歴史の中の青春の悲劇。いよいよ近代に入ります。
最初は明治10年の西南の役。西郷隆盛という無双の英雄が維新政府に叛旗を翻したのです。近代日本における最大の内乱でした。
歌は橋幸夫の「悲恋の若武者」。こちらで聴きながらお聴きください。suzu2311さんに感謝しつつ無断リンクします。
橋幸夫「悲恋の若武者」
昭和37年2月発売
作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
一 花か瞳か紫野菊
かなしく見上げる若武者の
白き鉢巻 にじむ血を
誰かあわれと想わざる
雨はふるふる人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂
二 退(の)くに退(の)かれぬ田原の嶮(けん)を
死をもて守りつ強敵と
いまぞ雌雄を決せんと
気負う姿の勇ましさ
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上豊かに美少年
三 田原恋しや照る日も曇る
戦い終りし草むらで
鳴くは虫かや 美少女の
袖が濡れてる 夕風に
「南海の美少年/花の白虎隊」(昭36-5)に次ぐ橋の時代歌謡(歴史歌謡)です。
「悲恋の若武者」は橋の主演で映画化されました。相手役は映画「江梨子」と同じ三条江梨子。(三条江梨子は「江梨子」出演を機に芸名を「三条魔子」から「江梨子」に変え、新東宝時代の小悪魔イメージから清純派イメージに変身しました。)映画はレコードから5カ月後の7月封切りでしたが、今日はその映画の画像を2枚掲げておきます。橋幸夫の颯爽たる「若武者」ぶりです。(一番下の画像右下は姿美千子です。)
佐伯孝夫は三人称でこの詞を書いています。
歌の主人公の「若武者」は薩軍(西郷軍)。征韓論に敗れて鹿児島に帰郷した西郷が創設し、西郷軍の中核を形成した私学校出身者だったかもしれません。
田原坂の激戦です。「花の白虎隊」が詩吟「白虎隊」を取り込んだように、こちらは民謡「田原坂」を取り込みます。
民謡「田原坂」の一番「越すに越されぬ」の主語は政府軍です。包囲された熊本城(熊本鎮台)救援のために政府軍はどうしてもこの坂を越えねばならず、しかし「死をもて守る」西郷軍の「退くに退かれぬ」必死の防戦にあって「越すに越されぬ」わけです。激闘は17昼夜に渡り、死者総数3,500人といいます。
「田原坂」の二番の「美少年」は西郷軍の若武者の姿だそうです。(→この件、こまどり姉妹「三宅伝八郎はよか稚児ざくら」の項で書きました。)「田原坂」は熊本民謡ですが、「賊軍」たる薩軍にも十分に敬意と哀悼を示して、戦場の「あはれ」を深く湛えています。そこが愛好されるゆえんでしょう。
なお、「馬上豊かに美少年」ですから、橋のこの歌、「南海の美少年」「東京の美少年」(昭36-10)を受けて、「田原坂の美少年」とでもすることもできたでしょうが、タイトルに「美少年」が入りませんでした。実は先に村田英雄が「田原坂の美少年」(昭34-9島田磬也作詞/船村徹作編曲)という歌を歌っていたのです。(当然、村田も民謡「田原坂」を取り込んでいます。)
タイトルに「美少年」を使わなかった代わりに、民謡「田原坂」から「美少年」を取り込み、さらに、三番では、激戦終結後の風景の中に、泣いて佇む「美少女」の姿を描きます。「照る日も曇る」は涙で曇るのですね。「悲恋の若武者」ですから、この「美少女」は主人公たる「若武者」の恋人のはずです。
一番の冒頭では「花か瞳か紫野菊」と歌われていました。実のところ、私にはこの一行の意味するところがあいまいでよくわかりません。わかりませんが、主人公が紫野菊に「恋人=美少女」のイメージ(瞳)を重ねているのだ、と読んでおきます。「悲恋の若武者」と題した以上、恋人は末尾だけでなく、冒頭にも配しておくべきだからです。(しかし、田原坂の戦闘は3月なので、「野菊」はまだ咲いていないはず。するとこれは、死を覚悟した「若武者」の見たまぼろしの花なのかもしれません。)
さて、西南戦争と「菊」の花のイメージに重なる「美少女」、という取り合わせは、私に、落合直文の「孝女白菊の歌」を連想させます。明治21年から翌年にかけて雑誌に連載発表された長編物語詩で、発表されるや大評判を呼び、広く愛誦されました。近代詩の黎明期の作品です。
「阿蘇の山里秋ふけて/ながめさびしき夕まぐれ」に一人門の外に出て「父を待つなる少女(をとめ)あり」と始まります。
「少女の姿をよくみれば/にほえる花の顔(かんばせ)に/柳の髪のみだれたる/この世のものにもあらぬなり」。
絶世の「美少女」です。
彼女の父親は熊本の士族ですが、西南戦争で「賊にくみして」、つまり西郷軍に加担して(薩軍に呼応して熊本士族の一部も決起しました)、家を出たまま長く帰らず、その間に母も病の床に臥して亡くなり、彼女はみなし児となりました。彼女の名前が「白菊」です。むろん、「名は体を表す」はずです。彼女の身も心も、汚れない「白菊」のごとく美しいのです。
戦争はこんなふうに歌われています。
「ひと年いくさはじまりて/青き千草も血にまみれ/ふきくる風もなまぐさく/砲のひびきもたえまなし/親は子をよび子は親に/わかれわかれて四方八方に/はしりにげゆくそのさまは/あはれといふもあまりあり」
ほんとうは、父親は戦争終結後にいったん無事に帰還したのですが、先日、猟に出たまま帰らないのです。また、物語は少女の(貞操の)危難と救出を繰り返す波乱万丈の展開をして、最後は父親とも、出奔していた兄とも再会して、彼女は捨て子だったのでめでたく恋しい兄と結ばれる、というハッピーエンドになるのですが、その辺はすべて無視すれば(笑)、西南戦争、西郷軍に加担して帰らぬ男を待つ美少女、菊の花、という根本モチーフは佐伯孝夫の書いた物語と重なるでしょう。
佐伯孝夫は当然「孝女白菊の歌」に親しんでいたはずです。意識していたかどうかは知りませんが、無理してまで「野菊」のイメージを挿入したこととも関わって、これも何度か言及してきたインター・テクスチュアリティ(クリステヴァ)の効果です。
(なお、江藤淳は西郷隆盛を論じた『南洲残影』で、「この世のものにもあらぬなり」と謳われるこの「美少女」の物語は、文字どおりに「この世のものにもあらぬ」、つまり、「あの世」の、死後の世界の物語なのだ、彼女たちはもう死んでいるのだ、と解釈しています。晩年の江藤淳が、敗者に、亡びに、死に、深く魅かれつつあったことを示すものです。)
(ちなみに、レコード発売5カ月後封切りの大映映画「悲恋の若武者」を観る機会がありました。映画では、三条江梨子が「紫野菊」を摘みますが、末尾では、歌謡曲が暗示する設定とは逆に、西郷軍に投じた橋を追って戦場にまで赴いた三条の方が嫉妬した恋敵の男に斬られて死に、田原坂の激戦を生き延びた橋が三条の遺骸を抱きかかえて去って行きました。)
最初は明治10年の西南の役。西郷隆盛という無双の英雄が維新政府に叛旗を翻したのです。近代日本における最大の内乱でした。
歌は橋幸夫の「悲恋の若武者」。こちらで聴きながらお聴きください。suzu2311さんに感謝しつつ無断リンクします。
橋幸夫「悲恋の若武者」
昭和37年2月発売
作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
一 花か瞳か紫野菊
かなしく見上げる若武者の
白き鉢巻 にじむ血を
誰かあわれと想わざる
雨はふるふる人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂
二 退(の)くに退(の)かれぬ田原の嶮(けん)を
死をもて守りつ強敵と
いまぞ雌雄を決せんと
気負う姿の勇ましさ
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上豊かに美少年
三 田原恋しや照る日も曇る
戦い終りし草むらで
鳴くは虫かや 美少女の
袖が濡れてる 夕風に
「南海の美少年/花の白虎隊」(昭36-5)に次ぐ橋の時代歌謡(歴史歌謡)です。
「悲恋の若武者」は橋の主演で映画化されました。相手役は映画「江梨子」と同じ三条江梨子。(三条江梨子は「江梨子」出演を機に芸名を「三条魔子」から「江梨子」に変え、新東宝時代の小悪魔イメージから清純派イメージに変身しました。)映画はレコードから5カ月後の7月封切りでしたが、今日はその映画の画像を2枚掲げておきます。橋幸夫の颯爽たる「若武者」ぶりです。(一番下の画像右下は姿美千子です。)
佐伯孝夫は三人称でこの詞を書いています。
歌の主人公の「若武者」は薩軍(西郷軍)。征韓論に敗れて鹿児島に帰郷した西郷が創設し、西郷軍の中核を形成した私学校出身者だったかもしれません。
田原坂の激戦です。「花の白虎隊」が詩吟「白虎隊」を取り込んだように、こちらは民謡「田原坂」を取り込みます。
民謡「田原坂」の一番「越すに越されぬ」の主語は政府軍です。包囲された熊本城(熊本鎮台)救援のために政府軍はどうしてもこの坂を越えねばならず、しかし「死をもて守る」西郷軍の「退くに退かれぬ」必死の防戦にあって「越すに越されぬ」わけです。激闘は17昼夜に渡り、死者総数3,500人といいます。
「田原坂」の二番の「美少年」は西郷軍の若武者の姿だそうです。(→この件、こまどり姉妹「三宅伝八郎はよか稚児ざくら」の項で書きました。)「田原坂」は熊本民謡ですが、「賊軍」たる薩軍にも十分に敬意と哀悼を示して、戦場の「あはれ」を深く湛えています。そこが愛好されるゆえんでしょう。
なお、「馬上豊かに美少年」ですから、橋のこの歌、「南海の美少年」「東京の美少年」(昭36-10)を受けて、「田原坂の美少年」とでもすることもできたでしょうが、タイトルに「美少年」が入りませんでした。実は先に村田英雄が「田原坂の美少年」(昭34-9島田磬也作詞/船村徹作編曲)という歌を歌っていたのです。(当然、村田も民謡「田原坂」を取り込んでいます。)
タイトルに「美少年」を使わなかった代わりに、民謡「田原坂」から「美少年」を取り込み、さらに、三番では、激戦終結後の風景の中に、泣いて佇む「美少女」の姿を描きます。「照る日も曇る」は涙で曇るのですね。「悲恋の若武者」ですから、この「美少女」は主人公たる「若武者」の恋人のはずです。
一番の冒頭では「花か瞳か紫野菊」と歌われていました。実のところ、私にはこの一行の意味するところがあいまいでよくわかりません。わかりませんが、主人公が紫野菊に「恋人=美少女」のイメージ(瞳)を重ねているのだ、と読んでおきます。「悲恋の若武者」と題した以上、恋人は末尾だけでなく、冒頭にも配しておくべきだからです。(しかし、田原坂の戦闘は3月なので、「野菊」はまだ咲いていないはず。するとこれは、死を覚悟した「若武者」の見たまぼろしの花なのかもしれません。)
さて、西南戦争と「菊」の花のイメージに重なる「美少女」、という取り合わせは、私に、落合直文の「孝女白菊の歌」を連想させます。明治21年から翌年にかけて雑誌に連載発表された長編物語詩で、発表されるや大評判を呼び、広く愛誦されました。近代詩の黎明期の作品です。
「阿蘇の山里秋ふけて/ながめさびしき夕まぐれ」に一人門の外に出て「父を待つなる少女(をとめ)あり」と始まります。
「少女の姿をよくみれば/にほえる花の顔(かんばせ)に/柳の髪のみだれたる/この世のものにもあらぬなり」。
絶世の「美少女」です。
彼女の父親は熊本の士族ですが、西南戦争で「賊にくみして」、つまり西郷軍に加担して(薩軍に呼応して熊本士族の一部も決起しました)、家を出たまま長く帰らず、その間に母も病の床に臥して亡くなり、彼女はみなし児となりました。彼女の名前が「白菊」です。むろん、「名は体を表す」はずです。彼女の身も心も、汚れない「白菊」のごとく美しいのです。
戦争はこんなふうに歌われています。
「ひと年いくさはじまりて/青き千草も血にまみれ/ふきくる風もなまぐさく/砲のひびきもたえまなし/親は子をよび子は親に/わかれわかれて四方八方に/はしりにげゆくそのさまは/あはれといふもあまりあり」
ほんとうは、父親は戦争終結後にいったん無事に帰還したのですが、先日、猟に出たまま帰らないのです。また、物語は少女の(貞操の)危難と救出を繰り返す波乱万丈の展開をして、最後は父親とも、出奔していた兄とも再会して、彼女は捨て子だったのでめでたく恋しい兄と結ばれる、というハッピーエンドになるのですが、その辺はすべて無視すれば(笑)、西南戦争、西郷軍に加担して帰らぬ男を待つ美少女、菊の花、という根本モチーフは佐伯孝夫の書いた物語と重なるでしょう。
佐伯孝夫は当然「孝女白菊の歌」に親しんでいたはずです。意識していたかどうかは知りませんが、無理してまで「野菊」のイメージを挿入したこととも関わって、これも何度か言及してきたインター・テクスチュアリティ(クリステヴァ)の効果です。
(なお、江藤淳は西郷隆盛を論じた『南洲残影』で、「この世のものにもあらぬなり」と謳われるこの「美少女」の物語は、文字どおりに「この世のものにもあらぬ」、つまり、「あの世」の、死後の世界の物語なのだ、彼女たちはもう死んでいるのだ、と解釈しています。晩年の江藤淳が、敗者に、亡びに、死に、深く魅かれつつあったことを示すものです。)
(ちなみに、レコード発売5カ月後封切りの大映映画「悲恋の若武者」を観る機会がありました。映画では、三条江梨子が「紫野菊」を摘みますが、末尾では、歌謡曲が暗示する設定とは逆に、西郷軍に投じた橋を追って戦場にまで赴いた三条の方が嫉妬した恋敵の男に斬られて死に、田原坂の激戦を生き延びた橋が三条の遺骸を抱きかかえて去って行きました。)