によって構成される石柱が立ち並んでいる。
石柱のほとんどが200m以上あり、場所によっては300m以上のものも存在する。
珪岩の外に一部ではカルスト地形などの石灰岩で出来た地形もあり、40ほどの洞窟が確認されている。

植物層も豊かで、中国第一級保護植物が4種、第二級が40種確認されており、
動物では28種の国家級保護動物が確認されている。


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