遊星王子の青春歌謡つれづれ

歌謡曲(青春歌謡)がわかり、ついでに文学と思想と歴史もわかってしまう、とてもためになる(?)ブログ。青春歌謡で考える1960年代論。こうなったらもう、目指すは「青春歌謡百科全書」。(ホンキ!?)

青春歌謡 舟木一夫

 「遊星王子」は遠い星からやってきました。ふだんは東京の街角の靴磨き青年に身をやつしています。アメリカの大都会の新聞記者になりすましているスーパーマンに比べると貧乏くさいけれど、これが日本、これが戦後です。
 宇宙から日本にやって来た正義の味方としては、スーパー・ジャイアンツには遅れましたが、ナショナルキッドよりは先輩です。
(またの名を落日の独り狼・拝牛刀とも申します。牛刀をもって鶏を割くのが仕事の、公儀介錯人ならぬ個人営業の「解釈人」です。)

 「青春歌謡」の定義や時代区分については2011年9月5日&12月31日をお読みください。暫定的な「結論」は2012年3月30日に書きました。
 この時代のレコードの発売月は資料によってすこし異なる場合があることをご承知ください。
 画像も音源もネット上からの無断借用です。upされた方々に多謝。不都合があればすぐ削除しますのでお申し出下さい。
 リンク先が消滅している場合は、ご自分で検索してみてください。youtubeの動画はアカウントを変えて「不死鳥のごとく」(!)よみがえっている場合が多いので。
 お探しの曲名や歌手名・作詞家名があれば、右の「記事検索」でどうぞ。
 「拍手コメント」には返信機能がないので返信できません。コメントやご連絡は「メッセージ」(右上「遊星王子」画像の下の封書のしるし)をお使いください。非公開です。
 なお、以前の記事にも時々加筆修正しています。
 *2015年2月23日
 「人気記事」を表示しました。直近一週間分の集計結果だそうです。なんだかむかしなつかしい人気投票「ベストテン」みたいです(笑)。(一週間じゃなく5日間じゃないのかな?)
 *2015年7月25日
 記事に投稿番号を振ってみました。ブログ開始から3年と11か月。投稿記事数426。一回に数曲取り上げた記事もあるので曲数は500曲ぐらいになるでしょう。我ながら驚きます。

502 舟木一夫「ブルー・トランペット」 追悼・船村徹(2) 歌うトランペット(1)

 船村徹追悼をもう一曲。
 「演歌の船村」が作ったリズム歌謡「夏子の季節」(s42-5)も意外だったでしょうが、これも意外な都会派歌謡を。
 舟木一夫「ブルー・トランペット」。こちらで聴きながらお読みください。K.Funaki fanさんに感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫「ブルー・トランペット」
舟木一夫・ブルートランペット  昭和41年12月発売
  作詞:古野哲哉 作曲・編曲:船村徹
 一 夜の中から 流れてひゞく
   ブルーブルー トランペット
   誰が吹くのか 心にしみる
   恋を失くした 泣き虫ペット
   夜ふけの空に 涙が匂う
   ホッホー
 二 二度とあえない あの人なのに
舟木一夫・ブルー・トランペット他   ブルーブルー トランペット
   想いださせて 悲しくさせる
   ひとりぽっちの 泣き虫ペット
   泣かずにおくれ 辛いじゃないか
   ホッホー
 三 呼んでおくれよ もいちど恋を
   ブルーブルー トランペット
   ぼくとうたおう 想いをこめて
   うるむ音色の 泣き虫ペット
   涙はすてて 悲しまないで
   ホッホー……

 作詞したのは都会派歌謡の傑作「哀愁の夜」(s41-2)を書いた古野哲也。誰が吹くのか都会の夜空に切々と流れるトランペットの響きに、「ぼく」の失恋の悲しみを託します。各連末尾の「ホッホー」はたぶん作曲時に付加されたのでしょうが、舟木の息の長い高音が抒情的な詠嘆の尾を引きます。
 (「失恋」というカテゴリーを初めて作りました。もっと早く作っておけばよかったのに(笑)。)
 「ブルー」はもちろん憂愁の色。舟木一夫には愁いの「ブルー」が似合います。
 (ちなみに、夜空に流れる楽音を都会派のトランペットでなく伝統的な横笛の音に変えて「ブルー」をやまと言葉の「青(蒼)」に変えれば、やはり船村が作曲した「ふるさとの蒼い月夜に/ながれくる笛の音きいて」(「夕笛」s42-8 西條八十作詞)の世界になるでしょう。)

 ところで、庶民的なハモニカから上流家庭のピアノまで、歌謡曲の歌詞は様々な楽器をモチーフにし、タイトルにもしてきました。
 日本調なら代表楽器はもちろん三味線。これは三橋美智也やこまどり姉妹の独壇場。歌謡曲の歴史を通じていちばん多かったのはたぶんギター。ポップス系、演歌系を問わずギターは歌われました。
 トランペットが、伴奏に使われるだけでなく、歌のタイトルにもなるのはおよそ1960年代から。もしかすると「夕焼けのトランペット」(1961=s36)「夜空のトランペット」(1964=s39)などが世界的に大ヒットしたイタリアのトランペット奏者ニニ・ロッソの影響かもしれません。
 たとえばザ・ピーナッツ「夕焼けのトランペット」(s37-5)はニニ・ロッソの曲の日本語版。また、克美しげる「さすらいのマーチ/青春のトランペット」(s38-4?)というレコードを出していて、これも両面ともニニ・ロッソの曲に日本語の歌詞を当てたものです。
高橋英樹・さすらいのトランペット・ポスター 映画では高橋英樹がペット吹きの若者に扮した日活映画「さすらいのトランペット」(s38-2)がありました。(右はその映画ポスター)
 少し遅れて青春歌謡もトランペットを歌い始めます。その都会性と哀愁を帯びた抒情性が青春歌謡の世界に似合ったのでしょう。ギターは演歌調でも歌われたので、むしろ青春歌謡のシンボル楽器はトランペットだったとさえ云えるかもしれません。
 タイトルにトランペットが入るのは、
 三田明「僕のトランペット」(s39-5)、久保浩「断崖のトランペット」(s40-12)、ちょっと時期遅れで吉永小百合「銀色のトランペット」(s44-8)など。
 ほかにも渡哲也がソノシート・ブック「東京流れ者」(s41-6)に収録した曲の一つに「さすらいのトランペット」(上記高橋英樹主演映画とは無関係)。渡は映画「反逆」(s42-8)でも主題歌「反逆のトランペット」(レコード化はされず)を。
 しかし、上記のうち、シングルA面曲は久保浩「断崖のトランペット」だけ。
 舟木一夫「ブルー・トランペット」は、こうした曲の中で最大のヒット曲なのでした。

501 舟木一夫「夏子の季節」 追悼・船村徹(1) 船村徹と舟木一夫 &名前連呼18回!

 先日、作曲家の船村徹の訃報が流れました。昭和7年(1932)生れで84歳。
 前回の舟木一夫「オレは坊ちゃん」も船村の作曲でしたが、ここにあらためて追悼記事を書いておきましょう。
 船村徹は演歌系の名曲を多く作ったことで知られています。しかし、実は青春歌謡にも大きな貢献をしていました。
 船村徹の初期の代表曲はキング・レコードでの春日八郎「別れの一本杉」(s30‐12)。コロムビア専属になって美空ひばり「波止場だよお父っつあん」(s31‐12)、島倉千代子「東京だよおっ母さん」(s32‐4)、青木光一「柿の木坂の家」(s32‐10)など。どれもしみじみ心に沁みる演歌調。戦後初のミリオンセラーともいわれてレコード大賞も獲得した村田英雄「王将」(s36‐11)で力強い男歌でも成功し、「なみだ船」(s37‐8)で門下生・北島三郎も売り出します。
 しかし、その北島も昭和38年末には新生クラウン・レコードに移籍してしまい、しかも世は青春歌謡全盛期。やがて船村徹も青春歌謡に参入することになります。

 船村が担当したのは舟木一夫。
 もちろん舟木は遠藤実門下。初めて船村が舟木のために作曲したのは、舟木のデビューから一年後、15枚目シングル「夢のハワイで盆踊り」(s39₋7)。しかしこれはまだ単発的な参加にすぎません。
 舟木のための作曲が本格化するのは、昭和40年3月に遠藤実がミノルフォン・レコード創立でコロムビアを離れた後さらに1年以上経過した昭和41年半ばごろから。やがて昭和42年になると、舟木の曲の多くを船村が手掛けるようになり、それは翌43年6月の「オレは坊ちゃん/喧嘩鳶」までつづきます。つまり、前回紹介した「オレは坊ちゃん」は、結果的に、舟木と船村との(一旦の)別れになった曲なのです。
 その意味で、舟木一夫の青春歌謡、デビューから前期を手がけたのが遠藤実、後期というより晩期を手がけたのが船村徹、といってよいでしょう。
舟木一夫・夕笛s42-9-28週刊平凡 舟木一夫&船村徹の最大のヒット曲は「夕笛」(s42‐8)だったでしょう。(右画像は「週刊平凡」s42-9-28号から。)
 こちら「朝日新聞DIGITAL」2017年2月17日夜9時の記事によれば、船村の訃報に接した舟木は次のように語ったそうです。

 《19歳のときに初めて曲を書いていただいて以来、60~70曲はいただいています。
 僕が29歳から30歳のころ、歌手をやめようと思ったことがあり、夜中に突然、船村先生から自宅に電話がかかって来て、「歌手を辞めるって聞いたけど、本当か」「辞めるのは君の勝手だし、自由にすればいいけど、俺の大好きな『夕笛』はいったい誰が歌うんだ」といって、電話を切られました。その時、「男の仕事とは、歌手が歌を歌うということは、そういうことか」と思い、辞めるのを思いとどまりました。船村先生からの電話がなければ恐らく歌手を辞めていたと思います。一生の恩人です。》

舟木一夫・その人は昔&船村徹(CD) 船村徹は舟木一夫の青春歌謡からの「脱皮」の試みにもチャレンジします。しかしそれはありがちな「女歌」や「演歌調」への転身ではなく、舟木の歌唱の芸術性を引き出す試みとして行われました。それが松山善三と船村が組んだ芸術祭参加作品LP「こころのステレオ その人は昔」(s41‐12)です。2年後には西條八十と船村が組んだ芸術祭参加作品LP「こころのステレオ《第二集》 雪のものがたり」(s43‐12)もあります。(右画像の舟木と船村はCDから。)


 さらに特筆すべきは、意外にも、
舟木の初の「本格的」夏のリズム歌謡「太陽にヤア!」(s41‐6)も船村が作曲したこと。「本格的」と書いたのは、舟木の最初の夏のリズム歌謡は前年の「渚のお嬢さん」(s40‐7)、しかし「リズム・ビーチ」による「渚のお嬢さん」はリズム歌謡としてはとてもおとなしめのものだったから。対して、「太陽にヤア!」はアップテンポで、しかも舟木一夫が初めてエレキ伴奏付きで歌った曲なのです。(船村は舟木のために、「夜霧の果てに」(s43‐5)で再びエレキを響かせます。)
 というわけで、今日紹介するのは、まるで季節外れながら、「太陽にヤア!」の一年後、昭和42年夏のリズム歌謡「夏子の季節」(s42‐5)。こちらで聴きながらお読みください。kazuyan_679_sさんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコード・ジャケット画像の下は「明星」昭和42年7月号から。)

舟木一夫「夏子の季節」 

  昭和42年5月発売
  作詞:丘灯至夫 作曲・編曲:船村徹
舟木一夫・夏子の季節 一 夏 夏 夏 夏 夏子
   夏 夏 夏 夏 夏子
   ことしも逢えたね 夏子
   初めてこころを うちあけた
   まぶしいビーチの 昼さがり
   すばらしい 夏子
   夏子 夏子 すばらしい
 二 夏 夏 夏 夏 夏子
   夏 夏 夏 夏 夏子
舟木一夫・夏子の季節s42-7明星   きれいになったね 夏子
   ブルーのスカート 風がとぶ
   はじらうひとみに 海がある
   うつくしい 夏子
   夏子 夏子 うつくしい
 三 夏 夏 夏 夏 夏子
   夏 夏 夏 夏 夏子
   おとなになったね 夏子
   ためいきまじりに ふくらんだ
   むねにもやさしい 夜がくる
   すばらしい 夏子
   夏子 夏子 すばらしい

 この歌について、特記すべきことはただ一つ。
「夏子」という名前を計18回も連呼していること。これは、橋幸夫「江梨子」(s37‐1)の「江梨子」8回や美樹克彦「花はおそかった」(s42‐3)の「かおるちゃん」8回はいうまでもなく、久保浩「星空のミッシェル」(s41‐10)の「ミッシェル」10回(または14回)や奥村チヨ「ごめんね…ジロー」(s40-10)の「ジロー」13回さえもはるかにしのいで、青春歌謡における名前連呼の最高記録でしょう。もちろん「夏子」は夏の化身の名前でもあるわけです。

500 舟木一夫「オレは坊ちゃん」 文芸歌謡(12) 坊ちゃんの名前

 記念すべき(?)500回目の投稿です。久しぶりに舟木一夫を。
 「オレは坊ちゃん」。たのしい曲なのですが、残念ながら今youtubeにはありません。
 (ジャケット画像の下は雑誌「別冊近代映画」の昭和43年9月号(デビュー五周年記念 舟木一夫特別号)の裏表紙から。なお、この雑誌の表紙の画像は下にあります。)

舟木一夫「オレは坊っちゃん」
舟木一夫・オレは坊ちゃん  昭和43年6月発売
  作詞:西條八十 作曲:船村徹
 一 オーイおれは坊ちゃん 江戸っ子だい
   好きなばぁやの お清に別れ
   初の船旅 四国へ来れば
   キザな赤シャツ
   まぬけな野幇閑(のだいこ)
   暮れりゃ 東京の灯が恋し
 二 オーイおれは坊ちゃん 江戸っ子だい
舟木一夫・オレは坊っちゃんs43-9別冊近代映画裏表紙   田舎湯町の 中学教師
   起きりゃ楽書き ねむればイナゴ
   餓鬼のうるささ ところの狭さよ
   今日も思案の 湯のけむり
 三 オーイおれは坊ちゃん 江戸っ子だい
   あそこ行くのは マドンナさんか
   蔭に赤シャツ ウロチョロと
   明日は東京 辞職ときめたよ
   投げた卵の 気持よさ
 
 (*レコードジャケット裏の歌詞カードでは二番の3行目「楽書を」となっていますが歌唱は「楽書き」。)

 これはデビュー五周年記念の明治座公演で演じた「坊ちゃん」の主題歌。「坊ちゃん」はもちろん夏目漱石の小説のあの『坊ちゃん』。
 西條八十はかなり気楽に書いているようですが、それでいて『坊ちゃん』の世界を簡潔に要約してみせました。『坊ちゃん』を読んだことのある人には説明不要でしょうが多少の贅言を。
 『坊ちゃん』は主人公の「おれ」の一人称の語りなので、この詞も「おれ」の一人称。
 「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」というのが小説の書き出し。その無鉄砲で喧嘩っ早い「江戸っ子」が数学の教師として、はるばる遠い「田舎」の湯の町(四国の松山らしい)の中学に赴任。しつこく楽書きをくりかえしたり宿直の蒲団にいなごを入れたりする生徒たちのいたずらに腹を立て、土地の狭さに腹を立て、教員どもの偽善と姑息さにも腹を立て、とうとう教頭「赤シャツ」の不正を暴き、「赤シャツ」と腰巾着の「野幇間」に怒りの卵をぶつけて辞職する、という展開。
 漱石の小説第一作『吾輩は猫である』が「ホトトギス」に連載されるのは明治38年(1905)の1月号から。好評で10月には単行本化(上篇)され、なおも中篇が連載継続。第2作の『坊ちゃん』は「ホトトギス」明治39年(1906)4月号に発表。同じ号には連載中の『吾輩は猫である』も載っていたわけです。
 ところで、『吾輩は猫である』の書き出しは「吾輩は猫である。名前はまだない。」最後まで名無しの猫。そしてこの『坊ちゃん』の主人公(語り手)の姓名も不明。つまり漱石は、長篇小説一作目二作目、ともに名前を呼ばれない主人公(語り手)の小説を書いたのでした。(付け加えれば、長編第3作『草枕』の語り手=主人公も名前がないのです。)
 近代小説は、英雄やお姫様でなく、リアルな人物たちのドラマを書くもの。だからみんな普通の姓名を持つ人物。しかし、『坊ちゃん』の世界は姓名でなくあだ名の世界です。校長は「狸」、キザな教頭は「赤シャツ」、「赤シャツ」の腰巾着は「のだいこ」(田舎の幇間(太鼓持ち)、という意味)、怒りっぽい正義漢の数学科主任は「山嵐」、気弱な英語教師は「うらなり」、「うらなり」の婚約者で「赤シャツ」に横恋慕される令嬢は「マドンナ」、といった具合。
 主人公を子供のころから「坊ちゃん」と呼んだのはばあやの「お清」ですが、小説の最後の方では「赤シャツ」と「のだいこ」の会話に「あのべらんめえと来たら、勇み肌の坊ちゃんだから」と出てくるので、どうやら松山では「坊ちゃん」が彼のあだ名になっていたらしいのです。もちろん、「お清」の愛情こめた「坊ちゃん」と違い、「赤シャツ」と「のだいこ」の呼ぶ「坊ちゃん」には揶揄と軽侮がこもります。
 あだ名はその人の特質を誇張して付けるもの。つまり人物の類型(タイプ)を表示する「タイプ名」。「坊ちゃん」では人物たちはあだ名通りの人間としてふるまいます。「赤シャツ」は「赤シャツ」らしく、「のだいこ」は「のだいこ」らしく、「山嵐」は「山嵐」らしく、「うらなり」は「うらなり」らしく。つまり「名(あだ名)は体を表す」、「名詮自性(みょうせんじしょう)」の世界。
 こういう人物名は、近代小説よりは、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などに似ているのです。八犬士たちは各自儒教の八つの徳目「仁義礼智忠信孝悌」の一文字を示す玉を持ち、犬塚信乃戌孝、犬川荘助義任、というふうにその一文字を自分の名前につけ、その徳目の化身として行動します。(要するに、名前が善兵衛なら善人、悪兵衛なら悪人、ということ。)
 そしてまた、『八犬伝』がそうだったように、『坊ちゃん』もまた「勧善懲悪」の世界なのです。
 とはいえ、『坊ちゃん』の世界は等身大。正義も小さく悪も小さい。正義を体現する「坊ちゃん」と「山嵐」がやったのは卵をぶつけたぐらいのこと。読者の胸はスキッとしますが、彼らは辞職してしまうので、現実には敗北者。「赤シャツ」一派はその後も平然と出世しつづけるでしょう。しかも「坊ちゃん」は「江戸っ子」、「山嵐」は「会津っぽ」、ともに幕末維新の敗北者の子弟なのでした。ここに漱石の現実(近代日本社会)批判を読み取ることもできるでしょう。
 ともかく、『吾輩は猫である』は滑稽な諷刺小説、『坊ちゃん』は勧善懲悪、どちらも坪内逍遥『小説神髄』が掲げた近代写実(リアリズム)小説ではありません。むしろ近代写実主義が完成する以前のジャンルです。(そもそも『小説神髄』が近代小説と対比するために例に挙げて批判したのが馬琴の『八犬伝』なのでした。)
 漱石はやがてリアリズム小説を書き出します。しかし、漱石を「国民作家」にしたのは、近代人の苦悩を直接の主題にした『こころ』でも『道草』でもありません。『猫』と『坊ちゃん』、つまり「近代小説」以前の作品です。もちろん、『猫』や『坊ちゃん』を書いた作家が『こころ』や『道草』も書いたから、漱石は偉大な作家なのです。

 夏目漱石は明治27年(1894)4月から1年間、四国松山の中学で英語を教えました。(その間、日清戦争従軍中に喀血して帰国した正岡子規が漱石の下宿に居候したりします。)そのときの体験が『坊ちゃん』の素材になっているそうです。
 作中には地名は記されていませんが、地理や方言でおおよそ四国の松山だと推測できる書き方になっています。そして今や松山では、「坊ちゃん団子」に「坊ちゃん列車」に「坊ちゃん文学賞」まで。しかし小説の中では土地の人々の田舎根性が徹底的に嫌われていて、「いやにひねっこびた、植木鉢の楓みた様な小人」どもだの「こんな土百姓」だのと罵倒されているのでした。(ただし、松山市民の名誉のために付言すれば、漱石自身は松山時代の手紙に「学校も平穏にて、生徒も大人しく授業を受けをり候」と書いています。)

 さて、舟木一夫のデビューは昭和38年6月5日発売の「高校三年生」。昭和43年6月で五周年。
 そして7月4日から明治座でデビュー五周年記念の一カ月公演。昼の部の芝居が「坊ちゃん」、夜の部の芝居が「喧嘩鳶~野狐三次~」。加えて昼夜ともに歌謡ショ―「ヒットパレード」もありました。
舟木一夫s43-9別冊近代映画 レコードは二つの芝居の主題歌をカップリングさせて発売。「オレは坊ちゃん」の方がA面扱いでしたが、芝居も歌も舟木がいなせな江戸っ子火消しに扮した時代劇「喧嘩鳶~野狐三次~」の方が人気があり、右画像のように、特集した「別冊近代映画」でも、表紙は「喧嘩鳶」の方で「坊ちゃん」は裏表紙。また、この年の紅白歌合戦でも舟木は威勢よくにぎやかに「喧嘩鳶」を歌いました。
 
 舟木一夫の明治座公演は前年4月につづいてこれが2度目。
 光本幸子追悼を兼ねた舟木一夫&光本幸子「恋のお江戸の歌げんか」の項に舟木一夫の明治座公演の演目リストを掲げておきましたが、この翌年、昭和44年7月公演の芝居演目の一つが「与次郎の青春」。これは「三四郎より」と角書きが付いていて、与次郎は漱石『三四郎』の登場人物なのでした。三四郎でなく三四郎の友人の与次郎を主人公にしたあたりが企画の妙。
 舟木一夫、二年続けて夏目漱石の世界に挑戦したことになります。

465 舟木一夫「青春の大阪」 青春の大阪(4) 大阪市「緑化百年宣言」

 このテーマのタイトル「青春の大阪」は、もちろん舟木一夫の曲のタイトルを拝借したもの。
 ではその一曲、こちらで聴きながらお読みください。Hm kazuyanさんに感謝しつつ無断リンクします。(レコードジャケットの下は「少女フレンド」昭和39年9月27日号表紙。女の子は高見エミリー。)

舟木一夫「青春の大阪」
舟木一夫・青春の大阪s39-9  昭和39年9月発売
  作詞:西沢爽 作曲・編曲:和田香苗
 一 いとしい君と 思い出の
   小径に植えた 小さな木
   いつか 誰かゞ 二人のように
   愛を ちかう 
   緑の木蔭に なるように
   あゝ 大阪を 青春の
   みどりで みどりで つゝもうよ
 二 小雨の朝は 御堂筋
舟木一夫s39-9-27少女フレンド   星ふる夜は 中之島
   べつに 約束 したんじゃないが
   君も 僕も
   緑の並木が 好きなだけ
   あゝ 大阪を 青春の
   みどりで みどりで つゝもうよ
 三 ふたりがいつか 暮らす日は
   小窓に置こう 鉢植を
   夢が 希望が あの青空に
   とどく ように
   緑の二葉に 頬よせて
   あゝ 大阪を 青春の
   みどりで みどりで つゝもうよ

 「思い出の小径」にふたりで「記念植樹」をしたり、御堂筋でも中之島でもデート・コースはいつも「緑の並木」を選んだり、いつか一緒に暮らす日には小窓に「鉢植」を置こうと約束したり、緑が大好きなこのカップル、夢は大きく、「大阪を青春のみどりでみどりでつゝもうよ」。
 実はこの歌、レコードジャケットには何も記述はありませんが、B面の島倉千代子「小鳥が来る街」とともに、大阪市の緑化推進の歌。う~ん、納得(笑)。

 昭和39年(1964年)4月、大阪市は「緑化百年宣言」を行いました。
 「大阪をうるおいのある健康な町にするために、ここに強力な緑化運動を推進する。この運動は全市民の変わることのない願いとして今後百年間これを継続する。
というのがその宣言。
 「今後百年間」とはなんと遠大な長期計画。今年でようやく53年目。まだまだ道半ばではありませんか。
 しかし、はてさて、この事業、まだちゃんと継続しているのでしょうか。そして、大阪市民は、まだ百年計画の緑化推進中であることをちゃんと自覚しているのでしょうか。
 すくなくとも、大阪市役所は忘れてはいませんでした。上記に引用した宣言文は大阪市役所のホームページの「8 緑化の推進」というページからコピーしたもの。たとえトップページから枝葉をたどってたどってたどってたどってようやくたどりつくページであろうと、ちゃんとページを公開しているということは忘れていない証拠でしょう。そしておそらく、ホームページのトップページに顔写真の載っている昭和50年=1975年生れの吉村洋文市長も、きっと忘れてはいないのでしょう。そう信じましょう。

 それにしても、インターネットにはいろんな情報が載っているもの。いまさらながら驚きます。
 上記ページには「緑化推進大会関係書類」という項目があって、そこには第1回緑化推進大会の「式次第」の文書写真が載っています。
 それによると、「第1部 開会」が午後2時、「1 市歌斉唱」「2 あいさつ」(市の緑化推進本部長&緑化委員会委員長)から「5 緑化の誓い」までつづきます。
 この「緑化の誓い」は、こちらの「大阪市政だより」昭和39年5月号に載っている「緑の誓い」と同じものなら、
 ・私たちは、1本でも多く、木を植え、家の木も、町の木も、みんなたいせつに育てます。
 ・私たちは、うるおいのある、健康な、緑の町大阪を作り上げるまで、いつまでも、緑化に力を合わせます。
 小学生にもわかるような文体で書かれています。大会ではみんなで声をそろえてたからかに誓ったのでしょう。
 そして、午後3時過ぎから「第2部」に入り、いよいよ「1 青春の大阪」「2 小鳥が来る街」
 ただし、舟木一夫や島倉千代子が登場して歌うのでなく、「青春の大阪」の方は「大阪市職員コーラス団」による「コーラス」、「小鳥が来る街」の方は市の楽団の演奏で小学生100人(もしかして「600」? 手書き文字は判読しにくい)による「フォークダンス」。
 残念ながらこの手書き文書には肝腎の日付がないので、大会開催日が分りません。(上記「大阪市政だより」の記事によると、どうやら第1回大会は昭和39年4月22日に中央公会堂で行われたようです。そうだとすると、レコード発売はこの大会での発表から5か月も後だったということになります。)
 また、「案の1」とあるのも気になりますが、たぶんこのまま実施されたのでしょう。
 (なお、「運動」推進のための曲で「発表会」も行われた、という点では、舟木一夫はこの1年後にも、同様に、「万歩運動」のための「歩いて行こうよどこまでも」(s40-11)を出しました。) 

453 舟木一夫「歩いて行こうよどこまでも」 付・万歩運動(歩け歩け運動)

 西郷輝彦は自転車でも競輪選手となって疾走しましたが(「ペダルに生きるやつ」)、舟木一夫は競輪映画(「青春PARTⅡ」)に出ても車券を買う側の男でした。
 以前も書いたとおり、舟木一夫は歌の中では、バイクにも乗らず車も運転せず自転車さえも漕ぎませんでした。(「東京新宿恋の街」(s39-4)で「♪ドライブしよか」と歌ったのが唯一。ただしこれは「お茶を飲もうかドライブしよかそれともメトロの散歩道」という三つの選択肢の一つなので、実際にドライブしたかどうかはわかりません。)
 代わりに舟木が歌ったのは歩く歌。「歩いて行こうよどこまでも」。こちらで聴きながらお読みください。kazuyan_679_sさんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケット画像の下は、雑誌「明星」昭和40年11月号表紙、舟木一夫と吉永小百合。)

舟木一夫「歩いて行こうよどこまでも」
  昭和40年11月発売
  作詞:山岡多恵子 補作詞:西條八十 作曲・編曲:越部信義
舟木一夫・歩いて行こうよどこまでも/すたこら音頭s40-11 一 歩いてごらんと誰かが言った
   若さがあなたを待ってると
   それ ラン ラン ラン ラン ラン
     ララララランラン ラン ラン
   雲もあかるく飛んでゆく
   歩いて行こうよ どこまでも
   歩いて行こうよ どこまでも
   歩けば聞こえる 若い歌
 二 歩いてごらんと誰かが言った
   若さは足から湧くのだと
   それ ラン ラン ラン ラン ラン
     ララララランラン ラン ラン
舟木一夫&吉永小百合40-11明星   空は青空 並木道
   歩いて行こうよ どこまでも
   歩いて行こうよ どこまでも
   百歩に 千歩 一万歩
 三 歩いてごらんと誰かが言った
   若さを踏みしめ胸はって
   それ ラン ラン ラン ラン ラン
     ララララランラン ラン ラン
   燃える希望の陽をあびて
   歩いて行こうよ どこまでも
   歩いて行こうよ どこまでも
   足もとしっかり休みなく
 四 歩いてごらんと誰かが言った
   若さは歩けば来るのだと
   それ ラン ラン ラン ラン ラン
     ララララランラン ラン ラン
   風に緑の葉もおどる
   歩いて行こうよ どこまでも
   歩いて行こうよ どこまでも
   ひとりで ふたりで みんなして

 「万歩運動の歌」だそうです。なるほど、だから、「若さがあなたを待ってる」「若さは歩けば来るのだ」。不健康な生活で「若さ」を失いつつある人たちに呼びかけているわけです。(「歩いてごらん」と言った「誰か」は医者?(笑))
 この「万歩運動」、ネット検索すると、「歩け歩け運動」とも言われたみたいですが、同じ運動は戦時中にもありました。
 轟夕起子「お使いは自転車に乗って」の項でちょっと言及した戦中の「歩け歩け運動」の時にはテーマソング「歩くうた」(s16→注)が作られ「国民歌謡」として流れました。作詞したのはあの高村光太郎。「あるけあるけあるけあるけ/南へ北へあるけあるけ/東へ西へあるけあるけ」。ひたすら苦行のように歩きます。しかも「あるけあるけ」という命令形。まあ仕方ない。少なくとも若い男はみんな陸軍歩兵候補だった時代です。「若い」どころか、戦争末期には四十歳前後でも徴兵されて中国大陸や南方の島に送られました。(この「歩くうた」、青春歌謡の時代には佐川ミツオがリバイバルで歌っていました。)
 (注:戦前から昭和35年までの歌謡曲レコードの記録についてはいつも「戦前流行歌一覧」「戦後流行歌一覧」のページを参照させてもらっていたのですが、なぜか削除されたようで、困っています。「歩くうた」についてはネット上では昭和15年説と昭和16年説があるようですが、こちらに、昭和16年1月20日にNHK「国民歌謡」でこの曲が放送された、とあります。詳細な調査に基づく記事なので、ここでは昭和16年、としました。
 *後日記:「戦前」「戦後」の「流行歌一覧」のページ、こちらに移されていました。「夏目魯人」さんの「懐かしの流行歌」の一部です。たいへんな労作。感謝しつつ、みなさんもぜひ一度訪問されることをお勧めしながら、無断リンクしておきます。なお、そこでは徳山璉版「歩くうた」のレコード発売は昭和16年5月と記されています。)

 それに比べれば、昭和40年のこのテーマソングは「歩いて行こうよ」。英語ならLet us。命令ではなく誘い。いっしょに行こう、みんなで行こう、というのは青春歌謡の精神でした。「若い歌」が聞こえ、「希望の陽」をあび、「緑の葉もおどる」。ちゃんと青春歌謡仕立てです。
 しかし、命令し強制するのは戦時中の軍部ばかりではありません。舟木のこの歌の数年後には、水前寺清子が、「しあわせ」になりたかったら「腕を振って足をあげて……休まないで歩け」「三百六十五歩のマーチ」s43-11 星野哲郎作詞)と歌い、テレビ番組「水戸黄門」(s44-8開始)の主題歌が、「あとから来たのに追い越され/泣くのがいやならさあ歩け」「ああ人生に涙あり」山上路夫作詞)と歌います。どちらも「歩け」命令形で、人生の落伍者になるなと叱咤します。
 私はこんな脅迫じみた人生訓を好みません。私は青春歌謡の精神をこそ愛します。

 「万歩運動」は「日本万歩クラブ」が提唱した運動。「国民の健康の維持向上に寄与することを目的」としてこの昭和40年4月に発足。9月には文部省所管の財団法人化したそうです。(wikipediaによる。ただし、以下に言及する「50年史」には、11月8日に文部省が財団法人として認可した、とあります。)。
 (ちなみに、日本サイクリング協会の方は1954年に任意団体として発足し、一年早く昭和39年5月に財団法人として認定されていました。)
 その記念に、「万歩運動」を普及すべく作った歌のようです。歌詞は一般公募でした。
 こちらの「日本万歩クラブ50年史」によると、9月25日に一般公募の歌詞決定。作詞者・山岡多恵子は京都女子大学の三回生だったそうです(西條八十が補作しています。)。12月15日には朝日講堂で「歩いて行こうよどこまでも」の発表会が開催されています。発表会で舟木一夫自身が出演して歌ったのかどうかはわかりません。
 (なお、B面の「すたこら音頭」は歌詞募集ではなく、丘灯至夫作詞、市川昭介作曲。「音頭」なので、レコードジャケット裏の歌詞カードにはちゃんと振り付けもあります。)

 ところで、歩行中に「百歩」「千歩」「一万歩」と自動的にカウントするのは「歩数計」。日本で初めて一般人の使用する歩数計を商品化したのは山佐時計計器株式会社。その登録商標が、今や歩数計の代名詞にもなった「万歩計」。その「万歩計」1号機が発売されたのがやっぱりこの昭和40年なのでした。こちらの会社紹介によれば、「万歩運動」と連動した商品開発。「昭和40年の日本は高度経済成長期。人々は、摂取カロリーが増えているにも関わらず自動車やエスカレーターの普及により運動量が減少していました」と書いてあります。
 戦時中の日本人はカロリー不足にもかかわらず苦行のように歩きつづけましたが、25年後、事態は逆転、「豊かな国」の国民は過剰摂取カロリーを消費するために歩くのです。

舟木一夫「快傑 !! 児雷也」 付・児雷也の想像力世界

 前回の舟木一夫「星の夜北へ帰る」は1977年(昭和52年)に吹き込まれた「まぼろしの」青春歌謡。
  この機会にもう一曲、1977年の舟木一夫の曲を紹介したくなりました。「快傑 !! 児雷也」。
 こちらで聴きながらお読みください。yamiyokarasu77さんに深く深く感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫「快傑 !! 児雷也」
  昭和52年6月発売
  作詞:すずきじろう(舟木一夫) 作曲・編曲:渡辺宙明
舟木一夫・快傑!!児雷也 一 走る走る走る走る
   稲妻に乗りドロンロン
   今日も来る来る 今日も来る来る
   人か魔物か あれは児雷也
   右手(めて)をかざして
   切る九文字(くもんじ)
   妖気ただよう ガマが棲む
   父母のうらみに 燃えたつ瞳
   めざす仇は 大江戸の空
   頑張れ頑張れ児雷也 敗けるな児雷也
舟木一夫・怪傑!!児雷也1977日劇 二 響く響く響く響く
   雷(いかづち)の中ドロンロン
   馳(か)けて来る来る 馳けて来る来る
   人か魔物か あれは児雷也
   銀の剣は 正義の光
   続け愛する綱手姫
   結ぶ心に みなぎる力
   敵をけちらせ 大蛇(おろち)を倒せ
   頑張れ頑張れ児雷也 敗けるな児雷也
 三 荒(すさ)ぶ荒ぶ荒ぶ荒ぶ
   嵐をついてドロンロン
   飛んで来る来る 飛んで来る来る
   人か魔物か あれは児雷也
   天地ゆるがす 変幻もよう
   進め児雷也 悪を切れ
   広い世界の 果てない空に
   夢をつかんで 夜明けを告げろ
   頑張れ頑張れ児雷也 敗けるな児雷也

 レコードジャケット画像にあるとおり「歌手生活15周年日劇公演記念曲」。
 児雷也はもちろん蝦蟇(がま)の忍術を使って父の仇を討つ歌舞伎由来のスーパーヒーロー。舞台は児雷也の大蝦蟇と大蛇丸(おろちまる)の大蛇が闘う大スペクタクルだったはず。
 ジャケット画像下の公演ポスター画像はこちら「満天の星Lovelyのブログ」から感謝しつつ無断拝借しました。「満天の星Lovely」さんによれば、この公演は映画監督・岡本喜八が初めて手がけた舞台演出だったそうです。
 そういえば、この反骨の映画監督・岡本喜八には、自ら脚本も書いた「ああ爆弾」(昭39-4公開)という映画がありました。モノクロながら、狂言仕立てで始まり、能も歌舞伎も浪花節も(さらに洋楽も)、古典演劇の諸様式を取り入れた実験的で野心的な和風ミュージカル。私が観たのは近年のことですが、伊藤雄之助という役者のすばらしさを再認識するとともに、岡本喜八の才気煥発にも脱帽したものです。その岡本の初の舞台演出、どんな舞台だったのでしょう。
 上記の歌詞には書きませんでしたが、一番二番三番の出だしと途中に、「ドンドロドンドンドロドロン ドンドロドンドンドロドロン」という子供たちのコーラスが入ります。時代劇主題歌の冒頭や途中に擬音語を少年コーラスで入れるという手法は、橋幸夫が歌ったテレビ時代劇主題歌「子連れ狼」(1971=昭46-12)の「しとしとぴっちゃん」に似ています。大人気番組の主題歌として橋の歌は大ヒットしましたが、舞台公演主題歌だった舟木のこの歌はあまり知られないまま終わりました。
 しかし、作曲した渡辺宙明はいわゆる「ヒーローもの」の主題歌の作曲者として有名な人だそうで、なるほど時代物ながら「正義のヒーロー」にふさわしい、勇ましくて楽しくなる一曲です。宇宙から来た正義の味方・遊星王子として取り上げないわけにいきません(笑)。
 作詞した「すずきじろう」は舟木一夫のペンネーム。舟木が自分で作詞したのは「高峰雄作」名での「残雪」(昭43-3)が最初でしたが、青春歌謡の時代終焉後の舟木は、「すずきじろう」の他にも、「舟木一夫」や本名の「上田成幸」、人気マンガ「ドカベン」のキャラクター名を借用しての「里中さとる」「岩鬼まさみ」など、多数の名前で作詞作曲しています。いわゆる「シンガー・ソング・ライター」ということになりますが、何より、人気歌手としてのヒット曲生産目的から一歩退いて、歌そのものを楽しみ始めた姿勢のあらわれでしょう。
 上記「満天の星Lovely」さんによれば、この公演中に舟木の父親が亡くなったそうです。
 舟木の父親は一家をかまえた博奕打ちでしたが、舟木(上田成幸少年)が小学校に入ったころ足を洗って芝居小屋の経営を始めます。しかしたちまち行きづまって食えなくなり、それでも女出入りは激しくて、舟木が自分には八人の母親がいる、と述懐するほど。成幸少年が幸福だったとはとても言えないでしょうが、父と息子のつながりは不思議なもの、舟木の時代劇・大衆演劇好みはこの破天荒な父親の膝下で少年時に培われたものだったでしょう。結果的に、舟木のこの児雷也公演は父親への追悼公演を兼ねたかたちになったといえるかもしれません。

 さて、ここで、歌の歌詞に触れながら、児雷也についてひとくさり。
 児雷也の物語は、リアル(?)な「忍者もの」以前のファンタスティックな「忍術」もの。巻物を口にくわえて印を結んで「どろん」と消えるあの忍術です。(このファンタスティックな「忍術」イメージを広めたのは大正時代の立川文庫(たつかわぶんこ)でした。)
 (だから舟木の歌詞では「ドロンロン」。右手で「九文字=九字(くじ)」を切ります。「九字」は一般には「臨兵闘者皆陣列在前」の九文字。文字ごとに決まった手指の形で印を結ぶのが「九字を切る」。)「飛んで来る来る」は雲に乗って飛行してくるのでしょう
 もっとも、児雷也の師匠は「仙素道人」。「道人」は「仙人」なので、日本風に「忍術」というより中国風に神仙の術、「仙術」というべきかもしれません。もともと、姿を消したり何にでも変身したり雲に乗って飛行したりする「忍術」は、孫悟空の術にも通じる「仙術」イメージなのです。だから普通人の目には、児雷也はただの「忍者(=人間)」ではなく、恐るべき妖術を使う「魔物」のごとくにも映ります。
 実は児雷也の起源も中国なのでした。児雷也の元祖は宋代の小説に登場する盗賊「我来也」。神出鬼没、盗みを働いた家の壁に「我来也」(我来たるなり)と大書して去ったといいます。日本なら時代劇で怪盗が「鼠小僧参上」などと書き残す「参上」です。
 この伝説をもとに、江戸後期、文化年間(1800年代)に読本作者が『報仇奇談 自来也説話』で「自来也」(自(みずか)ら来たるなり)を登場させます。この「自来也」は蝦蟇の妖術を使う大盗賊です。(ただし、蝦蟇の妖術を使うのは自来也が最初ではありません。歌舞伎では「天竺徳兵衛」の方がずっと早く、「自来也」登場に50年も先立つ1750年代、宝暦年間に作られた芝居の中で、蝦蟇の妖術を使って日本転覆をたくらみました。天竺徳兵衛は蝦蟇の妖術で国家を盗まんとする大盗賊だったわけです。その意味で、「自来也」のイメージの原型は歌舞伎の天竺徳兵衛なのだといえるでしょう。)
 さらにこの「自来也」が「児雷也」となって物語世界を膨らませて行きます。
少年児雷也31-10 「児雷也」になると、盗賊の名乗りだった「我来也」「自来也」とは、名前の意味がまったく変ります。「雷の児」です。
 名を「児雷也」とした最初の物語『児雷也豪傑譚』(天保十二年(1841)初編刊)では、少年時代に雷獣(落雷をイメージ化した怪獣)を生け捕りにしたので「児雷也」。(右は杉浦茂「少年児雷也」の昭和31年10月号付録。シュールでナンセンスな杉浦マンガのなかでも最もシュールさの度合いが高い傑作です。ちなみに、このマンガでは少年児雷也は雷獣と闘ってその生き胆を食ったという設定。)
 (だから舟木の児雷也も「稲妻に乗り」「雷の中」「嵐をついて」「ドロンロン」と「参上」します。「ドロンロン」は忍術使いが「どろん」と消え「どろん」とあらわれる「どろん」であると同時に、少年コーラスたちの「ドンドロドンドンドロドロン」とともに、雷の音をあらわしてもいるでしょう。)
 児雷也は雷を捕えた少年なのでした。
 ところで、『日本書紀』や『日本霊異記』には、雄略天皇に命じられた小子部栖軽(ちいさこべのすがる)という男が雷岡(いかづちがおか)で雷神を捕まえた、という伝説が載っています。小子部栖軽という名前から、私はどうしても、少年のように小さい男を思い浮かべてしまいます。
 つまり私は、児雷也少年の背後に、雷神(墜ちた雷=雷獣)を捕えた豪勇の男にあえて「小子部」という名(姓)を与えた古代日本人の想像力を想定したくなるのです。その想像力は桃太郎や金太郎という剛力の少年英雄を生み出した民衆的想像力とも根を共有しているでしょう。
 さて、私の想定の当否はともかく、『児雷也豪傑譚』では、この少年が悪人に親を殺され、仙素道人から蝦蟇の仙術を授かり、蛞蝓(ナメクジ)の術を使う綱手を妻として、大蛇の術を使う大蛇丸(おろちまる)と妖術合戦を繰り広げて仇を討ちます。ここで児雷也の「世界」の基本設定が確立しました。以後、脚色は変ってもこの基本設定はほぼ変りません。
 彼らの術は人間ならざる生き物の特殊能力を使う術でした。アニミズムやトーテミズムの自然観に由来する想像力です。(現代ならスーパーマンではなくスパイダーマンでしょうか。)さきほどの雷神捕獲伝説を加えて一般化すれば、この想像力の背後には、自然の神秘的な力への畏敬と憧憬に発するなにか壮大な自然観、宇宙観があるように感じられます。「仙術」を作り出した古代中国の神仙思想も道教の自然観・宇宙観の表現なのでした。そこが、同じく荒唐無稽な「忍術」を使うとはいえ、立川文庫のヒーローだった猿飛佐助や霧隠才蔵とは大きく異なるところです。
 蝦蟇(ガマ)と蛇(ヘビ)と蛞蝓(ナメクジ)はいわゆる「三すくみ」の設定です。ヘビはカエルを呑み込んで勝ち、ナメクジはヘビを溶かして勝ち、カエルはナメクジを呑み込んで勝つのだそうです。したがって、児雷也(蝦蟇)は単独では大蛇丸〈大蛇〉に勝てず、綱手(蛞蝓)と協力して初めて勝てるのです。
 「三すくみ」は身近にはグー(石)チョキ(鋏)パー(紙)のジャンケンの発想に生きています。少々大げさながら、世界の諸力を三つに代表(象徴)させる発想だといえるでしょう。つまり、世界は相克し合う三つの力の果てしない抗争で動いているという世界観の表現なのです。善悪(神と悪魔)二元論ならぬ三元論です。
 児雷也の場合、その三つが動物で表現されているのです。そうすると、ガマとヘビとナメクジというちょっと奇妙な選択の背後にも、古代的な自然観・宇宙観に由来するなにか本質的な意味があったのかもしれませんが、残念ながらその意味はもう不明になってしまいました。ただ、単純な二元論ではないこの三元論、絶対的な勝者のいない、つまり独裁者の存在できない「三すくみ」の世界観は私好みです。

 大蝦蟇や大蛇が出現するスペクタクルは歌舞伎舞台で人気を博し、20世紀になると何度も映画化されます。
 牧野省三が目玉の松ちゃんこと尾上松之助主演で撮ったのが「豪傑児雷也」(昭6=1921公開)。児雷也がパッと消えたり現れたり、突然大蝦蟇や大蛇が出現したりして日本初の特撮映画だといわれるこの無声映画、なんとこちらのyoutubeチャンネルで観られます。
児雷也・豪傑児雷也1921・綱手の蛞蝓 右の画像はその一場面、蝦蟇と蛞蝓と大蛇の三すくみの睨み合いですが、こうして「三大怪獣」(?)がならんでみると、どうしても中央の蛞蝓が小さくてひ弱です。
 そもそも「三すくみ」で、蛞蝓に蛇の毒が効かず、かえって蛞蝓が特殊粘液で蛇を溶かす、というのも現実的な根拠がうすかったうえに、蛞蝓では動きも怪竜大決戦・ノート少なく、粘液で蛇を溶かすというのも蛇にくわえられて初めて発動する能力なので受動的です。
 そのせいでしょうか、映画草創期以来数多く作られた児雷也映画の最後の(最新の)作品だと思われる松方弘樹主演「怪竜大決戦」(昭41-12公開)では、右の画像のように、綱手(小川知子)が使うのは蛞蝓でなく蜘蛛を出現させる術です。かわいい小川知子をグロテスクな蛞蝓に変身させるのではあんまり気の毒だ、と思ったのでしょう。
 もっとも、すでに戦前(日中戦争戦時下)の片岡千恵蔵主演「忍術三妖伝」(昭12(1937)-12公開)では、大蝦蟇が出るだけで大蛇も蛞蝓も出ず、綱手が変身するのは蜘蛛、それも普通の小さい蜘蛛なのでした。怪竜大決戦・綱手・小川知子(これもこちらのyoutubeチャンネルで観られます)。また千恵蔵は戦後にも「妖蛇の魔殿」(昭31-10公開)という自来也(児雷也)映画を撮っていて、この映画の綱手は紅蜘蛛に化身するそうです。
 「怪竜大決戦」の綱手=蜘蛛という設定は、そうした東映の御大・片岡千恵蔵の自来也(児雷也)映画の伝統に敬意を表したのかもしれません。けれども蜘蛛では「三すくみ」の論理が成立しません。
 なにしろ児雷也が大蛇丸に勝つためには「三すくみ」の論理が必須であるにもかかわらず、蛞蝓の特殊能力はリアリティも薄弱なうえ、綱手姫の美女イメージにもそぐわず、スペクタクルの魅力にも欠けるため、上演や映像化に際して嫌われることが多かったようなのです。つまり、綱手=蛞蝓が、どうやら児雷也の「世界」設定の急所(最も大事な部分でありながら最大の弱点)なのです。
 (もっとも、美女に蛞蝓は似合わないというのは「近代的」な美意識にすぎず、綱手に蛞蝓の術を与えた江戸的ウルトラQ第3話・ナメゴン想像力は、むしろ美とグロテスクの同居や美女の妖女性をこそ楽しむ性質のものだったのかもしれません。)
 さらに付言すれば、杉浦茂「少年児雷也」でも、綱手姫(お姫さま)にではなく、「ナメクジ太郎」という独自キャラクターに蛞蝓の術を使わせています。(舟木一夫の公演ではどうしたのでしょうか。)
 ところで、「怪竜大決戦」が封切られたのは昭和41年の年末でした。実は一年近くさかのぼったこの年の1月には、特撮テレビドラマ「ウルトラQ」に出現した蛞蝓の怪獣「ナメゴン」(右画像)が子どもたちの間で大評判になっていたのですが。
 (後日付記:大谷友右衛門が主演した新東宝の「忍術児雷也」(s30-1公開)という映画では、児雷也(蝦蟇)が大蛇丸(大蛇)との戦いで窮地に陥ったとき、蛞蝓に乗った綱手が駆けつけて救出したり、続編「逆襲大蛇丸」では綱手が塩の牢屋に入れられて蛞蝓の術を使えなくなったりと、「三すくみ」の論理をうまく使っていました。ただし、この二部作、児雷也と綱手の役者にあんまり魅力がなく、特に第二部では悪役の大蛇丸(田崎潤)と女盗賊(朝雲照代)の方が生き生きしているという皮肉な映画でした。)

舟木一夫「星の夜北へ帰る」 青春の星(26) 「まぼろし」の星、「まぼろし」のふるさと

 舟木一夫の歌でタイトルに「星」が入るのは「しあわせの星二つ」(昭39-6)と「星の広場へ集まれ!」(昭42-3)の二曲。しかしまぼろしのもう一曲がありました。(「まぼろし」という理由は後述します。)
 「星の夜北へ帰る」。Hm kazuyanさんが先日youtubeにupしてくれました。この名唱が消えないうちに(削除されないうちに)書いておきましょう。こちらで聴きながらお読みください。Hm kazuyanさんに深く深く感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫「星の夜北へ帰る」 
  昭和52年6月発売(LP10枚組「舟木一夫大全集」収録)
舟木一夫大全集・限りない青春の季節  作詞:関沢新一 作曲・編曲:船村徹
 一 果てしなき 荒野をゆけば
   ほほぬらす 星の涙よ
   ふるさとは 母のいる国
   夜ごと見る 夢より遠し
 二 駒とめて 静寂(しじま)のなかに
   あおぎ見る 星の思い出
   あの星は 指きりの星
   この星は 恋そめし星
舟木一夫大全集・限りない青春の季節より 三 花咲けど その名も知らず
   若き日の 君は旅人
   人の世の 運命(さだめ)はかなく
   あの星に いつの日逢わん

 昭和52年(1977)発売の「歌手生活15周年記念 舟木一夫大全集 限りない青春の季節」LP10枚組に収録されました。その後、CD10枚組「歌手生活30周年記念 舟木一夫大全集 陽射し・旅人」(1992年)に再収録されています。
 ですから、聴いていただいたのは1977年の歌唱。しかし、実はこの曲はデビュー2年目の昭和39年(1964)に舟木に提供された曲でした。にもかかわらずレコード化されなかったので「まぼろし」です。
 「陽射し・旅人」にはこの曲についての舟木自身のコメントが載っています。全文を紹介しておきます。

 これは15周年のアルバムに入れたものですが、しかし曲が出来上がって来たのは、僕が19才の時ですから、昭和39年でした。そのとき1回レコーディングしたのですが、曲のスケールに、歌い手が負けてしまい、どうしても歌いきれませんでした。こんな経験をしたのはこの作品が初めてでした。「くやしい」という気持ちが心の片隅にあったのでしょう。それから10年後にアレンジを変えて再チャレンジしました。しかし、やっぱりダメでした。くやしさは増すばかりでした。必ずいつか歌いきってやるというつもりで、15周年の時にアレンジを再び変えて、再々チャレンジをしました。そして15年目にして、やっとなんとか自分でも納得する歌に仕上がりました。
 この作品ほど、歌い手が作品に位負けしたということを感じた作品はありませんでした。

 舟木一夫という歌手の生真面目さ、歌に対する誠実さがうかがえる文章です。
 1977年、舟木一夫32歳、さすが、声に伸びがあり艶があり深みがあります。荘重な曲にふさわしい名唱です。
 けれども、もっと若い時期の歌声で聴いてみたかった、という思いも禁じ得ません。たとえば「木挽哀歌」(昭40-1)の頃に、あるいは同じ船村徹によるLP「その人は昔」(昭41-11)の時期に、せめては「夕笛」(昭42-8)の頃の歌声で。舟木自身は上記のように自己に厳しく謙虚ですが、しかし、舟木なら若々しさの魅力を保ちつつ抒情的に歌いこなせたはずだとも思うのです。そう思ったからこそ、船村徹も舟木のために作曲したのだったでしょう。
 (ちなみに、この10枚組LPには「高校三年生」以来の初期のヒット曲が多数再歌唱で収録されていて、そのいくつかはyoutube上で聴くことが出来ますが、聴いてみると、実にすばらしい。全盛期の声(私の耳には昭和42年ぐらいの声に聞こえる)が復活しています。「僕の歌は死んでしまった」とまで苦悩したことのあった舟木一夫、たしかにその歌声は一時期ほんとうに低迷していたのですが、奇跡の復活です。驚きます。)

  関沢新一の詞も、文語体で格調が高く、「果てしなき荒野」と果てしない星空の下を行く若い旅人の思いを謳いあげています。
 なにしろ「星の夜北へ帰る」というタイトルのイメージが鮮烈で抒情的かつロマン的です。実際、後に井沢八郎(昭44-6?水島哲作詞)と野路由紀子(昭53(1978)-5 千家和也作詞)が同じタイトルの歌を歌っていて、ふたりとも歌詞の中でもこのフレーズを繰り返します。それだけ魅力的なフレーズなのです。(残念ながら昭和39年にはレコード化できなかったので、関沢新一はこのタイトル創案の優先権を主張できません。)
 この「星」は母のいる「ふるさと」の思い出の星。だから二番では「恋そめし星」。あの星の下で恋を知り初(そ)めたのでした(「恋いそめし」と書くべきところです)。「指きり」もその初恋の少女との約束のしるしだったのでしょう。
 ただ、関沢の詞は格調を保つためでしょうか、現実的細部を描かず、設定がややあいまいになった感があります。現実味は「俗」に通じてしまうからなるべく消そうとしたのでしょうか。
 たとえば井沢八郎と野路由紀子はどちらも都会で夢や恋に敗れた主人公が北国の故郷へ帰るというとてもわかりやすい設定です。歌謡曲の「北」はいつでも、失意の若者が帰りゆく方角だったのでした。
 対して、舟木の歌う「星の夜北へ帰る」は、末尾「人の世の運命(さだめ)はかなく」に挫折と失意の思いがにじむものの、暗示的におぼめかされていて、なぜ「北」の「ふるさと」へ「帰る」のか、その直接的な動機や理由は定かでありません。
 さらにいえば、「ふるさとは母のいる国」の「国」の一語も気になります。「果てしなき荒野」は日本国内なら北海道でしょうが、「国」の一語には、日本ならざるどこかの国、というニュアンスが含まれます。小林旭「北帰行」(昭36-10)も「北へ帰る」「さらば祖国」と歌っていました。植民地を失った戦後日本には「祖国」を棄てて「帰る」「北」などありません。「北帰行」はもとは戦時中の満州で作られた歌だったのを戦後に歌ったからこういう齟齬が生じたのですが、あまり気にならなかったのは小林旭が日活「無国籍」アクションの「渡り鳥」だったからです。舟木が歌うとちょっと気になります。「果てしなき荒野」はやはり旧満州あたりの風景にこそふさわしい表現です。
 もっとも、「国」は「国家」の意味でなく、「くに」古来の本義である「土地」の意味にとることもできます。しかし、その「母のいる国」は「夜ごと見る夢より遠し」。現実にはたどり着けない、現実にはもう存在しないかのごとくです。ふるさとの土地は存在しても母がもういない(亡くなった)からでしょうか。それとも、たとえば宗谷海峡のかなた、いまはソ連領の南樺太あたりを思い浮かべるべきなのでしょうか。あるいはやっぱり中国大陸、消滅した「満洲国」を思い浮かべるべきなのでしょうか。(心理的な確執があって帰れない、とは考えにくい。とにかく「北へ帰る」のですから。)
 二番は「駒とめて」です。彼は馬に乗って旅ゆくのです。これも渡り鳥シリーズの小林旭みたいです。そしてまた、戦前の満洲の旅みたいでもあります。あるいはいっそ、ずっと時代をさかのぼって、中世・近世の青年武士のようだ、とさえいえるかもしれません。「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮れ」は広く知られた藤原定家の名歌でした。
 もっとも、昭和39年なら、北海道を馬で行く旅がありえなかったとはいいいきれないかもしれません。しかし、関沢新一の詞はむしろ、そういう具体的な拘束を脱して現実を超え出ようとしているように感じます。関沢はわざと地理空間を錯誤させ時代を錯誤させて、現実の時代も地理空間も超えたロマンとしての若者の旅、満たされることのない不可能な望郷の旅というロマン派的な詩情をねらったのかもしれません。どうもそういう気がします。
 三番では「若き日の君は旅人」。不意に人称が変ります。主人公自身の一人称の語りだったはずの詞は、ここで主人公を「君」と呼ぶ二人称に転換するのです。このとき、歌手・舟木一夫によって「君」と呼びかけられたのは、この詞の主人公だけではなく、聴き手である私たちも含まれるでしょう。それなら、私たち自身がみな、「ふるさと」への果てない旅をつづける若き旅人なのです。
 そして最後に、「あの星にいつの日逢わん」。「いつの日逢わん」は、ふるさとにたどり着く日はいつのことか、という意味ですが、その日がいつともいえないほど遠いことをも含意しています。容易にたどり着けない、もしかしたら永遠にたどり着けないかもしれない「ふるさと」への旅なのです。「人の世の運命(さだめ)はかなく」がその不可能性の思いをいっそう深めます。
 やさしい「母」と美しい初恋の思い出が織りなす「ふるさと」は失われて二度と還らない。誰にとってもそういう幸福な「ふるさと」は現実にはなく「思い出」や「」の中にしか存在しません。それを形而上化すればプラトンのいう「イデア」の国、誕生と同時に忘却されてしまうという魂の「ふるさと」にも通じるでしょう。人のたましいはその「ふるさと」から転落してこの現実世界をさすらいます。だからこそ、その失われた「ふるさと」への不可能な帰還を夢みて、人は誰もが人生という旅をつづけるのだ、そんな意味さえ読み取れそうです。失われた「ふるさと」への不可能な帰還の旅というのは、たしかにロマン主義文学のテーマでありました。
 このロマン派的な詩情が関沢新一の詞の格調の高さを作っています。しかし、いわゆる歌謡曲(流行歌)としては高尚すぎる感は否めません。
 19歳の舟木一夫が歌いこなせなかった、10年後にも挫折した、15周年でようやくレコード化できた、という背景には、船村徹の曲の難しさだけでなく、むしろそれ以上に、関沢新一の歌詞を咀嚼することの難しさがあったのだろうと、私は推測するのです。

舟木一夫「いなせじゃないか若旦那」 作詞家・安部幸子(6) 舟木一夫の江戸っ子の系譜

 ずっと気にかかっていた作詞家・安部幸子が昭和39年9月に24歳で亡くなったことを先日知りました。(三田明「ごめんねチコちゃん」の加筆部分参照)
 作詞家デビューから半年にも満たない早すぎる死。生前にレコード化されたのはわずか4曲だけでした。
 今日は半世紀遅れの追悼の意をこめて、その4曲の中から舟木一夫「いなせじゃないか若旦那」を。
 こちらで聴きながらお読みください。「本丸」さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (画像下は、以前「火消し若衆」の項でも使った「明星」39年11月号から。相手役は姿美千子。)
 
レコード・おみこし野郎舟木一夫「いなせじゃないか若旦那
  昭和39年8月発売
  作詞:安部幸子 作曲・編曲:遠藤実
 一 にぎる手つきは 親ゆずり
   銀座は老舗の いろはずし
   古いのれんを 若さがつげば
   いきがいいから 味もいい
   『ヘイ 上り 一丁』
   いなせじゃないか 若旦那
 二 えびにあわびに カッパまき
   今夜もあの子が 顔を出す
 舟木一夫・姿美千子・いなせじゃないか若旦那・明星・39-11  夢をつかんだ 二人の胸に
   さびをきかせちゃ いけないぜ
   『ヘイ トロ おまちどお』
   いなせじゃないか 若旦那
 三 ねじりはちまき 豆しぼり
   いせいの良さなら 日本一
   義理に固くて 人情にもろい
   けんかぱやいが 玉にきず
   『ヘイ こちら おあいそ』
   いなせじゃないか 若旦那

 これは「おみこし野郎」(関沢新一作詞/遠藤実作曲)のB面。A面に合わせて、いなせな江戸っ子イメージで統一しました。
 「銀座は老舗のいろはずし」を継いだ若旦那なので、いちおう「働く青春」に分類しておきます。これまでの「働く青春」は高度成長下の下積み労働者や農山漁村の疎外された労働の世界が中心でしたが。
和泉雅子・少女時代16金語楼劇団 (そういえば、和泉雅子の実家が銀座の寿司屋でした。右は少女時代の珍しい和泉雅子。喜劇役者にあこがれて金語楼劇団に入っていたころの写真です。前列中央、柳家金語楼の隣に和泉雅子。金語楼にかわいがられていた証拠でしょう。後ろから和泉の肩に手をかけているのは「お笑い三人組」でおなじみだった桜京美です。なお、和泉雅子は昭和44年には「娘すし屋繁盛記」というテレビドラマに主演します。)
 『ヘイ 上り 一丁』『ヘイ トロ おまちどお』『ヘイ こちら おあいそ』と、短いセリフが入ります。
 このセリフ、愛知県出身の「にわか江戸っ子」舟木にはまだ初々しい含羞が残るようです。そこが東京出身の橋幸夫の板についた江戸っ子ぶりと違うところ。しかし、むしろこの清潔な含羞が舟木版江戸っ子の魅力というべきでしょう。

 ともあれ、この「おみこし野郎/いなせじゃないか若旦那」の江戸っ子イメージは、舟木の新生面をひらきました。
 この江戸っ子イメージをさらに発展させて成功したのが安部幸子の詞による「火消し若衆」(昭40-1)。「おみこし野郎/いなせじゃないか若旦那」は現代でしたが、「火消し若衆」は時代物、まぎれもない江戸の花形、火消しの若衆。「火消し若衆」は舟木一夫の江戸っ子イメージを見事に完成させました。しかし、「火消し若衆」発売時にはすでに安部幸子はこの世にいなかったわけです。
 そして、「♪親子三代東京に住んで」と歌う現代もの「東京百年」(昭40-12 丘灯至夫作詞)を挟んで(「親子三代東京に」住むのは俗にいう「江戸っ子」の資格証明)、大川橋蔵主演のテレビ時代劇「銭形平次」の主題歌「銭形平次」(昭41-5 関沢新一作詞)が時代歌謡としての舟木の江戸っ子イメージを定着させ、(先触れとして「江戸っ子だい」(昭41-9 関沢新一作詞 LP「舟木一夫花のステージ第5集収録」)を歌ったあと、)ついに東映で「一心太助江戸っ子祭り」に主演し、その同名主題歌(昭42-1関沢新一作詞)を歌い、さらに昭和43年の紅白歌合戦では「火消し若衆」以上に威勢よく、講談や映画で有名な江戸っ子火消・野狐三次の歌「喧嘩鳶(野狐三次)」(昭43-6 村上元三作詞)を歌う、という流れになります。

一心太助江戸っ子祭り・スチール ちなみに、愛知県一宮市出身の舟木一夫は「にわか江戸っ子」だと書きましたが、中村錦之助のシリーズ映画の設定では、江戸っ子の典型たる一心太助は三河の田舎から、つまり今の愛知県から江戸見物に出て来た男なのでした(「江戸の名物男 一心太助」(昭33-2公開))。一宮は三河でなく尾張のようですが、同じ愛知県。そしてそもそも、江戸という大都会自体が、愛知県(三河)出身の徳川家が作った町だったわけです。 (右は映画「一心太助江戸っ子祭り」から舟木一夫の一心太助と藤純子のお仲。)

舟木一夫&青山和子「織姫音頭」

 ついでに、「しあわせの星二つ」のB面、「織姫音頭」。舟木一夫と青山和子のデュエット。こちらで聴きながらお読みください。zuboradaさんに感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫&青山和子「織姫音頭」
  昭和39年6月発売
  作詞:城ゆたか 作曲:森一也 編曲:松尾健司
舟木一夫・しあわせの星二つ&青山和子2 一 尾張よいとこ機織どころ ハイハイ
   春はますみだ春はますみだ桃花祭 ソレ
   *さっさ踊ろよ 織姫音頭
    ほんに世界の糸の町
    サテ サテ サテ ヨイヤ サッサ
 二 花の吹雪か七夕祭り ハイハイ
   染めて五色の染めて五色の一の宮 ソレ
   *くりかえし
 三 故郷の妹へ便りに添えた ハイハイ
   紅葉錦の紅葉錦のニュールック ソレ
   *くりかえし
 四 木曾の流れでみがいた肌は ハイハイ
   粋ないぶきの粋ないぶきの雪よりも ソレ
   *くりかえし
 五 娘心を七重に八重に ハイハイ
   織って自慢の織って自慢の生地の良さ ソレ
   *くりかえし

 これは舟木一夫の故郷・一宮市の「ご当地ソング」。一宮市は織物の町。紡績に機織に大勢の娘たちが働く女工の町。その女工たちを七夕の牽牛織女の織女=織姫に見立てた「織姫音頭」。作詞した城ゆたかは愛知県の人らしいし、作曲した森一也も名古屋在住の作曲家。(守屋浩の「有難や節」(昭35-11)は森の採譜でした。)
 「音頭」なので歌詞の基本も七七七五の民謡調。名所名物を歌い込んで土地を褒めたたえるのが古代の「国誉め」の伝統を引くご当地ソングの定型です。この歌も、まず「尾張よいとこ機織どころ」とめでたさを歌いあげて、「ほんに世界の糸の町」とくりかえします。春の「ますみだ桃花祭」(一宮市の地名のもとになった尾張一宮たる一宮市真清田(ますみだ)神社の春の例大祭)、夏の七夕祭り、秋は季節にちなんで「紅葉錦のニュールック」(新柄の織物でしょう)、冬は遠く望む伊吹山の雪の白さと、四季折々の景物を歌い込んで(いやいや、織物の縁語で、歌詞に織り込んで)います。
 七夕は古代中国の星祭。牽牛織女の七夕伝説も中国由来。とはいえ、牛を牽いて田畑を耕作するのは男の役割、機を織るのは女の役割、つまり牽牛織女は古代日本だって典型的な男女です。だから日本では彦星と織姫。「彦星」の「彦」は男子を表す言葉なので、牛を牽こうが牽くまいが、彦星は若き男子の代表です。
 中国文字の「七夕」はむろん七月七日の夕べ。日本に伝わって和名で「たなばた」。和名の語源は、ちょうど時期が祖霊祭(いまでいうお盆)の時期と重なるので、「たな」は祖霊を祀る「精霊棚(しょうりょうだな)」の「たな」、「はた」は精霊棚に立てる「(はた)」なのだともいいます。
 しかしまた、古くから棚すなわち横板の付いた織機のことを「たなばた(=棚機)」と呼んでもいたようで、中国古伝説の織女は容易に日本の機を織る女「たなばたつめ(棚機つ女)」のイメージと習合しました。早くも『万葉集』には七夕を詠んだ歌が130首以上もあって、そのほとんどが男女(彦星と織姫)の恋を歌った歌だとか。ことに『万葉集』巻十には柿本人麻呂作といわれる七夕の歌が多く集められています。その一首。(文字づかいは折口信夫『口訳万葉集』による。ただし、折口独特の表記法である句読点は省略しました。)
  天の川檝(かぢ)の音(と)(きこ)ゆ牽牛(ひこぼし)と棚機津女(たなばたつめ)と今宵逢ふらしも

舟木一夫・花咲く乙女たちより・山内賢&西尾三枝子 ところで、「織姫音頭」の半年後に舟木のヒット曲を映画化した「花咲く乙女たち」(昭40-1公開)は一宮市の隣の尾西市を舞台にして、西尾三枝子や岡田可愛といった「乙女たち」はみんな紡績工場で働く女工たちでした。右の写真は、1960年代の紡績女工たちの姿の垣間見える「花咲く乙女たち」の一場面です。(ただ、尾西市はいまは「平成の大合併」によって一宮市に吸収されてしまったとか。地名は歴史を記録(記憶)しています。日本中から大量の地名=土地の記憶を消失させた「平成の大合併」を、私は「平成の大愚行」と呼んでいます。)
 製糸と紡績と機織は一連の工程。かつての「女工哀史」の女工たちも、戦後の経済成長の波に乗って(乗せられて)1960年代には「花咲く乙女たち」になり、「織姫」になりました。もっとも、厳密には、紡績機械の前に座る紡績女工は織機の前に座る「織姫」ではありませんが、同じ「糸の町」で働く娘たち、紡績女工は「織姫」にあらず、と差別排除するつもりは「織姫音頭」にもないでしょう。ここはまあ大目に見て、紡績女工も「糸の町」の「織姫予備軍」としておきましょう。
 とこだわってみたのは、実は、私「遊星王子」の地球上の母親も、その昔、愛知県の幼い「女工=織姫予備軍」だったから。新潟県の田舎の尋常小学校を卒えた彼女はすぐに愛知県岡崎市の紡績工場に働きに出たのです。しかし、昭和3年生れの彼女、時はすでに日中戦争戦時下。まもなく「太平洋戦争」開戦。そのまま勤労動員で安城市の飛行機部品工場に回され、星降る七夕を祝う代わりに、夜空から無数の火が降る空襲下を逃げ惑うことになったのですが。

舟木一夫「しあわせの星二つ」 青春の星(9) 付・松尾芭蕉と俵万智の七月六日

 梅雨もようのままの七夕になりそうです。
 舟木一夫「しあわせの星二つ」。こちらで聴きながらお読みください。「本丸」さんに感謝しつつ無断リンクします。 

舟木一夫「しあわせの星二つ」
  昭和39年6月発売
  作詞:富山紫峰 作曲・編曲:上原げんと
舟木一夫・しあわせの星二つ&青山和子1 一 こがね しろがね 七いろかざり
   ゆれて きらめく 花模様
   虹のトンネル ゆきかう人の
   あゝちょいと 顔も 顔もあかるい
   七夕まつり
 二 昏れて絵のよな 銀河の岸へ
   おもいとゞけよ 笹かざり
   はずむ話も ロケット旅行
   あゝちょいと 若い 若い二人の
   七夕まつり
 三 淡いあこがれ おさない夢に
   書いて 結んだ あの色紙
   竹の青さも 瞼に浮かぶ
   あゝちょいと 遠い 遠いふるさと
   七夕まつり

 「しあわせの星二つ」はもちろん年に一度の「しあわせ」な逢瀬を楽しむ牽牛星と織女星。舟木一夫初めての民謡調です。
 いまでも舟木の故郷・愛知県一宮市の七夕祭りではこの歌が流れるそうですが、こんな歌を歌っても舟木の歌声は愁いを帯びます。
舟木一夫・一宮にて 作詞した富山紫峰についてはよくわかりませんが、ネット上のいくつかの検索結果や古風な雅号から推して、愛知県在住のやや年輩の文人(文化人)だったのではないかと思われます。すると、「尾張」「一の宮」は「ほんに世界の糸の町」と歌ったB面「織姫音頭」とともに、当初から故郷・一宮市あたりをモチーフにして作られたレコードだったのかもしれません。(右画像は故郷一宮にて。)
 もっとも、歌詞自体は日本のどこの地域の七夕祭りでもよさそうです。「♪ こがねしろがね」がなつかしい文部省唱歌「七夕さま」の「♪ きんぎん砂子」を思い出させる一方、「ロケット旅行」を織り込むあたりが60年代、というべきでしょうか。
 島倉千代子「恋しているんだもん」(昭36-11)の項で書いたとおり、1957年10月にはソ連の人工衛星「スプートニク1号」打ち上げ成功、1961年4月にはガガーリン少佐の宇宙飛行の成功、以来、歌謡曲もロケットや宇宙旅行を歌います。早くに花村菊江や五月みどりら女性歌手が五人でにぎやかに歌った「ロケット音頭」(昭34-2 西條八十作詞)があり、この後にも渡り鳥・小林旭が「♪ ちっちゃな地球に住みあきて(中略)銀河の上を飛んでゆく」と能天気なほど陽気に「宇宙旅行の渡り鳥」(昭39-10 水島哲作詞)を歌いました。宇宙旅行はどうせ庶民には実現不可能な夢=空想なので、とにかく陽気に無責任に祝祭気分で歌うところがミソなのです。)

 ところで、今日は七月六日。
 文月や六日も常の夜には似ず  松尾芭蕉
 『奥の細道』の越後路の旅、今町(いまの直江津)での句。有名な「荒海や佐渡によこたふ天河」と並んでいます。
 元禄二年(1689)文月(七月)六日は太陽暦の八月二十日ですが、七夕祭の前夜であることには変わりありません。明夜は七夕、牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬を果たすかと思えば、今宵六日の夜もなんとなくふつうの夜でないように、艶に優美に感じられる、ということでしょう。
 そして、芭蕉の旅からほぼ300年経った1987年、こんな歌が有名になりました。
 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵万智
 俵万智『サラダ記念日』の歌集名ともなった歌。ちょうど日本がバブルのあぶく銭に浮かれ始めた時代。金銭も風俗もモラルもバブル(あぶく)の浮力を受けて軽くなりましたが、言葉もまた、歴史や伝統という重しを離れてふわふわと軽くなりました。その軽さを三十一文字(みそひともじ)という「重たい」伝統詩型に流し込んで魅力的に再生させたこの歌集はベストセラーになりました。
 歌集がこんなに話題になり、時代の表現を変える力をもった、などという現象は、明治時代の与謝野晶子『みだれ髪』(明治34年=1901)以来のことだったでしょう。与謝野晶子は女性のエロス(愛と性)を大胆かつ清新に歌って時代の通念と確執を起こしましたが、俵万智はむしろふわふわした時代の気分とうまく同調しました。そこがまたバブル的だったともいえるでしょう。
 その俵万智が、あるパーティで先輩文学者から、あなたのあの歌は芭蕉の「文月や六日も常の夜には似ず」の句を踏まえているのですね、と話しかけられて恐縮したことがあったそうです。俵万智は芭蕉の句を知らなかったからです。
 なるほど芭蕉の句も文月(七月)六日、俵万智の歌も「七月六日」。芭蕉の句は背後に牽牛織女の逢瀬を暗示し、俵の歌は若い男女の恋愛を前景に描いています。
 俵万智が芭蕉の句を知らなかったというのは象徴的です。そういう歴史や伝統という「重さ」を離脱して「現在」を浮遊する快適さが『サラダ記念日』の魅力の源泉だったのです。たとえば「白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる」などという歌の言葉は、どこにも歴史や伝統への志向性を持っていません。ただ「現在」の、歴史も伝統も記憶喪失した「現在」の、気分だけで楽しいのです。
 その「現在」の歌に、先輩文学者は、松尾芭蕉という重たい過去(歴史、伝統)とのつながりを与えたのです。そのことによって、この歌は「現在」を超えた意味の広がりを獲得しました。
 作品の読み方は作者の意図が決定するのではありません。読者が恣意的に決定するのでもありません。発表された作品は、作者のものでありながら作者の手を離れて、無数の文学作品という言葉の海、つまり、作品(テクスト)同士が交流し合うインター・テクスチュアリティ(間テクスト性)というテクストの海に抱き取られ、その言葉の海の中で、作者の思いもかけなかったつながり(文脈)を獲得し、そのことによって新たな意味(読み方)を獲得していくのです。
 以上は、わが地球上の畏友・井口時男が、彼には珍しくも啓蒙的な、しかし奇妙なタイトルの、文学入門書『文学を科学する』で述べていたことでした。
 (こう書いている私「遊星王子」は、七月六日が「記念日」だという俵万智の歌から、7月4日のアメリカ独立記念日や7月14日のフランス革命記念日を連想して、この二人、実は世を忍ぶ革命家カップルか、などと憶測をたくましくしていたのですから、まったく無風流の男です(笑)。もっとも、この無風流の憶測も、まんざらまったくの「誤読」とは言えないかもしれない、というのがまたまた文学作品の「読み方」というものの奇妙奇天烈、アナーキーで面白いところなのですが、それは差障りもありそうなので書きません。)

舟木一夫「東京は恋する」 東京讃歌(9) 付・星座を歌う

 では、「北国の街」に続く舟木一夫「恋愛三部作」の二曲目、「東京は恋する」。
 こちらで聴きながらお読みください。HisakiVideoさんに感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫・東京は恋する舟木一夫「東京は恋する」
  昭和40年4月発売
  作詞:丘灯至夫 作曲・編曲:山路進一
 一 肩にやさしく 手をおいて
   見上げる夜の オリオン星座
   こんなにひろい 街だけど
   歩いているのは 二人だけ
   ああ 東京は恋する
   恋する街よ
 二 花の香りか 黒髪か
   より添う胸に 夜風も甘い
 舟木一夫・東京は恋する・DVD  いつかはきっと しあわせが
   くるよといえば うなずいて
   ああ 東京は恋する
   恋する街よ
 三 ふたりの夢を あたたかに
   ネオンがつつむ ターミナル
   手をふる別れ つらいけど
   明日もここで また逢える
   ああ 東京は恋する
   恋する街よ

 以前「東京讃歌」シリーズのときは話題の広がりを重視して舟木の「東京百年」の方を優先したので、まだちゃんと取り上げていませんでした。あらためてシリーズに付け加えます。
 レコード発売は「北国の街」の翌月4月。
 やっぱり日活で映画化もされまし。舟木は伊藤るり子に魅かれながらも友人・和田浩治との仲を取り持つ、という日活では何度か演じたタイプの役どころ。伊藤に頼まれて舟木が一日だけの恋人役になって伊藤の祖父母に東京を案内する(オリンピック後の東京の名所が観られます)、というのも日活ではおなじみのパターン。
 映画「東京は恋する」はなぜかレコード発売から5か月後の9月封切りでした。「舟木一夫大全集 陽射し・旅人」によると、実は映画撮影は6月から始まったものの、日活のストにぶつかったために製作に三カ月もかかったのだそうです。(通常ならたぶん6月末か7月公開だったでしょう。そして、ほぼ3カ月に1本平均の映画化ペースからすると、9月ごろには別にもう一本、たとえば「あゝりんどうの花咲けど」などが、映画化されていたかもしれません。)
 それにしても「東京は恋する」とは実に魅力的な題名。「東京ラプソディ」(昭11-6 門田ゆたか作詞/古賀政男作曲)の昔から、昭和歌謡曲ではいつだって東京は「♪恋の都」。しかも東京オリンピックから5カ月。東京を擬人化して、東京自身が恋するかのように見立てました。
 「恋愛三部作」としての「北国の街」「哀愁の夜」との歌詞の比較は「哀愁の夜」の項にも前回の「北国の街」の項にも書きましたが、とにかく、この「東京は恋する」が曲調もいちばん軽快、「手をふる別れ」への言及はあっても「明日もここでまた逢える」と続くので、これは一晩限りの軽い別れにすぎません。
 ところで、「北国の街」にも「ひとつ星=北極星」が歌われていましたが、こちらは「オリオン星座」を歌います。
 オリオンは冬の星座として知られますが、歌詞には特に冬の印象はなく、レコードも4月発売なので、春先ぐらいのイメージでしょうか。
 島倉千代子「恋しているんだもん」の項で書いたとおり、オリンピック前後から、農耕社会的・伝統的な「月」に代って、遊牧民的・都会的な「星」のヒット曲が多くなります
 しかし、歌謡曲の「星」はたいてい名のない「星」。星座名が歌われることはめったにありません。あれだけ星の歌を歌った西郷輝彦だって、星座名は一度も歌ったことがありません。特に、「オリオン」を歌ったのは舟木のこの曲ぐらいでしょう。
 「東京は恋する」は星座名「オリオン星座」を歌ってヒットした貴重な歌です。

 もちろん日本の歌謡で星座名が歌われないのは伝統的に星座観念が乏しかったためです。(平安朝から宿曜道(すくようどう)が中国の星座(星宿)観念に基づいて星占いをしたり暦を作ったりしますが、それはあくまで知識人の、しかも高度に専門的な知識にして専門的な「秘術」。庶民にまでは浸透しません。)
 近代になってヨーロッパ系の星座観念が輸入されますが、ポピュラーになったのはオリオンカシオペアぐらいじゃないでしょうか。この二つに伝統的な北斗七星(北斗、ひしゃく星、七つ星)を加えた三つが日本人のたいがい誰でもわかる星座でしょう。星座でなく星の名にまで広げても、せいぜい、北極星(一つ星)昴(すばる)牽牛(ひこぼし)織女(おりひめ)ぐらい。
 たとえば中学校で教わった文部省唱歌「冬の星座」は、もともとアメリカの曲に堀内敬三が歌詞をつけたものですが、その二番。
  ほのぼの明かりて 流るる銀河
  オリオン舞いたち スバルはさざめく
  無窮を指さす 北斗の針と
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる

 「オリオン」と「スバル」と「北斗」です。(「スバル」は厳密には「星団」ですが、古来からの和名です。)
 星座知識が浸透しなかったことに加えて、歌謡では言葉の音数や響きやイメージも大事なので、60年代まではカシオペアもスバルもほとんど歌われなかったように思います。ましてタイトルになることはまずありませんでした。(安達明に「蒼いカシオペア」(昭41-9)がありますが、これは例外中の例外でしょう。)
 いちばん多く歌われたのはたぶん北斗七星、それも「北斗七星」でも「七つ星」でも「ひしゃく星」でもなく、ほとんどいつもただ「北斗」という呼び名で。近松門左衛門の浄瑠璃『曽根崎心中』の道行にも「北斗は冴えて影映る」という詞章があります。(それでもこのブログではまだ克美しげる「曠野の星」の「北斗の星をかぞえる……」だけ。)
 北極星もただ「一つ星」として歌われる程度。「一つ星」は宵の明星、明けの明星、つまり金星を指すこともあるので、詞の内容で判断するしかありません。(ペギー葉山が歌った「次郎物語」の主題歌には、めずらしく「北極星」が出てきました。)
 案外多かったのは、意外にも南十字星。日本ではまず見られませんが(八重山諸島では春先に見えるそうです)、日野てる子に「南十字の星に泣く」(昭42-6)があり橋幸夫が「シンガポールの夜は更けて」(昭41-12)とそのB面「南十字に涙して」で歌いました。南国へのエキゾチシズムを誘います。(私の趣味を付け加えれば、テレビドラマ「快傑ハリマオ」の挿入歌で近藤圭子が歌った「南十字星の唄」もあります。)

舟木一夫「北国の街」 付・街と町

 2011年9月2日に始めたこのブログ、数カ月で切り上げるつもりが「病みつき」みたいになって、とうとう2年半を経過しました。
 近頃は毎日平均してuuで300人近く(pvはその倍の600近く)の方が訪れてくれます。
 余計なことばかり書いているこんなブログですが(実は青春歌謡にこじつけてどんな「余計なこと」を書こうかといつも思案しているのですが(笑))、それでも許容してくださる皆様に感謝。
 さて、先日舟木一夫「初恋の駅」が映画「北国の街」の設定に似ている、と書いたので、今日は寒い北国を思いやって舟木一夫「北国の街」。「冬」の歌とは言いにくい印象ですが、発売は3月、ちょうどいい時期でしょう。
 こちらで聴きながらお読みください。kazuyan_679_Sさんに感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫「北国の街」
舟木一夫・北国の街  昭和40年3月発売
  作詞:丘灯至夫 作曲・編曲:山路進一
 一 名残りが燃える 心が残る
   ふたりでかえる アカシアの道
   今夜だけでも そばにいて
   眺めていたい ひとつ星
   ぼくたちだけの よろこびが住む
   北国の街
 二 ちいさな花を ひろった指と
   ほのかに恥らい 見あげた顔に
   たとえ別れが あろうとも
北国の街40-4別冊近代映画より   心はいつも 変らぬと
   誓ってくれた 夜更けの恋よ
   北国の街
 三 夜風がゆれる 灯りがうるむ
   肩よせあるく アカシアの道
   ここでさよなら するけれど
   明日もいい娘で いて欲しい
   ぼくたちだけの しあわせがある
   北国の街

 これまでもたびたび言及してきましたが、ちゃんと取り上げるのは今日が初めてです。
 「哀愁の夜」の項で、現在進行形の恋を歌う舟木一夫「恋愛三部作」の最初の曲なのだ、と書きました。いいかえれば、舟木一夫にはそれほど現在進行形の恋歌が少ない、ということです。
 北国の夜更けの街を肩よせ歩く若いふたり、そろそろ別れの時刻、という設定で統一されています。歌詞の3行目から転調して「今夜だけでもそばにいて/眺めていたいひとつ星」はまるでそっと語りかけるセリフのように歌います。そこが実に新鮮で魅力的でした。舟木一夫だけでなく歌謡曲としてもめずらしい手法だったように思います。山路進一の才能に感服。
 ことに、三番末尾の「明日もいい娘でいて欲しい」には「年長者」の視線があって、舟木一夫がこれまでになく大人びたように感じられたものです。
 しかし、この現在進行形の恋においても、二番で「たとえ別れがあろうとも」と「別れ」の一語(拡大すれば「今夜」だけでない別離の不吉な予感になります)を入れるのが舟木一夫の世界なのでした。ただ、「北国の街」では 一番の「ぼくたちだけのよろこびが住む」三番の「ぼくたちだけのしあわせがある」に挟まれているので、全体はつつましく歌う恋のよろこびで統一されています。「哀愁の夜」ではこの「別れ」の予感(♪たとえ別れは辛くとも)が三番に来るので「哀愁」が深まるのです。
 ところで、この「北国の街」、どこの街を連想するでしょう。「アカシアの道」が歌われているので、たいていの人が札幌を連想するのではないでしょうか。(札幌には「アカシア通り」があります。仙台も樹木の街、「杜の都」ですが、仙台の「青葉通り」はケヤキ並木です。)「ひとつ星」は北極星でしょう。
 今日も上に映画「北国の街」(昭40-3公開)にちなむ画像(「別冊近代映画」昭40-4)を入れてみましたが、映画「北国の街」は歌謡曲「北国の街」とはイメージがまったくちがいました。
 漢字の成り立ちや意味について私が一番信頼し尊敬もする白川静の『字通』は、「」について、「街」という字の一部である「圭」はもともと「占卜に用いる土版で、区画を施す意がある。街衢(がいく)によって居住地が構成されるので、のち市街の意となる。」と説明しています。「街」は道路が整然と区画された市街地なのですね。それこそ人工的に設計建設された碁盤目状近代都市・札幌にこそふさわしい文字です。
 一方、「」という字については、「〔説文〕十三下に「田の践(ふ)む処を町と曰(い)ふ」とあり、あぜ道をいう。(中略)田土の区画の意に用い、わが国では町村の字とする。」とあります。字形の一部に碁盤目状の区画「田」を含むものの、それは文字通り田んぼの形、「町」はもともと田んぼの「あぜ道」だったのですね。
 映画「北国の街」は富島健夫の小説「雪の記憶」を原作としたので、舞台は「北国」というより「雪国」(原作の舞台は新潟県の豪雪地域である十日町、映画のロケ地は十日町とは山々を隔てた長野県の飯山周辺だったとか)、都会的な「街」ではなく、地方の小さな「町」。つまり、「北国の街」というより「雪国の町」といったイメージでした。
 レコード発売と映画封切は同じ3月、おそらく企画段階から両方連動して進行していたはずですが、この印象の違いはちょっと気になります。ただ、映画「北国の街」は、舟木が初めて「客演」ふうにではなく、本格的に主演した映画なので、レコードとのタイアップ戦略よりも、舟木初主演映画としての独立性を重視したのかもしれません。
 もちろん歌謡曲と映画は別々に楽しめばよいので、これも「余計なこと」です。

 *2016-2-15付記:こちらで、映画「北国の街」を撮った柳瀬観(のぞむ)監督が舟木一夫青春映画について語っています。2008年9月26日、西日本放送で放送されたもの。その話によると、映画の脚本は当時駆け出しの倉本聰が書きましたが、舟木一夫にそぐわない内容でまるで使いものにならず、柳瀬監督が最初から全部書き直したのだそうです。どうやら、舟木一夫を日活青春映画スターとして自立させたのは柳瀬監督だったようです。

舟木一夫「初恋の駅」

 また冬の歌にもどりますが、冬の青春歌謡は昨年のこの時期、「雪の中の青春」「春を待つ青春」シリーズで取り上げたので、大きなヒット曲はあまり残っていないようです。
 今日は舟木一夫の「初恋の駅」。三田明「タートル・ルックの生かすやつ」のセーターは冬かどうかはっきりしませんでしたが、この歌のマフラーはまちがいなく冬です。
 こちらで聴きながらお読みください。itsudemo yumeoさんに感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫「初恋の駅」
  昭和39年1月発売
  作詞:関沢新一 作曲:山路進一 編曲:中村貞夫
舟木一夫・初恋の駅 一 いつも電車に 乗ってくる
   赤いマフラーの おさげ髪
   北風つめたい 駅だった
 二 いつもホームで 待っていた
   白いマフラーの 男の子
   小さな小さな 恋だった
 三 なにも言わずに 歩く道
   枯れ木ばかりの 並木道
   それでも楽しい 道だった
 四 白いマフラーが 泣いていた
   赤いマフラーは 三日まえ
   独りでみやこへ 行っちゃった
 五 恋は咲かずに 散ったけど
   春が来たなら 咲くだろう
   誰かと誰かの 思い出に
 六 赤いマフラーの ような花
   白いマフラーの ような花
   電車の小駅に 咲くだろう……

 「叱られたんだね」のB面。しかもこのレコードは「あゝ青春の胸の血は」と同じ月の発売。最初からマイナー扱いのレコードでした。
 けれども、マイナーにはマイナーなりの魅力があるもの。大きなものがもちえない、「小さな小さな」ものだけがもつ魅力です。
 咲かずに散ったいじらしい恋の歌。恋は散っても彼らの心に純な思い出の花を咲かせます。
 汽車通学なので、たぶん二人は高校生。彼らの別れは卒業後の進路選択とともにやってきます。地方の町の高校三年生たちは、あちこちで、よく似た小さなドラマを演じていたことでしょう。そういうせつなくも甘酸っぱいドラマを、語り手(歌い手)である舟木一夫があたたかく見守ってやっているかのように、歌詞は書かれています。それが聴き手をいとおしくもいじらしい気持ちに誘います。
 これが卒業による別れなら三月の末か四月の初め。それでもまだこの町に「春」は来ていません。ということはつまり、これは「北国の町」の高校三年生の別れだということになります。
北国の街より そういえば、この翌年の映画「北国の街」(昭40-3公開)では、別な高校に通う舟木一夫と和泉雅子が、通学時に駅で出会い、毎日その駅で待ち合わせ、しかもラストでは、進学のために「独りでみやこへ」行く和泉雅子を地元に残る舟木一夫が見送ったのでした。
 (ちなみに、映画では、右の画像のとおり、通学時にセーラー服の和泉はマフラーを巻いていましたが、詰襟の舟木は巻いていません。しかしラストでは舟木もマフラーを巻いています。ラストシーンはyoutubeのあちこちを探してみてください。)

舟木一夫「初恋」 島崎藤村の詩(1) 付・詩の多義性について

 では、土井晩翠「荒城の月」を受けて、舟木一夫が歌った島崎藤村の詩「初恋」を。こちらで聴きながらお読みください。Jewel5522さんに感謝しつつ無断リンクします。
 この詩も歌詞カードではなく藤村の詩集から旧かな遣いで引用します。(四番は歌われていません。)

舟木一夫「初恋」
  昭和46年9月発売
  作詞:島崎藤村 作曲:若松甲 編曲:佐伯亮 
レコード・初恋 一 まだあげ初めし前髪の
   林檎のもとに見えしとき
   前にさしたる花櫛の
   花ある君と思ひけり
 二 やさしく白き手をのべて
   林檎をわれにあたへしは
   薄紅の秋の実に
   人こひ初めしはじめなり
 三 わがこゝろなきためいきの
   その髪の毛にかゝるとき
   たのしき恋の盃を
   君が情に酌みしかな
 四 林檎畠の樹(こ)の下に
   おのづからなる細道は
   誰(た)が踏みそめしかたみぞと
   問ひたまふこそこひしけれ

小林旭・初恋 オリジナルは昭和38年11月に「男の道/初恋」で小林旭が歌いました。昭和の抒情歌の伝統に連なる曲調ですが、古くからの歌曲ではなく、小林旭のために作られた曲です。(小林旭版の編曲は安藤実親。いまyoutubeにはありません。)小林旭はその2年前に「北帰行/惜別の唄」(昭36-10)で藤村の詩を原型とする「惜別の唄」を歌った実績がありました。
 島崎藤村の詩「初恋」が作曲されたのはこれが初めてではありません。古くは大中寅二(藤村の詩「椰子の実」の作曲者)による曲がありますが、これは唱歌風の曲調でした。(youtubeで聴けます。)だから、「初恋」を見事な抒情歌謡に仕立てたのは若松甲の功績です。(たぶん「惜別の唄」の曲調を踏まえての作曲だったでしょう。)若松甲はその前年、昭和37年に作曲家生活を始めたばかりでした。
 その「初恋」を8年後に舟木一夫がアレンジを変えて歌いました。小林旭の甲高く突き抜ける声質で生かしきれなかった抒情性を見事に歌いあげて、舟木一夫久々の大きなヒットになりました。
 昭和46年=1971年の紅白歌合戦でも舟木は「初恋」を歌います。しかし、これが舟木一夫最後の紅白出場になりました。舟木一夫がひとり支えてきた反時代的抒情の最後の光芒でした。60年代青春歌謡全盛期を築いた舟木一夫はこうして急速に表舞台から消えていきます。
 
島崎藤村・初恋 では、例によって詩句についての無用の解説。(この詩にはモデル論がありますがそれは無視します。詩の世界は自立した世界です。)
 清新な詩風で近代詩の誕生を告知した『若菜集』(明治30年=1897年8月刊)のなかでも特に知られた作品。(右は復刻版の表紙と該当ページ。画像では「初島崎藤村・若菜集恋」末尾の行が「問ひたまう」となっていますが、仮名づかいでは「たまふ」が正しい。)
 一番は出会い。あるいは男の側からの見初め。「起承転結」の構成法でいえば「」の連。
 「まだあげ初めし前髪」。日本文学の「初恋」のモデルは「伊勢物語」の第二十三段高田美和「たけくらべ」の項で短く言及したとおり、共同井戸のそばでいっしょに遊んだ幼なじみ同士が年頃になって恥じらいあって会わなくなったが、意を決した男が歌を贈り、女が歌で応えてめでたく結ばれる、というもの(ただし後日談あり)。樋口一葉の小説「たけくらべ」(明治28年=1896から発表)のタイトルの由来となった物語です。
 そのとき男の贈った歌。
  筒井筒井筒にかけしまろが丈過ぎにけらしな妹(いも)見ざる間に
 テキストにも解釈にも小さな異同・異説はあれこれありますが、知らぬふりして大まかに訳せば、丸い井戸の井筒の高さと比べて遊んだ私の背丈も井筒の高さをとうに過ぎて一人前の男になりました、あなたと長く逢わないうちに、というような意味。つまりは「成人」としての求愛の歌。
 その意を酌みとった女の返し。
  比べ来(こ)し振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰(たれ)か上ぐべき
 あなたと長さを比べて遊んだ私の振り分け髪も(切りそろえることをやめて)肩を過ぎて長くなりました、「髪上げの式」をするためです、でもあなた以外の誰のために髪上げをしましょうか、ただあなただけのためにするのです。
 昔も今も髪型は男女の性別を表示する文化記号ですが、子供時代は男の子も女の子も今日のおかっぱ風の「振り分け髪」。つまり子供は無性の存在。女性が髪を伸ばして髪上げをするのは少女の成人儀礼です。男の求愛を受け入れるという承諾の歌です。
 一千年近く時を経た明治二十年代でも、少女が髪を上げて日本髪に結うのは少女の成人儀礼。「まだあげ初めし前髪」のこの少女、まだ十三、四、あるいは十四、五歳でしょうか。(この詩句を冒頭においた藤村の念頭には、ひょっとすると、『伊勢物語』のこの段を明治の少年少女の世界によみがえらせて評判になった一葉「たけくらべ」からの連想があったかもしれません。)
 男の方もほぼ同年齢の少年でしょう。前髪に挿した「花櫛」(花のような装飾を施した櫛)のように美しい人だ、と見初めます。
 二番は初恋の自覚。一番を承けて事態が連続的に進行する「」の連。
 少女は「やさしく白き手をのべて」リンゴを差し出します。一番の視覚による距離を隔てた見初めは、一挙に距離を詰めて接近し、差しのべる手と受け取る手、「薄紅の秋の実」を介して手と手が触れ合います。差しのべられたとき、袖口に隠れていた少女の白い腕も少しあらわになって、手の接触と相まって、少年の初々しい官能を刺激したことでしょう。それが「人こひ初めしはじめ」でした。
 三番は恋の告白、相思相愛の確認。「」の連。
 二番で二人は手が触れ合うほどに距離を詰めましたが、ここでは二人はたぶん向かい合っているのでしょう。少し背の高い少年のため息が少女の髪の毛にかかります。「こころなき」は無情の意ではなく、意識せず、思わずもらした熱い吐息。少年の情感の高まりに彼女も応え、二人は互いの恋心を告白しあい確認しあいました。
 一番から三番までは出逢ったその日の一連の出来事と解することも、少しづつの期間を置いた出来事と解することもできますが、二番と三番の間には多少の時日の隔たりがある、とするのが自然でしょう。(一番の「花櫛」はリンゴの白い花をも連想させますが、そうすると「秋の実」を歌う二番以後との間に長い時間の隔たりがあることになるので、一番も秋、鈴生りのリンゴ畑だったのでしょう。)
 一番から事態は連続的に進行しているので、三番を「転」とするのは不審かもしれません。しかし、三番は時日を置いての恋の成就であり、しかもリンゴが歌われていません。だから「転」です。
 四番は全体を締めくくる「」の連。
 急速に進行した三番までの流れと違って、恋愛はもう安定期です。二人の感情も落ち着いて、出逢い以来の日々を回顧するゆとりもあります。急速な前進から落ち着いた回顧へ、詩の締めくくりとして、この転調も見事です。三番までずっと互いに向き合っていた二人の視線も、並んで「細道」(過去から現在に至る共有された時間)を共に眺める回顧の視点へと変わっています。
 「かたみ」は「形見」。過去を思い出させるよすが、記念。もちろんリンゴ畑の樹の下におのずと出来た細道は、逢い引きを繰り返した二人が下草を踏み分けていつのまにか出来上がった道とも知れぬ細い道。それを知りつつ問うのは少女の無邪気な戯れ。二人の心理的な距離もなくなっていることを示す心にくいエピソード。それはまた、現在に満ち足りた少女の心のゆとりの現れでもあるでしょう。問われた少年もまた、その親しみあふれる彼女の戯れに応じてますます恋の思いをつのらせるのです。
 一番から三番まで、恋愛の急速に進行する各段階を、リンゴに託して、きわめて印象的に、新鮮に、描き出し、四番で回顧的なまなざしによって流れを落ち着かせて結ぶ。各連のあざやかなイメージの描き分け、「起承転結」に即した見事な構成、この詩が恋愛詩の古典的名作である証拠です。

 この詩については以上でほぼ言い尽しました。しかし、さらに余計なことを書き添えたくなるのが私の悪癖です。
 以前、佐々木新一「リンゴの花が咲いていた」(昭41-6)の項でこの詩に言及し、我が地球上の畏友・井口時男の説を借りて、「やさしく白き手をのべて」リンゴを男に渡した少女の行為を「旧約聖書」のイヴの行為に重ね合わせるとき、明治日本の初々しい少年少女の初恋の世界は楽園を追われるきっかけとなった人類の始祖二人の「初恋=原罪」を反復しているとも読めるのだ、と書きました。
 もちろん「初恋」という限定されたテクストからはこんな読み方は出てきません。この愛らしく小さな「初恋」を、明治の青年たちに「恋愛」というものの至上の価値を教えたキリスト教の文脈へと、つまり文化的なコンテクスト(文脈)へと、一気に接続した私の強引な「牛刀」の仕業です。この「牛刀」は「初恋」論としては逸脱的ですが、「初恋」を含みこんだより広い藤村論、さらには明治ロマン主義論においては十分意味を持ちます。
 言葉の意味は文脈(コンテクスト)によって変わります。つまり、異なる文脈を見つければ異なる意味が浮上します。文学テクストというものは極めて多義的な読み方を許容できるものなのであって、その許容度の広さというものもまた、名詩の重要な要素です。
 とはいえ、私の逸脱的な解釈も「初恋」のテクスト自体を無視しているわけではありません。詩の表現に即してもう少し補足してみましょう。
 「旧約聖書」ではイヴはアダムを罪=堕落へと誘う誘惑者であり、彼女が差し出した甘く熟れたリンゴは誘惑の道具です。(果実が熟れるとは種子撒種の媒介者である鳥たちへの樹木の誘惑であり、また果肉の腐敗の進行過程にほかなりません。熟れ腐れた果肉ほどとろりと蠱惑的に甘いものです。)
 藤村の「初恋」でも、白い手をあらわに差しのべてリンゴを与えたのは少女でした。それは無邪気な好意のようでありながら、しかし、さりげない誘惑の仕草のようにも見えます。恋の誘惑は、イヴがそうだったように、少女の方から仕掛けたのです。
 (この誘惑が無意識的か意識的か、と答えのない問いを問い始めれば、夏目漱石『三四郎』の主人公のように、女性はみな「無意識の偽善家(アンコンシャス・ヒポクリット)」なのではないか、という疑惑にまで至るでしょう。さらにそれを、誘惑として受け止める男の心理(欲望)の問題なのだと考えれば、欲望的関係における「主体」とは何か、という厄介な議論も始まります。)
 その彼女は四番では、細い道を指さして、あれは誰が踏み初めて出来た道かしら、と少年をからかうかのような戯れの問いかけを与える女に(心理的に)成長しています。実際、二人が別方向からいつもこの樹の下にやってきて、彼女の指さした細道は少年の足跡の作った道なのだという解釈も可能であって、それなら少女は、ほらほら、あれはあなたが毎日毎日私に通いつめて出来た道なのですよ、とうぶな相手の一途な恋心の軌跡を指摘してみせていることになります。「まだあげ初めし前髪」の少女は、このとき、まるで恋愛に長けた年上の「成熟した」女のように見えてくるではありませんか。現にここで初めて、作者は(語り手である少年に同一化した作者は)「問ひたまふこそ」と、まるで年長者に対するごとく、敬語を使っているのです。
 「牛刀」に「牛刀」を加えたこの解釈が「初恋」の純真な印象を損なうと御不快の方はご放念ください。しかしこれもまた、解釈の揺らぎを魅力の要素とする詩的テクストの多義性の効果なのです。

舟木一夫「荒城の月」 秋は月(13) 付・土井晩翠小論&近代詩史小論

 季節はずれは承知で続けてきた「秋は月」、最後は有名な「荒城の月」で締めくくります。
 舟木一夫が歌っています。こちらで聴きながらお読みください。jewel5522さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (詩は歌詞カードではなく土井晩翠の詩集から旧かな遣いで引用します。)

舟木一夫「荒城の月」
  昭和43年9月発売
  作詞:土井晩翠 作曲:滝廉太郎 (編曲:松尾健司)
 一 春高楼の花の宴
舟木一夫・荒城の月   めぐる盃影さして
   千代の松が枝わけ出でし
   むかしの光いまいづこ。
 二 秋陣営の霜の色
   鳴き行く雁の数見せて
   植うるつるぎに照りそひし
   むかしの光今いづこ。
 三 いま荒城のよはの月
   変らぬ光たがためぞ
   垣に残るはただかづら
   松に歌ふはただあらし。
 四 天上影は変らねど
   栄枯は移る世の姿
   写さんとてか今もなほ
   あゝ荒城の夜半の月。

舟木一夫LPひとりぼっち第2集 「赤とんぼ」三木露風作詞/山田耕筰作曲)とのカップリング(両面とも松尾健司の編曲)。抒情歌だけのシングル盤は舟木一夫としては初めてでした。リズムとエレキと都市的快楽の時代にあえて亡びゆく日本の抒情を選択したことになります。こうして舟木一夫はますます反時代的に「あはれ」を深めていきます
 (右の画像は「荒城の月」「赤とんぼ」他、抒情歌だけを収録したLP「ひとりぼっち第2集 舟木一夫想い出の歌」(昭43-11発売)。)
 さて、土井晩翠の詩は、「明治三一年頃東京音楽学校の需(もとめ)に応じて作れるもの、作曲者は今も惜まるる秀才滝廉太郎君」という前書があるとおり、最初から作曲されることを前提として書かれた詩でした。それゆえ初出も明治34(1901)年刊の東京音楽学校編『中学唱歌集』。
 仙台出身の晩翠は仙台城(青葉城)と会津若松の鶴ヶ城をイメージしてこの詩を書き、滝廉太郎は小学校時代を過ごした大分県竹田市の岡城址をイメージしながら曲を作ったといわれます。
 例によって無用の解説。
 一番は城中で催された春の酒宴の景。爛漫の桜花を愛でながらの華やかな宴です。「千代の松が枝」(千年も常緑を保つ松の枝)はこの栄華の「千代」にもつづく永続性を寿ぐかのようでもあったでしょう。松に託して千寿万寿の繁栄を祝うのは「めでためでたの若松さまよ」などと俗謡にも歌われる予祝の定型です。(なのに、いまは城は無人なのです。)
 転じて二番は秋の戦陣の景。ここは上杉謙信の著名な七言絶句「九月十三夜陣中作」の初二行「霜満軍営秋気清/数行過雁月三更(霜は軍営に満ちて秋気清し/数行の過雁月三更)」を踏まえたもの。「植うるつるぎ」は一番の「松が枝」と対比させて、林立する刀槍を樹林にたとえたのでしょう。
 一番も二番も、この城が栄華を誇っていた戦国の世です。末尾のリフレイン、「昔のひかり今いづこ」は、昔の月光は今どこにあるか、ですが、それはいわば修辞疑問。むしろ、この城の昔の栄光は今どこにあるか、の意を下に潜めます。あくまで視点は現在からの回顧です。
 三番の「いま」がその現在をあらわに示します。今はもう人住まぬ荒れ果てた城。昔と変わらぬ月光は誰のために照らすのか。文明開化、廃藩置県になって無用の長物化した各地の城が次々に民間に売却された(あの姫路城さえも)のが明治という時代です。
 四番は三番の感慨を一種形而上的な想いにまで高めます。天上の月光は変わらぬが栄枯盛衰移ろうのがこの地上の運命。月はその無常の運命を映しだすかのようだ、というのです。自然の永遠性に対する人事無常の思いです。
 歴史を回顧して無常を詠嘆する、という主題は晩翠が得意としたものでした。たとえば、「三国志」の英雄・諸葛孔明の死を歌って人口に膾炙した長編「星落秋風五丈原」も、万里の長城に立って始皇帝の偉業と亡びを回顧した長編「万里長城の歌」も、そういう詩でした。その意味で、「荒城の月」は歌曲用に書かれた短詩ですが、晩翠の世界を凝縮した詩だと言えるでしょう。
 (なお、三番の「松に歌ふは」、舟木一夫は「うとうは」と歌っていますが、倍賞千恵子の歌唱を聴いたら「うたうは」と歌っていました。これは「au」を「oo」と長音化する舟木が伝統として正しい歌い方です。倍賞千恵子の歌唱はたぶん1970年代でしょう。60年代まで保たれていた日本語の正統が70年代以後に崩れた証拠の一つです。同様の崩れは小林旭「北帰行」でも生じています。)

 土井晩翠は英文学者にして詩人。「学匠(学者)詩人」の先駆けです。明治30年代前半、島崎藤村と並び称されていました。
 藤村も晩翠も広義のロマン主義ながら、世界はまったく違いました。藤村は女性的で晩翠は男性的、藤村は和文脈で晩翠は漢文脈、藤村は抒情詩的で晩翠は叙事詩的、恋愛詩の多かった藤村の世界は「私的」で歴史回顧に名詩の多かった晩翠の世界は「公的」、さらには、藤村の「美」に対する晩翠の「崇高」藤村の等身大の抒情に対して晩翠の英雄主義に傾く抒情藤村の個人主義的ロマン主義に対して晩翠のナショナリズムを含みこんだロマン主義、等々といった対比が可能です。
 しかし、その後の近代詩は藤村の路線の延長上で進み、現在では晩翠が顧みられることはまったくありません。
 理由はいくつかありますが、なにより重要なのは漢文脈の伝統が明治時代で命脈が尽きること。本来「詩」といえば漢詩を指したのですが、近代日本語が漢詩漢文の伝統を棄てるのです。
 それに伴って、「詩は志」(『書経』や『詩経』)という漢詩の重要な観念も消えていきます。「志」には政治や社会にかかわる「公的」な思想も含まれます。歴史というものも民族や国家の命運にかかわる「公的」なものです。「公的」な主題が消えるとき、「私的」な抒情だけが残ることになります。主情的な「うた=和歌」の伝統だけが残る、と言ってもよいでしょう。
 以後、近現代詩はひたすら藤村流の「私的」な思いの表現に向かうのです。この点では象徴主義だってシュールレアリスムだって、表現技巧は複雑化しても、「私的」モチーフであることに変わりありません。
 もちろんそれが近代というものです。近代文学、とりわけ近代詩は「私的」なもの、個人の「自己表現」です。自己を突き詰めない表現はとかく空疎な文飾に流れやすい。晩翠の詩にもそういう弱点がありました。
 しかし、個人の生は「公的」なものと無関係ではいられません。なにしろ「大日本帝国」の時代です。大日本帝国も個人主義を容認しました(弱肉強食の資本主義を支える私有財産制は個人主義の法的・経済的基礎です)が、反面で家族主義、国家主義によって個人の自由を厳しく制限していました。しかも国家や民族という「全体」の命運にかかわる戦争も繰り返します。
 そういう時代、文学表現の主流から消えた土井晩翠の世界は、たとえば旧制高校寮歌の歌詞に引き継がれます。彼らエリート高校生たちにあっては、個人の栄達は天下国家を担う使命感と不可分です。「私的」なものと「公的」なものとは、彼らの「立身出世」において結びついているのです。だから、彼らが寮というエリート共同体の理想を謳い上げた寮歌には晩翠の詩句や晩翠的な漢文脈の修辞が多く取り込まれました。
 そしてまた、国家改造の「志」を歌い上げた「昭和維新の歌(青年日本の歌)」(三上卓作詞)が「星落秋風五丈原」など、晩翠の詩句を多く引用=換骨奪胎していることも有名です。
 逆にいえば、そうした「公的」なものを歌う語彙や修辞を提供できるすぐれたモデルが晩翠詩以外になかった、ということでもあります。さらにいえば、「自己」によって十分に裏打ちされていない晩翠の詩句は、「型」を踏んで「型」を出ること少なく、それゆえ他人の詩(歌)の文脈に引用=移植されやすかったのだ、とも云えます。
 「昭和維新の歌」は右からの「志」でしたが、左から国家改造の「志」を歌えばプロレタリア詩になります。プロレタリア文学は、いわば、下(下層階級)から「公的」なものに関わろうとした文学です。
 そして、日中戦争から大東亜戦争へと歴史が進行する中で、左翼も自由主義者も個人主義者も弾圧され、「公的」な世界を打ち棄ててきた詩人たちが戦争翼賛の「公的」表現ばかりを歌うようになります。なにしろ、昭和16年1月8日に陸軍大臣東条英機が示達した「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を含むあの「戦陣訓」の校閲(文章推敲)に、かつての「公的」詩人だった土井晩翠のみならず「私的」詩人だった島崎藤村も従事したのです。戦争という国家最大の「公的行事」は詩人たちの言葉の力をも動員しました。日本近代詩史の皮肉です。
 なお、舟木一夫はこの三年後、「初恋」(昭46-9)で、今度は島崎藤村の世界を歌うことになります。

舟木一夫「月とヨットと遠い人」 秋は月(4) 付・大正の童謡から昭和の歌謡曲へ

 「♪ふるさとの蒼い月夜に」(「夕笛」昭42-8)が印象に残る舟木一夫ですが、タイトルに「月」が入るのは「夕月の乙女」(昭39-1)と「月とヨットと遠い人」(昭40-7)の2曲だけ。しかもどちらもB面曲。
 では、その「月とヨットと遠い人」。こちらで聴きながらお読みください。itsudemo yumeoさんに感謝しつつ無断リンクします。

舟木一夫「月とヨットと遠い人」
  昭和40年7月発売
  作詞:関沢新一 作曲・編曲:松尾健司
レコード・渚のお嬢さん (2) 一 月の夜に 独りしのぶ
   つぶらなる あの瞳
   ぬれていた 泣いていた
   君は あゝ とおい人
   青い月の夜
   白い船の帆は
   散る恋の花か
   涙あふる
   月の夜の 白いヨット
   あの船は かえらない
舟木一夫・本間千代子39-8-16週刊明星 二 一すじの あつき涙
   頬ぬらす 若き日よ
   さよならと さよならで
   君は あゝ とおい人
   *瞼とじてきく
    月と波の唄
    あゝ 今は夢か
    白いヨット
    月の夜の 一人ぼっち
    君は あゝ とおい人
   *くりかえし

 「渚のお嬢さん」のB面でした。真昼のビーチを歌ったリズム歌謡(リズム・ビーチ)の裏面で、しんみりと月夜の海を歌います。
 「青い月の夜」の浜辺は、幻想的な美と悲しみを誘うもの。
 たとえば大正時代の童謡の名曲「浜千鳥」(鹿島鳴秋作詞/弘田龍太郎作曲)。
  青い月夜の浜べには
  親をさがして鳴く鳥が
  波の国から生れ出る
  濡れた翼の銀のいろ

 大正期の童謡には、「かなりあ」(西條八十作詞)「叱られて」(清水かつら作詞)「赤い靴」(野口雨情作詞)「青い目の人形」(野口雨情作詞)など、孤独と喪失感をたたえた名曲が多いのですが、これもその一つです。
 (吉本隆明は「日本のナショナリズム」というエッセイで、これを近代化の過程で進行した大衆の「故郷喪失」感情の表出だと考えました。たぶん当っているでしょう。
 故郷喪失や郷愁が近代詩のポエジーの中心主題のひとつであり、それが60年代歌謡曲まで受け継がれていることについては、本間千代子「愛しき雲よ」や同じく本間千代子「誰かのマンドリン」などの項で書きました。
 近代詩の抒情を模倣しながら俗謡である歌謡曲の抒情が感傷性に傾いていくその媒介となったのが、大正期の童謡運動だったのではないか、と私は考えています。それはとりもなおさず、大正期の象徴派的抒情詩人から童謡詩人へ、さらに昭和歌謡曲の作詞家へ、という西條八十の歩みと一致しています。レコード産業とともに生まれた昭和歌謡曲の前段階に大正時代の民謡運動や童謡運動がありました(野口雨情などはその両方で活躍しました)が、同じ俗謡といっても民謡の基調はリアリズムで現世肯定なので、抒情性や感傷性とは縁が薄いのです。)
 なお、「千鳥」は俳句では冬の季語ですが、それはあくまで俳句というジャンルでの約束事。「浜千鳥」の歌詞は季節を限定してはいませんし、千鳥はどの季節でも見られます。現に、作詞した鹿島鳴秋は大正8年6月、新潟県の柏崎の浜辺でこの詞を書いたといいます。「月とヨットと遠い人」から「浜千鳥」を連想しても別にかまわないわけです。
 その「青い月夜」の海に白いヨットのまぼろしをあしらったとき、現代の風景になります。遠く去った恋人の想い出。追憶の海を遠ざかる白いヨットのまぼろし。関沢新一の詞は美しく幻想的なイメージをかもしだし、それまでの舟木の口ずさみやすい曲調を離れた松尾健司の曲は、舟木の歌声から深みのある抒情性をいかんなく引き出しました。
日野てる子・夏の日の想い出2 月の浜辺で終わった恋を偲ぶ日野てる子の「夏の日の想い出」(鈴木道明作詞作曲 ♪きれいな月が海をてらし)が大ヒットしたのもこの頃のことでした。(「夏の日の想い出」は、当初、昭和40年2月発売の競作「ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー」のB面扱いでしたが、ヒットしたのでA面扱いにして再発売されました。B面扱いのジャケット画像は「ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー」の項に掲げたので、右はA面扱いのジャケット画像。)
 (舟木のこの曲も日野てる子の「夏の日の想い出」も別にハワイアン調ではありませんが、上にはちょっとハワイアン風の舟木一夫と本間千代子の画像を載せておきました。ほぼ1年前の「週刊明星」昭和39年8月16日号から。映画「夢のハワイで盆踊り」が公開された頃です。ところで、一年前のはずのこの画像の舟木の服装、小道具のウクレレまで「渚のお嬢さん」のジャケット画像とそっくりです。ひょっとして、南国らしい風景の中のジャケット画像は一年前の写真を流用したのでしょうか?)
 なお、舟木は翌年の夏にも、リズム歌謡「太陽にヤア!」(昭41-6)の裏面で「♪月白い夜に真珠っ子!」(「真珠っ子」植田俤子作詞)と歌います。

舟木一夫「センチメンタル・ボーイ」 惜しみなく愛は奪う/与える

 チャンネルNECOの舟木一夫特集、今日は東京映画(東宝配給)「君に幸福(しあわせ)を センチメンタル・ボーイ」を放映しています。そこでその主題歌「センチメンタル・ボーイ」。
 こちらで聴きながらお読みください。kazuyan079さんに感謝しつつ無断リンクします。(レコード・ジャケットの下は映画のビデオの裏面。表面は「愛につつまれて」の項に載せました。)

レコード・センチメンタルボーイ舟木一夫「センチメンタル・ボーイ」
  昭和42年11月発売
  作詞:河端茂 作曲・編曲:山屋清
 一 夢をあげよう
   夢をあげよう
   ぼくの夢をみんなあげよう
   きみが倖せになれるなら
   ぼくには夢がなくなってもいい
   えくぼ押さえてる きみの小指に
センチメンタル・ボーイ・映画より   投げキスをして
   ああ ぼくはセンチメンタル・ボーイ
 二 虹をあげよう
   虹をあげよう
   ぼくの虹をみんなあげよう
   きみを美しくできるなら
   ぼくには虹がなくなってもいい
   涙うかべてる きみの瞳に
   ほほえみながら
   ああ ぼくはセンチメンタル・ボーイ
 三 歌をあげよう
   歌をあげよう
   ぼくの歌をみんなあげよう
   きみに頬笑みがもどるなら
   ぼくには歌がなくなってもいい
   遠く消えてゆく きみの背中に
   手をふりながら
   ああ ぼくはセンチメンタル・ボーイ
   ああ ぼくはセンチメンタル・ボーイ

 東京映画「君に幸福(しあわせ)を センチメンタル・ボーイ」は昭和42年12月16日公開。半年前の「その人は昔」(昭42-7-1公開)の好評を受けて、同じ東京映画制作で、同じく内藤洋子との再びの共演作。スタイルも同舟木一夫・内藤洋子・りぼん43-1じく「歌謡映画」。要所要所で歌で感情表現します。(右の画像は、ちょうどこの映画が封切られた頃、少女マンガ誌「りぼん」の昭和43年1月号付録の表面。下の方の画像はその裏面。)
 脚本も同じく松山善三が手掛けました。ただし、「その人は昔」が悲劇だったのに対して、こちらは明るくコミカルなタッチで始まります。といっても、ケーキ職人の若者とホテル経営者の娘との釣り合わぬ恋、結ばれぬ恋の物語ですが。
 さすがに映画音楽らしいスケールの大きさがあります。(この映画では、主題歌「センチメンタル・ボーイ」のほかに、この映画のために作られた挿入歌「お菓子の好きな少女」「星にそっと」「恋の残り火」も、すべて河端茂の作詞、山屋清の作曲・編曲です。) 
 (*松島トモ子に「ニューヨークひとりぼっち」(昭40-8)という曲があります。松島トモ子は昭和39年春、高校卒業後にアメリカに留学しました。翌年、アメリカ生活をつづった著書『ニューヨークひとりぼっち』を発売。それに合わせて発表された曲ですが、聴いてみたらイントロ部分がこの「センチメンタル・ボーイ」によく似ていました。松島の曲も山屋清の作編曲(作詞:三浦康照)なのでした。)
 「夢をあげよう」「虹をあげよう」「歌をあげよう」。君を幸福にできるなら、僕には「夢」も「虹」も「歌」もなくなってもかまわない。愛は惜しみなく与えるものだというのです。
 通常、愛は対象への執着であり所有欲です。つまり、愛は「奪う」ものです。
 歌謡曲でも「♪愛はうばうもの」(西郷輝彦「掠奪」(1971-7阿久悠作詞))と歌いました。(ウエディングドレス姿の「あなた」を「さらって逃げる」と歌う西郷のこの歌、あきらかに、大ヒットした映画「卒業」(昭43=1968日本公開)の設定を模倣しています。1970年代、欲望の全面解放、全面肯定の時代を象徴します。60年代末、青春歌謡の欲望抑制の時代は終わりました。「あなたがほしい」だの「I want you」だのといった欲望むき出しのストレートな歌詞が氾濫し出しました。)
 しかし、そういう愛は往々にして我執や利己主義の延長です。だから仏教では愛を現世への執着の根源、妄執として否定します。
 通常の愛が「奪う」ものであるがゆえに、逆に、真の愛は「惜しみなく与える」献身や自己犠牲として語られます。キリスト教がそうです。困難な行為であるがゆえに、献身や自己犠牲は人を深く感動させます。
 キリスト教の博愛主義の影響を強くうけながら、自我を放棄できない近代人として、有島武郎がエッセイのタイトルとして語った逆説が「惜しみなく愛は奪う」
 けれども、有島のいう「奪う」は西郷輝彦的な(失礼)直接的で欲望充足的な「奪う」とは異なります。真の愛は外面的には惜しみなく与えるものだが、内面的には、与えつつ実は相手から多くを受け取っているのだ、というような意味です。たとえば赤ん坊に献身する母親は惜しみなく与えつつ、その無償の献身を通じて、喜びや幸福や人生の充実感といった赤ん坊が彼女にもたらすすべてのものをむさぼるように受け取っているのだ、と考えれば有島の逆説は分かりやすいでしょう。(それを「受け取る」でなく「奪う」と云うところが有島の激しさですが。)
 舟木一夫・内藤洋子・りぼん43-1裏そもそも有島のエッセイのタイトルのきっかけとなったパウロ自身が、要約すれば、こういう言い方をしています。
 惜しみなく人々に与えることが大事だ。惜しんでわずかしか種を撒かない者は刈り入れ少なく、惜しまず豊かに撒く人は刈り入れも豊かである。喜んで与える人を神は愛してくれるのだ。(「コリント人への手紙2」)
 地上で他者に「与える」ことと天上で「奪う=受け取る」こととは、「神」を媒介にして、逆転して釣り合う、というのです。
 オスカー・ワイルドの童話「幸福の王子」でも、貧しい人々にすべてを与えた博愛主義者の銅像「幸福の王子」とその使者を務めたツバメは、地上では悲惨な末路(ツバメは南方に帰れず凍え死に醜くなった銅像は棄てられる)をたどりますが、最後に「神」によって天国に上げられて永遠の幸福にあずかります。パウロのいうキリスト教的な「愛」の絵解きみたいな寓話です。
 有島武郎は、いわば、「神=天上界」無しにこの「与える」と「奪う=受け取る」の逆転した釣り合いの論理を作ろうとしたわけです。
 ともあれ、「センチメンタル・ボーイ」の「ぼく」は、そんな理屈とはかかわりなく、率直に、君が幸福になるならすべてを失っても僕は幸福、と考え、実践する若者です。
 しかし、実際には「遠く消えてゆく」彼女を見送るだけの「ぼく」。現実には彼の愛は文字通り何の見返りもない無償です。そんな自分が「センチメンタル」に見えるであろうことを、彼は自覚しています。「センチメンタル=感傷的」とは、舟木一夫「花咲く乙女たち」の項などで書いたとおり、行動を封じられた者の自己慰撫だからです。
 もっとも、彼には自分が「センチメンタル・ボーイ」であるという自覚があります。認識=知性の働きがある、ということです。つまり、ただ感傷に流されているわけではなく、自分で選びとった態度。これでよし、と彼は言うでしょう。

舟木一夫「哀愁の夜」 舟木一夫の法と正義

 チャンネルNECOの舟木一夫特集、今月は映画「哀愁の夜」(昭41-3公開)も放映しています。「友を送る歌」の1本前の映画です。
 では、舟木一夫「哀愁の夜」。こちらで、軽くチリノイズの入る懐かしいレコード音源で、聴きながらお読みください。catchball62さんに感謝しつつ無断リンクします。

レコード・哀愁の夜舟木一夫「哀愁の夜」
  昭和41年2月発売
  作詞:古野哲哉 作曲・編曲:戸塚三博
 一 なんて素敵な 夜だろう
   星はきらめく 瞳はうるむ
   ああきみと行く 夜風の舗道(みち)
   いつかふたりの胸に
   恋を育てた あの日の舗道よ
 二 夢を見るから ゆれるのか
   長い黒髪 波うつように
舟木一夫・哀愁の夜・ポスター   ああ街の灯は やさしくもえて
   何か誓いの言葉
   交わしたいよな ふたりの夜よ
 三 たとえ別れは 辛くとも
   想うこころは 変わりはしない
   ああ面影が 消えないように
   きみと歩いた路に
   ひとりたたずむ 哀愁の夜

 口笛によるイントロの抒情的なメロディーが実に印象的でした。「なんて素敵な夜だろう」という歌い出しも、胸の思いがふと言葉になったようです。
 ほぼ1年前の「北国の街」(昭40-3)「東京は恋する」(昭40-4)につづいて、現在進行形の恋愛を歌う3曲目。いわば前期舟木一夫の「恋愛三部作」です。
 実際、この3曲、設定や詩想がとてもよく似ています。
 ともに、夜の街を肩寄せて歩く恋人同士。
 空には星。
    ♪眺めていたいひとつ星 「北国の街」
    ♪見上げる夜のオリオン星座 「東京は恋する」
    ♪星はきらめく瞳はうるむ 「哀愁の夜」
 街には灯り。
    ♪夜風が揺れる灯りがうるむ 「北国の街」
    ♪ネオンがつつむターミナル 「東京は恋する」
    ♪ああ街の灯はやさしくもえて 「哀愁の夜」
 別れがたさと愛情の継続の確認。
    ♪たとえ別れがあろうとも/心はいつも変らぬと 「北国の街」
    ♪手をふる別れつらいけど/明日もここでまた逢える 「東京は恋する」
    ♪たとえ別れは辛くとも/想うこころは変わりはしない 「哀愁の夜」
 設定が似れば表現も似る。その意味で、まぎれもなく「同工」ですが、どれも見事に上質な「異曲」に仕上がっています。
 「北国の街」と「東京は恋する」は丘灯至夫の作詞。古野哲哉はそれを踏まえてあえて3曲目を書いたわけです。
 なにしろ「哀愁の夜」というタイトルがすばらしい。恋のよろこびを歌いながら「哀愁」と名づけたところが、舟木一夫という歌手の「あはれ」の本質を見事に表現しています。
 この「哀愁」は「北国の街」にも「東京は恋する」にもなかった一種の陰りをこの恋に投げかけます。
 実際、「北国の街」は「♪ここでさよならするけれど/明日もいい娘でいて欲しい」、「東京は恋する」は「♪明日もここでまた逢える」、ともに「明日」の約束を歌っていましたが、「哀愁の夜」にはその「明日」への言及がありません
 代わりに、「ああ面影が消えないように/君と歩いた路に/ひとりたたずむ哀愁の夜」。ここに、別れてもせめて「面影」だけは消えないように、という思い、その「面影」さえ消えてしまいそうな不安を、読みこむこともできるでしょう。それならこれは「明日」のない別れなのかもしれない、そういう深読みも可能な陰影を帯びています。
 古野哲哉が舟木の歌を作詞したのはこれが初めてでした。この後、雑誌「マーガレット」募集歌「踊ろうぼくと/ひとりぼっちの女の子」(昭41-6)の補作詞を挟んで、「ブルー・トランペット」(昭41-12)と「星の広場へ集まれ!」(昭42-3)を書きます。
 都会的でとてもすぐれたセンスを感じさせる作詞家なので、青春歌謡系が似合うと思うのですが、上記の舟木の曲以外にどんな詞を書いていたのかよくわかりません。
 以下、私が確認できた舟木一夫歌唱以外の古野哲哉の作品リスト
 二代目コロムビア・ローズの「なかよしだった磯村君/瀬戸の小島のおばあちゃま」(昭38-8)「川のほとりで」(s38-12)、本間千代子「月の浜辺で逢ったひと」(昭41-4)、本間千代子「私に云わせてさよならは」(昭41-7)ぐらい。ネット検索でも、松山まさる(後の五木ひろし)「新宿駅から」(昭40-6)や都はるみ「あんこ船」(昭40-9)(*なお、コロムビア・ローズ3曲は手元資料では「古野哲也」名。)
 どれもヒット曲とはいえません。あまり仕事にめぐまれなかったのでしょうか。なお、晩年には、2002年に「日本作詩家協会」の事務局長に就任し、2006年1月に亡くなった、という記録があります。

 ところで、映画「哀愁の夜」(昭41-3公開/西川克己監督)についても言及しておきましょう。
 舟木一夫・高原のお嬢さん・ポスターDVDこの映画を機に舟木は例の「舟木カット」をやめます。チャンネルNECOの冒頭インタビューでは、「舟木カット」をどう「卒業」するか考えていたが、歌ではきっかけにしにくいので、日活と相談して「大人」の髪形の似合う役柄を設定してもらったのだ、と述べていました。(上の映画ポスター画像を右の前作「高原のお嬢さん」(昭40-12公開)のポスターと比べてみてください。)
 舟木が演じるのは弁護士志望の青年。旧友・藤竜也の殺人容疑を晴らすために行動する舟木初のサスペンス調映画でした。(このサスペンス調は次の「友を送る歌」にも引き継がれます。)
 舟木と心を通わすヒロインは社長令嬢・和泉雅子。しかし最後に、事件の黒幕が和泉の父親(神田隆)だったことが明らかになり、傷心の和泉雅子はひとりヨーロッパへ旅立ちます。まさしく明日なき別れ、歌詞に潜んでいた陰りを強調した物語でした。
 ところで、ラスト近く、神田隆の会社の社長室に乗り込んだ舟木は、和泉もいる場で、神田を指さして激しく糾弾します。
 「僕の父は検事でした。戦後の食糧のない時代、決して闇物資を買わずに過ごした人でした。法律のために、人を裁き・人を守る法律のために、不正を憎んでまっすぐに生きつづけた人だったんです。そのために、病気で倒れても薬を買うこともできずに、一生を終ってしまったんです。何も遺さず、財産もなく。でも、僕は父を尊敬しています。そんな人が幸せに生きられる世の中が欲しいのです。それを、それを邪魔をしているのはあなたのような人なんだ。あなたのような人こそ、真っ先にこの世の中から消えてなくなったらいいんだ。
 舟木はこのとき、弁護士志望の青年として、また、遵法精神を徹底した父の息子として、法と正義の立場から、相手の不正(汚職と殺人教唆)を糾弾しています。
 舟木のこの台詞は、あきらかに、敗戦後の混乱期に、食糧管理法を守って闇米に手を出さず餓死(衰弱死)して話題になった山口良忠判事のエピソードに基づくものでしょう。
 法は秩序の根幹です。戦後の混乱期にも、むしろ混乱期だからこそ、法は必要です。しかし、敗戦後の食糧難の中で、食管法は、それを遵守しては庶民が生きていけないような、つまり、上記舟木の言葉を使えば「人を守る」べき法が人を死に追いやるような、悪法になっていました。
 「wikipedia山口良忠」によれば、食管法違反で起訴された被告人を裁くことの多かった山口は、法の名によって人を裁く立場の者が法を破ることは出来ないと決意したのだそうです。配給食糧のほとんどは子供に与え、自身の衰弱が進んでからも、被告人たちを長く未決状態で拘束してはならないと仕事は続け、そのあげくの衰弱死でした。
 「悪法も法なり」(あえて毒杯をあおいだソクラテスの言葉として伝えられる)という山口の死を賭しての主張は、法とは何かを問いかけ、賞讃とともに批判の議論も招きました。しかし、彼の下した判決の多くは被告人たちの情状を十分に酌んだものだったといいます。私はそのことを重視したく思います。
 法によって人を裁く判事である限り、自分はあくまで法を遵守しなければならない、たとえその結果として自分の死を招こうとも。それは彼の職業倫理です。彼はあくまで判事としての職業倫理に殉じたのだ、だから一般人にまでその厳格さを適用はしなかったのだ、と私は思います。
 この突き詰めた職業倫理の実践は、なにより、裁判官でありながら闇に手を出している(かもしれない)他の裁判官たち(および司法関係者全員)への身を賭しての批判を含むでしょう。ひいては、遵守すれば生きられないような「悪法」への身を賭しての批判にもなるでしょう。
 法による裁き(justice)は正義(justice)による裁きであるべきです。しかし、時として法は正義と背馳します
正義の女神像 司法機関に飾られる正義の女神像(右の画像)は、天秤(正邪を秤(はか)る正義のシンボル)と剣(力のシンボル)を持ち、多くは目隠しをしているそうです。目隠しは正義の裁きが相手の顔を見ないこと、相手の身分や貧富に左右されず公正であることを意味しているそうですが、実はもともとは、正義=司法がえてして「盲目」であること、不公正であること、裁判官がしょっちゅう誤ることへの揶揄・皮肉だったのではないかともいわれています。(wikipedia正義の女神
 実際、法は普遍的な正義の具現化である以前に、国家権力や社会体制の具現だったりします。現実には「正義が力」ではなく「力が正義」の場合が多いということです。たとえば、映画の舟木の父親が戦時中からの検事だったとすれば、彼は治安維持法も含めた法体系に帰属していたことになります。
 ソクラテスの死の選択から、賄賂が横行していた(牢番を買収すれば死刑囚の脱獄も容易だった)というアテネの司法制度に対して「法の支配」の重要性を訴える、という意味を取り出すこともできるでしょう。「法の支配」とは、国家や権力が法を支配する(力が正義)のでなく、法が国家や権力の恣意を規制する(正義が力)べきだ、という意味です。山口良忠の選択からも同様の意味を取り出せます。
 いずれにせよ、山口の餓死は法をめぐる根本的な問いを投げかける事件でした。
 もちろん、映画「哀愁の夜」では、かなり唐突な舟木のこの台詞は舟木の純粋な正義感の発露として使われるだけで、映画はすぐにエンディングを迎えます。彼の純粋な正義感が勝利したのです。歌手・舟木一夫主演の娯楽映画なので当然です。
 だから、以上はまたしても私の無用の牛刀なのでした。
 しかし、以前、西郷輝彦「チャペルにつづく白い道」橋幸夫「シンガポールの夜は更けて」の項で、御三家までは戦争と敗戦の「歴史」が影を落としているが、それ以後の青春(グループ・サウンズ)からは歴史の影が消えるのだ、と書きました。それを裏付ける事例の一つとして紹介しました。
 なぜ御三家を最後に戦争と敗戦の影が消えるのか。御三家は戦中生まれ(橋幸夫、舟木一夫)を含むが、グループ・サウンズからは団塊世代(戦後生まれ)が中心になるから、また、グループ・サウンズは都市的快楽の肯定、いま・ここ(現在)の快楽肯定だから、というのが私の考えです。

舟木一夫「おもいをこめて手をふろう」 遠藤実の別れ

 舟木一夫の友との別れをもう一曲。「友を送る歌」のB面、「おもいをこめて手をふろう」。
 こちらで聴きながらお読みください。kazuyan079さんに感謝しつつ無断リンクします。(画像は映画「友を送る歌」から。)

舟木一夫「おもいをこめて手をふろう」
  昭和41年4月発売
  作詞:西沢爽 作曲・編曲:遠藤実
友を送る歌・スチール 一 夢がありゃこそ この道を
   君は別れて ゆくんだな
   ぼくはほんとに さみしいぞ
   見送るものは さみしいぞ
   思いを‥こめて‥‥手をふろう
   あしたの君の しあわせに
 二 雨も嵐も 青空も
   ともにうたれて ともに見た
友を送る歌より   君はゆくのか たゞひとり
   ぼくと離れて たゞひとり
   思いを‥こめて‥‥手をふろう
   あしたの君の しあわせに
 三 遠く逢えなく なればこそ
   胸に新たな 友情が
   だけどやっぱり かなしいぞ
   去りゆく友は かなしいぞ
   思いを‥こめて‥‥手をふろう
   あしたの君の しあわせに‥‥‥‥   

 友との別れで統一したA面B面。A面の「友を送る歌」は青春歌謡らしく出発の前途を祝福して軽快に。B面のこちらは別れの思いをしみじみと。
 ギター一本のイントロがさびしさ・かなしさを奏でます。このスタイルは舟木一夫のこれまでの曲にはなかったこと。この後の曲にもありません。古賀政男作曲の「影を慕いて」や船村徹作曲の「別れの一本杉」(昭30-12)などの名曲に連なるものです。舟木の歌唱も名唱です。
歌のアルバムより3 この曲を舟木に提供したのは遠藤実。遠藤はいうまでもなく、デビュー曲「高校三年生」以来の舟木の恩師。
 (右の画像はコロ・シート「舟木一夫・歌のアルバム」から。左下に小さく写っているのは、舟木一夫を中心に、丘灯至夫と遠藤実。「高校三年生シリーズ大ヒット記念パーティー」の席だとか。どうやら三人で合唱しているように見えます。「♪ああ 高校三年生~」でしょうか。)
 その遠藤がミノルフォン・レコード創設のためコロムビア・レコードをやめる際に舟木に贈った曲だといいます。その意味で、まさしく「友」ならぬ「師」・遠藤実との別れの曲です。
 ただ、遠藤実がコロムビアを退社したのは前年昭和40年の3月。実際、遠藤実が作曲した舟木のレコードは昭和40年6月発売の「あゝりんどうの花咲けど/待っている人」で途切れています。
 「おもいをこめて手をふろう」が1年前の遠藤の退社時に作られた曲なのか、1年後にこのレコードのために特に作られたのか、確認できません。
 コロムビアは昭和38年末のクラウンレコード創設にかかわる大量引き抜き(歌手も作曲家も作詞家もスタッフも)で大きな痛手を受けたばかり。その傷も癒えぬうちの人気作曲家の退社です。ミノルフォンはいっさい他社からの引き抜きを行わず正々堂々たる自力営業でしたが、それでもコロムビアがこの時期に、「敵」にまわった遠藤にわざわざ作曲を依頼するとは(そんな企画が通るとは)思えません。だから、たぶん、1年前に遠藤が置き土産のようにして遺して行った曲なのだろう、それをこの時期にレコード化したのだろう、と推測します。
 遠藤実の自伝『涙の川を渉るとき』(2007 日本経済新聞出版社)巻末の「遠藤実作曲リスト」の昭和41年の項に載っている曲は全84曲。発売された曲だけでこれだけあります。何しろミノルフォンのほぼ全部の作曲をひとりで手掛けていたのです。
 ミノルフォンのためのはずのその84曲の中に、4曲だけミノルフォン以外の曲がまじっています。「歌手・舟木一夫」の「ふるさとの乙女」「おもいをこめて手をふろう」「高校生音頭」「花の応援」です。
 「ふるさとの乙女」(西沢爽作詞)は「山のかなたに」(昭41-1)のB面。「おもいをこめて手をふろう」は「友を送る歌」(昭41-4)のB面。「花の応援」(丘灯至夫作詞)は4曲入りLP「舟木一夫の新吾十番勝負」(昭41-11)に収録。「高校生音頭」(丘灯至夫作詞)も4曲入りLP「舟木一夫の絶唱」(昭41-12)収録。
 歌手不足・スタッフ不足で営業不振だったミノルフォンに全力を注いでいた遠藤には、コロムビアの舟木のために、ましてやB面曲やシングルカットされない曲を、新たに作る余力などあったはずもないでしょう。
 「花の応援」の項でも書きましたが、「ふるさとの乙女」「花の応援」「高校生音頭」の3曲はたぶんずっと以前に作られて「お蔵入り」になっていた曲でしょう。詞も昭和41年の舟木にそぐわないし、曲も少し安直です。
 ただ、この「おもいをこめて手をふろう」だけは別。詞も曲も丁寧に作られています。その点からも、これだけは、いわゆる「お蔵入り曲」とは違い、遠藤自身が別れに際して舟木のために特別に作って置いていった曲のはずなのです。
 作詞は西沢爽
 遠藤実がコロムビア専属作曲家になって最初の大ヒット曲が島倉千代子の「からたち日記」(昭33-10)。その作詞家が西沢爽でした。
 遠藤は『涙の川を渉るとき』で、コロムビア退社時に「作詞家の西沢爽さんは心を込めて私を送ってくれた」と特記しています。「いわばライバル会社を興した私を無私の笑顔で激励してくれたのだった。私は嬉しかった。お礼に拙い詩を色紙に認(したた)めると、お返しの色紙が届いた。
 西沢爽からの色紙にはこう書かれていたそうです。
  どこにいても僕はきこえる、
  君の豊かな叙情の歌が。
  どこにいても僕にはきこえる、
  未来の森を切り拓く、
  君のするどい斧のこだまが。
 そういうエピソードを踏まえて読むと、この詞には、舟木一夫が恩師・遠藤実を見送るだけでなく、大きな「夢がありゃこそ」コロムビアを去る盟友・遠藤実を西沢爽が見送る、という一面もあるように思えてきます。
 「おもいをこめて手をふろう」は、遠藤実が最後に舟木一夫のために作った曲であると同時に、西沢爽と遠藤実の最後の共同の仕事でもあったのでした。

舟木一夫「友を送る歌」 舟木一夫の友情

 舟木一夫「高校三年生」から始めたこのブログ、今日から3年目に入ります。
 CSのチャンネルNECOが数ヶ月前から舟木一夫の芸能生活50周年を記念して舟木一夫の映画やテレビ番組を放送していて、今日は朝から映画「友を送る歌」が流れています。
 では、その映画(昭41-6公開/西川克己監督)にもなった「友を送る歌」。こちらで聴きながらお読みください。riverbook19480613さんに感謝しつつ無断リンクします。(画像下は映画ポスターです。)

レコード・友を送る歌舟木一夫「友を送る歌」
  昭和41年4月発売
  作詞:植田俤子 作曲・編曲:戸塚三博
 一 きみは別れてゆく 風の中
   きみは別れてゆく 遠い道
   うしろすがたに ただ祈る
   夢をそだてた 青春の日を
   忘れてくれるな いつまでも
 二 きみの愛したひと いまはなく
友を送る歌・ポスター1   きみの愛した街 あかねいろ
   うしろすがたに 思い出す
   若い涙を 流したきみと
   ふたりでささげた 白い花
 三 きみは歩いてゆく 眉上げて
   ぼくも歩いてゆく はるばると
   うしろすがたの さびしさも
   ひとり旅立つ 男の心
   幸せ祈るよ いつまでも……

 曲は男声コーラスとバンジョーの音が印象的な、舟木一夫初のフォーク調。胸を張って歩く歩調のリズム。
 詞のテーマは友情、別れ、旅立ち。
 「風の中」「遠い道」。実景であるとともに「きみ」の旅路のメタファーでもあるでしょう。
 二番は「ふたりでささげた白い花」によって「きみの愛したひと」の死を暗示します。つらい悲劇の思い出を抱いての旅立ちのようです。「あかねいろ」は朝焼けの色とも夕焼けの色ともとれますが、「きみの愛したひといまはなく」と対になっていることを重視すれば夕焼けでしょうか。
 それでも昂然と「眉上げて」旅立つのが若者というもの。「きみ」が旅立つとき、ただ見送るのでなく、「ぼく」もまたひとり旅立ちます。ただし、「ぼく」もまた故郷を離れて実際に旅立つ、というより、「ぼく」の「歩いてゆく」はメタファー、あくまで、ひとり「はるばると」人生の旅路に出立する決意なのだと読むべきでしょう。
 (映画冒頭は、牧場風景の中を肩を並べて歩いてきた舟木と山内賢が立ち止まり、別れを告げて去る山内を舟木が見送る、という場面でした。)
 学園ソング以来、舟木一夫の歌う友情は「みんな」の友情でしたが、初めて一対一の男同士の友情を歌いました。
 そしてまた、「みんな」の旅立ちでなく、ひとりの友の旅立ちを送るという設定は、案外、青春歌謡にはめずらしいのでした。
 (植田俤子が初めて舟木のA面のために書いた詞でもあります。なお、作詞家植田俤子の名を「悌子」と書いてある資料が多く、私もうっかり舟木の「新吾十番勝負」「雪国へ」の項で「悌子」と書いてしまいました。しかし、気になってレコードの歌詞カード等で確認したところ、「俤子」が正しいようです。(「悌」は儒教の徳目「仁義礼智忠信孝悌」の「悌」、八犬伝の犬田小文吾の持っていた玉の文字で、兄弟仲の良いこと。「俤」はおもかげ。)この際、お詫びしてみんな訂正しておきます。(松原智恵子「泣いてもいいかしら」の項だけは正しく「俤子」と記してありました。))
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ギャラリー
  • 510 ペギー葉山「モッチャベン」(「黄金孔雀城」主題歌) 追悼・ペギー葉山(2)
  • 510 ペギー葉山「モッチャベン」(「黄金孔雀城」主題歌) 追悼・ペギー葉山(2)
  • 510 ペギー葉山「モッチャベン」(「黄金孔雀城」主題歌) 追悼・ペギー葉山(2)
  • 510 ペギー葉山「モッチャベン」(「黄金孔雀城」主題歌) 追悼・ペギー葉山(2)
  • 510 ペギー葉山「モッチャベン」(「黄金孔雀城」主題歌) 追悼・ペギー葉山(2)
  • 510 ペギー葉山「モッチャベン」(「黄金孔雀城」主題歌) 追悼・ペギー葉山(2)
  • 509 ペギー葉山「学生時代」 追悼・ペギー葉山(1) 大学の青春
  • 509 ペギー葉山「学生時代」 追悼・ペギー葉山(1) 大学の青春
  • 508 西郷輝彦「青年さくら音頭」(&元祖「さくら音頭」) 青春の桜(8)
  • 508 西郷輝彦「青年さくら音頭」(&元祖「さくら音頭」) 青春の桜(8)
  • 507 新川二郎「望郷」 望郷(3) 付・五五調について
  • 506 青山ミチ「叱らないで」 追悼・青山ミチ(2) 背教者と聖母マリアと遠藤周作
  • 506 青山ミチ「叱らないで」 追悼・青山ミチ(2) 背教者と聖母マリアと遠藤周作
  • 506 青山ミチ「叱らないで」 追悼・青山ミチ(2) 背教者と聖母マリアと遠藤周作
  • 505 青山ミチ「ミッチー音頭」 追悼・青山ミチ(1)
  • 505 青山ミチ「ミッチー音頭」 追悼・青山ミチ(1)
  • 504 松原智恵子「ひとりで歩くのが好き」 追悼・鈴木清順(2) 「東京流れ者」の松原智恵子と静御前
  • 504 松原智恵子「ひとりで歩くのが好き」 追悼・鈴木清順(2) 「東京流れ者」の松原智恵子と静御前
  • 504 松原智恵子「ひとりで歩くのが好き」 追悼・鈴木清順(2) 「東京流れ者」の松原智恵子と静御前
  • 504 松原智恵子「ひとりで歩くのが好き」 追悼・鈴木清順(2) 「東京流れ者」の松原智恵子と静御前
  • 504 松原智恵子「ひとりで歩くのが好き」 追悼・鈴木清順(2) 「東京流れ者」の松原智恵子と静御前
  • 504 松原智恵子「ひとりで歩くのが好き」 追悼・鈴木清順(2) 「東京流れ者」の松原智恵子と静御前
  • 504 松原智恵子「ひとりで歩くのが好き」 追悼・鈴木清順(2) 「東京流れ者」の松原智恵子と静御前
  • 503 和泉雅子「教えて欲しいの」 追悼・鈴木清順(1) 付・映画「悪太郎」と「けんかえれじい」
  • 503 和泉雅子「教えて欲しいの」 追悼・鈴木清順(1) 付・映画「悪太郎」と「けんかえれじい」
  • 503 和泉雅子「教えて欲しいの」 追悼・鈴木清順(1) 付・映画「悪太郎」と「けんかえれじい」
  • 503 和泉雅子「教えて欲しいの」 追悼・鈴木清順(1) 付・映画「悪太郎」と「けんかえれじい」
  • 502 舟木一夫「ブルー・トランペット」 追悼・船村徹(2) 歌うトランペット(1)
  • 502 舟木一夫「ブルー・トランペット」 追悼・船村徹(2) 歌うトランペット(1)
  • 502 舟木一夫「ブルー・トランペット」 追悼・船村徹(2) 歌うトランペット(1)
  • 501 舟木一夫「夏子の季節」 追悼・船村徹(1) 船村徹と舟木一夫 &名前連呼18回!
  • 501 舟木一夫「夏子の季節」 追悼・船村徹(1) 船村徹と舟木一夫 &名前連呼18回!
  • 501 舟木一夫「夏子の季節」 追悼・船村徹(1) 船村徹と舟木一夫 &名前連呼18回!
  • 501 舟木一夫「夏子の季節」 追悼・船村徹(1) 船村徹と舟木一夫 &名前連呼18回!
  • 500 舟木一夫「オレは坊ちゃん」 文芸歌謡(12) 坊ちゃんの名前
  • 500 舟木一夫「オレは坊ちゃん」 文芸歌謡(12) 坊ちゃんの名前
  • 500 舟木一夫「オレは坊ちゃん」 文芸歌謡(12) 坊ちゃんの名前
  • 499 松方弘樹「あいつの消えた雲の果」 追悼・松方弘樹(2) 松方弘樹と北大路欣也(2) 悲劇の青春(番外6)
  • 499 松方弘樹「あいつの消えた雲の果」 追悼・松方弘樹(2) 松方弘樹と北大路欣也(2) 悲劇の青春(番外6)
  • 499 松方弘樹「あいつの消えた雲の果」 追悼・松方弘樹(2) 松方弘樹と北大路欣也(2) 悲劇の青春(番外6)
  • 498 松方弘樹「霧丸霧がくれ」 追悼・松方弘樹(1) 松方弘樹と北大路欣也
  • 498 松方弘樹「霧丸霧がくれ」 追悼・松方弘樹(1) 松方弘樹と北大路欣也
  • 498 松方弘樹「霧丸霧がくれ」 追悼・松方弘樹(1) 松方弘樹と北大路欣也
  • 498 松方弘樹「霧丸霧がくれ」 追悼・松方弘樹(1) 松方弘樹と北大路欣也
  • 498 松方弘樹「霧丸霧がくれ」 追悼・松方弘樹(1) 松方弘樹と北大路欣也
  • 497 新川二郎「東京からふるさとへ」 望郷(2) 付・親孝行とひらがな便りとカタカナ便り
  • 496 梶光夫「啄木のふるさと」 文芸歌謡(11)
  • 496 梶光夫「啄木のふるさと」 文芸歌謡(11)
  • 495 小宮恵子「故郷はいいなァ」(&中川姿子「ふるさとはいゝなァ」) 望郷(1)
  • 495 小宮恵子「故郷はいいなァ」(&中川姿子「ふるさとはいゝなァ」) 望郷(1)
  • 494 吉永小百合「天に向って」
  • 494 吉永小百合「天に向って」
  • 493 吉永小百合「嫁ぐ日まで」 花嫁たち(6)
  • 493 吉永小百合「嫁ぐ日まで」 花嫁たち(6)
  • 492 コロムビア・ローズ(二代目)「オリーブの唄」 付・小豆島の歌
  • 491 吉永小百合「あすの花嫁」 花嫁たち(5) 付・奥村チヨ「リキホルモ」の歌
  • 491 吉永小百合「あすの花嫁」 花嫁たち(5) 付・奥村チヨ「リキホルモ」の歌
  • 491 吉永小百合「あすの花嫁」 花嫁たち(5) 付・奥村チヨ「リキホルモ」の歌
  • 491 吉永小百合「あすの花嫁」 花嫁たち(5) 付・奥村チヨ「リキホルモ」の歌
  • 491 吉永小百合「あすの花嫁」 花嫁たち(5) 付・奥村チヨ「リキホルモ」の歌
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ