遊星王子の青春歌謡つれづれ

歌謡曲(青春歌謡)がわかり、ついでに文学と思想と歴史もわかってしまう、とてもためになる(?)ブログ。青春歌謡で考える1960年代論。こうなったらもう、目指すは「青春歌謡百科全書」。(ホンキ!?)

2012年06月

 「遊星王子」は遠い星からやってきました。ふだんは東京の街角の靴磨き青年に身をやつしています。アメリカの大都会の新聞記者になりすましているスーパーマンに比べると貧乏くさいけれど、これが日本、これが戦後です。
 宇宙から日本にやって来た正義の味方としては、スーパー・ジャイアンツには遅れましたが、ナショナルキッドよりは先輩です。
(またの名を落日の独り狼・拝牛刀とも申します。牛刀をもって鶏を割くのが仕事の、公儀介錯人ならぬ個人営業の「解釈人」です。)

 「青春歌謡」の定義や時代区分については2011年9月5日&12月31日をお読みください。暫定的な「結論」は2012年3月30日に書きました。
 この時代のレコードの発売月は資料によってすこし異なる場合があります。
 画像や音源の多くはほぼネット上からの無断借用です。upされた方々に多謝。不都合があればすぐ削除しますのでお申し出下さい。
 お探しの曲名や歌手名・作詞家名があれば、右の「記事検索」でどうぞ。
 なお、以前の記事にも時々加筆修正しています。
 遊星王子にご用のある方は、下記アドレスの○○を@に変えてメールでどうぞ。 yousayplanet1953○○gmail.com(22-8-1記:すみません。5月初めにパソコンを新調して以来、なぜか自分でもこのアドレスに入れません。)
 *2015年2月23日
 「人気記事」を表示しました。直近一週間分の集計結果だそうです。なんだかむかしなつかしい人気投票「ベストテン」みたいです(笑)。
 *2015年7月25日
 記事に投稿番号を振ってみました。ブログ開始から3年と11か月。投稿記事数426。一回に数曲取り上げた記事もあるので曲数は500曲ぐらいになるでしょう。我ながら驚きます。
 *2017年6月17日 累計アクセス数1,000,000突破。
 *2017年10月16日、他で聴けない曲に限ってyoutubeへのアップ開始。
  https://www.youtube.com/channel/UCNd_Fib4pxFmH75sE1KDFKA/videos
 *2022年11月29日 累計アクセス数2,000,000突破

橋幸夫「悲恋の若武者」 悲劇の青春(12)

歴史の中の青春の悲劇。いよいよ近代に入ります。
 最初は明治10年の西南の役。西郷隆盛という無双の英雄が維新政府に叛旗を翻したのです。近代日本における最大の内乱でした。
 歌は橋幸夫の「悲恋の若武者」。こちらで聴きながらお聴きください。suzu2311さんに感謝しつつ無断リンクします。 

橋幸夫・悲恋の若武者橋幸夫「悲恋の若武者」
  昭和37年2月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 一 花か瞳か紫野菊
   かなしく見上げる若武者の
   白き鉢巻 にじむ血を
   誰かあわれと想わざる
     雨はふるふる人馬は濡れる
     越すに越されぬ田原坂
 二 退(の)くに退(の)かれぬ田原の嶮(けん)
   死をもて守りつ強敵と
   いまぞ雌雄を決せんと
   気負う姿の勇ましさ
     右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
     馬上豊かに美少年
 三 田原恋しや照る日も曇る
   戦い終りし草むらで
   鳴くは虫かや 美少女の
   袖が濡れてる 夕風に

 「南海の美少年花の白虎隊」(昭36-5)に次ぐ橋の時代歌謡(歴史歌謡)です。
 「悲恋の若武者」は橋の主演で映画化されました。相手役は映画「江梨子」と同じ三条江梨子。(三条江梨子は「江梨子」出演を機に芸名を「三条魔子」から「江梨子」に変え、新東宝時代の小悪魔イメージから清純派イメージに変身しました。)映画はレコードから5カ月後の7月封切りでしたが、今日はその映画の画像を2枚掲げて橋幸夫・悲恋の若武者・三条江梨子おきます。橋幸夫の颯爽たる「若武者」ぶりです。(一番下の画像右下は姿美千子です。)
 佐伯孝夫は三人称でこの詞を書いています。
 歌の主人公の「若武者」は薩軍(西郷軍)。征韓論に敗れて鹿児島に帰郷した西郷が創設し、西郷軍の中核を形成した私学校出身者だったかもしれません。
 田原坂の激戦です。「花の白虎隊」が詩吟「白虎隊」を取り込んだように、こちらは民謡「田原坂」を取り込みます。
 民謡「田原坂」の一番「越すに越されぬ」の主語は政府軍です。包囲された熊本城(熊本鎮台)救援のために政府軍はどうしてもこの坂を越えねばならず、しかし「死をもて守る」西郷軍の「退くに退かれぬ」必死の防戦にあって「越すに越されぬ」わけです。激闘は17昼夜に渡り、死者総数3,500人といいます。
 「田原坂」の二番の「美少年」は西郷軍の若武者の姿だそうです。(→この件、こまどり姉妹「三宅伝八郎はよか稚児ざくら」の項で書きました。)「田原坂」は熊本民謡ですが、「賊軍」たる薩軍にも十分に敬意と哀悼を示して、戦場の「あはれ」を深く湛えています。そこが愛好されるゆえんでしょう。
橋幸夫・悲恋の若武者・三条江梨子・姿美千子 なお、「馬上豊かに美少年」ですから、橋のこの歌、「南海の美少年」「東京の美少年」(昭36-10)を受けて、「田原坂の美少年」とでもすることもできたでしょうが、タイトルに「美少年」が入りませんでした。実は先に村田英雄が「田原坂の美少年」(昭34-9島田磬也作詞/船村徹作編曲)という歌を歌っていたのです。(当然、村田も民謡「田原坂」を取り込んでいます。)
 タイトルに「美少年」を使わなかった代わりに、民謡「田原坂」から「美少年」を取り込み、さらに、三番では、激戦終結後の風景の中に、泣いて佇む「美少女」の姿を描きます。「照る日も曇る」は涙で曇るのですね。「悲恋の若武者」ですから、この「美少女」は主人公たる「若武者」の恋人のはずです。
 一番の冒頭では「花か瞳か紫野菊」と歌われていました。実のところ、私にはこの一行の意味するところがあいまいでよくわかりません。わかりませんが、主人公が紫野菊に「恋人=美少女」のイメージ(瞳)を重ねているのだ、と読んでおきます。「悲恋の若武者」と題した以上、恋人は末尾だけでなく、冒頭にも配しておくべきだからです。(しかし、田原坂の戦闘は3月なので、「野菊」はまだ咲いていないはず。するとこれは、死を覚悟した「若武者」の見たまぼろしの花なのかもしれません。)
 さて、西南戦争と「菊」の花のイメージに重なる「美少女」、という取り合わせは、私に、落合直文の「孝女白菊の歌」を連想させます。明治21年から翌年にかけて雑誌に連載発表された長編物語詩で、発表されるや大評判を呼び、広く愛誦されました。近代詩の黎明期の作品です。
 「阿蘇の山里秋ふけて/ながめさびしき夕まぐれ」に一人門の外に出て「父を待つなる少女(をとめ)あり」と始まります。
 「少女の姿をよくみれば/にほえる花の顔(かんばせ)に/柳の髪のみだれたる/この世のものにもあらぬなり」。
 絶世の「美少女」です。
 彼女の父親は熊本の士族ですが、西南戦争で「賊にくみして」、つまり西郷軍に加担して(薩軍に呼応して熊本士族の一部も決起しました)、家を出たまま長く帰らず、その間に母も病の床に臥して亡くなり、彼女はみなし児となりました。彼女の名前が「白菊」です。むろん、「名は体を表す」はずです。彼女の身も心も、汚れない「白菊」のごとく美しいのです。
 戦争はこんなふうに歌われています。
 「ひと年いくさはじまりて/青き千草も血にまみれ/ふきくる風もなまぐさく/砲のひびきもたえまなし/親は子をよび子は親に/わかれわかれて四方八方に/はしりにげゆくそのさまは/あはれといふもあまりあり
 ほんとうは、父親は戦争終結後にいったん無事に帰還したのですが、先日、猟に出たまま帰らないのです。また、物語は少女の(貞操の)危難と救出を繰り返す波乱万丈の展開をして、最後は父親とも、出奔していた兄とも再会して、彼女は捨て子だったのでめでたく恋しい兄と結ばれる、というハッピーエンドになるのですが、その辺はすべて無視すれば(笑)、西南戦争、西郷軍に加担して帰らぬ男を待つ美少女、菊の花、という根本モチーフは佐伯孝夫の書いた物語と重なるでしょう。
 佐伯孝夫は当然「孝女白菊の歌」に親しんでいたはずです。意識していたかどうかは知りませんが、無理してまで「野菊」のイメージを挿入したこととも関わって、これも何度か言及してきたインター・テクスチュアリティ(クリステヴァ)の効果です。
 (なお、江藤淳は西郷隆盛を論じた『南洲残影』で、「この世のものにもあらぬなり」と謳われるこの「美少女」の物語は、文字どおりに「この世のものにもあらぬ」、つまり、「あの世」の、死後の世界の物語なのだ、彼女たちはもう死んでいるのだ、と解釈しています。晩年の江藤淳が、敗者に、亡びに、死に、深く魅かれつつあったことを示すものです。)
 (ちなみに、レコード発売5カ月後封切りの大映映画「悲恋の若武者」を観る機会がありました。映画では、三条江梨子が「紫野菊」を摘みますが、末尾では、歌謡曲が暗示する設定とは逆に、西郷軍に投じた橋を追って戦場にまで赴いた三条の方が嫉妬した恋敵の男に斬られて死に、田原坂の激戦を生き延びた橋が三条の遺骸を抱きかかえて去って行きました。)

三波春夫「高杉晋作」 悲劇の青春(番外3) 「狂気」の青春 付・坂本りゅうまがりょうまになった日

 幕末・維新期の番外編をもう一つだけ。
 倒幕・勤皇派にも若くして斃(たお)れた者たちはいっぱいいますが、新選組を歌わなかった青春歌謡は勤皇派も歌いません。
 新選組には権力側のテロリスト「人斬り」集団的性格がありましたが、勤皇倒幕派だって、テロ活動を展開しました。西郷隆盛などは薩摩藩が京や江戸で行なったテロ活動の黒幕でしょう。

 しかし、青春歌謡が新選組や勤皇派を歌わないのは単純な理由です。青春歌謡の素材になるには、大衆に広く知られた悲劇であること、イデオロギーに関わりなく哀れを誘うこと、青春歌手自身と同じぐらいの年齢(せいぜい二十歳前後まで)であること、等の条件が必要だからです。
 だから、時代歌謡、歴史歌謡は、もっぱら、演歌系の三波春夫、三橋美智也、村田英雄、春日八郎らのものでした。

 ところで、司馬遼太郎は新選組のイメージを刷新しただけでなく、倒幕・勤皇派のイメージをも刷新しました。『竜馬がゆく』です。
 『竜馬がゆく』は「産経新聞」に昭和37年6月から41年5月まで連載。随時単行本化されて全5巻。やはり東京オリンピックをはさむ時期の作品です。
大川橋蔵・月形半平太・青山京子 それまでは、大衆文化史における倒幕・勤皇派の「顔」は、薩摩なら西郷隆盛、長州なら桂小五郎(木戸孝允)、土佐なら土佐勤皇党の武市半平太でした。(「月様、雨が……」、「春雨じゃ、濡れてまいろう」でおなじみの月形半平太は、武市半平太をモデルに(ただし借りたのは名前だけで完全なフィクション)新国劇の座付作者・行友李風が大正時代に創造したヒーローです。画像右は昭和36年、大川橋蔵(&青山京子)の「月形半平太」。)

 それが『竜馬がゆく』が出てから、60年代後半、ことに70年代以来、すっかり坂本龍馬一色になりました。「スポ根マンガ」の先駆け「巨人の星」(梶原一騎原作/川崎のぼる画/「少年マガジン」66年から71年連載)だって、父・星一徹が龍馬の言葉を引用して息子・飛雄馬を叱咤します。
巨人の星・坂本竜馬 前回、司馬の描いた新選組副長・土方歳三の人物像を、かなり強引に、契約社会(ゲゼルシャフト)的・都市的・近代的エートスとしてまとめましたが、もちろんそれは、藩共同体を超えて活動し、海援隊という近代株式会社類似の組織も作った坂本龍馬にこそ無理なくあてはまるエートスでした。
 
 「竜馬がゆく」の最初の連続テレビドラマは昭和40年4月から11月の毎日放送制作版。中野誠也主演で、北条きく子、丘さとみ、近衛十四郎、東千代之介といった私好みの役者が脇を固めていたそうですが、未見です。昭和43年には北大路欣也主演でNHK大河ドラマが作られました。
 前回の「新選組の旗は行く」の春日八郎のレコードジャケットをご覧ください。B面が「竜馬の唄」です。どんな歌か知りませんが、司馬原作の「新選組血風録」主題歌のB面なら、おそらく同じ司馬作品『竜馬がゆく』にちなんだ企画でしょう。それならこれが『竜馬がゆく」の最初の歌謡曲化作品かもしれません。
 (なお、村田英雄がその翌年、昭和41年4月に「坂本龍馬/龍馬節」を出しています。さらに村田は大河ドラマに合わせて43年6月には「竜馬がゆく/竜馬しぐれ」を出します。そして、さかのぼれば、村田は36年3月に、早くも、「竜馬の恋」を歌っていました。しかも同じ年8月の「勤皇ヨサコイくずし」も龍馬を歌った歌でした。歌謡界での龍馬ものの先駆けにして本家本元は村田英雄だったわけです。

 坂本龍馬:「りゅうま」から「りょうま」へ
 ちなみに、村田は36年3月の「竜馬の恋」(五味渕洸作詞)ではその名を「りゅうま」と歌っています。36年8月の「勤皇ヨサコイくずし」(関沢新一作詞)も「りゅうま」です。41年4月の「坂本龍馬」で「りょうま」になります。43年6月の「竜馬がゆく」ももちろん「りょうま」です。

 龍馬自身がひらがなで「りょうま」と書いた手紙があるそうで、「りょうま」が正しいわけですが、昭和36年当時の村田英雄が無知だったというより、一般に坂本龍馬がまだビッグ・ネームでなかったこと、「りょうま」という読み方も定着していなかったことを示すものです。
 そもそも「龍馬」という言葉は昔からある言葉ですが、その読み方は、優れた名馬を指すなら「りゅうめ」「りょうめ」、将棋で成り角を指すなら「りゅうま」です。「りょうま」という読み方はありません。
 坂本龍馬の「りょうま」という読みが広く知られるに至ったのも、司馬の『竜馬がゆく』の功績だということです。
司馬遼太郎「竜馬がゆく」産経新聞連載s37~ 実際、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、37年6月から新聞連載されましたが、その際、タイトルには、「竜馬」にちゃんと「りょうま」とルビがついていたのでした。(右画像は2017年10月6日の産経WESTのネット記事(こちら)から。)坂本龍馬の名前にルビが必要な時代だったのです。

 さらについでに、「竜馬の恋」は、今日の龍馬フリークが題名から想像するかもしれない「お龍(りょう)」との恋を特に歌ったというものではありません。)
 しかし、私のようなへそ曲がりには、龍馬一色は気に入りません。
 それで、今日取り上げるのは坂本龍馬ではなく、三波春夫の歌った「高杉晋作」です。
 これは昭和38年11月から翌年8月まで、毎週日曜日の午後6時30分から7時までTBS系列で放送された連続時代劇の主題歌でした。主演は宗方勝巳です。(レコードジャケットにその画像があしらわれています。)
 こちらで聴きながらお読みください。karate2011buさんに感謝しつつ無断リンクします。

三波春夫「高杉晋作」
  昭和38年11月発売
  作詞:猪又良 作曲:春川一夫 編曲:山田栄一
高杉晋作63年・宗方勝巳(三波春夫) 一 六十余州を 揺り動かして
   菊を咲かせる 夜明けが近い
   のぞむところだ 幕末嵐
   剣を掴(つか)んで
   ゆくぞ 高杉晋作が
 二 花を愛する 蜜より甘く
   国を愛する 誰より強く
   月にうそぶく 長州桜
   せくな騒ぐな
高杉晋作   ここと決めたら 派手に散る
 三 雲をつらぬく 巨木のように
   ひとり 天下を 見おろす男
   どんと叩いた この胸板(むないた)
   若いこだまが
   明治維新の 明け太鼓

 高杉晋作はむろん、吉田松陰門下、松下村塾の傑物。坂本龍馬より3歳年下。(肖像写真は[wikipedia高杉晋作]から借用しました。)
 身分を問わず志願者で編成した我が国初の近代的軍隊・奇兵隊を創設し(1863)、幕府の長州征伐に屈しかかった藩論を乾坤一擲のクーデター(功山寺挙兵1864)で倒幕に結束させ、「四境戦争」(第二次長州征伐1866)では藩の海軍総督として幕府軍を撃破しますが、胸を病んで翌年(1867)、大政奉還が実現する半年前に、満年齢でいえば27歳で亡くなりました。龍馬が暗殺されるのは、同じ年、大政奉還の1カ月後です。
 テレビドラマの主役を演じた宗方勝巳は、松竹の恋愛青春映画では、ヒロインの相手役、しかし二番手どころの相手役を振られることが多かったように思います。テレビではNHKの「バス通り裏」(昭33~38)で人気を博し十朱幸代・バス通り裏・宗方勝巳ました。(右はその画像。若き十朱幸代の後ろで炬燵に入っているのが宗方です。)
 「高杉晋作」は宗方の唯一の主演ドラマだったかもしれません。
 詞も曲もテレビドラマ主題歌らしい威勢の良さ。三波春夫がおおらかに、朗らかに、力強く歌いあげます。
 作曲の春川一夫は三波春夫と同じ新潟県の出身。(実は私・遊星王子が少年期を過ごしたのも新潟県。)その縁もあったのでしょうか、三波の実質的デビュー曲「チャンチキおけさ」のカップリング曲「船方さんヨ」(昭32-6)以来、 「トッチャカ人生」(昭33-9)「忠太郎月夜」(昭34-8)  「一本刀土俵入り」(昭35-1) 等、三波のために多くの曲を作りました。(私はみんな歌えます(笑)。)
 「菊を咲かせる」の「菊」はもちろん天皇家の紋章。徳川家の家紋「葵」と対比して「菊は栄える葵は枯れる」は、幕末維新を歌う歌謡の常套句です。
 二番の「花を愛する蜜より甘く」は、後の「桜」と平仄を合わせての措辞でしょうが、やや言葉足らずで無理があるかもしれません。「甘く愛する」のでしょうか。
 「せくな騒ぐな」がいいですね。
 高杉には、通い詰めていた遊郭の女のために、即興で、「三千世界の鴉(からす)を殺し主(ぬし)と朝寝がしてみたい」という都々逸を作ったという逸話があります。真偽のほどは知りませんが、こんな逸話が似合う男として大衆にイメージされていたということでしょう。国事に奔走するなか、粋とゆとりを失わない男です。「せくな騒ぐな」はそんな高杉像を思わせます。
 (この都々逸、「主」というからには、遊女が男に向かって語りかけているのですね。遊女は客に、あなただけよ、という意味の起請文(きしょうもん)を書きます。客商売なので、乞われれば誰にでもいくらでも書きます。(真に受けてだまされる男の滑稽さは「品川心中」や「三枚起請」などの落語のネタになります。)起請文は神に誓うわけですが、とりわけ熊野の神が有名になり、誓いを破ると熊野の神の使いである鴉が三羽死に、破った者は地獄に堕ちるといわれていました。「三千世界」は仏教のインド式想像力によるめくらむような壮大な宇宙論でいう全宇宙のこと。いままでにも多くの男に起請文を乱発してきた遊女が、それらの他の男たちに対する起請の全部を破って世界中の鴉を殺す結果になったとしても、「主=あなた」一人と「朝寝」がしてみたい、というのです。「朝寝」は遊郭で男が遊女を独占して居つづけ(連泊)して初めてできることです。年季があけて「主=あなた」と所帯をもって暮したい、の意も含むでしょう。
 なお、落語の「居残り佐平次」や「品川心中」をベースに川島雄三が撮った映画「幕末太陽伝」(昭32)では、佐平次(フランキー堺)と同じ品川遊郭に高杉晋作もいて、女郎の前で三味線をつま弾きながら「三千世界の……」と口ずさんだりします。石原裕次郎演じる晋作は、長州の過激派仲間と異人襲撃などのテロを実行する一方、春風駘蕩、悠然として、これまた金もなく居残りをつづけています。)
 三番の「雲をつらぬく巨木」は、直前の「桜」を受けますが、「高杉」(高い杉)という姓にちなんだイメージでしょう。胸板を叩いて見せる晋作の頼もしさを強調して締めくくります。(しかし実際はその胸が結核に冒されていたのでした。)
 ところで、高杉晋作は、「東洋一狂生」と名乗り、「狂夫」「狂生」と自称し、自ら撰んだ墓誌銘にも「西海一狂生」と記しました。おそらく、日本史上、最も「狂」の名乗りを愛した男だったでしょう。
 「」はもともと、尋常ならざる精神の奔騰ぶりを示す文字。たとえば松尾芭蕉も、風雅に狂う「風狂」を自称しました。
 高杉晋作の「狂」も、常人の理解の枠を超えて飛翔する精神の高さ、理想に邁進して白熱する行動のエネルギーを示します。もちろん、自らの「狂気」こそが、国家非常のときに急迫して発動した「天地の正気(せいき)」を体現するものなのだ、という自負がこめられた名乗りです。
 晋作の「狂」は師である吉田松陰の「狂」を受け継いだものです。
 吉田松陰は、安政五年(1858)に藩主に上書建白した藩政改革案を「狂夫の言」と題しました。
 民生を重視して奢侈を排し、藩主自ら城を捨てて茶室に住まい、意見と人材を身分の別なく庶民にまで求めよ、藩主出席の最高会議も地べたに座って行なえ、雨が降ったら蓑笠を着て行なえ、という過激な建策でした。安政の大獄で江戸に送られて処刑されるその前年のことです。
 高杉晋作はその松陰の「狂」の継承者です。青春歌謡の手に負える人物ではありません。(松陰門下では山縣有朋も「狂介」と名乗りました。)

春日八郎「新選組の旗は行く」 悲劇の青春(番外2) 付・司馬遼太郎小論

幕末の佐幕派で今日最も人気の高いのは新選組ですが、青春歌手は新選組も歌いません。
 新選組は権力側の体制護持、治安維持の暴力組織、「人斬り集団」。60年代末でいえば、その役割は「反体制青年」たちを封じ込める警察か機動隊、戦前なら非合法活動家を取り締まる特高警察みたいなものです。「青春」イメージもほとんどありません。(もっとも、権力といっても、滅びゆく側に賭けたところが胸を打つのですが。)
 ちなみに、昭和8年に警視庁に創設された「特別警備隊」(現在の警視庁機動隊)は「昭和の新選組」と通称されたそうです。(そういえば橋幸夫は、60年代末、機動隊応援歌「この世を花にするために」(昭44-11川内康範作詞/猪又公章作編曲)を出していました。)
壮烈新選組・幕末の動乱 大衆文化史上の新選組イメージをがらりと変えたのは司馬遼太郎です。『燃えよ剣』(昭39年刊)で、それまで冷血漢扱いだった副長・土方歳三を主人公に据え、激動期に剣一本で世に出ようとする青年の野望の物語という性格を与えました。司馬の『新選組血風録』は、講談・浪曲の赤穂浪士に義士銘々伝があったのと同じく、いわば新選組銘々伝。二十歳代半ばで血を吐いて死んだ天才美(?)剣士・沖田総司などにスポットが当たるのもやっとこの頃からです。
 それまでは新選組の「顔」はずっと隊長・近藤勇。旧式の剣豪・豪傑イメージでした。なにしろ講談でなじみの近藤勇の名セリフは「今宵の虎徹は血に飢えておる」、まるで殺人鬼みたいな剣豪です(笑)。天皇制国家建設に挺身した「勤皇の志士」たちを弾圧・斬殺した集団の首魁なので仕方ありません。
 そのなかで、昭和初年からの大佛次郎の「鞍馬天狗」シリーズが、近藤をただの悪役ではなく、肝の太い、侠気(おとこぎ)のある人格者としてライバルに仕立てました。また、「新選組始末記」(昭3)に始まる子母澤寛(しもざわかん)の仕事が、近藤勇を中心に、新選組の実像に迫りました。60年代前半まで東映時代劇も新選組物を何本も撮りましたが、中心にいるのはいつも御大・片岡千恵蔵(まれに市川右太衛門)演じる近藤勇でした。(画像右は昭和35年の「壮烈新選組・幕末の動乱」です。)
 60年代半ば、司馬遼太郎が、近藤勇から土方歳三へ「顔」を切り替えることで、新選組イメージを刷新したわけです。
 以下、少々粗雑な人物対比です。
 近藤勇はどっしり構えた親分型。つまり共同体(ゲマインシャフト)型。土臭い農村型です。理よりも情。人に担がれるお神輿型のリーダー、といえば、西郷隆盛の像もダブります。
 対して、土方歳三は怜悧な参謀型。参謀は情ではなく理を重んじます。彼の非情なまでの隊規重視を、契約重視(隊の規約は入隊時に隊と隊員との間で交わされた契約です)と言い換えれば、契約社会(ゲゼルシャフト)型、都市型人間ともいえましょう。西郷との対比でいえば大久保利通かもしれません。
 つまり、近藤のエートス(倫理的特質)は前近代的、土方のエートスは近代的です。
 司馬が近藤勇ではなく土方歳三を選んだのは、合理主義的な司馬史観に適った選択だったと言えましょう。また、こうした司馬史観による新選組イメージの刷新が成功したのは、経済成長(都市化)を達成した日本社会の価値観の変化、共同体型から都市型への日本人のエートスの変化と一致していたからでしょう。その意味で、『燃えよ剣』や『新選組血風録』が昭和39年=1964年、東京オリンピックの年、美樹克彦「行こうぜ東京」の項で書いた「青春歌謡の時代」の前期と後期の分水嶺の年の刊行だったのは象徴的です。
 司馬の新選組イメージが広く浸透するのは、連続テレビドラマ「新選組血風録」新選組血風録・栗塚旭からです。
 「新選組血風録」は昭和40年7月から翌年1月にかけてNETで制作・放映されました(画像右)。
 土方歳三を栗塚旭、近藤勇を舟橋元、沖田総司を島田順司、斎藤一を左右田一平。みんな有名とはとてもいえない役者でした。しかし、栗塚旭は以後の土方イメージを決定するほどの当たり役になりました。舟橋の近藤は朴訥で生真面目なだけでしたが、左右田一平の飄々とした田舎オヤジ風の斎藤一や好青年・島田順司の沖田総司の人なつっこい笑顔が印象に深く残ります。左右田・斎藤も島田・沖田も、抜群の剣の使い手なのに、まるで血のにおいがしません。そこがかえって新鮮だったし、殺戮集団という新選組イメージの払拭に大きく貢献したはずです。
 私はこれを後年の再放送で観たのですが、いまでも観賞に耐える見事なドラマでした。ほぼ無名の役者たちを生かしたのは、なんといっても結束信二のすぐれた脚本と、それを映像化した河野寿一や佐々木康といった東映時代劇を長く手がけて来た名人監督の手腕です。
 「燃えよ剣」は昭和41年(1月から4月)に東京12チャンネルで連続ドラマ化されました。内田良平の土方歳三、小池朝雄の近藤勇、杉良太郎の沖田総司だったそうです。こちらはほとんど評判にならなかったようですし、私も未見です。
 当時、杉良太郎がテレビの歌番組で「燃えよ剣」を歌うのを見た記憶があります。このドラマの主題歌だったのですね。「青春歌謡」にはこれがふさわしいのですが、いまyoutubeにはありません。(「燃えよ剣」は昭和45年の4月から、再びNETが栗塚旭の土方歳三でドラマ化します。)
 で、今日は最後に、ドラマ「新選組血風録」の主題歌、春日八郎の歌った「新選組の旗は行く」を紹介しておきます。こちらで聴きながらお読みください。maidojapanさんに感謝しつつ無断リンクします。(レコードジャケットには、舟橋元、島田順司、栗塚旭の顔写真が配されています。その下に、こちらから無断借用した島田順司の人なつっこい笑顔画像も掲げておきます。)
 (なお、この曲にはボーカルショップによる男性コーラス版もあります。テレビドラマの記憶はこちらの方がよみがえるかもしれません。こちらで聴けます。これもrenyahimeさんに感謝しつつ無断リンクします。)

春日八郎・新選組の旗は行く・竜馬の唄春日八郎「新選組の旗は行く」
  昭和40年4月発売
  作詞:高橋掬太郎 作曲・編曲:渡辺岳夫
 一 花の吹雪か 血の雨か
   今宵白刃(しらは)に 散るは何
   *誠一字に命をかけて
    新選組は 剣を執(と)る*
   *~*繰り返し
 二 三つ葉葵に 吹く嵐
   うけてたつのも 武士の意地
新選組血風録・沖田総司・島田順司   *加茂の千鳥よ 心があらば
    新選組の 意気に泣け*
   *~*繰り返し
 三 明日はこの身が 散らば散れ
   燃える命に 悔いはない
   *月に雄叫(おたけ)び 血刀かざし
   新選組の 旗は行く*
   *~*繰り返し

 新選組を歌った歌謡曲としては、三橋美智也の「あゝ新選組」(昭30-9横井弘作詞「加茂の河原に千鳥が騒ぐ~」)や「新撰組の歌」(昭37牧房雄作詞「葵の花に吹く時代の嵐~」)の方が広く知られているでしょうし、私の好みでもあります。
 しかし、春日のこの歌もなかなかの名唱です。勇壮・悲壮な行進曲調です。詞の注釈は不要でしょう。
 新選組隊士たちが最初から滅びを覚悟していたとはとても思えません。むしろ彼らの夢は激動の風雲をつかんで「出世」することでした。近藤も土方も元は百姓の出です。(沖田総司は白河藩藩士の息子。)武士になること自体が「出世」です。
 彼らに時代が見えていたわけでもありません。むしろ彼らの視野は狭く愚かで、時代認識は遅れていたといわざるを得ません。
 しかし、彼らもいつの時からか亡(ほろ)びを自覚したでしょう。自覚して「亡び」の運命を引き受けた時から、彼らは初めて、「悲劇」の主人公になります。「亡び」を引き受ける時、人は完全に「功利」(利害や打算)を捨てます。だからこそ、生ある限り「功利」の中で右往左往せざるを得ない人間には、亡びる者は美しいのです。

舟木一夫「ああ !! 桜田門」 悲劇の青春(番外1) ニヒリズムとテロリズムと自意識

幕末維新の激動期が白虎隊だけでは少し物足りないので、番外編を加えます。
 幕末の勤皇攘夷は、後世風にいえば民族主義的革命運動です。
 幕府は当然弾圧を強化し、弾圧強化に伴って革命勢力も過激化してテロルが横行します。その最大の事件が、水戸浪士たちが大老・井伊直弼を襲撃した桜田門外の変でしょう。
 フィクションでは、クライマックスに桜田門外の変を置いた郡司次郎正(じろまさ)の『侍ニッポン』(昭6)があります。その主人公・新納(にいろ)鶴千代は世をすねた青年剣士。それでも水戸浪士に加担して井伊直弼を襲撃しますが、実は井伊の落し胤だったという設定です。
 ニヒルな剣士像は、中里介山『大菩薩峠』の机龍之助の系譜を継ぎ、戦後の柴田錬三郎の眠狂四郎に先立つもの。類似のニヒリズムは同じ時期に発表された大佛次郎『赤穂浪士』の堀田隼人も共有しています。
 (以下の画像は、上から市川雷蔵の机龍之助、同じく雷蔵の眠狂四郎、林与一の堀田隼人(これはめずらしい林与一のレコード)です。みんな「伸びた月代」(「侍ニッポン」)ですね。)
市川雷蔵・大菩薩峠・完結篇より 昭和初年は、もちろん近代日本の社会矛盾が激化して露呈した時代。反体制(革命)運動が急市川雷蔵・眠狂四郎進化する一方、体制による弾圧も強化されていました。(赤穂浪士討入りもいわば江戸における反体制テロルとしての側面を持ちます。)
 「政治の季節」は熱狂的な行動家(活動家)も作りますが、他方にニヒリズムも生み出します。明敏で鋭い知性を持つ青年ほどこのニヒリズムに陥りやすくなります。知性の働きの中心は、対象を分析し批判することです。知性は権威や権力の虚偽を暴露するだけでなく、あらゆる理想の虚偽を暴露し、あげく、人生の目的も喪失して、ニヒリズムが出現するのです。(ドストエフスキー的主題でもありますね。)
  彼らには体制の矛盾も見えますが、反体制運動の矛盾も見えてしまいます。 昭和初期に創造された大衆文林与一・堀田隼人学のヒーロー、堀田隼人も新納鶴千代も、ニヒリズムを抱えた同時代の青年の姿とダブったのです。
 (当時、仲間から「机龍之助」というあだ名をつけられたのは、平野謙だったかな、埴谷雄高だっかな。)
 (付け加えれば、行動という出口を失った知性が自己自身に向けられるとき、はてしない自己分析を繰り返す「自意識過剰」、「自意識の地獄」が出現します。「自意識過剰」は昭和初期の知的青年たちの一種の流行語でした。この自意識の構造を自覚的に方法化したのが小林秀雄の批評、小説に応用して切実なメタ・フィクション構造を作り出したのが太宰治です。)
 こんなことを書いているときりがありません。
 『侍ニッポン』は昭和6年には大河内伝次郎主演で映画化もされ、主題歌「侍ニッポン」(西條八十作詞/松平信博作曲)も大ヒットしました。
 一番と二番の歌詞だけ掲げておきます。とりわけ二番が秀逸でした。(徳山璉(たまき)が歌う「侍ニッポン」はこちらで聴けます。niponpolydorさんに感謝しつつ無断リンクします。なお、徳山は「新納」を「しんのう」と歌っています。この珍しい姓の読み方を知らなかったからです。この歌、昭和36年に村田英雄がリバイバルさせましたが、村田も律儀に(?)「しんのう」と歌っています。)

 一 人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ/伸びた月代さびしく撫でて/新納鶴千代にが笑い
 二 昨日勤皇明日は佐幕/その日その日の出来心/どうせおいらは裏切者よ/野暮な大小落し差し

 今日は同じ「侍ニッポン」の世界を歌った舟木一夫の「ああ !! 桜田門」。
 新納鶴千代は虚構の人物であり、しかも昭和44年の明治座公演で舟木が新納鶴千代を演じたときの主題歌なので青春歌謡の時代終焉後、だから「番外」です。
 こちらで聴きながらお読みください。mituhiro04さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケット画像の下は、舞台パンフレットでしょうか、こちらから無断拝借しました。感謝します。共演は光本幸子。その下はレコードB面の光本とのデュエット「恋のお江戸の歌げんか」のジャケット。光本も楽しそうに歌っていて、私は好きですね。こちらで聴けます。furumeroさんに感謝しつつこれも無断リンクしておきます。)

レコード・ああ !! 桜田門舟木一夫「ああ !! 桜田門」
  昭和44年7月発売
  作詞:西沢爽 作曲・編曲:船村徹
 一 剣じゃ斬れない 天下の流れ
   知っていながら おれは行く
   新納鶴千代 唇かめば
   赤い雪ふる 桜田門
 二 敵がありゃこそ 今日まで生きた
   夢がむなしい 江戸の春
舟木一夫・新納鶴千代s44-7明治座公演   野暮はよせよせ 勤皇佐幕
   可愛い女が 泣くだけよ
 三 一夜あければ 時代が変る
   いつかおれなど 忘られる
   せめて刻むか 桜田門の
   雪にはかない 武士の名を

 さすがの西沢爽も西條八十の詞には及びませんでした。仕方ありません。しかし、西沢爽らしいうまさもあります。
 「天下の流れ」が剣では斬れないことを鶴千代は知っています。彼は歴史の大勢と己れの行為の無力を自覚している明敏な意識家です。
レコード・恋のお江戸の歌げんか にもかかわらず彼が「行く」のは、ニヒリストはたんに不感無覚の諦観者ではないからです。むしろ彼は、一面では世の不合理に怒る多感な青年です。ここが大衆文学のヒーローとして大事な点です。(眠狂四郎だってけっこう弱者の味方です。)(下の「補足」で述べるツルゲーネフ「父と子」のバザーロフも、明敏な知性と同時に眼前の不合理に怒る激情の持ち主です。それがあらゆるニヒリスト青年の思想的緊張の源泉です。)
 二番冒頭の「敵がありゃこそ今日まで生きた」はニヒリストの本質を表現しています。ニヒリストは、何か信じるポジティブ(積極的)な理想や理念があって行動するのではありません。彼の行動は基本的には、目の前の何か(世の不合理)に対するリアクションとしてしかありえないのです。その意味で、「敵」の存在がニヒリストをかろうじて行動へと押し出していたのです。
 ニヒリズムの根底は、人はいつかは死ぬ、存在は無意味だ、という意識です。むろんニヒリストは「神=永遠」も信じません。「いつか俺など忘られる」のです。
 「せめて刻むか桜田門の/雪にはかない武士の名を」。それでも自分の生の痕跡を刻もうとするのは、世界の虚無に対する人間のせめてもの抵抗です。しかし、刻む対象も、たちまち消えてしまう「雪」でしかありません。
 本日のテーマ、書き出せばきりがありませんが、ほんの短く補足しておきます。
 ニヒリスト青年の元祖はツルゲーネフが描いた「父と子」のバザーロフだといわれます。バザーロフは知性(唯物論的理性)によって、帝政ロシアの現実の虚偽・矛盾を暴きますが、理想も理想実現の方法も持たない彼が主張できるのは、ただ、いっさいを破壊せよ、ということだけです。つまりテロリズムです。(実際、ロシアでは、皇帝暗殺などのテロルを実行したグループが「ニヒリスト=虚無党」と呼ばれることになります。)つまり、バザーロフの「破壊あるのみ」も、現実に対するリアクションとしての主張です。
 しかし、堀田隼人や新納鶴千代の意識はバザーロフにはあまり似ていません。ロシア文学でいえばバザーロフ以前の「余計者」意識に近いでしょう。不合理な社会では自分の能力の使い道がないというあきらめから生じる「余計者」の自覚です。
 日本でいえば「無用者」意識です。舟木一夫「まだ見ぬ君を恋うる歌」の項で書いたとおり、唐木順三のいう「無用者の系譜」は日本文学の伝統でした。堀田隼人や新納鶴千代は、文学という逃げ場を持たないために行動者たらざるを得なかった「無用者」だったのだ、というべきかもしれません。

舟木一夫「あゝ鶴ヶ城」 悲劇の青春(11)

舟木一夫も白虎隊を歌っていました。今日はその曲。「あゝ鶴ヶ城」。こちらで聴きながらお読みください。jewel5522さんの作品です。感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫「あゝ鶴ヶ城」
  昭和40年8月発売
  作詞:野村俊夫 作曲・編曲:古関裕而
 一 花の姿に 例うれば
   蕾も清き 山ざくら
   まだ前髪は 残れどもレコード・あゝ鶴ヶ城
   誇りは高し 会津武士
   護る生命の 鶴ヶ城
 二 頼む砦も すでに落ち
   散りゆく花の 美少年
   無念の涙 拭いつつ
   腹かき切って 伏し拝む
   赤き炎の 天守閣
 三 年は移りて かえらねど
   その名ぞ残る 白虎隊
   飯盛山を めぐり行く
   今宵の月に 偲ばるゝ
   薫る誉の 会津武士

 B面はコロムビア・ローズ(二代目)とのデュエットで「お城かこんで輪になって」(丘灯至夫作詞/市川昭介作編曲)。盆踊り唄ですが、この「お城」も鶴ヶ城。「国の夜明けの戊辰のいくさ/いまも名残りの鶴ヶ城」「忠義一途のあの白虎隊/ひと目見せたいこの城を」と歌います。
 いわば福島県会津若松市を舞台にした地域限定「御当地ソング」の一枚でした。同じこの年8月には「たそがれの人/夜霧のラブレター」「浜の若い衆磯浜そだち」と、計3枚のレコードが発売されていて、「あゝ鶴ヶ城」はまったくのマイナー扱い。私もこの曲、CD全集で初めて聴きました。
 レコードが当初からマイナー扱いだっただけでなく、聴いておわかりのとおり、古関裕而の曲も、傷つきよろめく隊士の歩調を再現するかのように、マイナー(短調)を多用します。これまた、勇壮・悲壮を強調した橋幸夫「花の白虎隊」三田明「燃ゆる白虎隊」と大きく異なるところ。「右衛門七討入り」を橋の「美少年忠臣蔵」と対比して書いたとおり、舟木の美学はあくまで「あはれ」なのです。
 作詞は野村俊夫。野村俊夫(1904~1966)は戦前から活躍した作詞家で、戦時歌謡の名作「暁に祈る」(昭15古関裕而作曲/伊藤久男歌)は古関裕而とのコンビ作品。戦後にも「湯の町エレジー」(昭23古賀政男作曲/近江俊郎歌)や「東京だヨおっ母さん」(昭32船村徹作曲/島倉千代子歌)などの代表曲がありました。
 野村は福島県福島市の出身でした。作曲の古関裕而(1909~1989)も同じ福島市の生まれ育ち。二人は家が近所で幼少時一緒に遊んだ仲だといいます。(なお、橋幸夫「花の白虎隊」の記事末尾で「二本松少年隊」に触れて書いたとおり、歌手・伊藤久男も福島県出身。「暁に祈る」は福島県出身トリオの作品でした。)
 野村の詞は一番二番で白虎隊の悲劇を歌った後、三番では現在に立ち返って往時を偲んで結びます。
 その一番の冒頭、白虎隊士を「蕾も清き山ざくら」にたとえています。
 橋幸夫の「花の白虎隊」(昭36-5)で佐伯孝夫は「散らばさくらの決死行」と書いていました。同じく橋の「美少年忠臣蔵」では、吉田正の曲が「同期の桜」のメロディーを「引用」した上で、佐伯孝夫の詞は「赤く咲く咲く若ざくら」と書いていました。佐伯孝夫・吉田正のコンビは桜の花のイメージを介して、忠臣蔵も白虎隊も戦時下の特攻隊イメージと重ね合わせていたのです。
 もちろん平安朝から「花」といえば桜ですが、また江戸時代、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」では天河屋義平の義侠心を称賛して大星由良助が「花は桜木人は武士と申せども云々」と言いますが、しかし、それは必ずしも散りぎわの「いさぎよさ」を強調したものではありませんし、まして、いっせいに開きいっせいに散る集団性を言うのでもありません。
 桜がそういう意味やイメージを帯びてナショナリズムのシンボルになるのは、明治以後のこと。
 しかもそれは、新品種として登場したソメイヨシノの爆発的普及の結果でした。「花の都の靖国神社/同じ梢に咲いて会おうよ」(「同期の桜」)と歌われる靖国神社はもちろん明治以後の創建、境内のソメイヨシノは明治12,3年ごろから植えつけられたものだといいます。
 (靖国神社は戊辰戦役の戦死者を祀るために、明治2年、東京招魂社として創建されました。ただし、祀られたのは「官軍」側の死者だけ。「賊軍」だった会津藩など東北諸藩の死者は含まれません。明治12年に「靖国神社」と改称。ソメイヨシノの植樹もこの頃でしょう。)
 全国の神社やお寺の境内、桜の名所と呼ばれる土地の群桜が、いっせいにピンクの華やかな花弁を開き、またいっせいに桜吹雪として散ってゆく光景は、このソメイヨシノが作りだしたものです。それ以前は佐藤俊樹『桜が作った「日本」』がいうように、桜の名所も大半は「多品種分散型」だったのです。つまり、同じ品種の同じ色の花がいっせいに開いていっせいに散ったりはしなかったのです。(佐藤俊樹の『桜が作った「日本」』は、桜を例に「伝統が新しく作られる」ことを証明してみせた面白い読み物です。)
 そもそも本居宣長が「大和心」のシンボルとして詠んだのも山ざくらでした。
 しきしまのやまとこころを人とはば朝日ににほふやまさくら花
 そしてこれは、散る花ではなく、朝日に美しく照り映えて咲き誇る花でした。
 野村俊夫の詞がたとえるのも、当然、ソメイヨシノではなく「山ざくら」。しかも「蕾」です。「蕾」ながらも、若い命の「にほふ」凛々しい若武者たちの姿です。
 もちろん、悲運の若者たちを「花=桜」にたとえたとたん、「にほふ」がごとき若さの絶頂で「散る=死ぬ」運命がたち現れますが、それを「いさぎよさ」が主眼と解する必要はありません。むしろ主眼は、美しきものが美しきままに滅びる、その「あはれ」です。
 それにしても、思えば、このテーマで取り上げた曲、他にも、
 舟木の「敦盛哀歌」(村上元三作詞)が「花のいのちは匂えども」。
 舟木の「右衛門七討入り」(西沢爽作詞)が「矢頭右衛門七散りゆく花か」。
 同じく「右衛門七節」(西沢爽作詞)では「散らすさだめ」。
 三田明の「燃ゆる白虎隊」(吉川静夫作詞)も「花も会津の若き武者」。
 「桜」とは言わぬまでも、ほとんどが彼らを「花」にたとえていたのでした。伝統の修辞(メタファー)は、我々の認識と想像力の根底に深く食い入っています。
 会津白虎隊は戊辰戦役における東北諸藩の悲劇の代表です。近代の東北は「敗者」の国です。祀られざる無念の「死者」たちの国です。
 白虎隊の歌を三回つづけた最後に、「花」としての運命に殉じた東北の「敗者」たち、若者たちの鎮魂のために、金子兜太の句を引いておきましょう。
 人体冷えて東北白い花盛り
 この句は白虎隊とは何の関係もなく詠まれた句でしょう。しかし、「人体冷えて」とはただごとではありません。
 ここには「あの世」があります。「東北白い花盛り」は他界の光景です。
 私はそう感じます。
 (なお、「東北白い花盛り」で私が思い浮かべるのは桜の花ではなくリンゴの花です。関心のある方は、佐々木新一「リンゴの花が咲いていた」の項もお読みください。)

三田明「燃ゆる白虎隊」 悲劇の青春(10)

 白虎隊の歌、今日は三田明の「燃ゆる白虎隊」です。
 こちらで聴きながらお読みください。masao587さんに感謝しつつ無断リンクします。

三田明「燃ゆる白虎隊」三田明・燃ゆる白虎隊
  昭和40年3月発売
  作詞:吉川静夫 作曲・編曲:吉田正
 一 明治元年 秋なかば
   孤城を守る 初陣に
   降るは血の雨 弾丸(たま)の雨
   花も会津の 若き武者
   われらは燃ゆる
   われらは燃ゆる 白虎隊
    少年団結す 白虎の隊
三田明・燃ゆる白虎隊s40中村竹弥・清川新吾    国歩艱難 堡塞を戌(まも)
 二 頼むとりでも 破られて
   意気なお揚がる 十六士
   傷のいたみに 母想う
   眉もおおしく 美しき
   われらは燃ゆる
   われらは燃ゆる 白虎隊
    南鶴ヶ城を望めば 砲煙颺(あが)
    痛哭涙をのんで 且つ彷徨す
 三 赤き炎か 鶴ヶ城
   飯盛山の 風も泣く
   恋の命は 短くて
   忠と義のため 今ぞ散る
   われらは燃ゆる
   われらは燃ゆる 白虎隊

 TBSの連続テレビドラマ「燃ゆる白虎隊」の主題歌でした。レコード・ジャケットの下はその画像。激戦に傷ついた紅顔の若武者ぶりです(三田のとなりは中村竹弥)。資料によれば、昭和40年5月4日から7月27日までの全13回だったとのこと。私はたぶん何回かは観ていたはずです。

 (2023年3月10日付記:うれしいことに「燃ゆる白虎隊」、58年後に観ることができたので、その感想を舟木一夫&コロムビア・ローズ(二代目)「お城かこんで輪になって」の項に書きました。ドラマの写真も掲載してあります。ご覧ください。)

 しかし、いまこの歌を聴くと、文語体で詩吟をあしらった詞も悲壮な行進曲調(軍歌調)の曲も、橋幸夫の「花の白虎隊」との類似性が目立ちます。
 梶光夫「青春の城下町」の項などで何度か書いたとおり、青春歌謡の時代は歌謡曲の詞も曲も「定型の時代」でした。「定型」は類似性をまぬがれません。しかしまた、それとは別に、同じレコード会社の同じ吉田正門下ということで、ともすれば先輩・橋幸夫の「後追い」「二番煎じ」たらざるを得なかった三田明もつらかっただろうな、などという感想さえ浮かびます。
 それでも三田は、二回に分けて織り込まれた詩吟もこなしてみせました。微妙に稚(おさな)さの残る吟詠がかえって隊士たちの必死な哀れを漂わせます。
三田明s40-3明星より「燃ゆる白虎隊」 「少年団結す白虎の隊……」は佐藤盛純作「白虎隊」の冒頭二行。「国歩艱難堡塞を戌る」の「国歩艱難」は国の進路が困難なこと、「国」は会津です。「堡塞」は砦(とりで)
 三田は「十六士」と歌います。
 橋幸夫「花の白虎隊」は「飯盛山上十九人」と歌っていました。佐藤盛純「白虎隊」も「十有九士」です。
 (右は「明星」40年3月号より。)
 白虎士中二番隊の構成員は37名でした。戸ノ口原の戦いで大打撃を受け潰走し、飯盛山上に辿り着いた者たちが自刃しました。自刃の模様はただ一人だけ命を取り留めた隊士によって証言されましたが、その証言ではともに自刃を敢行した者十六名(死者は十五名)でした。三名追加されて十九名になった経緯はこちらに詳しく書かれています。関心のある方はどうぞ。
 ドラマ主題歌を兼ねたこの曲では、実際のドラマ場面をあらかじめ考慮して「十六士」としたのだろうと推測します。
 (付記:しかし、上記のとおり58年後にドラマを観たのですが、特に飯森山で人数確認などしていませんでした。)

橋幸夫「花の白虎隊」 悲劇の青春(9)

歴史の中の悲劇の青春、時代は一気に幕末に飛びます。
 体制と反体制、革命と反革命、当時の用語でいえば勤皇と佐幕、ここに開国か攘夷かという外交上の択一も重なって、日本史上前例のない「政治の季節」が出現します。青年たちも熱狂しました。テロリズムも横行します。
 しかし、勤皇も佐幕も攘夷も開国も、「政治」(政治的選択)です。青春歌謡は「政治」は歌いません
 青春歌謡が歌うのは「悲劇」です。「悲劇」が成立するには選択の余地のない「運命」という絶対的な観念が必要です。「悲劇」とは「運命」に殉じることです。
 したがって、幕末維新期の非命に斃れた多くの青春の中で、青春歌手たちがもっぱら題材にしたのは会津白虎隊だけでした。
 会津藩は京都守護職をつとめた経緯から、旧幕府勢力の中心とみなされ、戊辰戦争において「官軍」の猛攻撃にさらされました。16歳から17歳の少年たちで結成された白虎隊は藩という共同体の運命に殉じたのです。
 今日は橋幸夫の「花の白虎隊」。残念ながら今youtubeには橋本人の歌唱はなく、素人さんのカラオケがあるだけです。
 (「南海の美少年」のカップリング曲です。レコード・ジャケットは「南海の美少年」の項に掲げたので、ここには、同名のよしみで大映映画「花の白虎隊」の画像を掲げておきます。この映画は昭和29年の作品。橋幸夫とは縁の深い市川雷蔵のデビュー作です。同時に、後に雷蔵とともに大映を背負うことになる勝新太郎のデビュー作でもありました。しかも雷蔵と勝新は同年齢でもあったのです。→注1

花の白虎隊s29-8橋幸夫「花の白虎隊」
  昭和36年5月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 一 会津若松鶴ヶ城
   二十日籠りて城落ちぬ
   血潮にまみれたその旗は
   あわれ少年白虎隊
    南鶴ヶ城望めば砲煙颺(あが)
    痛哭涙を飲んで且つ彷徨す
 二 秘めて清らなおもかげの
   白い鉢巻濡れ羽髪
   想えばこの胸せまりきて
花の白虎隊・市川雷蔵・黒川弥太郎   呼べど火砲(ほづつ)の答うのみ
 三 寄せる大軍背に腹に
   散らばさくらの決死行
   飯盛山上十九人
   泣いて拝がむ城かなし

 詞はまず「二十日籠りて城落ちぬ」と、会津戦争の顛末を冒頭二行で歌います。
 「官軍」が若松城下に突入したのは慶応4年8月23日(旧暦)。本来は予備兵だった白虎隊まで投入するもたちまち敗退し、白虎隊の悲劇の中心としてこの歌でも歌われる士中二番隊が飯盛山で自花の白虎隊・市川雷蔵・勝新太郎刃するのもその日です。以後、籠城戦となり、同盟諸藩の相次ぐ降伏によって孤立した会津藩がとうとう降伏・開城するのは9月22日。籠城はほぼ一カ月、三十日です。なぜ「二十日」なのか。まさか「みそか」と「はつか」の語呂の問題だけでないとすれば、城から討って出ることをやめて完全籠城に入ってから二十日間、ということでしょうか。私は不勉強でよくわかりません。
 詩吟が入ります。橋幸夫の聞かせどころです。
 実は白虎隊を歌った歌謡曲には、これ以前、昭和27年に霧島昇の歌った名曲「白虎隊」(島田磬也(きんや)作詞/古賀政男作曲)があり、やはり詩吟が入ります。その詩吟は以下の4行。霧島昇ではなく、専門の吟詠家が担当しています。ご参考までに、この曲、こちらで聴けます。niponplydorさんに感謝しつつ無断リンクしておきます。
 (なお、煩雑ですがちょっと注記。島田磬也作詞古賀政男作曲のこの曲は元は昭和12年に藤山一郎が歌ったもの。藤山一郎版はこちらで聴けます。この曲について、上記の映画「花の白虎隊」のために野村俊夫が作詞し直して霧島昇が歌い、それが映画主題歌として使われたが、島田磬也から抗議があって、あらためて島田磬也の詞で霧島が吹き込み直してそれが流布した、ということを、その映画主題歌版をupされているblackcat088306さんがこちらに書かれています。[wikipedia霧島昇]のディスコグラフィー「白虎隊」には、「昭和27年」発売で「野村俊夫」の作詞だと注記があります。映画「花の白虎隊」は昭和29年8月公開作。上記の矛盾する記述のどこかに間違いがあるはずですが、私にはわかりません。好事家の考証を待ちます。→注2
 さて、その藤山一郎(霧島昇)「白虎隊」の詩吟部。
  南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
  痛哭涙をのんで且つ彷徨す
  宗社亡びぬ我が事畢(おわ)
  十有九士屠腹して斃(たお)

 橋はこのうち2行だけに縮め、橋らしく、あるいは歌謡曲らしく、少し軽めに吟詠します。
 この漢詩は佐原盛純作「白虎隊」。七言二十行の全文と詳細な解説はこちらにあります。関心のある方はどうぞ。
 「涙」は橋は「なんだ」と詠じています。(霧島昇・島田磬也版も「なんだ」。藤山一郎版と霧島昇・野村俊夫版は「なみだ」。次回取りあげる三田明「燃ゆる白虎隊」は「なんだ」。)なお、上記の解説者によれば、「且」はこの文脈では「かつ」(一方で……しながら)ではなく「しばらく」(しばらくの間)と訓(よ)むのが正しいそうです。
 橋の歌にもどります。
 二番は彼らの一人の胸中に浮かぶ恋しい女性の面影でしょう。訣(わか)れの時、彼女も「濡れ羽髪」(「髪は烏の濡れ羽色」は女性の黒髪のつややかさを形容する常套句です)に決死の白鉢巻をきりりと締めていたのです。会津戦争では若い娘たちも自発的に「娘子隊(じょうしたい)」を結成して戦いました。
 三番は漢詩「白虎隊」で「十有九士屠腹して斃(たお)る」と謳われた白虎士中隊二番隊の悲劇。腹背の敵に大打撃を受けて潰走した彼らのうち二十名は飯盛山山上に至り、鶴ヶ城を遠望し、「我が事畢る」と観念して自刃しました。一人だけ一命を取り留めたので「十有九士」「十九人」です。(人数には異説がありますが、それは次回書きます。→注3
 佐伯孝夫はここにも「散らばさくら」と書き込みました。「さくら」のごとくいさぎよく一緒に散ろう、との意です。「美少年忠臣蔵」と同じく「同期の桜」、特攻隊イメージを重ねるのです。しかし、このいっせいに「いさぎよく」散る桜のイメージ、ほんとうは間違っています。そのことは次々回書きます。
 (ところで、末尾の「泣いて拝がむ」の「拝がむ」。私の手元の橋幸夫CD全集版では橋は「おがむ」と歌っており、歌詞カードも「拝」に「お」とルビを振っています。しかし、「ないておがむ」では六音。また、「おがむ」なら「拝む」と書けばルビは不要です。本来の佐伯孝夫の詞では「拝(おろ)がむ」だったのではないか、と思います。それなら七音だし「拝がむ」と書いてルビを振る必然性もあります。「おろがむ」は「拝む」と同義の古語、用例は『古事記』にまでさかのぼれます。古調も出て格調も高くなります。しかし、今確認できません。)
 (なお、戊辰戦役において「賊軍=朝敵」扱いされた東北諸藩の少年部隊の悲劇、会津白虎隊に先立つ7月末、二本松藩の12歳から17歳の少年部隊「二本松少年隊」(命名されたのは後年)の悲劇がありました。
 昭和15年に映画「二本松少年隊」があり、主演した高田浩吉が主題歌「二本松少年隊の歌」を歌っています。また、昭和32年には伊藤久男が歌う「二本松少年隊の歌」も発売されました。伊藤の歌の作詞は野村俊夫、作曲は古関裕而。次々回の舟木一夫「あゝ鶴ヶ城」の項で書きますが、野村も古関も福島県福島市の出身。さらに伊藤久男も福島県の出身でした。
 青春歌謡の時代には、こまどり姉妹が「花の二本松少年隊」(昭37-5野村俊夫作詞/市川昭介作曲)を歌い、三橋美智也が「二本松少年隊」(昭40高橋掬太郎作詞/細川潤一作曲)を歌っています。三橋美智也の曲はこちらで聴けます。)

後日注記
 注1)
 この「花の白虎隊」(昭36-5)のあと、橋幸夫には「花の兄弟」(昭36-12)「花の折鶴笠」(昭37-12)「花の舞妓はん」(昭39-3)と、「花の」と冠するヒット曲があります。いわば橋幸夫の「花」シリーズ。その先頭がこの「花の白虎隊」だったことになります。
 もちろん天草四郎の歌のカップリングに白虎隊の歌が選ばれたのは、時代歌謡としての悲劇の青春、というコンセプトによるでしょう。しかし、そのタイトルを「花の白虎隊」としたのは、市川雷蔵の銀幕デビュー映画「花の白虎隊」を意識してのことだったかもしれない、と推測します。つまり、市川雷蔵へのひそかなオマージュだったかもしれない、と推測します。
 昭和36年前半、橋はヒット曲とタイアップした大映股旅映画への出演が続きました。
 「潮来笠」(昭36-1公開)「木曽ぶし三度笠」(昭36-3公開)「おけさ唄えば」(昭36-4-5公開)「喧嘩富士」(昭36-4-26公開) と立て続けです。
 「おけさ唄えば」で初めて、人気絶頂の市川雷蔵と共演しました。大スターとの初共演です。(「潮来笠」「木曽ぶし三度笠」の主演は小林勝彦。いかんせん小林勝彦にはスターとなる「花」が足りなかったし(ご勘弁)、「喧嘩富士」の主演は勝新太郎ですが、当時の勝と雷蔵では人気に大きな差がありました。)つづいて、出演はしませんでしたが雷蔵主演の「沓掛時次郎」(昭36-6公開)の主題歌「沓掛時次郎」(昭36-7)も歌って大ヒットします。
橋幸夫・おけさ唄えば36-5 右は「別冊近代映画」昭和36年5月下旬号の表紙。橋と雷蔵は面差しもどこか似ていて、橋は雷蔵にかわいがられます。それが翌年の正月映画「花の兄弟」(昭36-12-27公開)の兄弟役につながります。 
 「おけさ唄えば」は前年10月のレコード発売でしたが、「潮来笠」につづく股旅映画として企画されたわけです。つまり、レコード「南海の美少年/花の白虎隊」が企画されたのは映画「おけさ唄えば」が撮影されていたころではないか、というのが、これを雷蔵デビュー作「花の兄弟」へのひそかなオマージュと推測する私の根拠です。

 注2)
 映画「花の白虎隊」を観る機会がありました。
 ご参考までに、映画中で流れる霧島昇の主題歌「白虎隊」(つまりblackcat088306さんがupされているレコード。「作詞:野村俊夫/作曲:古賀政男」とスクリーンにも出ます)の歌詞は次の通り。(太字部分が野村俊夫の変更部分、その後の( )内がもともとの島田磬也の詞。なお、小さい文字の( )は私が付けたただのふりがなです。)
  一 戦雲暗く 風絶えて(陽は落ちて)
    孤城に冴ゆる(月の) 月の影(影悲し)
    誰(た)が吹く笛ぞ(か) 音も悲し(知らねども)
    今宵名残りの 白虎隊
  二 紅顔可憐の 美少年(少年が)
    死をもて守る この山河(砦塞(とりで)
    滝沢口の(村の) 決戦に(血の雨に)
    降らす(濡らす)白刃も 白虎隊
  三 飯盛山の 秋深く(いただきに)
    松籟(しょうらい)肌に(秋吹く風は) 寒けれど
    忠烈永遠(とわ)に(今も) 香に残す
    花も会津の 白虎隊

 依頼された野村俊夫も苦労したのでしょうが、結局は部分改作。これで島田磬也の名前を消して「作詞:野村俊夫」と名乗ったのでは、たしかに著作権侵害でしょう。

 注3)
 映画「花の白虎隊」の末尾近くの詩吟では以下のように謳います。
  南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
  痛哭涙(なみだ)をのんでしばらく彷徨す
  宗社すでに亡びて我が事畢(おわ)
  十有六人腹を屠(ほお)って斃る

 「涙」は「なみだ」、「且」は「しばらく」、原詩にない「すでに」を入れ、「屠腹」は訓読みして「はらをほふって(実際の吟詠は「ほおって」)」と吟じています。なにより、「十有六人」です。

舟木一夫「右衛門七節」 悲劇の青春(8)

今日は舟木一夫「右衛門七討入り」のB面曲「右衛門七節」。
 こちらで聴きながらお読みください。これもjewel5522さんの作品です。感謝しつつ無断リンクします。

矢頭右衛門七・日劇舟木一夫ショー・週刊平凡39-10-1舟木一夫「右衛門七節」
  昭和39年11月発売
  作詞:西沢爽 作曲:遠藤実 編曲:安藤実親
 一 江戸の娘は おしゃらく雀
   一目惚れじゃと またさわぐ
   あれは元禄 右衛門七若衆
   花の小袖が
   アレサ 小袖が
   憎いじゃないか
 二 胸の涙を 笑顔でつつみ
   風に柳の 落し差し
   あれは元禄 右衛門七若衆
   見せぬこころが
   アレサ こころが
矢頭右衛門七39秋別冊明星   憎いじゃないか
 三 恋もしたかろ 仇討つ身でも
   一生一度の おもいでに
   あれは元禄 右衛門七若衆
   散らすさだめが
   アレサ さだめが
   憎いじゃないか

 「右衛門七討入り」とは一転して、小唄調を取り入れた詞も、琴を用いた曲も、江戸情緒を纏綿させながら右衛門七の若衆ぶりを歌います。
 もちろんこれは西沢爽のフィクション。たとえ「美少年」ぶりが伝えられているにしても、右衛門七が「花の小袖」に「落し差し」の派手で柔弱な若衆姿で市中を徘徊して、「おしゃらく雀」(「おしゃらく」は「お洒落」)たる江戸の娘たちの噂の的になったなどということはありえません。大願成就のその日までは身を隠さねばならぬ潜伏生活です。(小袖は元禄期から柄が華やかになって、「元禄小袖」という呼び名もできます。)
 しかし、だからこそよく隠れよく耐えたその右衛門七に、せめて歌謡曲の中だけでも、花の元禄若衆姿をさせてやりたい、ということだったでしょう。つまり、これはいわば、悲運に夭折した若者への手向けとしてのフィクションです。
 右衛門七の若衆イメージは、前々回、橋幸夫「美少年忠臣蔵」の項で掲載した映画「元禄美少年記」のカラー・ポスターの中村賀津雄の扮装を参考にされるのがよいでしょう。(この映画では、若衆姿の右衛門七を町娘しの(雪代敬子)が恋い慕い、右衛門七はしのから吉良邸での茶会の日取りを聴き出す、という設定です。)
 今日は舟木自身の扮した若衆姿の右衛門七の画像も二枚掲載してみました。1枚目は「週刊明星」39年10月1日号から、日劇での「舟木一夫ショー」の舞台写真。2枚目は同時期の「別冊明星」から、これもおそらく大河ドラマではなく、同じ舞台のための扮装でしょう。
矢頭右衛門七 中村賀津雄も舟木一夫も前髪を残した若衆ぶりです。舟木の右衛門七は3枚目の写真のとおり、討入り時にも前髪の上に鉢巻きを締めています。
 ところで、前回「右衛門七討入り」の項で掲載した画像のうち、大河ドラマ「赤穂浪士」の、本懐を果たした浪士たちが雪の上に跪いて居並ぶ小さな写真を見てください。(クリックするとほんの少しだけ大きくなります。泉岳寺の内匠頭の墓前に吉良の首級を供えた場面だろうと思います。)このドラマでは中村賀津雄は大石主税を演じました。中央の大石内蔵助・長谷川一夫の隣です。主税には前髪はありません。月代(さかやき)をきちんと剃り上げています。
 主税は元禄14年3月の内匠頭刃傷の時点では数え14歳、まだ元服前でしたが、その年の年末に元服しています。元服すると、前髪を落として月代を剃り上げます。武士にあっては、前髪は元服前の少年を示す髪型、月代は成人男子を示す髪型です。元服年齢は厳密に定められていたわけではありません。個々の事情によって遅くもなれば早くもなります。また、当時、若衆は潜在的には衆道(男色)の対象ですから、「成人男子」と区別するために前髪姿なわけです。
 矢頭右衛門七は主税より2歳年長。しかも病床の父の代理として早くから謀議に出席し、元禄15年8月にはその父が死去しています。つまり、矢頭家を代表して参加した右衛門七がいつまでも、とりわけ討入り時に、前髪姿でいたはずはないのです。
 その意味でも、右衛門七の若衆ぶり自体がフィクションです。 
 西沢爽はもちろんそれを承知のはずです。その上で、詞は、いわば「おしゃらく雀」たる町娘たちの視線(さらにはその延長上にいる江戸庶民たちの視線)で、右衛門七の悲運を悼み「あはれ」を詠嘆してみせるのです。さすがは西沢爽。見事でした。
 (ちなみに、舟木一夫はNHK大河ドラマでは、昭和39年の「赤穂浪士」での矢頭右衛門七、昭和41年の「源義経」の平敦盛についで、昭和46年には中村錦之助主演の「春の坂道」で駿河大納言・徳川忠長役を演じました。これもまた、将軍・家光の弟でありながら、幕府によって死に追い込まれる悲運の役でした。しかし、このとき舟木がレコード化したのは「春の坂道/里の花ふぶき」。忠長ではなく、ドラマの主人公・柳生宗矩を歌ったものでした。)

舟木一夫「右衛門七討入り」 悲劇の青春(7)

矢頭右衛門七・林与一・NHK39-6-15赤穂浪士s39NHK・討入り・NHK39-9-15
 「敦盛哀歌」の項で書いたとおり、昭和39年のNHK大河ドラマ「赤穂浪士」で舟木一夫は矢頭右衛門七役に抜擢されていました。
 大佛次郎の原作を使った「赤穂浪士」は前年の「花の生涯」に続く大河ドラマ2作目ですが、「大河ドラマ」という赤穂浪士s39NHK・長谷川一夫呼び名自体がこの作品放映中に生まれたものだそうです。長谷川一夫(大石内蔵助)、山田五十鈴(その妻・りく)、滝沢修(吉良上野介)、尾上松禄(浅野内匠頭)ら、映画界、新劇界、歌舞伎界から豪華な出演者をそろえ、日曜夜9時半からという遅い放送時間にもかかわらず平均視聴率31、9%(大河ドラマ歴代4位)、とりわけ討入りの回は51、0%、これはいまだに大河ドラマ歴代最高視聴率だといいます。
 長谷川一夫はこれ以前に昭和33年の映画「忠臣蔵」でも大石内蔵助を演じていますが、何といっても一般に浸透したのはこのテレビ版です。桜井長一郎(!)以来定番になった長谷川一夫の声帯模写、「おのおの方、討入りでござる」は、もちろんテレビ版のイメージです(笑)。
 浅野方、吉良方、幕府方の人物たちだけでなく、蜘蛛の陣十郎(宇野重吉)、赤穂浪士s39NHKよりお仙(淡島千景)、堀田隼人(林与一)といった虚構の副人物たちが人気を博したのも記憶に残ります。
 今日はその大河ドラマの討入り放送回も近づいた11月に舟木一夫が歌った「右衛門七討入り」です。こちらで聴きながらお読みください。jewel5522さんに感謝しつつ無断リンクします。

矢頭右衛門七・右衛門七討入り39-10舟木一夫「右衛門七討入り」
  昭和39年11月発売
  作詞:西沢爽 作曲・編曲:遠藤実
 一 ふりつむ雪を 血に染めて
   四十七士の 鬨の声
   矢頭右衛門七 散りゆく花か
   恋も知らない 若い身で
 二 討たれるものも 討つものも
   ともにこの世は 夢の夢
矢頭右衛門七2   赤穂浪士の 誉にかけて
   ゆけととどろく 陣太鼓
 三 勝利のあとの 哀しみを
   抱いて見返る 吉良屋敷
   四十七士の 去りゆく影に
   ふるははかなき 江戸の雪

 前回、橋幸夫の「美少年忠臣蔵」が意図的に軍歌「同期の桜」を引用していることを指摘しました。その中心美学は「勇壮、悲壮」です。
 対して、舟木の「右衛門七討入り」の中心美学は、詞も曲も、「あはれ」です。これが橋と舟木の世界の違いだといってもよいでしょう。
 「散りゆく花」としての右衛門七を「あはれ」と歌うだけではありません。西沢爽の詞は、「討たれるものも討つものも/ともにこの世は夢の夢」と歌い、「勝利のあとの哀しみ」を歌います。一種の無常観です。無常観は日本人の「あはれ」の基底です。
 泉岳寺へと行進する浪士たちの胸すべてに、実際に「哀しみ」が去来したかどうか知りません。
 しかし思えば、事の発端は彼らの主君・浅野内匠頭の殿中での刃傷という愚行でした。幕府の処断は、動機は不明のままの即日切腹・お家改易、吉良はお構いなし。この一方的で拙速な処断が赤穂藩士の憤激を誘い、浅野びいきの一般的風潮を醸成し、吉良が悪人扱いされる原因にもなりました。その結果、幕府は方針変更して吉良をなしくずし的に見捨てていったふしもあります。浅野内匠頭も愚かなら、幕府も愚か。その結果の討入りです。「討たれるものも討つものも」、やむを得ない「立場」に強いられての運命でした。
 なお、主君が愚かでも臣は忠義を尽くすべし、とは、朱子学を批判して赤穂藩に預けられた山鹿素行の思想でした。真山一郎の名曲「刃傷松の廊下」(昭36-11藤間哲郎作詞/桜田誠一作曲)で、端的に、「君君たらずとも臣は臣」と歌われるのが素行の「士道」の精神です。
 (このフレーズ、本来は前漢の孔安国(孔子の子孫)の『古文孝経訓伝序』が出典だとか。『平家物語』巻第二でも、父・清盛を諌める平重盛の心境を描写して使われます。もっとも、重盛の場合は、これに続く「父父たらずといふとも子以て子たらずんばあるべからず」の方に力点が置かれるわけですが。)
 さて、その「あはれ」を演出するためでしょう。西沢爽の詞では四十七士は「ふりつむ雪を血に染めて」討入ります。「哀しみ」を抱いて凱旋する彼らの影にも「はかなき江戸の雪」が降りかかります。
 しかし、十三日来の雪は彼らが討入りする前にすでにやんでいました。西沢自身、それを承知で、演出上どうしても「霏霏として降りしきる雪」がほしかったのだ、と著書『雑学昭和歌謡史』で書いています。
 (なお、西沢は同書で、矢頭という姓は本当は「やがしら」が正しい、と書いています。西沢なりの考証の結果らしいのですが、私は根拠を知りません。また、事実に徹するなら、寺坂吉右衛門は討入り前夜に逃亡しているから「四十六士」である、とも記していることを、付け加えておきます。)

橋幸夫「美少年忠臣蔵」 悲劇の青春(6) 赤穂浪士と特攻隊

江戸の悲劇の青春。次は花の元禄、いわゆる忠臣蔵の世界から、橋幸夫の「美少年忠臣蔵」。
 前回の「南海の美少年」(昭36-5)、現代ものの「東京の美少年」(昭36-10)に続く「美少年」シリーズ第3弾です。
 こちらで聴きながらお読みください。rokumonsen33さんの作品、感謝しつつ無断リンクします。

橋幸夫・美少年忠臣蔵橋幸夫「美少年忠臣蔵」
  昭和37年8月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 一 涙をのんで振り仰ぐ
   赤穂の城の天守閣
   踏めど握れどこの土も
   今日を限りの追われ鳥
   嵐の中の美少年
   想うは何ぞ 何事ぞ
 二 誓えど悲し人ごころ
   大人の数は散って減る
   さわれ、主税(ちから)と右衛門七(えもしち)
   赤く咲く咲く若ざくら
   嵐の中の美少年
   想うは何ぞ何事ぞ
 三 有明け月にしゅくしゅくと
   命を捨てに雪の道
   山と川との合言葉
   四十七士にほまれあれ
   嵐の中の美少年
   大人をしのぐ剣の冴え

 この曲の「美少年」、大石主税と矢頭右衛門七です。
 大石主税は筆頭家老・大石内蔵助の嫡男。討入り時には数えで15歳。赤穂浪士中の最年少。しかし、裏門隊の大将をつとめました。年少ながら大柄で、沈着にして果断だったといいます。
 矢頭右衛門七は勘定方・矢頭長助の子。病死した父に代わって参加します。討入り時に数えで17歳。主税に次ぐ若年です。女に見紛う「美少年」だったという説もあります。(主税には「美少年」説はないようです。)
 エリートだった主税に対して、右衛門七は軽輩ですが、それでも、討入り後、江戸庶民に広くその名は知られたようで、忠臣蔵外伝の形を借りた鶴屋南北の「東海道四谷怪談」では、矢頭右衛門七の名をもじった佐藤与茂七が事件解決のヒーローとして登場します。
元禄美少年記 また、昭和30年には伊藤大輔監督、中村賀津雄主演で、矢頭右衛門七を主人公にした映画「元禄美少年記」も制作されています。(右衛門七が軽輩者として浪士から差別される、という設定です。右の画像はそのポスター。女優は雪代敬子だと思います。)
 佐伯孝夫の詞は、けれども主税と右衛門七を身分や美醜で(!?)区別(差別)したりしません。二人とも「美少年」です。
 一番は赤穂城明け渡しから赤穂退去、二番は討入りまで一年半の忍耐、三番は忍苦の果ての討ち入り場面です。(二番の「さわれ」は「さはあれ」の約。そうではあっても(大人たちは脱落しても)の意。)
 元禄15年12月14日(15日未明)の赤穂浪士の吉良邸討入りは、江戸庶民の喝采とは別に、幕藩体制を揺るがしかねない事件でした。主君の仇を報じた彼らの行為は封建武士の倫理に照らせば「義挙」ですが、幕府という公権力(公儀)の法秩序への反逆だからです。個々の武士が直接の主君である藩主に忠節を尽くし、藩は幕府に従うという幕藩体制の二重構造の矛盾が露呈したのです。
 浪士たちを「義士」として讃美すれば公権力の基盤が危険にさらされ、反逆者として処断すれば「忠節」という武士の倫理の根本が否定されます。幕府が採用したのは、柳沢吉保のブレーンだった荻生徂徠の意見でした。彼らの行為は、藩主との「私的」な関係においては評価できるが、幕府との「公的」な関係においては罪である、よって、死罪は免れないが、武士としての威厳を保ち、斬罪ではなく切腹とする、というものです。二重構造を「私」と「公」とに腑分けして調停したわけです。江戸思想史上の重要なエポックでした。
三田明s44ああ忠臣蔵 もちろん浪士たちも、主君の仇を報じることが幕府の法への侵犯に当たることは承知していました。死を覚悟しての討入りです。
 吉田正の曲は悲壮な行進曲調=軍歌調です。特に、前奏から橋の歌唱に移る直前の男声コーラスによるハミングが、特攻隊を歌った(とされる)軍歌「同期の桜」の歌い出し「貴様と俺とは」の旋律に類似していることにお気づきでしょうか。
 佐伯孝夫の詞も「赤く咲く咲く若ざくら」と、彼らを花の盛りで「いさぎよく」散る桜花にたとえています。「咲いた花なら散るのは覚悟/見事散りましょ」(「同期の桜」)です。
 若者たちの決死の討入りのモデルとして特攻隊を重ね合わせたのです。佐伯も吉田も意図的にやっているのですね。
 (右の画像は、ビクターでの橋の弟分(?)三田明が昭和44年のテレビ時代劇「ああ忠臣蔵」で大石主税を演じた時の写真です。)

橋幸夫「南海の美少年(天草四郎の唄)」 悲劇の青春(5)

時代は江戸期に入ります。
 天草・島原の乱の天草四郎の悲劇を歌った橋幸夫「南海の美少年(天草四郎の唄)」。
 青春歌手が唄う歴史の中の「悲劇の青春」も、「美少年」も、この歌こそが嚆矢でした。そしておそらく、このテーマでの最大のヒット曲でもあったでしょう。
 (この曲、時代劇映画とのタイアップ企画かと思っていましたが、そうではなく、橋幸夫の歌謡曲としての単独企画です。おそらく片面の「花の白虎隊」とともに、股旅歌謡から時代物歌謡へと橋の歌唱の幅を広げようと したものだと思われます。)
 こちらで聴きながらお読みください。sigemori1987.jp310さんに感謝しつつ無断リンクします。 

橋幸夫「南海の美少年(天草四郎の唄)」
  昭和36年5月発売
橋幸夫・南海の美少年 (2)  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 一 銀の十字架(クルス)を胸にかけ
   踏絵おそれぬ殉教の
   いくさ率いる南国の
   天草四郎美少年
   ああ はまなすの花も泣く
 二 天の声聴く島原の
   原の古城跡(しろあと)此処こそは
   神の砦ぞ立て籠り
   怒涛に叫ぶ美少年
   ああ 前髪に月も泣く
 三 燃えよ不知火(しらぬい)永遠(とこしえ)
   聖(きよ)く雄々しく生死(いきしに)
   越えて明けゆく青空を
   信じて強き美少年
   ああ 南海の星も泣く

 吉田正の曲は前奏から一気にドラマチックに高揚します。まことヒロイックな悲劇です。橋の歌唱を東京少年合唱隊のコーラスがサポートします。「合唱団」といわず「合唱隊」という名称も、「コーラス」の語源である古代ギリシャ悲劇における合唱隊「コロス」を連想させますね。「コロス」とは、英雄の悲劇を嘆き歌う無名の民衆の声のことでした。英雄は民衆に語られ歌われてこその英雄です。
 天草・島原の乱は農民一揆と宗教一揆の結合です。天草と島原はもともとキリシタン大名だった小西行長、有馬晴信の領地でキリシタンが多く、幕府の移封によって新領主に交替した後のキリシタン弾圧もすさまじく、残虐な拷問・処刑を行ないました。同様に、百姓への苛斂誅求ぶりも見せしめの非道な拷問・処刑を伴ってすさまじかったそうです。叛乱の裾野を拡大したのが百姓一揆的性格、その精神的結束を固めたのが宗教一揆的性格、と考えておけばよいでしょう。
 九州辺陬の農民たちが強大な幕府権力を相手に四ヵ月の壮絶な戦いを戦い抜きました。それだけでも日本史上に特筆される事件です。
 原の「古城跡」に立てこもった一揆軍は約三万人。(原城は有馬氏に代わって松倉氏が移封された時点で廃城化されました。つまり一揆軍が立てこもったとき、すでに「古城跡」でした。)圧倒的な火力・武力を有する松平伊豆守率いる幕府軍は十二万五千八百人。一揆軍は内応・投降の呼びかけにも一切応じません。幕府軍は兵糧攻め作戦をとったので、まことに悲惨な籠城戦です。兵糧が尽きかけていることを知った幕府軍がついに2月28日に総攻撃。生き残った者も処刑され、一揆軍はただ一人の内通者を除いて皆殺しでした。
天草四郎・肖像 その壮絶な叛乱の中心に擁立された天草四郎、当時16歳の「美少年」だったといわれますが、その実像はよくわかりません。キリシタン名をもつ宗教的少年ではあったでしょうが、参謀格の小西家旧臣の浪人たちによって「救世主」として作為された側面が強いようです。強大な権力に対抗するために一少年を「救世主」に仕立てた参謀たちの作戦、見事というべきかもしれません。(数えで16歳は、当時、ふつうならすでに「成人」の年齢です。)
 もちろん、四郎自身、たんに傀儡として演技しつづけたというのでもないでしょう。宗教的資質が同胞の苦難の中で彼の内から昂揚し、「天の声」を聴く神がかり的言動を示すこともあったでしょうし、伝えられるイエス・キリストの面影を思わせる病人治癒の「奇跡」など、病人側にも信仰心が強ければありえないことではありません。(右の画像は、天草四郎の肖像と伝えられるものの中からいちばん古そうなものを選んでみたのですが、いつごろ描かれたものなのか、私には由来もわかりません。前髪姿の「少年」です。)
 さて、歌の話をしましょう。
 タイトルが「南海の美少年」。橋の「美少年シリーズ」の嚆矢ともなりました。「美少年」と銘打つてらいのなさが歌謡曲です。
 しかし、ちょっと立ち止まると、島原湾や天草灘を「南海」と呼ぶのは少し無理がありそうです。
 昔の五畿七道でいえば「南海道」は紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐。つまりいまの和歌山県から淡路島、さらに四国四県の呼び名。(だから近頃その危険が指摘されるのは「南海大地震」。)
 九州全県に壱岐、対馬を含めた呼び名は「西海(さいかい)道」でした。佐伯孝夫がそれを知らぬはずはありません。それを承知で「南海」にするのが歌謡曲。佐伯孝夫という名人作詞家のすぐれた直観というものです。
 「さいかい」と「なんかい」の音の響きの違いだけでなく、「南海」にすると微妙なエキゾチシズムがにじみます。そのエキゾチシズムがキリスト教という「南蛮」渡来の外来宗教のエキゾチシズムとさりげなく響き合うのです。(歌謡曲が歌うのはあくまでイメージとしてのキリスト教だということは、西郷輝彦の「チャペルに続く白い道」や「君と歌ったアベ・マリア」の項で、キリスト教と青春歌謡のロマンチシズムの関係として、何度も書きました。)
 佐伯孝夫の詞は七五調五行三連の文語定型詩。「句またがり」を多用しているのが特徴です。
 たとえば「殉教の/いくさ」「南国の/天草四郎」というふうに、緊密につながる言葉が二つの行にまたがるのです。他にも「島原の/原の古城跡」「此処こそは/神の砦ぞ」「生死を/越えて」「青空を/信じて」。
 句またがりは、言葉のリズムのつながりと意味のつながりがずれるので、あまり推奨できない書き方ですが、吉田正はその句またがりをうまく曲の抑揚にとりこんで生かしました。吉田正も名人です。
 「美少年」と末尾の「泣く」の反復も含めて、佐伯孝夫の詞も名作ですが、その名作に傷がひとつあります。
 それは「はまなす」。
 実は日本での「はまなす」の分布の南限は、太平洋岸は茨城県、日本海側は鳥取県。緯度でいえば35度強、36度弱。それに対して、天草・島原は32度圏内。はまなすは実際にはほとんど自生しないはずです。
 これは佐伯孝夫、知って書いたか知らずに書いたか。たぶん知らなかったのでしょう。ただハイビスカスやブーゲンビリアのような南国の赤い花、情熱の赤、悲劇の血の色の赤い花がほしかったのでしょう。
 まあ、こんな傷も気にしないいいかげんさが歌謡曲というもの。実際にこの歌は大ヒットしました。私も気にせず歌っています。
 レコード発売以来50年、こんな「言いがかり」を付けるのは私が初めてかもしれません。(笑)
 (蛇足です。この翌年、昭和37年3月に東映で大川橋蔵主演の「天草四郎時貞」が封切られます。監督は何と大島渚。大島渚が松竹を退社してあちこち渡り歩いていた時期、俳優としての幅を広げたいと考えていた大川橋蔵の方から大島を指名したそうですが、橋蔵の考えが甘かった。出来上がったのは、島原の乱を60年安保後の革命戦略になぞらえて武装蜂起是か非かなどと大川橋蔵や大友柳太朗が議論しつづける「傾向映画(!?)」。モノクロで画面も真っ暗。大川橋蔵も「美少年」どころか「花」のかけらもありません(まあ、一揆の実情を考えればリアルはリアルでしょうが)。公開四日で打ち切りになったそうです。だから画像も掲げないことにします(笑)。)

三田明「森蘭丸」 悲劇の青春(4)

森蘭丸 「歴史の中の悲劇の青春」、『平家物語』の悲劇に続くのは、大衆文化史的にいえば、源頼朝の富士の巻狩りに際して陣屋に斬り込んで父の仇・工藤祐経(すけつね)を討って死んだ曽我兄弟ですが、青春歌手は曽我兄弟を歌っていません。
 こまどり姉妹に「曽我兄弟」(s39-9西沢爽作詞/安藤実親作曲)という歌があって、「五郎よ 十郎よ」と姉妹で歌い合うところが、なにやら歌謡曲版宝塚みたいで好きなのですが、これもいまyoutubeにはありません。 
 まさか鎌倉三代将軍・実朝の悲劇を歌うほどの「教養」は歌謡曲には期待もできず、『太平記』なら楠正成の子・正行(まさつら)がいますが、唱歌『桜井の訣別(わかれ)』(落合直文作詞)以来、戦前の「皇国史観」のヒーローだったことがわざわいして戦後は取りあげられません。
 夭折する「悲劇の青春」というテーマでは、室町期も戦国時代も該当しません。
 というわけで、今日は三田明の「森蘭丸」。
 森蘭丸はご存知のとおり、織田信長の側小姓。本能寺の変で信長を守って討ち死にします。享年十八歳とか。(当時の小姓が男色の寵愛を受ける場合の多かったことを思えば、この死はただの「忠義」にとどまらず、一種の「心中立て」です。)
 本日上の画像は[wikipedia森成利]から借用しました。江戸末期の浮世絵師・歌川國芳の「太平記英雄伝」と題されたシリーズ中の一枚。画題は『太閤記』が素材ですが、『太閤記』には家康も登場するので、徳川政権をはばかって『太平記』としたもの。森蘭丸の名も「保里蘭丸」と変えてあります。信長が満座の中で明智光秀を激しく叱責したとき、信長の意向を察した蘭丸が自ら光秀を鉄扇で打擲(ちょうちゃく)して光秀の額に傷を付ける場面です。光秀の姿はありませんが、画面左に、打たれた光秀の烏帽子が落下しています。その下の扇子は光秀が取り落としたもの。この遺恨が光秀に信長への反逆を決意させます。
 では、三田明の歌った「森蘭丸」。こちらで聴きながらお読みください。masao587さんに感謝しつつ無断リンクします。 
 なお、このレコードの大きなジャケット画像がありません。代わりにソノシートの画像を。扮装はたぶん表題曲の厨子王イメージでしょう。
 その下に掲げる不鮮明な画像は昭和40年のNHK大河ドラマ『太閤記』から、片岡孝夫の森蘭丸。信長は高橋幸治。この高橋幸治信長、大人気で、NHKには信長延命の投書が殺到したというのは有名な逸話です。そのせいでしょう、翌年昭和41年4月放送開始の朝の連続テレビ小説「おはなはん」で、高橋幸治はおはなはん(樫山文枝)の夫の軍人役を演じます。
三田明・ソノシート1
三田明「森蘭丸」
  昭和39年10月発売
  作詞:宮川哲夫 作曲・編曲:吉田正
 一 美小姓なれども太刀の冴え
   知る人ぞ知るその智勇
   将来(すえ)頼母しき若獅子と
   囃(はや)すは聞かず蘭丸は
森蘭丸・片岡孝夫   たゞ君恩(くんおん)を想うのみ
 二  寄手(よせて)は一万二千余騎
   津波の如くなだれ込む
   備えの兵は数うのみ
   たゞ燃えさかる本能寺
   鬼神(きじん)もいかで支えんや
 三 前髪みだれてもとどりも
森蘭丸2・片岡孝夫・高橋幸治   ほどけて矢弾丸(やだま)尽きはてぬ
   まことの武士の散り際を
   見置けとさけぶ蘭丸の
   悲運に哭(な)くは誰(た)が影ぞ

 なぜこの時期、三田明が森蘭丸を歌ったのかわかりません。発売時期からすると、翌年開始の大河ドラマ「太閤記」を先取りしたのかもしれませんが、これも「美少年」三田明を売り出す戦略だったのかもしれません。現代の「美少年」に表では学園ものや恋愛ものを歌わせながら、裏では歴史(物語)上の「美少年」たちを歌わせるのです。前回取り上げた「牛若丸」もその流れです。次には「燃ゆる白虎隊/横笛三郎」(昭40-3)もあります。(ただし、これだけです。歴史歌謡・時代歌謡は三田明の歌唱には似合いませんでした。)
 この「森蘭丸」、「安寿と厨子王」とのカップリングでした。「安寿と厨子王」は説経節「山椒大夫」以来、近代には森鴎外の短編「山椒大夫」によって、さらにこの時期には東映動画「安寿と厨子王丸」(s36-7公開)もあり、人口に膾炙した哀話です。「歴史」というより「物語」ですね。同様に、源義経は「歴史」性が強くなりますが、牛若丸には童話的「物語」の雰囲気が残ります。これも三田明(および三田明ファン)の年齢を考慮した戦略でしょうか。
 「牛若丸」もこの「森蘭丸」も、佐伯孝夫と宮川哲夫の詞は文語ですが、吉田正の単純な曲調とあわせて、歌謡曲としての完成度よりも、戦前以来の歴史をテーマにした唱歌みたいな作りをねらったように思われます。
 ところで、[wikipedia三田明]は、天皇主義者にして男色者だった三島由紀夫が、エロティシズムのかけらもない老いた昭和天皇のためには死ねないが「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と語ったというエピソードを載せています。三島流の諧謔を交えた自己演出の発言でしょうが、その三田明が森蘭丸を歌ったこの詞の中の「美小姓」が、なにやら意味深に思われてしまいます。(笑)

三田明「牛若丸」 悲劇の青春(3)

源義経は日本史上第一に挙げられる悲劇の英雄です。
 平家追討の第一の功労者でありながら、兄・頼朝に疎んじられて奥州・衣川で非業の最期を遂げた青年武将です。敗者に肩入れする心情を「判官贔屓(ほうがんびいき)」と呼ぶ語源にもなりました。(「九郎判官義経」は落語「青菜」でも使われるほど誰でも知っている呼び名です。)
 鞍馬の天狗から剣術を習い「京の五条の橋の上」で「大の男」の弁慶を屈服させた牛若丸時代から、武将時代の「ひよどり越えの逆落とし」や壇ノ浦の「八艘跳び」の勇壮な逸話、静御前との別れの哀話に始まる奥州下り、その死を否定する義経蝦夷渡り、さらには「義経=ジンギスカン説」まで、さまざまな物語・伝説にも事欠きません。
 もちろん青春歌手たちも源義経を歌いました。山田太郎「花の義経/源氏の若武者」(s41-1)佐々木新一「源氏の若大将」(s41-2?)。三田明「牛若丸」(s41-1)。
 みんな昭和41年の早い時期のレコードです。つまり、前回記したNHK大河ドラマ「源義経」にあやかったものです。
紅白s40牛若丸 実は昭和40年年末の紅白歌合戦の応援では、 薄物をかずいた稚児姿の四人が登場し、薄物を取って顔を見せて、「我こそは舟木牛若丸なり」「我こそは山田太郎牛若丸」「我こそは西郷輝彦牛若丸」「我こそは三田明牛若丸」と名乗りを挙げるという演出がありました。もちろん番組宣伝を兼ねたもので源義経・藤純子・静御前s40紅白歌合戦す。静御前・藤純子の「白組は疑り深い頼朝殿の御陣営」という一言でみないそいそと紅組側に回ってしまい、残された柳家金語楼の弁慶がしくしく泣いて「弁慶しくしく」(川中島合戦を詠じた頼山陽の有名な漢詩冒頭の「鞭声粛々」のもじり)と嘆くというオチがついています。この動画、以前youtubeで見たのですが今見つかりません。右に不鮮明な画像を入れておきます。(画像上は左から、舟木、山田、西郷、三田、金語楼。画像下は藤純子。)
 さて、大河ドラマ「源義経」にあやかった上記の曲、佐々木新一のも山田太郎のもyoutubeにはありません。
 「悲劇の青春」というテーマに最もふさわしい青年武将・義経の都落ちを歌った山田太郎の「花の義経」の一番の歌詞だけ紹介しておきます。

山田太郎「花の義経」
  昭和41年1月発売
  作詞:星野哲郎 作曲:米山正夫 編曲:福田正
山田太郎・花の義経 一 昨日源氏の 総大将よ
   今日は都を 追われ鳥
   笠にふるふる 吉野の山の
   雪をはらって ふりかえる
   ああ 義経
   ああ 義経
   あわれ若武者 どこへ行く

 というわけで、本日youtubeで聴いていただけるのは三田明の「牛若丸」だけです。こちらでお聴きになれます。rokumonsen33さんの作品です。感謝しつつ無断リンクします。
 おわかりのとおり、大河ドラマ「源義経」の牛若丸時代の物語(『義経記』などで広く知られた物語を踏襲したもの)を、ほぼそのまま歌っています。注釈は不要でしょう。なお、画像下は「源義経」の一場面。左から弁慶・緒形拳、義経・尾上菊之助、金売吉次・加東大介、右端はうつぼ(義経を慕う娘)・御影京子です。(義経の奥州下りを手助けしたとされる金売吉次は『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』にも登場しますが、うつぼは村上元三の創作です。)

三田明・牛若丸三田明「牛若丸」
  昭和41年2月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 一 鞍馬の山奥 千年杉に
   天狗礫(つぶて)の ざわつく夜毎
   牛若丸の 木太刀が怒る
   奢(おご)る平家の 都を眼下
   ああ ああ あああ
   源氏の白旗 あぐる日いつぞ
   源氏の白旗 あぐる日いつぞ
源義経・スチール・菊之助・緒形拳・御影京子・加藤大介 二 月影冴え冴え 横笛吹いて
   稚児は色白 五条の橋を
   弁慶鬼の 長刀(なぎなた)振れど
   軽くあしらう 小太刀の手並み
   ああ ああ あああ
   さすがは御子(おんこ)ぞ たのもし強し
   さすがは御子(おんこ)ぞ たのもし強し
 三 金売吉次と 京より下る
   はるかみちのく 五十と四郡
   源氏の家宝 黄金の太刀を
   佩(は)いて相見ん 味方の者に
   ああ ああ あああ
   可憐や牛若 紅薄化粧
   可憐や牛若 紅薄化粧
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