季節はずれは承知で続けてきた「秋は月」、最後は有名な「荒城の月」で締めくくります。
 舟木一夫が歌っています。こちらで聴きながらお読みください。jewel5522さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (詩は歌詞カードではなく土井晩翠の詩集から旧かな遣いで引用します。)

舟木一夫「荒城の月」
  昭和43年9月発売
  作詞:土井晩翠 作曲:滝廉太郎 (編曲:松尾健司)
 一 春高楼の花の宴
舟木一夫・荒城の月   めぐる盃影さして
   千代の松が枝わけ出でし
   むかしの光いまいづこ。
 二 秋陣営の霜の色
   鳴き行く雁の数見せて
   植うるつるぎに照りそひし
   むかしの光今いづこ。
 三 いま荒城のよはの月
   変らぬ光たがためぞ
   垣に残るはただかづら
   松に歌ふはただあらし。
 四 天上影は変らねど
   栄枯は移る世の姿
   写さんとてか今もなほ
   あゝ荒城の夜半の月。

舟木一夫LPひとりぼっち第2集 「赤とんぼ」三木露風作詞/山田耕筰作曲)とのカップリング(両面とも松尾健司の編曲)。抒情歌だけのシングル盤は舟木一夫としては初めてでした。リズムとエレキと都市的快楽の時代にあえて亡びゆく日本の抒情を選択したことになります。こうして舟木一夫はますます反時代的に「あはれ」を深めていきます
 (右の画像は「荒城の月」「赤とんぼ」他、抒情歌だけを収録したLP「ひとりぼっち第2集 舟木一夫想い出の歌」(昭43-11発売)。)
 さて、土井晩翠の詩は、「明治三一年頃東京音楽学校の需(もとめ)に応じて作れるもの、作曲者は今も惜まるる秀才滝廉太郎君」という前書があるとおり、最初から作曲されることを前提として書かれた詩でした。それゆえ初出も明治34(1901)年刊の東京音楽学校編『中学唱歌集』。
 仙台出身の晩翠は仙台城(青葉城)と会津若松の鶴ヶ城をイメージしてこの詩を書き、滝廉太郎は小学校時代を過ごした大分県竹田市の岡城址をイメージしながら曲を作ったといわれます。
 例によって無用の解説。
 一番は城中で催された春の酒宴の景。爛漫の桜花を愛でながらの華やかな宴です。「千代の松が枝」(千年も常緑を保つ松の枝)はこの栄華の「千代」にもつづく永続性を寿ぐかのようでもあったでしょう。松に託して千寿万寿の繁栄を祝うのは「めでためでたの若松さまよ」などと俗謡にも歌われる予祝の定型です。(なのに、いまは城は無人なのです。)
 転じて二番は秋の戦陣の景。ここは上杉謙信の著名な七言絶句「九月十三夜陣中作」の初二行「霜満軍営秋気清/数行過雁月三更(霜は軍営に満ちて秋気清し/数行の過雁月三更)」を踏まえたもの。「植うるつるぎ」は一番の「松が枝」と対比させて、林立する刀槍を樹林にたとえたのでしょう。
 一番も二番も、この城が栄華を誇っていた戦国の世です。末尾のリフレイン、「昔のひかり今いづこ」は、昔の月光は今どこにあるか、ですが、それはいわば修辞疑問。むしろ、この城の昔の栄光は今どこにあるか、の意を下に潜めます。あくまで視点は現在からの回顧です。
 三番の「いま」がその現在をあらわに示します。今はもう人住まぬ荒れ果てた城。昔と変わらぬ月光は誰のために照らすのか。文明開化、廃藩置県になって無用の長物化した各地の城が次々に民間に売却された(あの姫路城さえも)のが明治という時代です。
 四番は三番の感慨を一種形而上的な想いにまで高めます。天上の月光は変わらぬが栄枯盛衰移ろうのがこの地上の運命。月はその無常の運命を映しだすかのようだ、というのです。自然の永遠性に対する人事無常の思いです。
 歴史を回顧して無常を詠嘆する、という主題は晩翠が得意としたものでした。たとえば、「三国志」の英雄・諸葛孔明の死を歌って人口に膾炙した長編「星落秋風五丈原」も、万里の長城に立って始皇帝の偉業と亡びを回顧した長編「万里長城の歌」も、そういう詩でした。その意味で、「荒城の月」は歌曲用に書かれた短詩ですが、晩翠の世界を凝縮した詩だと言えるでしょう。
 (なお、三番の「松に歌ふは」、舟木一夫は「うとうは」と歌っていますが、倍賞千恵子の歌唱を聴いたら「うたうは」と歌っていました。これは「au」を「oo」と長音化する舟木が伝統として正しい歌い方です。倍賞千恵子の歌唱はたぶん1970年代でしょう。60年代まで保たれていた日本語の正統が70年代以後に崩れた証拠の一つです。同様の崩れは小林旭「北帰行」でも生じています。)

 土井晩翠は英文学者にして詩人。「学匠(学者)詩人」の先駆けです。明治30年代前半、島崎藤村と並び称されていました。
 藤村も晩翠も広義のロマン主義ながら、世界はまったく違いました。藤村は女性的で晩翠は男性的、藤村は和文脈で晩翠は漢文脈、藤村は抒情詩的で晩翠は叙事詩的、恋愛詩の多かった藤村の世界は「私的」で歴史回顧に名詩の多かった晩翠の世界は「公的」、さらには、藤村の「美」に対する晩翠の「崇高」藤村の等身大の抒情に対して晩翠の英雄主義に傾く抒情藤村の個人主義的ロマン主義に対して晩翠のナショナリズムを含みこんだロマン主義、等々といった対比が可能です。
 しかし、その後の近代詩は藤村の路線の延長上で進み、現在では晩翠が顧みられることはまったくありません。
 理由はいくつかありますが、なにより重要なのは漢文脈の伝統が明治時代で命脈が尽きること。本来「詩」といえば漢詩を指したのですが、近代日本語が漢詩漢文の伝統を棄てるのです。
 それに伴って、「詩は志」(『書経』や『詩経』)という漢詩の重要な観念も消えていきます。「志」には政治や社会にかかわる「公的」な思想も含まれます。歴史というものも民族や国家の命運にかかわる「公的」なものです。「公的」な主題が消えるとき、「私的」な抒情だけが残ることになります。主情的な「うた=和歌」の伝統だけが残る、と言ってもよいでしょう。
 以後、近現代詩はひたすら藤村流の「私的」な思いの表現に向かうのです。この点では象徴主義だってシュールレアリスムだって、表現技巧は複雑化しても、「私的」モチーフであることに変わりありません。
 もちろんそれが近代というものです。近代文学、とりわけ近代詩は「私的」なもの、個人の「自己表現」です。自己を突き詰めない表現はとかく空疎な文飾に流れやすい。晩翠の詩にもそういう弱点がありました。
 しかし、個人の生は「公的」なものと無関係ではいられません。なにしろ「大日本帝国」の時代です。大日本帝国も個人主義を容認しました(弱肉強食の資本主義を支える私有財産制は個人主義の法的・経済的基礎です)が、反面で家族主義、国家主義によって個人の自由を厳しく制限していました。しかも国家や民族という「全体」の命運にかかわる戦争も繰り返します。
 そういう時代、文学表現の主流から消えた土井晩翠の世界は、たとえば旧制高校寮歌の歌詞に引き継がれます。彼らエリート高校生たちにあっては、個人の栄達は天下国家を担う使命感と不可分です。「私的」なものと「公的」なものとは、彼らの「立身出世」において結びついているのです。だから、彼らが寮というエリート共同体の理想を謳い上げた寮歌には晩翠の詩句や晩翠的な漢文脈の修辞が多く取り込まれました。
 そしてまた、国家改造の「志」を歌い上げた「昭和維新の歌(青年日本の歌)」(三上卓作詞)が「星落秋風五丈原」など、晩翠の詩句を多く引用=換骨奪胎していることも有名です。
 逆にいえば、そうした「公的」なものを歌う語彙や修辞を提供できるすぐれたモデルが晩翠詩以外になかった、ということでもあります。さらにいえば、「自己」によって十分に裏打ちされていない晩翠の詩句は、「型」を踏んで「型」を出ること少なく、それゆえ他人の詩(歌)の文脈に引用=移植されやすかったのだ、とも云えます。
 「昭和維新の歌」は右からの「志」でしたが、左から国家改造の「志」を歌えばプロレタリア詩になります。プロレタリア文学は、いわば、下(下層階級)から「公的」なものに関わろうとした文学です。
 そして、日中戦争から大東亜戦争へと歴史が進行する中で、左翼も自由主義者も個人主義者も弾圧され、「公的」な世界を打ち棄ててきた詩人たちが戦争翼賛の「公的」表現ばかりを歌うようになります。なにしろ、昭和16年1月8日に陸軍大臣東条英機が示達した「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を含むあの「戦陣訓」の校閲(文章推敲)に、かつての「公的」詩人だった土井晩翠のみならず「私的」詩人だった島崎藤村も従事したのです。戦争という国家最大の「公的行事」は詩人たちの言葉の力をも動員しました。日本近代詩史の皮肉です。
 なお、舟木一夫はこの三年後、「初恋」(昭46-9)で、今度は島崎藤村の世界を歌うことになります。