遊星王子の青春歌謡つれづれ

歌謡曲(青春歌謡)がわかり、ついでに文学と思想と歴史もわかってしまう、とてもためになる(?)ブログ。青春歌謡で考える1960年代論。こうなったらもう、目指すは「青春歌謡百科全書」。(ホンキ!?)

舟木一夫 を含む記事

 「遊星王子」は遠い星からやってきました。ふだんは東京の街角の靴磨き青年に身をやつしています。アメリカの大都会の新聞記者になりすましているスーパーマンに比べると貧乏くさいけれど、これが日本、これが戦後です。
 宇宙から日本にやって来た正義の味方としては、スーパー・ジャイアンツには遅れましたが、ナショナルキッドよりは先輩です。
(またの名を落日の独り狼・拝牛刀とも申します。牛刀をもって鶏を割くのが仕事の、公儀介錯人ならぬ個人営業の「解釈人」です。)

 「青春歌謡」の定義や時代区分については2011年9月5日&12月31日をお読みください。暫定的な「結論」は2012年3月30日に書きました。
 この時代のレコードの発売月は資料によってすこし異なる場合があります。
 画像も音源もほぼネット上からの無断借用です。upされた方々に多謝。不都合があればすぐ削除しますのでお申し出下さい。
 お探しの曲名や歌手名・作詞家名があれば、右の「記事検索」でどうぞ。
 「拍手コメント」には返信機能がありません。コメントやご連絡は「メッセージ」(右上「遊星王子」画像の下の封書のしるし)をお使いください。非公開です。
 なお、以前の記事にも時々加筆修正しています。
 *2015年2月23日
 「人気記事」を表示しました。直近一週間分の集計結果だそうです。なんだかむかしなつかしい人気投票「ベストテン」みたいです(笑)。(一週間じゃなく5日間じゃないのかな?)
 *2015年7月25日
 記事に投稿番号を振ってみました。ブログ開始から3年と11か月。投稿記事数426。一回に数曲取り上げた記事もあるので曲数は500曲ぐらいになるでしょう。我ながら驚きます。
 *2017年6月17日 累計アクセス数1,000,000突破。
 *2017年10月16日、他で聴けない曲に限ってyoutubeへのアップ開始。
  https://www.youtube.com/channel/UCNd_Fib4pxFmH75sE1KDFKA/videos

573 守屋浩「泣きべそ列車」 守屋浩の「姉の力」 付・童謡「汽車ぽっぽ」&「兵隊さんの汽車」

 汽車の別れを歌った歌はいっぱいありますが、たいていは駅での恋人同士の別れ。今日はなつかしいところで、ちょっと珍しい汽車の別れを。守屋浩「泣きべそ列車」。「東京へ戻っておいでよ」のB面。こちらで聴きながらお読みください。
 (レコードジャケットは、「東京へ戻っておいでよ」や「泣きべそ列車」も収録したLP「守屋浩あすの日をうたう」。たぶん昭和35年10月頃発売。その下は「平凡」35年7月号付録の表紙。)

守屋浩「泣きべそ列車」
  昭和35年9月発売
  作詞:星野哲郎 作曲:水時冨士男 編曲:山路進一
守屋浩LPあすの日をうたう 一 ポッポッポ―と
   汽車は峠を 登ってく
   汗かきべそかき 追いかける
   あの汽車で姉さんは
   泣きながら嫁にゆく
   ポッポッポ― ポッポッポ―
   泣いて手をふる 花嫁さんに
   なげた野菊は とどかない
 二 ポッポッポ―と
 守屋浩s35-7平凡付録  窓でゆれてる 赤い袖
   そんなにのぞいちゃ 危いぞ
   姉さんがしあわせに
   なれるようたのんだぞ
   ポッポッポ― ポッポッポ―
   涙ポロポロ 呼んではみたが
   知らん顔して 汽車はゆく
 三 ポッポッポ―と
   汽車はトンネル くぐってく
   汗かきべそかき 追ったけど
   姉さんは消えちゃった
   闇のなかもう見えぬ
   ポッポッポ― ポッポッポ―
   線路づたいに こぼれた野菊
   僕はひろって 帰る路

 花嫁がで行く島倉千代子「りんどう峠」(s30-9)、バスで行く本間千代子「山ゆり峠」(s41-7)、これは汽車で、やっぱり「」を越えていきます。みんな同じコロムビア・レコードの作品。
 姉を乗せて峠を登っていく汽車。「汗かきべそかき」追いかけて走る弟の「僕」。姉も「泣きながら」窓から身を乗り出して手を振ります。その「赤い袖」、彼女は嫁入り衣裳で汽車に乗っているのでしょう。ことに三番の、汽車がトンネルの闇のなかに消えた後、線路伝いにとぼとぼと野菊を拾って帰る姿に切ないリアリティーがあります。
 作詞したのは星野哲郎。汽車の擬音(オノマトペ)「ポッポッポ―」から歌い出すのは、歌謡曲というよりはむしろ童謡の詞に近いでしょう。「汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ」(「汽車ぽっぽ」)のあれです。(→本稿末尾注へ)
 もちろんこの童謡的な擬音(オノマトペ)は、守屋のヒット曲「夜空の笛」(s34-9 浜口庫之助作詞作曲)の「チイタカタッタチイタカタッタ」を自己模倣したもの。(星野の「ポッポッポ―」は浜口の「チイタカタッタ」の意外性と斬新さには及びませんが。)
 もちろん、守屋浩ファンなら、「夜空の笛」がおさない「僕」を庇護してくれた「姉さん」をなつかしむ歌だったことも思い出すでしょう。
 守屋浩の「僕」は、姉に守られ、姉を慕う弟としての「僕」だったのです。

 以前、舟木一夫における「妹(いも)の力」について書きました。舟木にも「遠くへ行った」姉を偲んでひとり旅に出る「若き旅情」(s39-9)など、「姉」のような女性を慕う歌が多かったからです。(「若き旅情」の「遠くへ行った」姉、映画「花咲く乙女たち」の劇中歌の場面では「お嫁に行った」という説明。それならこれは同じ西條八十が作詞した戦時中の名曲「誰か故郷を想はざる」にも通じる、とも書きました。)
 男尊女卑の時代のフェミニストだった柳田国男が提唱した「妹の力」の「妹(いも)」は、古語としての原義通り、妻や恋人や姉や妹といった親しい女性を呼ぶ言葉。
守屋浩s35-7-25週刊実話より しかし、守屋浩の場合ははっきりと「姉」限定。だからもう、「姉の力」と呼んだ方がよいようです。線が細くてちょっと「軽々しい」イメージの守屋には、なにより、しっかりものでやさしい「姉の力」が似合います。(右画像は「週刊実話」昭和35年7月25日号から。)
 実際、守屋浩には、この「泣きべそ列車」と同工異曲の「姉さんの嫁入り馬車」(s37-7 たぶんLP収録曲)という曲もあるのです。
 「姉さんの嫁入り馬車」は石本美由起の作詞。タイトル通り、馬車での嫁入り。「シャンシャンシャンシャン シャンシャンシャンシャン」と馬車の鈴の音の擬音から始まって、花嫁衣裳の姉さんを乗せた馬車が、やっぱり、「」を越えていく様子を見送る弟の歌なのでした。 

 (注)ちなみに、戦後の子供の童謡として親しまれたこの「汽車ぽっぽ」、実は戦争中に、「兵隊さんの汽車」として発売された童謡の戦後改訂版だった、というのは知る人ぞ知る逸話。
 その一番の歌詞だけを。
 「兵隊さんの汽車」
  作詞:富原薫 作曲:草川信
  汽車汽車 ポッポポッポ
  シュッポシュッポ シュッポッポウ
  兵隊さんを乗せて
  シュッポシュッポ シュッポッポウ
  僕等も手に手に日の丸の
  旗を振り振り送りませう
  万歳 万歳 万歳
  兵隊さん兵隊さん 万々歳
 この歌、ネット上では、昭和12年の作というのもあれば、昭和13年のレコード説、昭和14年9月レコード発売説などがあって、確定不能みたいですが、童謡・唱歌についてなら一番信頼できるこちら「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」
 それによれば、日中戦争勃発初期、御殿場の小学校教員だった富原薫が、御殿場駅から毎日毎日大勢の兵隊を積み込んで出ていく汽車を見て作ったもの。作詞したのは8月。録音も8月。ポリドールでレコード発売したが10月20日、というのが正しいようです。
 日中戦争勃発は昭和12年7月7日の「盧溝橋事件」。たちまち兵隊の大量動員。平穏な日常がぶっ壊れたことを如実に示す光景です。
 ことに日中戦争初期は激戦続き。自分も徴兵年齢だった富原は高揚と悲壮と不安こもごもで汽車を見ていたのでしょう(富原自身は徴兵されたものの健康診断で不適格と診断されて出征せず)。しかしそんな揺れる内心はおくびにも出さず、歌詞は小学校教員らしく、国策に沿って子供に兵隊への尊敬と讃美だけを喚起します。その意味では「時局便乗」の童謡。
 日中戦争勃発に際して、政府は「不拡大」「早期収束」方針を取ったものの軍部の暴走は止められず、たちまち戦線拡大。「戦争」と言わず「事変」と言い続けたその名称も「北支事変」から「支那事変」へと拡大し、泥沼化したあげく、ついに対米英戦争開戦にまで突き進みます。
 そして敗戦。その昭和20年大晦日のNHKラジオ「紅白音楽試合」(紅白歌合戦の前身)で川田正子がこの曲を歌うことが決まった際に、GHQから戦意高揚的歌詞にクレームが付いたので(またはクレームを予想して)、直前にNHK職員が御殿場を訪れて富原に改作を依頼、その場で急遽歌詞を書き換えた、という曰く付き。
 つまり「兵隊さんの汽車」も戦後改作版「汽車ぽっぽ」も、どちらも「時局」がらみの制作&改作だったわけです。

570 柏木由紀子「若い真珠」 真珠の歌(2)

 舟木一夫「真珠っ子」(s41-6)につづいて、真珠の歌をもう一曲。柏木由紀子のデビュー曲「若い真珠」。
 こちらで聴きながらお読みください。(レコードジャケットの下は「女学生の友」昭和41年2月号表紙。)

柏木由紀子「若い真珠」
  昭和40年12月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
柏木由紀子・若い真珠 一 真珠貝から生れたて
   若い真珠の美しさ
   海はふるさと底深く
   ママに抱かれて見た夢は
   のぞみ明るい春の夢
 二 若い真珠はくれなずむ
   空にさやかな新月か
   にごるこの世の霧ゆえに
   泪色する夜はあれど
柏木由紀子s41-2   何で曇ろうこころまで
 三 乙女真珠は冬の夜も
   夢のつづきを見ているよ
   手に手をつないで作りましょう
   われら花より虹よりも
   とてもすてきな首飾り

 柏木由紀子はちょうど18才になったばかり。モデルとして活動していましたが、これが歌手デビュー曲。
 [wikipedia 柏木由紀子]はこんなふうに書いています。
 《三人姉妹の三女で引っ込み思案だったので、母親の勧めでカナリア児童合唱団に所属していたが、小学生5年生の時に劇団若草に入団。2歳年下の酒井和歌子とは劇団同期で家族ぐるみで親しくしていた。
 雑誌『女学生の友』(小学館)などのモデルをつとめる。高校生の時に松竹映画『明日の夢があふれている』(1964年)で映画デビュー。その時に共演した三田明の所属事務所の勧めで、翌1965に「若い真珠』でレコードデビュー。》
柏木由紀子s41-4明星&三田明 なるほど歌手デビューは三田明との共演がきっかけでしたか。(なお、柏木由紀子と三田明とは後に「愛の手紙は幾歳月」(s41-7)をデュエットしています。)
 (右の画像は「明星」昭和41年4月号から、柏木由紀子と三田明。以前、柏木がマヒナ・スターズと歌った「氷点」(s41-7)の記事で使用したものですが、ここにもう一度。)

 吉田正の曲は、音域も広くせず、テンポも早くなく、人気モデル&女優の歌手デビューをちゃんと配慮してくれています。柏木由紀子も丁寧に歌って、声も美しく澄んでいて声量もあるようなので、歌手としての才能も十分あったのではないでしょうか。
 舟木一夫の「真珠っ子」は男性が女性を真珠にたとえていますが、こちらは女性が自分自身を真珠に見立てて歌い出します。「若い真珠」は少女のナルシシズムを託すにふさわしいイメージです。
 一番は、純真な「のぞみ明るい春の夢」。彼女は母のふところから巣立ったばかりの「若い真珠」なのです。二番の「泪」と「この世のよごれ」で彼女が遭遇する不幸を暗示しますが、「何で曇ろうこころまで」。真珠がけがれることはありません。三番では再び「夢」を再確認して閉じます。
 つまり、陽→陰→陽、の三部構成。このブログの初期に舟木一夫の学園ソングなどで確認したとおり、これが青春歌謡の詞の基本構成。自分一人のイメージで始まった歌詞が、三番で「われら」と歌うのは、同世代の若い「乙女」たちへの共感の呼び掛け。つまり、友情と連帯のメッセージ。それも含めて、正統青春歌謡です。
 一番の現代的な「ママ」から一転して、二番は文語調で古風なメロドラマ風、三番は「見ているよ」「作りましょう」といった口語調。こんなふうに異質な言葉づかいが平然と混在しているのは、これも何度も書いた佐伯孝夫の歌詞の特徴です。

柏木由紀子・若い真珠・平岩弓枝・s41刊コバルト・ブックス ところで、レコードジャケットには「女学生の友連載「若い真珠」より」とあります。
 「女学生の友」は彼女がしばしばモデルをつとめていた雑誌。「若い真珠」は平岩弓枝の連載小説。当時のジュニア小説の宝庫たる集英社コバルト・ブックスで単行本化もされています。(右画像)
 つまり、「若い真珠」は「女学生の友」連載小説の歌謡曲化だったのでした。
 青春歌謡ファンなら安達明を思い出すべきところでしょう。
 安達明も、「女学生の友」連載小説「潮風を待つ少女」の歌謡曲化を歌ってデビュー(s39-5)。しかも彼はその連載小説の主人公(ヒロインの彼氏)の名「安達明」をそのまま芸名にしたのでした。

569 舟木一夫「真珠っ子」 真珠とメルヘン 真珠の歌(1)

 猛暑と豪雨と台風と大地震。おそるべき夏でした。(過去形でいってよいのか?)
 橋幸夫「汐風の中の二人」に続いて、同じ昭和41年6月に発売された夏の浜辺の歌をもう一曲。舟木一夫「真珠っ子」。こちらで聴きながらお読みください。itsudemoseishnさんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケット画像の下は「明星」昭和41年6月号表紙、舟木一夫と園まり。)
 
舟木一夫「真珠っ子」
舟木一夫・太陽にヤア!/真珠っ子  昭和41年6月発売
  作詞:植田俤子 作曲・編曲:船村徹
 一 月白い夜に 真珠っ子!
   おまえは どこからきたの
   月白い夜に 真珠っ子!
   おまえは どこからきたの
   黒い瞳 白いうなじ
   月白い夜に 真珠っ子
   おまえは どこからきたの
舟木一夫s41-6&園まり 二 波光る夜に 真珠っ子!
   おまえは どうして泣くの
   波光る夜に 真珠っ子!
   おまえは どうして泣くの
   とおい昔 忘られず
   波光る夜に 真珠っ子
   おまえは どうして泣くの
 三 ねえ いつの日か 真珠っ子!
   おまえをつれて ゆきたい
   ねえ いつの日か 真珠っ子!
   おまえをつれて ゆきたい
   誰もいない 遠い国へ
   ねえ いつの日か 真珠っ子
   おまえをつれて ゆきたい

舟木一夫・太陽にヤア!歌詞&恵とも子s41-8明星より 舟木一夫が少しはにかみながら歌った夏のリズム歌謡「太陽にヤア!」のB面。真昼のA面に対してこちらは夜の海。ウクレレで静かに鼻唄風にくちずさみます。(右は「太陽にヤア!」の歌詞ページの恵とも子。「明星」昭和41年8月号から)
 月の夜の浜辺に、どこからともなくあらわれた「真珠っ子」。月の白い光を浴びた真珠の化身のようで、ちょっとメルヘン。
 彼女はなぜか泣いています。彼女の流す涙も真珠の粒のようであるでしょう。(「真珠の(ような)涙」という比喩は昔からあります。そういえば、「真珠の涙」(s43-6)はザ・スパイダースのヒット曲なのでした。)
 大きな貝殻の中から輝く真珠のように生れたボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」のようでもあり、あるいは、月の浜辺に裸身のまま出現したアンデルセンの「人魚姫」のようでもあるでしょうか。(もっとも、ボッティチェルリのヴィーナスのあの貝はどうもホタテ貝らしいのですが。)
 通りかかった若者(舟木一夫)は、「どこからきたの」と問い「どうして泣くの」と問い「おまえをつれて ゆきたい」と思いを語ります。彼が「王子さま」でなく純朴な漁師なら、裸身のまま泣いているこの娘は、泰西のボッティチェルリやアンデルセンでなく、我が国の羽衣伝説になるでしょう。もちろん、月白い夜になぜか泣いているこの不思議な娘はかぐや姫でもあるでしょう。

 「太陽にヤア!」について、真夏の恋の讃歌でありながら舟木一夫はまだ特定の女性との一対の関係に入っていないのだ、と私は書きました。「真珠っ子」も同じです。
 「誰もいない遠い国へ/いつの日か/おまえをつれてゆきたい」というのは西郷輝彦「僕だけの君」(s41-4)にそっくりです。しかし、西郷の「僕だけの君」はまぎれもない対関係、つまり現実の恋愛の独占感情。
 もちろん「真珠っ子」も現実の恋人なのかもしれません。けれども大事なのは、植田俤子の詞は、あくまでその現実に幻想的なメルヘン風のヴェールをかぶせようとしていること。
 メルヘンの論理に従うなら、彼女が人魚姫でも羽衣の天女でもかぐや姫でも、いずれは海や天や月に帰らなければならない存在。もしかして、若者が手を取ろうとした瞬間、彼女の姿は月光に溶けて消えてしまって、あとには一粒の真珠だけが残る、その真珠もたちまち涙になって砂に消えてしまう、ということだってあり得ます。

 なお、真珠は6月の誕生石だそうで、ちょうど6月発売のこの歌にふさわしい。
 作詞した植田俤子。以前「友を送る歌」の項で書いたように、舟木のCD全集等の資料の「悌子」は誤植。正しくは俤(おもかげ)の「俤子」。

 ところで、60年代後半にかけて「真珠」の歌が多くなったような気がするのは気のせいでしょうか。思いつくままに列挙しておきます。
 柏木由紀子「若い真珠」(s40-12)
 舟木一夫「真珠っ子」(s41-6B)
 山田太郎「真珠採りの少女」(s42-11)
 ザ・スパイダース「真珠の涙」(s43-6)
本間千代子s39別冊明星・夏 三田明「真珠の恋人」(s43-7B)
 和泉雅子「燃える真珠」(s44-9)
 もちろんハワイアンなら「真珠貝の歌」がありました。(日野てる子s41-6発売LP「日野てる子ハワイアンアルバム」所収)
 では、これも、昭和39年4月に海外旅行が自由化されて以来のハワイ・ブームと関係あり? 
 (右画像は青春映画初のハワイロケ・舟木の「夢のハワイで盆踊り」でヒロインを演じた本間千代子。「別冊明星」昭和39年の夏号から。)

564 橋幸夫「夜明けの二人」 追悼・生田悦子(1) 橋幸夫の「二人」シリーズ

 もう一曲、橋幸夫の歌を。「夜明けの二人」。こちらで聴きながらお読みください。siawasesanさんに感謝しつつ無断リンクします。
 (ジャケット画像の下は映画「夜明けの二人」のDVDから。橋幸夫&黛ジュン&生田悦子&竹脇無我。)

橋幸夫「夜明けの二人」
  昭和43年4月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正 編曲:一ノ瀬義孝
橋幸夫・夜明けの二人
  夜明けの二人は 海見て坐る
  黙って白砂 すくっているが
  握れば悲しく こぼれる砂だ
  誰かのこころが 逃げてくように
  南の恋人 別れる日をば
  数えて泣かずに 来る日を待とう
 
  さがして求めて 出逢った二人
  こころもいのちも ひとつの二人
 橋幸夫・夜明けの二人s43-4DVD裏 愛して泳いだ 恋して燃えた
  この海 この島 忘れるものか
  その手をおかしよ 指切りしよう
  夜明けの二人は 海見て坐る
 
  (台詞)はるかな恋は 海に捨て
      花と咲く この朝露に
      美しく生き 美しく愛す
      この夜明けこそ 二人だけのもの

  ブーゲンベリヤの 紅むらさきが
  誰かを待ち侘び 泣いてる浜辺
  南の恋人 別れる日をば
  数えて泣かずに 来る日を待とう

生田悦子s42-5映画情報 実はこれは、先日亡くなった女優・生田悦子の追悼のつもり。(右画像は「映画情報」の昭和42年5月号表紙。)
 生田悦子は昭和22年4月生まれ。6月生まれの三田明と同学年。昭和41年、松竹から女優デビューしますが、青春歌謡とはほぼ無縁。その彼女がかろうじて青春歌謡とかすめるように接触したのが映画「夜明けの二人」(s43-4公開)なのでした。
 映画は「ハワイ移民百年祭記念映画」と銘打って、主人公・橋幸夫の恋愛物語を主軸に、ハワイのあちこちで「素人のど自慢大会」を開くという橋幸夫・夜明けの二人&竹脇無我&生田悦子設定でハワイ観光案内も兼ねた歌謡映画。ただし、橋の恋人役のヒロインは当時人気絶頂だった黛ジュン。生田悦子と竹脇無我の俳優コンビは脇に回ってスター歌手二人の引き立て役だったようです。(右はそのスチール写真。橋幸夫&竹脇無我&生田悦子。)
 (ちなみに、1868年(明治元年)にハワイに渡った日本人153名は徳川幕府とハワイ王国の契約に基づいた移民。「元年者」と呼ばれる彼らが渡航する以前に明治新政府はハワイ王国と徳川幕府との契約を無効化していたそうです。)

 その映画の主題歌として作られたこの曲、当然ながら、歌詞は映画の設定とストーリーを踏まえています。舞台はハワイ。「南の恋人」は黛ジュン(「日系三世」だそうです)。黛ジュンには婚約者がいるため、二人はいつか来る別れを予感しているのです。
 橋幸夫の外国を舞台にした映画主題歌、という点では、すでに佐伯&吉田コンビでエキゾチシズムただよう「シンガポールの世は更けて南十字に涙して」(s41-12)がありましたが、ハワイを歌ったこちらは残念ながらシンガポールを歌った前二曲に、詞も曲も及ばなかった、といわざるを得ません。
 詞についていえば、「ブーゲンベリア(ブーゲンベリア)」は別としても、リフレインする重要フレーズなのに字数合わせで「別れる日をば」はちょっとひどい。1968年、「をば」はすでにかび臭い言い回し。海外旅行先での南国の恋にはことにミスマッチ。くわえて後半のセリフ、とりわけ「美しく生き美しく愛す」など、観念的なスローガンめいて歯が浮くばかり。佐伯孝夫の俗謡的ぞんざいさが、今回は裏目に出ました。
 (もっとも、時はすでにGS全盛の刺激と快楽の時代。一月前に、舟木一夫が「残雪」(s43-3 高峰雄作=舟木一夫作詞)で「粉雪にうもれて死んだ」と歌って、それと自覚しないまま、青春歌謡の死を告知していたことを思えば、橋のこの「美しく生き美しく愛す」も、反時代的な青春歌謡の禁欲精神の再確認として、佐伯孝夫が承知で書いたいわば青春歌謡の遺言の一句だったようにも思われてきます。)

 ただし、「夜明けの二人」というタイトルは見事。一夜を過ごした後の恋人たち。古語でいえば「後朝(きぬぎぬ)」の二人。言わず語らず、一夜のドラマを暗示します。
 ピンキーとキラーズが「夜明けのコーヒーふたりで飲もうと」と歌って大ヒットした「恋の季節」(岩谷時子作詞)は、この3カ月後、昭和43年7月の発売。(この時代、つつましく「海見て坐る」だけでは、とうてい「夜明けのコーヒー」の新鮮で刺激的な誘惑に太刀打ちできません。)
 また、一年後の昭和44年4月にはザ・スパイダースが井上順の歌唱でまったく同タイトルの「夜明けの二人」を発売します。しかし、スパイダースの「夜明けの二人」は、抒情的な歌詞なのに曲(アレンジ)はまるでコミックソング、という変な曲なのでした。

 ところで、これは橋幸夫の「二人」シリーズの四曲目。
 確認すれば、
 「雨の中の二人」(s41-1 宮川哲夫作詞/利根一郎作曲)
 「汐風の中の二人」(s41-6 宮川哲夫作詞/利根一郎作曲)
 「バラ色の二人」(s42-3 宮川哲夫作詞/利根一郎作曲)
 「夜明けの二人」(s43-4 佐伯孝夫作詞/吉田正作曲)
 つまり、前三曲は宮川哲夫&利根一郎コンビ、四曲目のこれだけが橋幸夫の「本家」に立ち帰って佐伯孝夫&吉田正。しかし、これが「二人」シリーズの最後の曲になりました。
 (後に「坂道のふたり」(s48-7 吉田旺作詞/平尾昌晃作曲)がありますが。)

563 橋幸夫「恋と涙の太陽」 太陽の季節(2) 歓楽の湖! アメリアッチ(1)

 中国・四国地方を中心に史上例のない大規模広範囲な豪雨災害。豪雨が終ったかと思えば引き続いて猛暑日の連続。
 50年前の学校では、日本は「温帯モンスーン気候」だ、と習ったものです。しかしどうやら現実は「亜熱帯モンスーン気候」? なにしろ「熱帯夜」が続く国になってしまったのですから。
 気力をふりしぼって真夏の太陽の歌を。橋幸夫「恋と涙の太陽」。こちらで聴きながらお読みください。「二の丸」さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケットの下は、ビクター・ミュージックブック「恋と涙の太陽」から2枚。)

橋幸夫「恋と涙の太陽」
橋幸夫・恋と涙の太陽  昭和41年6月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 一 どうして僕達 いけないの
   愛し合ってるのに いけないの
   燃える思いを かくしてすまして
   若すぎるのか 僕達二人
   ああ 太陽と恋とで一ぱいの
   湖なんだぜ ビーチだぜ
 二 エンジンふかして思い切り
橋幸夫・ミュージックブック「恋と涙の太陽」   君のスキーを 思い切り
   僕のボートで 引っぱりたいんだ
   若すぎるのか 僕達二人
   ああ 太陽と恋とで一ぱいの
   湖なんだぜ 水の上
 三 教えてくれよな どうすれば
   君の気に入るのか どうすれば
   良けりゃ ヨットに 赤い帆はろか
   若すぎるのか 僕達二人
橋幸夫・ミュージックブック「恋と涙の太陽」より   ああ 太陽と恋とで一ぱいの
   湖なんだぜ 君と僕

 二年前の「恋をするなら」(s39-8)、一年前の「あの娘と僕」(s40-6)につづいて、恒例になった橋幸夫の夏のリズム歌謡
 「恋をするなら」のリズムは「サーフィン」、「あの娘と僕」は「スイム」、そしてこの「恋と涙の太陽」は「アメリアッチ」。みんな佐伯&吉田コンビの作品。(さらに翌年には「恋のメキシカン・ロック」(s42-5)で「メキシカン・ロック」。)なかでもこの「アメリアッチ」が一番激しいリズムのようです。
 吉田正&ビクターはこの夏「アメリアッチ」で勝負をかけたようで、久保浩&小川知子「恋旅行」(s41-8)、三田明「恋のアメリアッチ」(s41-9)とつづきます。みんなリズムは「アメリアッチ」。みんな作曲は吉田正。
 歌い出しは「どうして僕達いけないの」。何がいけないのかは書いていませんが、「愛しあってるのにいけないの」とつづいて、「若すぎるのか僕達二人」とリフレインされればたいがい見当がつきます。
 まるで芸能誌や週刊誌の読者の悩み相談コーナーみたい(笑) 17才の若者からの質問:「愛しあってるのに、どうして僕達いけないの」。(ドクトル・チエコ先生の?)回答「まだ若すぎるからですよ、君たち二人は。せめて結婚が許される18才になるまで、もう一年我慢して、燃える思いをかくしてすましてお付き合いなさい。」
 (もちろん、学校を卒業するまで、でも、経済的に独立するまで、でも、反対理由を入れ替えれば別なドラマが生れます。)
 こういう俗にくだけた、露骨な性の欲望につながるような、それゆえ年少の若者たちの「本音」をくすぐって強く印象に残るフレーズは、抒情派の舟木一夫やストイック系の西郷輝彦にはなかなか歌えません。橋幸夫ならでは、そして佐伯孝夫ならでは。(佐伯は1902年11月生まれなのでこのとき63才。いやはやお若い。)

橋幸夫・恋と涙の太陽・映画ポスター 水上スキーやモーターボートやヨットという(高度成長で裕福になった若者たちの)最先端レジャーが出て来ますが、場所は海ではなく「湖」。映画化の際には富士五湖が舞台になったそうです。(右はその映画ポスター。)
 開放的な海とちがって、閉ざされた景観のなかの「」は、かつて、もっぱら哀愁にみちた傷心のひとり旅の舞台でした。
 古くは高峰三枝子の「湖畔の宿」(s15-6)。♪ 山の淋しい湖に/ひとり来たのも悲しい心……(佐藤惣之助作詞)
 近くは松島アキラの「湖愁」(s36-10)。♪ ……たそがれせまる湖の/水に浮かべるこの葉舟(宮川哲夫作詞)
 青春歌謡の時代になっても、「湖愁」を「換骨奪胎」した西郷輝彦「十七才のこの胸に」(s39-8)。♪ ……ひとりぽっちの湖は/口笛さえも切れ切れに……(水島哲作詞)
 橋幸夫だって「白い制服」(s38-8)では思い入れたっぷりのセリフに続けて「♪ 湖くらくなに泣く風か/さよなら僕の白衣の天使」と歌っていたのでした。しかもそう書いたのは佐伯孝夫なのでした。
 その湖が、いまや若者たちの開放的な快楽と歓楽の舞台に変貌します。孤独と静寂の湖から歓楽と喧騒の湖へ。これも東京オリンピック後の若者文化の変貌というべきでしょうか。

558 安達明「学園のハムレット」 文芸歌謡(16) これはシェークスピア?

 「初恋」につづいてもう一曲、安達明を。「学園のハムレット」。
 こちらで聴きながらお読みください。shiokaze0520さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケットの下は、前回に引き続き、「明星」昭和39年9月号から、安達明のデビュー前秘話など。)

安達明・学園のハムレット/君の涙を忘れないs40-4安達明「学園のハムレット」
  昭和40年4月発売
  作詞:関沢新一 作曲・編曲:遠藤実
 一 いつか誰かが 話していたよ
   山の彼方に 何がある
   あこがればかり ないだろう
   つらい何かも あるだろう
   だけど希望は いつだって
   僕は抱いてる
安達明s39-9明星より1   学園のハムレット
 二 風も知らない 未来のことは
   きっとあの娘も わからない
   あゝ校庭の 菩提樹が
   赤い夕日に 泣いたとて
   いつも口笛 吹きながら
   僕は泣かない
   学園のハムレット
 三 肩を組み合う みんなの胸に
   一人一人の 違う夢
   負けずにゆこう いつの日か
   山の彼方で 会う日まで
   若い花咲く この道を
安達明s39-9明星より2   僕は明るい
   学園のハムレット

 昭和40年4月、実年齢の安達明は高校二年生に進級したばかりだったはずですが、歌は高校卒業後への不安と希望と、支え合う友情への信頼。
 「高校三年生」(s38-6)や「学園広場」(s38-9)など、舟木一夫が歌った卒業間近の学園ソングの感じがあります。一番と三番は肯定的な「陽」、中間部の二番に「あの娘」の姿をちらりと描いて恋愛イメージをほのめかしながら「泣く」という「陰」を配する構成も、舟木の学園ソングと同じ構成。とはいえ、言葉づかいがちょっと幼いところが「新二年生」らしいでしょうか。
 一番と三番でくりかえされる「山の彼方」。地方の高校をイメージさせますが、もちろん、カール・ブッセ(上田敏訳)の「山のあなた」を踏まえて、もっと一般的に、高校卒業後の将来をも意味します。
 
 なんといっても印象的なのは「学園のハムレット」というそのタイトル。
 ハムレットはもちろんシェークスピアの有名な戯曲『ハムレット』の主人公。デンマークの王子。父王を毒殺して妃である母親と王位とを簒奪した叔父クローディアスへの復讐を誓いますが、逡巡したり狂気を装ったりしている間に、誤って恋人のオフィーリアの父親を殺してしまい、オフィーリアをも自殺に追い込む結果となり、最後に復讐は果たすものの自らも(そして母親も)死ぬという悲劇の貴公子。
 『ハムレット』には謎が多く、それだけ多様な解釈の余地があります。そもそもハムレットが父の死の真相を知るのは父王の亡霊の言葉によって。もし亡霊がハムレットの妄想・幻覚だったなら、と仮定すれば様相は一変します。そういう観点で志賀直哉は『クローディアスの日記』を書きました。
 また、フロイトはハムレットを典型的な「エディプス・コンプレックス」の症例として解釈しました。(全ての「息子」の無意識には、父を殺して母と一体化したいという願望が潜むという理論。だからハムレットは母親を奪った叔父を憎む。しかし叔父はハムレット自身の深層の願望を実現した男、つまり自分の分身、だから叔父を殺すことは自分自身を殺すことになってしまう、それゆえ復讐をためらってしまう。)
 そういう穿った解釈は別にして、19世紀ロマン派以来、ハムレットは知的で繊細だが実行力に欠ける、というのがおおよその共通認識。
 なにしろ有名なセリフが「 to be , or not to be 」。(生きるべきか死すべきか、それが問題だ)
 つまり、ハムレットの一般イメージは、迷い、苦悩する悲劇の若者(貴公子)なのです。
 ちなみに、イギリスでシェークスピアが『ハムレット』を書き上げた(1600~1602?)のとほぼ同じころ(1605)スペインではセルバンテスが、近代小説の祖と目される『ドン・キホーテ』(前篇)を出版しました。
 ツルゲーネフは、この二作品の主人公を対比して「ハムレット型」と「ドン・キホーテ型」という人間類型を提出しています。詳細は省略して、辞書的な短い要約記述(「広辞苑」)を引用すれば、
 ハムレット型:ハムレットのように、思索・懐疑の傾向が強く、決断・実行力に乏しい人物の型。
 ドン・キホーテ型:ドン・キホーテのように、現実を無視して独りよがりの正義感にかられ、向う見ずの行動に出る人物の型。

 さて、この歌、「僕は……学園のハムレット」と歌うので、主人公(語り手)自身の名乗り、自称です。たぶん、周囲からそう呼ばれていた他称が気に入って、自称として名乗るようになったのでしょう。
 しかし、そもそもいったい彼のどこがどうハムレットに似ているのか。歌詞にはまったく説明はなく、推測の手がかりすらありません。
 『ハムレット』には「客観的相関物 objective correlative」(感情に対応する現実設定)がないから失敗作だ、というのは若き日のT.S.エリオットの有名な批評ですが、それを借りていえば、この歌には「ハムレット」と称するための「客観的相関物」がないわけです。
 性格の類似という観点はどうこじつけても無理でしょう。
 となれば、繊細な貴公子イメージ、ぐらいしか残りませんが、たぶんそれでかまわないのでしょう。歌謡曲の世界では、繊細な美少年・安達明が「僕は……学園のハムレット」と歌う、それだけで十分魅力的なのです。強いていえば、この歌での「ハムレット」の「客観的相関物」は歌手・安達明本人、ということです。

555 コロムビア・ローズ(二代目)「智恵子のふるさと」 文芸歌謡(13)

舟木一夫&内藤洋子「その人は昔」s42-27マーガレット 舟木一夫「その人は昔」は、北海道の大自然の中で育った若い男女が東京に出て挫折する、という物語でした。LP「その人は昔」(s41-11)には、後半部、こんな一節(歌ではなく朗読で)があります。(右画像は「マーガレット」昭和42年27号から。)
 〈キミは 海を見たいといった/僕は 大森の海岸へ/キミをつれていった//キミは これは/海ではない/腐った沼だと いった
 〈キミは 馬を見たいといった/僕は 競馬場へ/君をつれて 行った//キミはこれは/馬ではない/飼いならされた/オモチャだといった
 むろん、彼女にとってのほんとうの海は百人浜の荒々しい海であり、ほんとうの馬は原野を疾駆する馬(映画の中ではルンナという名の白馬)なのです。
 松山善三の詩はさらにはげしく、
 〈キミは人間を見たいといった/僕は 銀座へ/キミを連れていった//キミは これは/人間ではない/人間の顔をした/お化けの行列だといった
と展開します。

 高村光太郎『智恵子抄』「あどけない話」(昭和3年)を思い出します。その冒頭、
  智恵子は東京に空が無いといふ、
  ほんとの空が見たいといふ。

 昭和41年(1966年)の「その人は昔」という虚構の物語の「キミ」(映画での内藤洋子)はまもなく自殺し、昭和3年(1928年)の現実の高村智恵子はやがて狂って(精神分裂=統合失調)しまいます。まるで境遇の異なる二人ながら、東京という虚飾と欲望が渦巻く大都会に耐えられない繊細な魂の悲劇だといってよいでしょう。

 そこで、二代目コロムビアローズの「智恵子のふるさと」を。大ヒットした「智恵子抄」(s39-1)に同じ作詞家&作曲家&歌手が自ら応えた一曲です。文芸歌謡「二十四の瞳」(s40-6)のB面。
 こちらで聴きながらお読みください。Paloma1215さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (画像はすべて、コロ・シート「智恵子のふるさとを訪ねて」(s39-6-1)から。「智恵子抄」の大ヒットを喜んだ智恵子の故郷・二本松市が同曲の作詞家・丘灯至夫、作曲家・戸塚三博、歌手・二代目コロムビア・ローズの三人を招待し、市長が感謝状を授与したりしたのでした。)

コロムビア・ローズ(二代目)「智恵子のふるさと」
コロムビア・ローズⅡ・智恵子のふるさとを訪ねて  昭和40年6月発売
  作詞:丘灯至夫 作曲:戸塚三博
 (せりふ)あれが安達太良山(あだたらやま)
      あの光るのが阿武隈川
      こゝがあなたの生まれた故郷
      そして智恵子はここに
      あゝ ほんとうの空があると
      いっていた
 一 折鶴に願いをこめて
コロムビア・ローズⅡ・智恵子のふるさとを訪ねてより   あどけなく歌った智恵子
   美しいすがたが今日も
   呼んでいる あゝ
   安達太良の 山の彼方で
 二 ひとすじの 恋に生きぬき
   倖せにだかれた智恵子
コロムビア・ローズⅡ・智恵子のふるさとを訪ねてより1   お城山のぼれば今も
   ほんとうの あゝ
   空がある 青い空だよ
 三 さわやかなレモンの味と
   故郷を愛した智恵子
   「智恵子抄」生まれた町に
   はるばると あゝ
   阿武隈の川は流れる

 せりふ部分の冒頭二行は『智恵子抄』中の「樹下の二人」の冒頭二行そのまま。ただし、「安達太良山」の表記と訓みが違います。「樹下の二人」の冒頭四行を引いておきます。
  あれが安多多羅山(あたたらやま)
  あの光るのが阿武隈川。
  
  ここはあなたの生れたふるさと、
  あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒蔵。

 「樹下の二人」は大正12年(1923年)3月の作。(二人が結婚したのは大正3年12月。)この詩については光太郎自身が思い出を語っています(「樹下の二人」)。
 〈智恵子は東京にいると病気になり、福島県二本松の実家に帰ると健康を恢復するのが常で、たいてい一年の半分は田舎に行っていた。〉この年も智恵子は長く実家に滞在していたが、光太郎はたまたま印税が入ったのでそれを旅費にして智恵子の実家を訪ねたのでした。
 〈ある日、実家の裏山の松林を散歩してそこの崖に腰をおろし、パノラマのような見晴しをながめた。水田を隔てて酒造りである実家の酒蔵の白い壁が見え、右に「嶽(だけ)」と通称せらるる安多多羅山(安達太郎山)が見え、前方はるかに安達が原を越えて阿武隈川がきらりと見えた。
 詩「樹下の二人」の語り手は光太郎。対して、この「智恵子のふるさと」の語り手は、『智恵子抄』に感動して智恵子のふるさとを訪れた一人の女性。だからせりふの三行目以後は異なります。せりふの「智恵子はここに/あゝ ほんとうの空があると/いっていた」は、自ら歌った「智恵子抄」の歌詞を指し示しているわけです。

コロムビア・ローズⅡ・智恵子のふるさとを訪ねてより2 二番の「お城山」は霞ヶ城公園でしょうか。霞ヶ城は二本松城の別名。城跡は公園になり、昭和35年(1960年)に建てられた『智恵子抄』の詩碑があり、「樹下の二人」冒頭二行と「あどけない話」からの抜粋が刻まれています。ただし、霞ヶ城公園からは智恵子の生家も阿武隈川も見えないのだそうです。
 なお、上記引用文で昭和3年に光太郎と智恵子が上って風景の「パノラマ」をながめた旧安達町の「裏山」にも、その23年後、1983年に詩碑が建てられたそうです。こちらに刻まれているのは、上に引用した「樹下の二人」の冒頭四行。こちらからは当然、智恵子の生家も安達太良山も阿武隈川も展望できます。
 いわば旧安達町(今は二本松市に編入)は旧二本松市に観光資材としての『智恵子抄』を「横取り」されたかたち。その経緯については、こちらの記事が、田舎町の財政事情や智恵子の実家・長沼家の町での悪評と孤立など、興味深い背景を語ってくれています。

 三番の「さわやかなレモンの味」は、臨終の智恵子を歌った「レモン哀歌」で広く知られています。
その冒頭五行を引いておきます。
  そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
  かなしく白くあかるい死の床で
  わたしの手からとった一つのレモンを
  あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
  トパアズいろの香気が立つ

 最後に、ちなみに、この「智恵子のふるさと」は昭和40年6月発売。一年後には梶光夫「啄木のふるさと」(s41-6)。コロムビア文芸歌謡路線健在でした。

554 舟木一夫&内藤洋子「今度の日曜日」 歌うスターたち(5)

 「恋のホロッポ」のB面も紹介しておきましょう。舟木一夫&内藤洋子「今度の日曜日」。
 内藤洋子がレコードに残した歌声は、映画「その人は昔」の挿入歌「白馬のルンナ/雨の日には」と同じ挿入歌で舟木一夫とデュエットしたこの「恋のホロッポ/今度の日曜日」の2枚4曲だけです。 
 LPヴァージョン映画ヴァージョンレコードヴァージョンで曲の長さが違います(下記参照)。
 こちらレコードのフルヴァージョンを聴きながらお読みください。7分にせまるロングヴァージョンです。(さすがにこの長さ、昭和42年時点では(技術的にも)EP化しにくかったかもしれません。)
 (画像上は「近代映画」昭和42年6月号表紙。下は「週刊平凡」昭和42年7月6日号表紙。)

舟木一夫&内藤洋子「今度の日曜日」
内藤洋子s42-6  昭和58年5月発売
  作詞:松山善三 作曲・編曲:船村徹
 
  さよなら また今度の日曜日
  さようなら また今度の日曜日
  目はみえるから キミをみたいと言う
  耳はきこえるから
  あなたの声をききたいの

  一日逢わないと こぼれてしまう
  この想いを明日は キミのかぶる
  ネッカチーフに くるんで渡そう
  想うことが こんなにも つらいことだと
舟木一夫&内藤洋子s42-7-6&舟木一夫  僕は知らなかった

  一日逢わないと あふれてしまう
  この想いを明日は あなたの服の
  胸のポッケに たたんで渡そう
  想うことが こんなにも つらいことだと
  わたし 知らなかった


  雨がふれば この雨は
  どこからきて
  どこへ流れるのかとおもう
  風が吹けば この風は
  どこからきて
  どこへゆくのかとおもう


  キミへの想いはいつ生まれ
  どうして こんなに燃えるのだろう

 「東京には夢がある」と信じて親の反対を振り切って出奔した二人、舟木は小さな印刷工場で、内藤は喫茶店で、ともに働きながらタイプ学校で学ぶ日々。日曜日のデートだけがつましい二人の歓び。そういう場面で歌われるのがこの歌。
 この歌、もともとのLP「その人は昔」で歌われたのは上掲歌詞の青い太字部分(第二連前半)だけ。(もちろん舟木のソロ。)映画用に前後に歌詞が加筆され、船村がそれにあわせて追加部分も作曲したわけです。そういう経緯だったにもかかわらず、しみじみした一曲として全体の統一感を作り上げています。
 なお、おそらくその時点で全編完成して吹き込みもされていたのでしょうが、映画で使われたのは上掲歌詞の青い部分(第二連&三連)だけでした。(こちらに映画から切り取った動画がありますが、残念ながら第二連部分しかありません。)
 したがって、全編聴けるのは映画公開から16年後に発売されたこのレコード版だけ、ということになります。
 (LPには第一連はなく、映画使用部分でも第一連が歌われていないので、どちらも「今度の日曜日」というタイトルにはなりません。舟木は映画公開に合わせて「その人は昔」のステージ公演を行っています。その際には相手役の女性(内藤洋子ではない)も登場しているので、おそらくそのステージでデュエットとして歌われたのではないかと推測します。「今度の日曜日」というタイトルもその際に付けられたのではないでしょうか。)

 ちなみに、「別冊近代映画」昭和42年7月号には、「ステージで「その人は昔」を全曲歌います」という見出しの「ボクの近況報告」が載っていますが、引用すると、
 《LPには吹込んではいないもので、映画の中でうたった「一人でいると淋しい」とか、「恋のポロッポ」など数曲をくわえ、全部で二時間あまりのステージになる予定です。》
 終始舟木の一人称で書かれていますがたぶん取材した記者が書いたのでしょう。おわかりのとおり、「一人でいると淋しい」は正しくは「じっとしてると恋しい」、「恋のポロッポ」は「恋のホロッポ」。取材時点でタイトルが確定していなかったのか、舟木の記憶ちがいか、それとも記者の聞きまちがい・書きまちがいか。とりわけ、「ホロッポ」を「ポロッポ」としてしまった点など、「ホロッポ」という言葉が記者には(もしかしたら舟木自身にも?)まるで意味不明な言葉だった証拠でしょう。

 さて、このレコード版フルヴァージョン、私がとりわけ感心するのは、まず第一連。「さよなら」「さようなら」の別れの言葉から始まって、「目はみえるから キミを見たいと言う」「耳はきこえるから あなたの声をききたいの」。心では自制しようと思うのに、「目」や「耳」が心のいうことをきかず、各自の機能のままに「キミ/あなた」を「見たい/ききたい」と欲してしまう、というのです。松山善三、たしかに詩人です。
舟木一夫&内藤洋子・その人は昔・スナップs42-7 (右画像は「別冊近代映画」昭和42年7月号から。)
 そして、第三連。雨につけ、風につけ、「どこからきて どこへ流れる(ゆく)のかとおもう」。ここは、詞の構成としては、最終連で「キミへの想いはいつ生まれ/どうして こんなに燃えるのだろう」と恋愛心理の主題として回収されるのですが、しかし「どこから/どこへ」には「いつ/どうして」に回収しきれぬものがあるように感じます。
 雨や風に「どこから/どこへ」を問うてしまうのは、この二人が東京という大都会にまだ根を下ろせていないからではないか、彼ら自身の存在の浮動性、それゆえの不安がこういう思いを引き起こしているのではないか、と感じるのです。つまり、「どこから/どこへ」流れてゆくのか、とは、彼ら自身の自分の将来への不安でもあるだろう、ということです。

 事実、この歌の段階では、「夢」は将来への「希望」であって、だから彼らの現在を吊り支えていました。彼らが働きながらタイプ学校に通い、つつましい努力と忍耐の日々を送っていたのも「希望」を信じればこそです。しかし、「夢」には「欲望の充足」という側面があります。そして、都会は、「将来」のために今を禁欲することなく、この「現在」を楽しめ、刹那の欲望と快楽に身をまかせよ、と誘惑する場所でもあります。
舟木一夫&内藤洋子・その人は昔・スチール やがて舟木も仲間づきあいでマージャンを覚えたりオートレースにはまったりし出して、さみしい思いをすることの多くなった内藤の前には誘惑する男が現れます。二人の心ははぐれて行き、物語は悲劇の結末へと進行していくことになります。(右画像は映画スチール。)

553 舟木一夫&内藤洋子「恋のホロッポ」 ホロッポは鳩? 歌うスターたち(4)

 前回、姿美千子のデュエット(&ソロ)レコードについて、せめてもう3年早ければ、と何度も嗟嘆しましたが、今日はさらに、もう16年(!)早ければ、というデュエット・レコードを。
 舟木一夫と内藤洋子のデュエット「恋のホロッポ」。こちらで聴きながら、もしくは映画「その人は昔」の一場面を堪能した後で、お読みください。「空港成田」さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケットの下の画像は二枚とも「別冊近代映画」昭和42年7月号から。)

舟木一夫&内藤洋子「恋のホロッポ」
舟木一夫&内藤洋子・恋のホロッポ  昭和58年5月発売
  作詞:松山善三 作曲・編曲:船村徹

  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  何故君は走っているの
  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  何故だか私はわからない
  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  何故君は泣いているの
舟木一夫&内藤洋子・その人は昔s42-7別冊近代映画より  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  何故だか私はわからない
  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  ホロッポホロッポ
  一緒に泣いてあげようか
  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  ホロッポホロッポホロッポホロッポ

  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  何故あなたはだまっているの
  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  何故だか僕にはわからない
  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  何故貴方は泣いているの
舟木一夫&内藤洋子・恋のホロッポs42-7別冊近代映画より  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  何故だか僕にはわからない
  ホロッポホロッポ
  一緒に泣いてあげましょうか
  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  ホロッポホロッポホロッポホロッポ
  
  ホロッポホロッポ
  一緒に遠くへ行こうよ
  ホロッポホロホロ ホロッポホロホロ
  ホロッポホロッポホロッポホロッポ

 B面の「今度の日曜日」とともに、映画「その人は昔」(s42-7-1公開)の挿入歌。映画のすべての主題歌&挿入歌と同じくこれも松山善三の作詞、船村徹の作曲。舟木一夫と内藤洋子の楽しい掛け合い。主題歌&挿入歌中でいちばん明るく楽しく軽快な歌。
 上記リンク先「空港成田」さんの動画末尾にあるとおり、歌詞の最後で「一緒に遠くへ行こうよ」と歌った二人は、貧しい暮しからの脱出を求めて東京に行くことになります。つまり、映画の中でこの挿入歌は、北海道での二人の幸福の頂点を表現する歌なのでもありました。

 さて、この歌には大きな疑問が二つあります。
 一つは、なぜ映画公開から16年もたってやっとレコード化されたのか、ということ。
 昭和58年(1983)、青春はとうに過ぎ去って舟木一夫も38歳、このころは青春歌謡とはまったく異なるテイストの曲を歌っていたし、内藤洋子はとっくに(1970=s45)結婚して芸能界を引退、そのうえアメリカに移住(1974=s49)していたというのに。これほどにも発売時機を逸しこれほどにも遅きに失したレコードはほかにないでしょう。
 舟木も内藤も同じコロムビア・レコード所属なのでレコード化には何の支障もなかったはずです。実現していれば実に新鮮で魅力的なデュエット・レコードになっていたはずなのに。
 ちなみに、「その人は昔」は、以前書いたように、まず「心のステレオ」としてLP発売(s41-11)。ついで映画化(s42-7-1)。映画封切に合わせて、多数の主題歌、挿入歌の中から、舟木は「心こめて愛する人へ/じっとしてると恋しい」(s42-7)をシングル発売。内藤は「白馬のルンナ/雨の日には」(s42-7)をシングル発売していました。この4曲ともLPにはなく、映画のために作られた曲。「恋のホロッポ」も映画用に作られた曲で、条件は同じだったにもかかわらず、「恋のホロッポ」は最初のシングル化選択に漏れてしまったのでした。(もっとも、主題歌「その人は昔」もシングル化されなかったのですが。)(実はB面の「今度の日曜日」が演奏時間7分に近い長尺。通常の歌謡曲の2曲分の長さ。それが、この魅力的な舟木と内藤のデュエット盤が実現しなかった理由かもしれません。)
 ではなぜ唐突に16年後にレコード化されたのか?
 実はこの1983年(s58)5月、コロムビアは「青春グラフィティ」シリーズと銘打って、なつかしい廃盤レコードを各3枚セットで多数復刻発売していたのです。
 当時私が購入したのは、本間千代子と守屋浩の各3枚組セット。こちらのブログによれば、その時私の目に触れなかった3枚セットの一枚に「恋のホロッポ」が入っていたようで、他の2枚は内藤洋子「白馬のルンナ/雨の日には」と酒井和歌子(&江夏圭介)「大都会の恋人たち/雨をうけたら」だったそうです。東宝の青春スター、内藤洋子&酒井和歌子の3枚セットだったわけです。他のセットも含めてすべてが復刻発売の中で、唯一の特例として、この舟木&内藤「恋のホロッポ/今度の日曜日」だけがオリジナル、初めてのレコード化なのでした。企画担当者の英断に感謝!
 (補足訂正:「恋のホロッポ」は、1977年発売LP10枚組「歌手生活15周年記念 限りない青春の季節」に収録されていました。「今度の日曜日」はこのLP10枚組にも収録されていません。)

 さて、第二の疑問。何度も何度も繰り返されてタイトルにもなっている「ホロッポ」とは何?
その人は昔s42-6-22週刊平凡より 映画では舟木と内藤が乗馬でのデートを楽しむ場面で使われているので「ギャロップ」(全力疾走する馬の駈け方)なども連想しますが、まず手がかりは「ホロホロ」。(右画像は「週刊平凡」s42-6-22号から)
 「ホロホロ」といえば、教養人なら(?)誰でも思い浮かべるのが
 山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ
 これは道路や橋を作って社会事業を展開したり、大仏造営の寄付金を集めたりしたことで知られる奈良時代の高僧・行基の作として伝わる有名な歌(『玉葉和歌集』所収)。以来、「ほろほろ」は山鳥の鳴き声。
 また、歌謡曲ファンなら誰でも思い出すのが「旅の夜風」(s13-9 西條八十作詞)一番の「♪ 泣いてくれるなほろほろ鳥」。
 「月の比叡を独り行く」とつづくこの「ほろほろ鳥」も、南国産の「ホロホロチョウ」ではなく、やっぱり日本の山鳥。「ホロホロ」鳴くから「ほろほろ鳥」と名づけた、これは西條八十の大胆で見事な造語でしょう。「山鳥」は広くは山にすむ鳥全般、狭くはキジ目キジ科の特定の鳥。
 ならば、「ホロッポホロホロ」は鳥の鳴き声の擬音語、または「ホロッポ」という名の鳥が「ホロホロ」と鳴いている、という意味でしょう。北海道の広々とした野を馬で行く映画の場面にもふさわしい。馬上の二人の耳にその鳴き声が聞こえてくるのです、まるで二人の楽しい馬上デートに伴奏するかのように。
 では「ホロッポ」は山鳥?
 
 そこでさらに、通の(?)歌謡曲ファンなら思い出す(べき)歌が、三橋美智也「東京の鳩」横井弘作詞)。意外にもウェスタン風味の前奏が新鮮でかなりのヒット。(こちら、Mi Son さんのチャンネルで聴けます。)その一番は
  
  霧が渦巻く 東京の
  おまえと俺とは 迷い鳩
  ホ ホ ホロッポ 泣くまいナ
  ホ ホ 青空が なくっても
  自分で選んだ 道だもの


 二番三番でも繰り返される「ホ ホ ホロッポ」。「恋のホロッポ」の「ホロッポホロホロ(→ホロ ホロ ホロッポ)」とほぼ同じ。そして、「ホロッポ」は横井弘の詞では鳩の鳴き声(の一部)、あるいはずばり鳩のこと、なのです。
 しかもこれは昭和42年6月(?)の発売。発売月が映画封切と近いので、松山善三が横井弘の詞に触発されたとまでは言いにくいのですが、「恋のホロッポ」とほぼ同時期というのは重要です。
 そこで、舞台は東京ならぬ北海道ですが、「恋のホロッポ」の「ホロッポ」は鳩(山鳩)(またはその鳴き声)ではないか?というのが私の結論。
 山鳥の野趣も魅力的ながら、鳩の愛らしさの方が内藤洋子にふさわしく、また映画中のこの場面のほほえましさにもふさわしい感じがするのです。
 なお、北海道(の一部地域)の方言で鳩を「ホロッポ」と呼ぶ、と考える必要はないでしょう。
 鳥や動物を鳴き声で名づけるのはもっとも素朴な命名法。たとえば『古事記』や『万葉集』ではヒキガエル(蟇)のことを「タニグク(谷蟆)」と呼びますが、これは谷で「グク、グク」と鳴くから。
 古代人のこういう命名法は今でも幼児言葉に残っています。猫は「ミャ―」犬は「ワンワン」。「ほろほろ」鳴くから「ほろほろ鳥」だという詩人・西條八十の「ほろほろ鳥」だって同じ命名方法なのです。
 世界を初めて名付けるとき、人は誰でも詩人です。子供だって田舎者だって古代人だって詩人です。花や小鳥や小動物の様々な呼び名(方言)に関心を持った柳田国男は、自然界とふれあうときの最初の感動を生き生きと伝えるそういう名づけの行為に注目して、「幼稚なる詩人と言い得べくんば、国民全体こそはそれであった」(「昔の国語教育」)と述べていました。
 たとえば「♪ ぽっぽっぽ はとぽっぽ」と唄い出す童謡がありますが、元の題名(1911年=明治44年に小学一年生用文部省唱歌として発表)は「鳩」。すっかり幼児の歌として定着して、1941年(s16)の国民学校用教科書「ウタノホン」から題名も「ハトポッポ」になりました。歌い出しの「ハトポッポ」は、最初は、「ハト」が「ポッポ」と鳴く、という意味だったかもしれませんが、歌の題名に「昇格」したとき、「ハト」に鳴き声「ポッポ」を付けた「ハトポッポ」は鳩そのものを指す名詞(幼児言葉)として定着したわけです。
 鳥の鳴き声はいろんな風に聞えます。映画の中の内藤洋子は、子供のころから、鳴き声が「ホロホロ」または「ホロッポホロホロ」と聞える鳩のことを「ホロッポ」と呼んでいたのだ、と思えばよいでしょう。語尾に愛称めいた接尾辞「ッポ」が付くあたりも「ハトポッポ」に似ています。彼女も「幼稚なる詩人」の一人だったのです。そして、映画の中の舟木一夫も、鳩のことを「ホロッポ」と呼ぶ彼女の素朴で無垢な少女性を受け入れて、唱和しているわけです。

549 倍賞千恵子&勝呂誉「二人で胸を張れ」 青春讃歌(6) サニー・カップルのデュエット

 三浦洸一「青年の樹」の項で書いたとおり、「おかあさん長生きしてね」(s37-10-13公開)での初共演以来、松竹青春映画を担うスター、倍賞千恵子&勝呂誉コンビが定着します。
 日活の吉永小百合&浜田光夫の「純愛コンビ」、東宝の加山雄三&星由里子の若大将コンビ(やや遅れて、大映は姿美千子&倉石功コンビ、東映は本間千代子の相手役に舟木一夫や西郷輝彦を借りて来ての青春路線)に対抗する松竹青春映画路線がここに確立します。
 倍賞&勝呂はデュエット曲もいくつか出していました。青春スター・コンビが共に歌唱力があって同じレコード会社に所属していたのは、他の映画会社にはない、松竹のこの二人の強みだったはず。そのデュエットの一つ、「二人で胸を張れ」。
 こちらで聴きながらお読みください。ボニー・ジャックスとヴォーチェ・アンジェリカがコーラスを付けています。
 (レコードジャケットの下は「週刊明星」昭和38年7月7日号から。場所は浅草の国際劇場の屋上。キャプションは「ショーの合い間に誕生日を祝う倍賞千恵子と勝呂誉」。倍賞千恵子は昭和16年6月29日生まれ。つまりこれは、6月29日、倍賞の22歳の誕生日を祝う二人。「ショー」については下記ご参照。)

倍賞千恵子&勝呂誉「二人で胸を張れ」
倍賞千恵子&勝呂誉・二人で胸を張れs38-6  昭和38年6月発売
  作詞:横井弘 作曲:安部芳明
 一 雲は飛ぶ飛ぶ ひとすじに
   若い望みを 貫こう
   一人が道に 迷ったら
   一人が声を かけるのさ
   ホラホラ 風も 走ってる
   二人で胸を 胸を張れ
 二 花は咲く咲く 塵の中
倍賞千恵子&勝呂誉s38-7-7週刊明星   夢を負けずに 咲かせよう
   一人が唄を 忘れたら
   一人があとを ひきうけろ
   ホラホラ 鳥も 唄ってる
   二人で胸を 胸を張れ
 三 夜は行く行く 朝がくる
   若い生命を よせあおう
   一人が泪 落したら
   一人が肩を たゝくのさ
   ホラホラ 星も ひかってる
   二人で胸を 胸を張れ

 同名映画の主題歌でした。二人は同じ大学のテニス部員という設定。だからこの倍賞千恵子にはめずらしいレコードジャケット。映画は、好き合う二人が不幸や障害を乗り越えて進む、という物語のようです。
 曲はホームソング風。横井弘の詞も「一人が道に迷ったら/一人が声をかけるのさ」。若い男女のデュエットですが、歌謡曲としてのテーマは恋愛というよりむしろ友情。共に助け合い励まし合いながら未来を信じる二人。一点の曇りない生き方を貫いて、誇り高く「二人で胸を張れ」。「ホラ、ホラ」の掛け合いも微笑ましい。この清潔感が、オリンピック以前、エレキ導入以前の青春歌謡の魅力です。

倍賞千恵子&勝呂誉・歌うサニー・カップルs38 この二人、松竹がつけたかキング・レコードがつけたか、売り出した愛称は「サニー・カップル(sunny couple)」。「サニー(sunny)」は「太陽の光のような、明るい、快活な」。二人の代表作になった映画「下町の太陽」(s38-4-18公開)にちなんだ命名でしょう。
 右画像は「歌うサニー・カップル」のソノシート集と、その下に「サニ倍賞千恵子&勝呂誉「サニー・カップルショウ」s38-7-13ー・カップルショウ」のチラシ。ショウは名古屋松竹にて昭和38年7月13日(土)。いまやなつかしい、映画の合間の「実演」ショーです。
 上掲画像「週刊明星」7月7日号が報じる「ショー」は6月29日(土)浅草国際劇場。国際劇場は倍賞にとって映画デビュー前のSKD(松竹歌劇団)時代の本拠地。浅草を皮切りに全国あちこちで公演したものと思われます。
 (ついでに思い出しておけば、ちょうど同じ月に「ヘイ・ポーラ」(s38-6)で売り出したキング・レコードのカバー・ポップス系コンビ・梓みちよ&田辺靖雄は「マイ・カップル。MICHIYOのM、YASUOのYでMY couple。
 レコードで確認する限り、倍賞&勝呂の「サニー・カップル」という愛称の方がやや早く、少し遅れて梓&田辺が「マイ・カップル」を名乗り始めたみたいですが、邦楽と洋楽と、部門は異なるとはいえ同じキングレコードのこと、二つのコンビをセットで同時に命名したのかもしれません。)

 倍賞&勝呂コンビの中心はもちろん映画ですが、この時期、集中的にデュエット曲を出していました。映画会社とレコード会社で協力しつつプッシュしたのでしょう。持ち歌が複数あればこそ「ショー」も開けたのでした。
 「二人で胸を張れ/離愁の湖」(s38-6)
 「あなたもわたしも」(s38-7)
 「あなたと共に/この空のある限り」(s38-10)
のレコード3枚、計5曲。
勝呂誉「白い花の咲く頃」s38&本間千代子「夕月の歌」 勝呂誉はなかなかの美声で声量もたっぷり。やはりこの時期、他に右のようなソノシートも。本間千代子「夕月の歌」とのカップリングで「白い花の咲く頃」。
 以前書いたように、「夕月の歌」は伊藤久男の歌(s27₋11)のリバイバル。「白い花の咲く頃」は岡本敦郎の歌(s25₋12)のリバイバル。どちらも寺尾智沙&田村しげる夫婦による作詞と作曲、戦後抒情歌の名曲です。

548 倍賞千恵子&ボニー・ジャックス「さあ太陽を呼んでこい」 作詞家・石原慎太郎(2)

 石原慎太郎の作詞曲をもう一つ。倍賞千恵子&ボニー・ジャックス「さあ太陽を呼んでこい」。
 こちらで聴きながらお読みください。
 (レコードジャケットの下は、このレコード発売のころ撮影していたはずの映画「花の舞妓はん」(s39-4-12公開)のポスター。舞妓姿の倍賞千恵子と橋幸夫。)

倍賞千恵子&ボニー・ジャックス「さあ太陽を呼んでこい」
倍賞千恵子・さあ太陽を呼んでこいs39-3  昭和39年3月発売
  作詞:石原慎太郎 作曲:山本直純
 一 夜明けだ 夜が明けてゆく
   どこかでだれか 口笛を
   気持ちよさそに 吹いている
   最後の星が 流れてる
   あかつきの空 明けの空
   もうじき 若い日がのぼる
 二 みんながみんな うたうんだ
橋幸夫・花の舞妓はん s39-4-12ポスター   あの口笛に 合わそうよ
   若いみんなの 歌声で
   あかつきの風 朝の風
   すばらしい朝を つくろうよ
 三 この世に夜は いらないぜ
   みんながこの手で あかつきの
   とびらを空に 開くんだ
   さあ太陽を 呼んでこい
   あかつきの雲 朝の雲
   のぞみの鐘を 鳴らそうよ

 もとはNHKの「みんなのうた」。昭和38年12月から昭和39年1月放送。歌ったのは東京放送児童合唱団&マイスター・ジンガー。たぶんこちらが当時の音源でしょう。37109TOKYOさんに感謝しつつ無断リンクします。
 山本直純の曲は行進曲風でとても勇壮溌剌。間奏部には「ララララ……」のコーラスや口笛も入り、夜明けに向かって行進しながら歌う子どもたちの歌声が、明るい希望の光を呼び出します。子どもたちこそ未来を担う世代なのです。
 好評だったらしく、ただちにキング・レコードがこの倍賞千恵子&ボニー・ジャックスでレコード化。さらに番組でも1年後の昭和40年1月に二度目の放送。このときは西六郷少年少女合唱団&立川澄人の歌唱でした。

さあ太陽を呼んでこい・歌のメリーゴーラウンドs40キング ところで、右は「さあ太陽を呼んでこい」も収録されているNHK「歌のメリーゴーラウンド」のレコード(キング・レコード。昭和40年発売)。
 「歌のメリーゴーラウンド」(s39-4-11~s43-3-29)について、wikipediaは「粗悪な音楽の流行がテレビ普及によって起きていることを懸念し、『みんなの歌』の初期スタッフが良質な歌でこども向け音楽番組を発展させようと開始した番組」と書いています。たしかにあの時代、テレビ番組の社会的(悪)影響力に対するテレビ自身の反省自覚というものがまだ残っていました。テレビによって一番影響を受けるのはこどもたち。テレビは社会教育に恐るべき影響力を持つメディアなのです。
 その反省がなくなってもっぱら俗悪な刺激によって視聴者を煽り始めるのが1960年代末から。つまり、「さわやか・抒情系」の「健全な」「青春歌謡の時代」が完全に終わって「快楽・解放系」のグループ・サウンズが制覇する時代に突入するころから。
 それでも当時はまだ視聴率調査の結果集計に一週間かかっていましたが、1977年(s52)からは通信回線を用いた自動集計によって翌日に視聴率が判明するようになり、視聴率至上主義に拍車がかかります。
 その意味で、「歌のメリーゴーラウンド」が昭和43年(1968年)の4月に放送終了しているのも何やら象徴的に思えてきます。(こじつければ、舟木一夫が「残雪」(s43-3)で青春歌謡の死を(無自覚に)告知した直後に「歌のメリーゴーラウンド」も終了したのです。)

 さて、「さあ太陽を呼んでこい」、倍賞千恵子&ボニー・ジャックスによるレコード化は「みんなのうた」での第一回の放送が終了してまもなくのこと。倍賞千恵子は児童(少年少女)合唱団の役割をひとりで担当したことになります。
 歌劇団出身の倍賞の声には張りと伸びがあって、その意味では適任だったといえるでしょう。
 歌詞は別に主体を児童に限定してはいません。実際、「この世に夜はいらないぜ」などは若者(ただし男性)の口調でさえあります。その意味で、この歌詞もまた三浦洸一「青年の樹」(s36-8)と同じく、「♪ 明日の夜明けをつげる」歌、未来を担う青年(青少年)の歌なのだ、ともいえるでしょう。だから「みんなのうた」でも、男声コーラス「マイスター・ジンガー」や立川澄人が参加していたわけです。そして当然、キング・レコードがすぐ倍賞千恵子&ボニー・ジャックスでレコード化したのも、この歌が児童向けの枠を超えた歌だという判断があったからでしょう。
 ただ、歌謡曲と違って、本来こどものための歌として児童合唱を想定して作られた一点の翳りもない曲調。倍賞も大人の女性の情感のふくらみはそぎ落として、力強く歌っています。

 もちろん石原慎太郎の詞自体が一点の翳りもないもの。
 「あかつきの空」「あかつきの風」「あかつきのとびら」「あかつきの雲」。「あかつき」が四度くりかえされます。以前、星由里子「暁の合唱」(s38-9)の項で書いたとおり、「あかつき」は太陽が昇る前、夜明け間近のまだ暗い時間帯。夜の側から夜明けの光を待望する気持ちをこめた言葉です。さすがに「作家」石原慎太郎は「あかつき」の語義をしっかり踏まえて書いています。

 「さあ太陽を呼んでこい」というタイトル自体が颯爽としてかっこいい。ちょっと大げさにいえば、太陽を「待つ」受動的な「他力本願」でなく、こちらから太陽を呼びに行く、この能動的な、行動的な「自力主義」。「自力主義」は時に傲慢にもなりますが、良くも悪くもこれが石原慎太郎。
 (唐突に宗教用語を使いましたが、太陽は神道ならばアマテラスオオミカミ、仏教ならば大日如来。神仏習合の本地垂迹説ならアマテラスは大日如来の垂迹。
 阿弥陀仏への絶対帰依を説く「他力本願」を徹底したのは親鸞(浄土真宗)。対して、石原慎太郎は自分を支えているのは法華経だ、と広言(『法華経を生きる』)しています。法華経第一主義を徹底したのは日蓮。日蓮は行動的で国家主義的。なるほど慎太郎好み。
 実際、石原は昭和43年(1968)の参院選初出馬に際して、法華系新宗教の有力在家教団たる霊友会の教主・小谷喜美の「直弟子」になり、霊友会の選挙支援を受けたのでした。もっとも石原自身は特定宗派の信者ではなく、強いていえば自分は「石原教」だ、というのですが。)

 とにかく一番の歌詞がすばらしい。一気に聴き手の心をつかみます。昨夕沈んで(いったん死んで)いま甦って(生命を更新して)ふたたび昇り来るはずの太陽を「若い日」と呼ぶあたりもうまい。特に感心するのは「最後の星が流れてる」の一行。こんなフレーズは「詩人」でなければ書けません。
 メッセージのすべては一番で表現されているので、二番三番の歌詞は付け足しのようなものですが、三番の「この世に夜はいらないぜ」も、「あかつきのとびらを空に開くんだ」というイメージも、大胆でスケールが大きくていかにも石原慎太郎の世界。
 実際、当時の石原の良質な小説には、あちこちにコズミックで男っぽいロマンチシズムのかけらがキラキラきらめいていたものです。いまから54年前、たしかに石原慎太郎は「詩人」だったのでした。

543 梶光夫「青春讃歌」 青春讃歌(3) 付・東映映画「可愛いあの娘」&「虹をつかむ恋人たち」

 タイトルもずばり「青春讃歌」を。梶光夫の歌です。
 こちらで聴きながらお読みください。
 (画像上は「明星」昭和40年1月号付録のスター・カレンダー。3月のカレンダーを梶光夫と松原智恵子が飾りました。下は「マーガレット」昭和40年2月28日号表紙。)

梶光夫「青春讃歌」
梶光夫s40-1明星付録&松原智恵子  昭和40年3月発売
  作詞:西沢爽 作曲・編曲:遠藤実
 一 青春の花 てのひらに
   風にむかって 駆けぬける
   未来の山を あの川を
   恋する君と 一緒なら
   さあ 手をつなごうよ 歌おうよ
   若い 若い 青春讃歌
 二 ほゝえむひとに しあわせが
   来るとぼくらは 信じてる
   くじけやしない 悲しみは
   ふたりでわけて なぐさめて
梶光夫s40-2-28マーガレット   さあ 手をつなごうよ 歌おうよ
   若い 若い 青春讃歌
 三 空飛ぶ翼 なくっても
   もっと自由な 夢がある
   元気で行こう この道を
   恋する君が いるかぎり
   さあ 手をつなごうよ 歌おうよ
   若い 若い 青春讃歌

 大ヒットした「可愛いあの娘」のB面。明るく楽しい「可愛いあの娘」に合わせたのでしょう、梶光夫にはめずらしい、文字どおりストレートな青春讃歌。
 歌い出しの「青春の花てのひらに」がとりわけ抒情的。「ぼくら」とは歌っても、舟木一夫「青春はぼくらのもの」(s39-3)のように不特定の「みんな」じゃありません。この「ぼくら」は「恋する君」との「ふたり」きり。「君」あればこそのこの讃歌。
 遠藤実の曲も女声コーラスをあしらった正統青春歌謡調。とはいえ、梶光夫のやわらかく抒情的な歌声はどこか愁いと哀しみをただよわせていて、「讃歌」に微妙な翳りとふくらみを与えています。B面だったのが惜しまれるような一曲。

梶光夫・可愛いあの娘&梓みちよ「虹をつかむ恋人たち」・チラシ ところで、「可愛いあの娘」はすぐに本間千代子との共演で東映で映画化されました。3月31日封切りの春休み映画。右はそのチラシです。「倖せの青い鳥求める梶光夫・本間千代子の青春讃歌!」。なるほど「青春讃歌」。
 この映画、北大路欣也と梓みちよが共演した「虹をつかむ恋人たち」との二本立てでした。
 北大路と梓は、前年9月に日生劇場で音楽劇(「ミュージカル」とはいっていません)「若きハイデルベルヒ」で共演したコンビ。その劇中歌が梓みちよ「リンデンバウムの歌」(s39-10)。映画「虹をつかむ恋人たち」の主題歌は梓の「虹をつかもうよ」(s40-4)。「忘れな草をあなたに」とのカップリングでレコード化されました。
 本間千代子「若草の丘」(s38-7)の項で書いたとおり、舟木一夫が巻き起こした青春歌謡ブーム、「時代劇の東映」までもが、とうとう、舟木一夫&本間千代子コンビの「君たちがいて僕がいた」(s39-5-23)で青春歌謡映画に参入したのでした。そしてこのチラシは、その東映がついに青春(歌謡)映画二本立て興業を初めて実施したことを示す記念すべき貴重な「証拠物件」なのでした。「東映の青春路線! 若い二人の2本立!!」です。東映がこんなことをやったのは、後にも先にもこのときだけでした。
 なお、東映青春(歌謡)映画シリーズについては、梓みちよ「虹をつかもうよ」&和泉雅子・山内賢「二人の虹」の項で再度詳説しました。

542 舟木一夫「青春はぼくらのもの」 付・映画「続・高校三年生」 青春讃歌(2)

 新春の青春讃歌。舟木一夫「青春はぼくらのもの」を。
 こちらで聴きながらお読みください。8823 terminalさんに感謝しつつ無断リンクします。
 (「君たちがいて僕がいた」のB面なので、レコードジャケット画像は省いて、画像は「平凡」昭和39年4月号と「近代映画」昭和39年6月号から、舟木一夫と本間千代子。)

舟木一夫「青春はぼくらのもの」
舟木一夫&本間千代子s39-4  昭和39年3月発売
  作詞:丘灯至夫 作曲・編曲:遠藤実
 一 生れたときから 苦しみを
   背負って進む 道ならば
   ぼくら 若さで 越えようよ
   ごらん あの娘も 歌うだろ
   あぁ 青春は ぼくらのもの
 二 ちぎれた暦は もう二度と
   この手の中に かえらない
   ぼくら 前進あるばかり
   きけよ 希望の 鐘も鳴る
   あぁ 青春は ぼくらのもの
君たちがいて僕がいたs39-6近代映画より 三 生まれたからには たくましく
   一本道を 進んでく
   ぼくら どんなに つらくとも
   今日は あかるく 生きようよ
   あぁ 青春は ぼくらのもの

 A面の「君たちがいて僕がいた」と揃えて、テーマは友情&連帯。しかしこちらは学園ではなく、直接「人生」と直面します。
 「生れたときから苦しみを背負って進む道」。いきなり人生論。しかも青春歌謡としては異例に重たい苦の人生論。舟木がこんなにストレートに人生論を歌う歌は他にありません。また、こんなに重たい苦の人生論は他の青春歌手にもないでしょう。(もしかするとこの一行、子供時代から病弱だったという丘灯至夫自身の実感だったのかもしれません。)
 人生は苦である、存在すること自体が苦しみである、この世は苦の世界である、という認識は洋の東西にあります。「一切皆苦」といえば仏教。ドイツ語にはWeltschmelz(世界苦)という言葉も。
 これを俗に砕いて「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」と遺訓したのは徳川家康。(守屋浩「人生はマラソンだ」の項で書いたとおり、この言葉、明治になってから偽造された贋物臭いのですが。)
 家康の言葉は「急ぐべからず」とつづきますが、丘灯至夫の詞は、たちまち、どんな苦しみも「若さ」で越えられるのだ、と青春讃歌へと転じます。この向日性が青春歌謡の精神。「あの娘」も歌い「希望の鐘」も鳴るでしょう。この決してくじけない向日性を支えるのが「ぼくら」の友情と連帯の力。青春は「ぼく」ひとりのものでなく、「ぼくら」のものなのです。

続・高校三年生・ポスター ところで、この歌、大映「続・高校三年生」(s39-8-22)の挿入歌として使われました。
 (右はその映画ポスター、姿美千子&倉石功&東京子&舟木一夫。たぶん舟木の写真だけ別に撮って合成したのでしょう。)
 舟木の映画デビューは大映で撮った「高校三年生」(s38₋11-16)。大映がそのまま舟木を抱え続けていれば、松竹に去った橋幸夫(橋は股旅歌謡中心から青春歌謡中心へと切り替えるのとほぼ並行して、映画「若いやつ」(s38₋3)から、映画会社も大映から松竹中心へと移行しました)の跡を埋めて大映を支える青春スターになったでしょう。ところが大映は舟木を囲い込めず、たちまち日活に奪われてしまいます。
 この間の経緯、舟木自身の後年の回想によれば以下のとおり。
 映画「高校三年生」の興行収入を大映はなぜか一番館(最初の封切館)の数値しかカウントしていなかった。ところが一番館の客の入りを見た日活が他社作品なのに二番館三番館まで調査カウントしてたいへんな数字であることを掴んだ。そこで日活はただちに舟木にオファーして「学園広場」を撮る。海外旅行中だった大映のワンマン社長永田雅一は帰国してすぐ「なぜ舟木の次作を撮らないんだ」と怒ったが、もう日活と契約済み。それでも何とか、と言うので、「高校三年生」の「続篇」という名目なら日活も承知してくれるだろう、ということになり、「続・高校三年生」撮影となった。結果的に舟木の大映作品はこの「続・高校三年生」(s39-8-22)が最後になりました。
 (当時の映画界での舟木一夫争奪戦はすごかった。大映「高校三年生」(s38₋11-16)。日活「学園広場」(s38-12-15)「仲間たち」(s39-3-14)。東映も参入して「君たちがいて僕がいた」(s39-5-23)「夢のハワイで盆踊り」(s39-8-1)を。この間に東京映画(東宝配給)「ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗」(s39-2-12)にも1シーンゲスト出演。わずか半年少々で邦画四社制覇。後に「永訣(わかれ)(s44-2-21)で松竹出演して五社制覇完成。)
姿美千子s38-7美しい十代 「続・高校三年生」の主要キャストは、高田美和がいなくなったほかは「高校三年生」とほぼ同じ。「高校三年生」は高田美和が引っ越して去って行くところで終りますが、「続高校三年生」はそのラストを反転させて、ヒロイン姿美千子の一家が引っ越して団地にやってくるところから始まります。転入先の高校の同級生に倉石功、東京子、渚まゆみ、工藤堅太郎ら。(右は「美しい十代」38年7月号表紙の姿美千子。)
 ラストはまた姿美千子が父親の転勤で転校・引越しするシーン。自転車による見送りはないものの、高田美和の場合と同じく自動車で去って行く姿美千子に主題歌「高校三年生」が流れて「完」。人物もドラマもまるで違いますが、その意味で、これは確かに「高校三年生」の「続篇」なのでした。
 この「続篇」で、舟木一夫は「青春はぼくらのもの」を歌いながら登場します。しかし彼は高校三年生ではなく、製鉄所で働く工員。つまりすでに「人生」の中にいる若者。倉石や姿の友人にして相談役みたいな立場です。
 なお、この映画には二代目コロムビア・ローズがゲスト出演して、団地の主婦コーラスを指導して「長い一本道」(s38-5)を歌います。星野哲郎が作詞した「長い一本道」も人生の行程を「一本道」にたとえた歌。「青春はぼくらのもの」とかぶりますが、統一感を狙って選曲したのでしょう。

536 橋幸夫「木曽ぶし三度笠」 若い民謡(番外2) 木曽節 中乗り新三のルーツ

 三沢あけみは後に木曽ぶしをモチーフにした「恋しぶき中乗り新三」(s43-3)を歌います。しかしここはさかのぼって、橋幸夫の股旅歌謡「木曽ぶし三度笠」をとりあげましょう。
 こちらで聴きながらお読みください。藤誠さんに感謝しつつ無断リンクします。

橋幸夫「木曽ぶし三度笠」
橋幸夫・木曽ぶし三度笠/新三ひとり旅  昭和35年12月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 一 やくざ渡世の白無垢鉄火
   ほんにしがねえ渡り鳥
   木曽の生まれョ 仲乗り新三
   いつか水棹(みざお)
   いつか水棹を長脇差(ながどす)
    木曽のナー仲乗りさん
    木曽の御岳さんはナンジャラホイ
橋幸夫・木曾ぶし三度笠・映画s36-3    夏でも寒いヨイヨイヨイ
    ハアヨイヨイヨイノヨイヨイヨイ
 二 木曽の桟(かけはし)太田の渡津(わたし)
   越えて鵜沼(うぬま)が発(た)ち憎い
   娘ごころがしん底不愍(ふびん)
   などと手前(てめ)えも
   などと手前えも惚れたくせ
    袷ナー仲乗りさん
    袷やりたやナンジャラホイ
    足袋を添えてヨイヨイヨイ
    ハアヨイヨイヨイノヨイヨイヨイ
 三 盆がまた来た 今年の盆の
   男涙にゃ血がまじる
   にンまり笑った 笑いがすっと
   引いてかなしい
   引いてかなしい山の月

 曲のヒットを受けて映画化もされたので、レコードジャケット画像の下は、昭和36年3月1日公開のその映画のプレスシート。仲乗り新三役は小林勝彦。「小林・橋の名コンビ」とあるのは、橋の映画初出演「潮来笠」(s36-1)でも、小林勝彦が潮来の伊太郎を演じ橋が客演していたから。
 仲乗り新三(中乗り新三)は股旅ものの人気ヒーローの一人。木曽の生まれで以前は筏師だったから「仲乗り」新三。
 「仲乗り(中乗り)」は筏の中央に乗って筏を操る人。木曽川の急流を下る危険な仕事。またそれゆえに男の腕と度胸の見せ所。木材が経済を支える木曽の花形職業です。だから木曽節も木曽名物の真っ先に、御岳山より先に、歌います。加えて新三のように若くて男っぷりがよいとなれば女たちも放っておかない。江戸でいえば舟木一夫が歌った「火消し若衆」(s40-1)みたいなもの。(こちらのページには、「男ナーなかのりさん 男伊達なら」という歌詞も見えます。すなわち任侠、侠客に通じる「男伊達」なのです。)
 さらに元をただせば、新三は木曽の金持ちの息子。家が没落して筏乗りになり、とうとうやくざにまで落ちぶれた、というのがたいていの映画や芝居での基本設定。
三波春夫・天竜鴉 ちなみに、橋が「木曽ぶし三度笠」を歌うちょっと前には三波春夫「天竜鴉/木曽節」(s35-8)を歌っていました。木曽川ならぬ天竜川ですが、B面は「木曽節」。2か月後には映画も封切られ、タイトルは「中乗り新三 天竜鴉」。三波春夫自身が新三役で主演しています。
 さらにちなみに、この2年前には鶴田浩二の中乗り新三で「天竜しぶき笠」(s33-4)も作られていて、三波の名曲「天竜しぶき笠」(s33-3)はその主題歌なのでした。
 ことほどさように、中乗り新三は人気ヒーローだったのです。
 
 そうした数ある芝居、映画、歌謡曲の後を追って、橋のこの「木曽ぶし三度笠」が出現し、これまた大ヒットしたのでした。
 一番と二番の後に木曽節を使った構成は2カ月前の「おけさ唄えば」(s35-10)の構成と同じ。
 一番は新三の経歴や人物像を簡潔に提示して、佐伯孝夫の名人芸。「白無垢鉄火」とは、表面は純白・純潔の白無垢を着ていても、一肌脱げばやくざな「鉄火肌」、という意味。二枚目の優男(やさおとこ)ふうの新三が実は喧嘩博打を事とする渡世人、という設定の凝縮表現。木曽生まれの新三は筏乗りの「水棹」をやくざの「長脇差」に持ち変えたのです。
 二番は股旅ものにふさわしく土地の名を並べます。太田も鵜沼も木曽路(木曽街道)の宿場。鵜沼で好きな女ができたらしい。ちらりと恋をあしらうところもうまいもの。どうせ旅から旅への渡世人、こんな男に惚れてくれた「娘ごころ」を「不愍」に(かわいそうに)思いながら出立します。「などと手前えも惚れたくせ」。漱石「三四郎」の与次郎のセリフを使えば、「かわいそうだた惚れたってことよ」。
 「木曽のかけはし」は断崖に差し込んだ多数の丸太の上に板を渡しただけの桟道。難所中の難所です。旅人も命がけ。
 股旅ものの舞台は江戸末期。それより百数十年昔、芭蕉も『更級紀行』で木曽路を歩きました。
  (かけはし)や命をからむ蔦かづら  芭蕉
 「いのちをからむ」が凄まじい。芭蕉ならでは。
 三番は物語のクライマックス。「盆」なので、新三は久々に故郷に帰ったのかもしれません。新三の涙に「血がまじる」。悲痛なかなしみの涙です。愛する者の悲劇があったか。
 静かに祖先を供養すべき盆にこの「血」は不吉。物語のクライマックスとして喧嘩出入りがあって、実際に血が流れた(新三が人を斬った)のかもしれません。盆は祭礼を仕切る利権をめぐってやくざ同士の喧嘩沙汰の起こりやすいときでもあります。
 この血なまぐささが末尾の、「にんまり」笑ったその笑いが「すっと引いて」山の月を見上げる、というラストシーンにまでかぶさります。この「にんまり」がすごい。「すっと引いて」がまたすごい。主人公の表情だけなのに、やくざというもののすさんだ虚無感まで表現して、実に見事というしかありません。それをまた、橋はあっさり歌うのです。
 中乗り新三の物語は、上述の基本設定を踏まえて作品ごとに自由に変形されます。佐伯は先行する芝居や映画を参考にしたのかもしれません。あるいは自分でオリジナルの物語を構想したのかもしれません。いずれにせよ佐伯は、その物語全体を語るのでなく、ラストシーンの映像だけで背後の物語を暗示しているのです。

 ところで、中乗り新三に誰かモデルはあったのかどうか、創作なら原作者は誰なのか、よくわかりません。
 断定はできないものの、私の知る最も早い中乗り新三の物語は、子母澤寛(しもざわ・かん)が昭和6年に「オール読物」に発表した短編「さんど笠」
 渡世の義理で斬ってしまった男の女房子供を助けるというあたりは「沓掛時次郎」のようでもあり、不孝を詫びに母親に会いに行くが母親は戸を開けてくれないというあたりは「瞼の母」のようでもあります。大衆小説はいくつかのパターンの組み合わせで量産されるもの。(ただし、長谷川伸の「沓掛時次郎」よりも同じく「瞼の母」よりも子母澤寛の「さんど笠」の方が早いようです。なお、「沓掛時次郎」(s36-7)も「瞼の母」(s38-5)も橋は歌いました。)
 この短編で、新三は、元は落合宿の大金持ちの息子、ところが父親が博打に凝って財産から家屋敷まで失ってしまうし、さんざんのやくざ者だった息子・新三は「中乗りさん」にまで落ちぶれたあげく出奔してやくざになって久々に帰って来た、という設定。つまり、中乗り新三の基本設定は出来上がっています。
 何しろ良家の息子(美男でもあったのでしょう)が筏乗りにまで落ちぶれたという地域の大スキャンダル、その新三のことは唄にもなって唄われている、と言って女郎が(素性を隠した新三本人に)唄って聞かせる唄の文句が、
 〽木曽のナアなかのりさん
  可愛い新三さんはナンジャラホイ
  何処へ行った、ヨイヨイヨイ。
 〽可愛いナアなかのりさん
  一夜添いたやナンジャラホイ
  一夜でもよヨイヨイヨイ
 子母澤寛はまるで、中乗り新三は昔から木曽節で唄われていた実在の人物なのだ、といいたげです。しかしたぶん、この唄の文句自体が、物語に真実味を与えるための、子母澤の創作なのだろうと思います。ただし、即興的に唄われることの多い民謡の文句にはいろんなヴァリエーションがあるので断定はできません。案外土地の伝説的なやくざとして「中乗り新三」の名が語り継がれていた(唄われてもいた)、という可能性がないわけではありません。
 しかし、昭和初年は大衆小説でも芝居でも映画でも股旅もの全盛期長谷川伸が「沓掛時次郎」や「瞼の母」など多数の股旅ものを創作したのもこの頃。股旅ヒーローがいっぱい出現しました。股旅ものはアウトローが主人公。流行の背景には、多数の失業者があふれ、希望の見えない暗い世相がありました。
 中乗り新三は、そうしたブームの中で、子母澤寛が、木曽節の唄い出し「木曽の中乗りさん」から着想して、創作した人物だった可能性が高いと思います。
 (この件、次回橋幸夫「磯ぶし源太」の項でも補説しました。)

535 三沢あけみ&マヒナスターズ「島のブルース」(&田端義夫「島育ち」) 若い民謡(番外) 南島ブーム

三沢あけみ&舟木一夫&梓みちよs39-1-19週刊明星 「若い民謡」番外編として三沢あけみの「島のブルース」を。
 舟木一夫「高校三年生」とともに昭和38年のレコード大賞新人賞を受賞したのはご承知の通り。(右画像は「週刊明星」(s39-1-19)から昭和38年レコード大賞受賞式。新人賞の舟木と三沢、大賞の梓みちよ。)
 こちらでオリジナル音源を聴きながらお読みください。mameta16さんに感謝しつつ無断リンクします。ほかにも昭和38年の紅白歌合戦での映像はこちらで。
 (レコードジャケット画像は民俗衣裳(ステージ衣裳)を使ったソノシート・ブックの方を。その下は「明星」38年8月号から。)

三沢あけみ&和田弘とマヒナスターズ「島のブルース」
三沢あけみ・ソノシート・島のブルース  昭和38年4月発売
  作詞:吉川静夫 作曲・編曲:渡久地政信
 一 奄美なちかしや 蘇鉄(ソテツ)のかげで
   泣けばゆれます サネン花ョ
   ながい黒髪 島むすめ 島むすめョ
 二 愛人(カナ)は今頃 起きてか寝てか
   淋しがらせる 浜千鳥ョ
   南風(ハエ)のふく夜は ねむられぬ
   ねむられぬョ
三沢あけみs38-8明星 三 夏のおどりは 七日と七夜
   みんな知り候(シヨ)る 月の夜ョ
   名瀬の港の 船がでる 船がでるョ
 四 着せてみせたい 大島つむぎ
   わすれられない あのひとにョ
   なさけひとすじ 島むすめ 島むすめョ

 三沢あけみは宮園純子らと同じ第7期東映ニューフェース。昭和36,7年ごろ、時代劇の娘役で多数出演しましたが、一場面程度の端役が多く、三沢あけみ・黄金孔雀城・七人の騎士「新黄金孔雀城 七人の騎士」(s36-8)での勇士たちと行を共にする村娘・小百合役あたりがいちばんの「大役」だったのではないでしょうか。(「黄金孔雀城」主題歌「モッチャベン」の項の最下部に掲げたポスターの下三人の中央が三沢あけみです。また、右画像はそのカラースチール。左から里見浩太郎、三原有美子、沢村訥訟、三沢あけみ。)
 その三沢が歌手に転進してのデビュー曲はマヒナスターズとのデュエットでお座敷ソング風の「ふられ上手にほれ上手」(s38-2)。まだ満十七歳だったはずながらお色気たっぷり。マヒナスターズ松尾和子「グッド・ナイト」(s34-7)、吉永小百合「寒い朝」(s37-4)などにつづいて女性歌手のデビュー支援です。

 つづく二枚目シングルが同じくマヒナスターズとのデュエットでこの「島のブルーズ」。
 既存の民謡を用いているわけでもいわゆる「新民謡」として作られたわけでもなく、あくまで「歌謡曲」。しかも「ブルース」。(歌謡曲タイトルでの「ブルース」はたんに愁いを帯びた歌、という程度の意味でアバウトに使われますが、中でもいちばんアバウトな使い方がこの「島のブルース」でしょう。)とはいえ、いかにも南島民謡風の仕上がり。前奏冒頭の指笛がことに印象的です。(この指笛は作曲した渡久地政信自身の演奏だとか。沖縄生まれの渡久地は少年時を奄美大島で過ごしたのだそうです。)
 昭和38年、いまだ沖縄復帰前、奄美諸島は「日本」の最南端でした。
 (奄美群島も敗戦後はアメリカの施政権下に置かれ、「本土」への復帰は昭和28年12月。小笠原諸島は昭和43年6月、沖縄は昭和47年5月に復帰。)
 一番は三沢とマヒナ、二番は三沢、三番はマヒナ、四番は三沢とマヒナ。
 奄美大島の「島むすめ」の悲しい恋。「奄美なちかしや」という回想の視点、または奄美全景を遠望するような引きの視点から始まってヒロイン「島むすめ」にズームインし、二番以後はその「島むすめ」の(現在の)心に寄り添って唄います。
三沢あけみs39-4近代映画より 三番の「名瀬の港の船がでる」が冒頭の「奄美なちかしや」と響き合うので、これも島外の男との悲恋なのかもしれません。もしそうなら、吉永小百合「小百合おけさ」(s40-6)で書いたとおり、島を舞台にした歌謡曲の定番の設定、一番も島外の男の回想と読めそうです。
 歌詞もまた、「蘇鉄」「サネン花」といった南島風物を詠み込み、「なちかし」「愛人(かな)」「南風(はえ)」といった南島方言が南国ムードをかもします。歌う三沢あけみも南島風民俗衣裳で踊りもまじえ、その演出も大成功。(右画像は「近代映画」39年4月号から。この衣裳と踊り、奄美風なのか沖縄風なのか私には判断できませんが、奄美諸島は古くから琉球文化圏でした。)同じ「日本」のはずなのに新鮮なエキゾチシズム(異国情緒)が魅惑します。

 実はこの時期、歌謡界には時ならぬ「南島ブーム」ともいうべき現象がありました。
 火をつけたのは昭和37年の田端義夫の「島育ち」の大ヒット。長く低迷していた「バタヤン」こと田端義夫の予期せぬカムバック。
 [wikipedia田端義夫]はこう記しています。
 〈昭和30年ごろからはヒットが出ずに低迷の時期が続いた。昭和37年(1962年)、ポリドールから波平暁男の歌で発売されたものの奄美大島のみで歌い続けられていた「島育ち」(有川邦彦作詞・三界稔作曲)を、会社の反対を押し切ってレコーディング。田端の地道な活動が功を奏し、「島育ち」は40万枚を超える大ヒット。カムバックを果たし、昭和38年(1963年)にはNHK紅白歌合戦に初出場した。〉
 (下のレコードジャケットは、曲のヒットを受けて松竹映画「島育ち」(s38-6 岩下志麻主演)が封切られた後、その映画画像を使用したもの。岩下の背後は寺島達夫。)

田端義夫「島育ち」
田端義夫・島育ち&映画  昭和37年発売
  作詞:有川邦彦 作曲:三界稔
 一 赤い蘇鉄(そてつ)の 実も熟(う)れる頃
   加那(かな)も年頃 加那も年頃
   大島そだち
 二 黒潮(くるしゅ)黒髪(くるかみ)
   女身愛(うなぐみぬかな)しゃ
   想い真胸(まむね)に 想い真胸に
   織(お)る島紬
 三 朝は北風(にしかぜ) 夜は南風(みなみかぜ)
   沖の立(たち)神ゃ 沖の立神ゃ
   また片瀬波
 四 夜業(よなべ)おさおさ 織る筬(おさ)の音
   せめて通わそ せめて通わそ
   この胸添えて   

 奄美大島の「島むすめ」のせつない恋心を南島の風物をあしらい方言を多用して歌った曲。まさしく「島のブルース」の歌詞の先蹤です。レコードジャケット裏の歌詞カードには、以下二点の注釈も付いていました。
  *奄美大島では北風のことを「にしかぜ」と言います。   
  *二番は奄美大島の方言のまま歌唱されています。

 さて、「島育ち」が火をつけた歌謡界の「南島ブーム」。思いつくままに列挙しておきます。
 「南島」イメージの歌手といえば仲宗根美樹ですが(両親が沖縄出身)、昭和36年5月にデビューした仲宗根美樹が「阿里屋ユンタ/ちんさぐの花」(s37-10)を出したのはデビューから1年半後、昭和37年10月のことでした。昭和38年になるとたてつづけに、「南島」を歌い始め、「島育ち/ツーラッタ節」(s38-2)、「奄美恋しや/島の乙女」(s38-6)、「永良部百合の花/白浜節」(s38-7)、「エラブ百合の花/谷茶前節」(s38-9)、とつづきます。(奄美諸島の(ほぼ)いちばん南に位置する沖永良部島こそは当時の「日本」の(ほぼ)最南端。)仲宗根美樹の「ルーツ=南島回帰」のきっかけは明らかに田端「島育ち」だったはずです。
 また、青春歌謡系の「林檎の花咲く町」(s38-2)をヒットさせた高石かつ枝は、すぐに「沖縄よいとこ」(s38-3 藤原良とデュエット)を出し、「永良部百合の花/島はたのしや」(s38-8)も、さらにクラウンに移籍しても「南国エレジー/えらぶ小唄」(s40-2)。
 そういう「南島」ブームの中で、三沢あけみ(&マヒナスターズ)の「島のブルース」が登場し、さらにブームを過熱させる大ヒットとなったのでした。

 なお、「島育ち」をヒットさせたのは田端義夫ですが、昭和37年の紅白歌合戦で「島育ち」を歌ったのは朝丘雪路でした。(田端でなく朝丘が歌ったのは不自然ですが、田端が出場しなかったのは、田端には以前から暴力団との黒い交際の噂があってNHKに忌避されたせいではないか、とこれは私の証拠なき憶測です。)
 朝丘は38年の紅白でも「永良部百合の花」を歌います。田端義夫は朝丘に一年遅れてその38年の紅白(これが初出場)で「島育ち」を唄うことになります。その結果、昭和38年大晦日の紅白歌合戦では、仲宗根美樹が「奄美恋しや」を、朝丘雪路が「永良部百合の花」を、田端義夫が「島育ち」を、三沢あけみが「島のブルース」を、なんと四曲もの南島(奄美)歌謡が歌われたのでした。)

534 小宮恵子「チャグチャグ馬っこ」 若い民謡(7) チャグチャグ馬コ

 この「若い民謡」シリーズ、ややマイナーな曲がつづきますが、「演歌調」や「民謡調」「日本調」の歌手の場合を除いて、民謡モチーフの曲はメイン扱いにならないのが青春歌謡の時代(後期)の実状なのです。
 小宮恵子は金田星雄とのデュエット「幸せを摑んじゃおう」(s37-8)「二人で駈けよう」(s38-6)などで青春歌謡の時代のパイオニアだった女性歌手でしたが、歌唱法は日本調。その小宮恵子の「チャグチャグ馬っこ」。これは民謡モチーフというより祭りをモチーフにした歌。こちらで聴きながらお読みください。
 (レコードジャケット画像がないので、この歌の半年ほど前、「家の光」昭和40年8月号の田園ソング「逢いたいなア」のページ画像を。その下は現代の祭りの画像。)

小宮恵子「チャグチャグ馬っこ」
小宮恵子s408「家の光」より  昭和41年3月発売
  作詞:横井弘 作曲・編曲:江口浩司
 一 南部エー
   南部自慢の 飾りつけ
   チャグチャグ馬っこのお通りだ
   ハイお通りだ
   手綱とる人 癪(しゃく)な人
   娘ごころを 知りながら
   乙に澄まして 風を切る
   ハイ チャグチャグ
 二 恋のエー
   恋のコの字も 知らぬ子に
   チャグチャグ馬っこが 火をつけた
   ハイ火をつけた
小宮恵子・チャグチャグ馬っこのために   月のやしろの しのび逢い
   逢えば思いが 燃えるのに
   口に出せない 紺がすり
   ハイ チャグチャグ
 三 喧嘩エー
   喧嘩したとて 好きは好き
   チャグチャグ馬っこが いなないた
   ハイいなないた
   白いうちかけ いそいそと
   幼なじみの 街道を
   揺れて行く日を 夢にみる
   ハイ チャグチャグ

 チャグチャグ馬っこは岩手県の民俗行事。華やかな装束で飾られた馬たちが滝沢市の鬼越蒼前神社から盛岡市の盛岡八幡宮までの約15キロをパレードします。
 南部地域(盛岡を居城とした南部氏が支配した地域で青森県下北半島までを含む)は古来優良な南部駒の産地として有名。馬小屋を別棟にするのでなく、馬と人とが家族のように一つ家に暮らすのが「南部曲り家」。そういう暮しの中で、若い娘が愛馬と「結婚」したという「遠野物語」第69話の人馬婚姻譚も生まれたのでしょう。
 元々は農耕馬として荷馬として、よく働いてくれた馬への感謝の行事です。馬が歩くと装具の多数の鈴が鳴る。その鈴の響きが「チャグチャグ」。(チャグチャグ馬っこについてはこちらの盛岡市のホームページをご参照ください。)
 三橋美智也を擁するキングレコード。民謡調はお手の物。民謡調歌謡としては実に良質な曲で、小宮恵子の愛らしい歌唱の魅力を十分発揮しています。
 若い女性の澄んだ声の美しさを表現する「鈴を転がすような」という慣用句がありますが、小宮恵子の歌声はまさしく五線譜の上をころころと鈴が転がるよう。その意味でも「チャグチャグ馬っこ」は小宮恵子にぴったりの歌。

小宮恵子・チャグチャグ馬この装い 一番はチャグチャグ馬っこの行列風景。その手綱をとる「引き手」の男たちの中に好きな若者がいる。一目惚れかもしれません。引き手の衣装は馬や「乗り手」に比べれば地味な労働着ですが、それでも若者たちの晴れ舞台。
 二番に「紺がすり」とあります。上掲画像のとおり、「紺がすり」は「引き手」の娘たちの衣装。馬の引き手として一緒に参加したのかもしれません。二人で同じ馬を引いたのかもしれません。若者の横顔を一心に見つめる娘。若者の方はただ前を向いて「乙に澄まして」歩いているのでしょう。何を歌っても恋愛で味付けするのは歌謡曲の基本です。
 祭りが縁で知り合った二人、二番ではとうとう「月のやしろのしのび逢い」にまで発展します。チャグチャグ馬っこは本来、馬の無病息災を祈って、愛馬をつれて馬の守り神である滝沢市(昔は滝沢村)の鬼越蒼前神社(おにこしそうぜんじんじゃ)に参拝するのが始まり。昭和5年に秩父宮が来県した時、蒼前神社参拝後に列を成して盛岡八幡宮の神前馬場で馬ぞろいを見せたのが今日のパレードの原型になったのだそうです。さて、小宮恵子のヒロイン(語り手)がしのび逢う「やしろ」はひなびた蒼前神社か由緒格式ある盛岡八幡宮か。この歌のひなびた風情からして、ぜひとも蒼前神社であるべきでしょう。
 (蒼前様(そうぜんさま)は馬の守り神。滝沢市の鬼越蒼前神社は、死んだ馬を村人たちが手厚く葬って祠を立てたのが起源だと言われています。)
 「恋のコの字も知らぬ子にチャグチャグ馬っこが火をつけた」。旧仮名で書けば「恋」は「こひ」。「こひ」のコの字も知らなかった娘は「こひ」の「ひ=火」の字を知ってしまったわけです。「逢えば思いが燃える」のも当然。「思い」も旧仮名では「おもひ」。「こひ」と同じく「おもひ」も「ひ」を含む。その「ひ=火」が燃えるのです。
 「こひ」や「おもひ」が「ひ=火」を含むというのは私の思いつきではありません。平安朝の和歌以来の古典の常識です。例証として、舟木一夫「くちなしのバラード」(s43-1)で引いた「古今集」詠人知らずの歌をもう一度。
 耳成の山のくちなし得てしがな思ひの色の下染めにせむ
 「耳成山」は万葉以来有名な奈良三山の一つ。耳がない「耳成(=耳無し)山」で口がない「くちなし(口無し)」の実を手に入れたい、というのが第一の言葉遊び。くちなしの果実から作った染料は工程の最後には赤黄色。つまり燃える「おもひ」の「ひ(火=緋)」の色。「思ひ」が「ひ=火」を含むからこそ成立する第二の言葉遊びです。
 「思ひ」は燃えても「口に出せない紺がすり」。彼女もまた、恋の「思ひ」を容易に「口に出せない(告白できない)」恋のくちなし(口無し)の一人です。口に出せないからこそ「こひ」の「おもひ」はいっそう切なく燃え上がるもの。
 さて、二人の仲は順調に進んだようで、三番では「白いうちかけ」を着て馬の背に揺られながら嫁入りする日を夢みます。むかしながらの田舎の嫁入り風景。島倉千代子「りんどう峠」(s30-9 西條八十作詞)も「♪ 姉サは馬コでお嫁に行った」と歌っていました。「りんどう峠」の馬の鈴は「りんどう」ゆえに「りんりん」鳴っていましたが、こちらチャグチャグ馬っこが縁で結ばれた彼女の嫁入りでは馬の鈴はやっぱり「チャグチャグ」鳴るのでしょう。

 ところで、岩手県には「チャグチャグ馬コ」という民謡があって、youtubeのあちこちで聴けます。歌詞もちゃんと七七七五の民謡調(元々は都々逸などの俗謡)。
 しかしこの「チャグチャグ馬コ」、昔からの歌ではなく1970年(昭和45年)の岩手国体のために作られた新民謡なのだそうです。なんと小宮恵子のこの歌の四年後ではありませんか。そして、その歌詞には「〽去年祭りに見初めて初めて今年ゃ背中の子と踊る」、また「〽おらが馬コは三国一よ嫁コしゃんと引け人が見る」。なんと小宮の歌と同じく、祭りで見染めた恋愛と結婚のモチーフが(男の立場から)歌われているではありませんか。
 その四年前に発売された小宮恵子の「チャグチャグ馬っこ」。全国的にヒットしたとはいえませんが、岩手県ではどうだったのでしょう。今はもう岩手県でも忘れられてしまったのでしょうか。ちょっと気にかかります。

 なお、宮沢賢治に「ちやんがちやがうまこ」という短歌連作四首があります。大正六年(1917)、賢治21歳、盛岡高等農林学校三年生、弟といっしょに「下の橋」付近に下宿していてこの祭りを見たようです。方言を使った方言短歌です。四首のうちの冒頭一首だけを。四首読みたい方はこちらへ。
  夜明げにはまだ間あるのに下のはしちやんがちやがうまこ見さ出はたひと
  (夜明けにはまだ間があって暗いのに、もう下の橋にちゃんがちゃが馬こを見にお出になっている人よ。)
 賢治のころにはまだ「チャグチャグ馬コ」という表記法は固定していなかったようです。(現代でも、地元の人は「チャグチャグ」を「ちゃぐちゃぐ」と発音されるようです。)

533 舟木一夫「ふたつちがい」 若い民謡(6) 郡上節(郡上踊り)

 舟木一夫にも、民謡を現代風にアレンジして歌った「舟木一夫と若い民謡(s40-10)と題するLPが舟木一夫・コロシート・歌謡と民謡裏あります。(後に同じタイトルの4曲入りコンパクト版「舟木一夫と若い民謡」(s42-6)も。)また、「哀愁の夜」などのヒット曲と民謡の両方を収めたソノシート集(コロムビアでは「コロ・シート」と呼びました)「歌謡と民謡」(s41-3頃)も出しています(右画像はそのジャケット裏面)。
 もちろん舟木には青山和子と歌った「織姫音頭」(s39-6)などの新作民謡もあり、「木挽哀歌」(s40-1)や「ひぐれ山唄」(s41-5)のように民謡の哀調を活かした名曲もありました。
 「御三家」でもともと民謡調に近かったのは股旅歌謡時代の初期の橋幸夫でしたが、青春歌謡も後期になると橋がリズム歌謡などで「現代・都会風」中心にシフトしていく中で、むしろ歌謡曲の正統(伝統)を踏む「和風」の舟木が「若い民謡」を中心的に担って行ったわけです。
 ここでは既存の民謡をモチーフにした舟木の「ふたつちがい」を紹介します。
 こちらで聴きながらお読みください。
 (レコードジャケット画像は以前使ったので、上は昭和41年10月の大阪新歌舞伎座公演パンフレット。これが初の座長公演。下はその大阪新歌舞伎座公演を特集した「別冊近代映画」昭和41年11月臨時増刊号の裏表紙。)

舟木一夫「ふたつちがい」
舟木一夫s41-10大阪新歌舞伎座初出演  昭和41年11月発売
  作詞:万里村ゆき子 作曲・編曲:船村徹
 一 ふたつちがいは ふるさとのひと
   川の流れに おもいをこめて
   そっと別れを 告げた夜
    〽郡上の八幡 出てゆくときは
     雨も降らぬに 袖しぼる
 二 祭りばやしに うかれた夜に
   月と一緒に 踊ってたのは
   君のたもとの 萩の花
    〽踊ろ踊ろよ 祖師野の宮で
     四本柱を 中にして
舟木一夫s41-11近代映画臨時増刊裏 三 ふたつちがいは ふるさとのひと
   待てばまたくる 二人の祭り
   やぐら囲んで 手拍子とれば
    〽唄もつづくが 踊りもつづく
     月の明るい 夜もつづく

 シングル盤ではなく、4曲入りLP「舟木一夫の新吾十番勝負」に収録されたもの。(この4曲入り、「新吾十番勝負」「雪国へ」そしてこの「ふたつちがい」と秀作ぞろいでした。)
 二歳違いの恋人と別れてふるさとを出た夜の想い出。処は岐阜県の郡上八幡。時は郡上踊りににぎわう夜。
 郡上八幡はむかしは郡上郡八幡町。いまは2004年に郡上郡の7町村が合併して成立した郡上市の八幡町。むかしもいまも「郡上八幡」で通ります。「平成の大合併」による地名抹消・歴史意識抹消への批判は以前「織姫音頭」(s39-6)の項で書きましたが、ここはうまく由緒ある地名を残しました。
 郡上踊りは処の名物。毎年7月中旬から9月上旬まで、盆の期間を中心にしてなんと32日間踊りつづけるという有名な祭り。江戸時代に藩主が奨励したのが始まりで400年も続くといいます。ことに盆の4日間は夜明けまで徹夜で踊ります。
 各連末尾二行は郡上踊り(郡上節)の「かわさき」の歌詞をほぼそのまま使いました。「かわさき」の多数の歌詞はこちらに載っています。
 一番の「郡上の八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼる」は「かわさき」の一番知られた歌詞そのまま。舟木の歌でも主人公(語り手)自身が恋人に別れを告げて故郷を出たのだと思われます。
 「袖しぼる」はむろん、しぼらなければならないほどに涙で袖がぐっしょり濡れた、という誇張表現。平安朝の和歌などで多用されました。「雨も降らぬに」と(無用の)説明を置くところが俗謡の歌詞というべきでしょう。

 ちょっと逸脱して有名な一首を。
 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
 作者清原元輔は清少納言の父親。「後拾遺集」に収められ、百人一首にも採られて有名です。 
 歌のおよその意味は、「約束しましたね。お互い袖をしぼるほどに泣きながら。あの「末の松山」を波が越えることは絶対にないというが、それと同じく二人の愛も絶対に代わらないと。」(にもかかわらずあなたは心変わりしてしまった。)
 歌枕として知られる「末の松山」は宮城県多賀城市の海岸からおよそ2キロの場所にある宝国寺というお寺の裏山。
 元輔の歌は「古今集」東歌の「君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越えなむ」(あなたという恋人がいるのに浮気心を私がもったらば、海の波も絶対に越えられないというあの末の松山を波が越えることでしょう。)を踏まえた本歌取り。
 「君をおきて」は「東歌」なので宮城県あたりの人が詠んだ歌かもしれません。そして、実はこの歌の背後に、平安朝初期869年に三陸を襲った貞観大地震の際に大津波が押し寄せたが、さすがに末の松山を波が越えることはなかった、というなまなましい体験(伝承)があるのではないか、という興味深い学術論文の紹介は、こちらをご参照ください。東日本大震災の大津波でも、宝国寺本殿の石段まで津波が来たが裏の末の松山には至らなかった、とのこと。

 さて、二番は踊った夜の想い出。「君のたもとの萩の花」の模様も「月と一緒に」踊っていた、とはうまい。新暦で月遅れの盆、旧暦でないので満月とは限りませんが「月に萩」の風情です。
 この「踊ろ踊ろよ……」も同じく「かわさき」の文句「踊らまいかよ(踊らぬはずがあろうか)祖師野の宮で四本柱を中にして」の冒頭七音を現代歌謡らしく口語に変えただけ。
 ところで、舟木は「祖師野の宮」を「そしやのみや」と歌っています。しかしこれはまちがい。「祖師野」は「そしの」。こちらに「祖師野(そしの)八幡宮」の紹介があります。
 三番の「唄もつづくが踊りもつづく月の明るい夜もつづく」も「かわさき」の文句そのまま。
 同じく故郷の祭り(踊り)に重ねて恋人を想うにしても、橋幸夫「おけさ唄えば」(s35-10)のように「とんで帰る」とも言わず、三田明「花笠娘」(s41-1)のように「嫁に来い」とも歌いません。しかし、三番の歌詞はちっとも暗くない。むしろ明るい。なにしろ「待てばまたくる二人の祭り」。きっと祭りの夜に再会する約束なのでしょう。

522 守屋浩「おとぼけ美代ちゃん」 「みよちゃん」の歌(2)

 この際、もう一曲「ミヨチャン」の歌を。
 守屋浩「おとぼけ美代ちゃん」。こちらで聴きながらお読みください。こんな珍しい曲をupしてくれた澤田正文さんに深く感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケット画像の下は、「おとぼけ美代ちゃん」も収録した守屋のソノシートブック「ひろしの歌日記」の裏表紙。)

守屋浩「おとぼけ美代ちゃん」
  昭和39年4月発売
  作詞:佐竹まさを 作曲:米山正夫 編曲:辰海隆
守屋浩・おとぼけ美代ちゃん 一 かすりの袖に コスモスが
   ほのかに匂う ひるさがり
   幼なじみの はずなのに
   会ってもつんつん 知らぬ顔
   おとぼけ美代ちゃん 気にかかる
 二 瞼にのこる おかっぱの
   おもかげ遠い 筒井筒
   いつも遊んだ 仲よしの
   思い出なんかは すてたのか
守屋浩・クラウン・ひろしの歌日記裏   おとぼけ美代ちゃん 背を向けた
 三 鼻緒が切れて 泣きじゃくる
   小さな肩を 抱いた日よ
   すぎた十九の 年月(としつき)
   あの日のことさえ 消えたのか
   おとぼけ美代ちゃん 胸のうち
 
 守屋浩クラウンレコード移籍後3枚目のレコード。
 これは歌詞一般公募による田園ソング。「家の光」(s39-4)によれば、作詞したのは「神奈川県の佐竹まさをさん」。
 幼なじみで仲よしだった「美代ちゃん」。それなのに今では「会ってもつんつん知らぬ顔」。昔の思い出なんかみんな「記録にも記憶にもございません」といった調子。不都合な事実を隠す官僚や政治家でもあるまいに、徹底した「おとぼけ」ぶり。だから「おとぼけ美代ちゃん」。
 記憶の有無をめぐる議論は水掛け論になりがちなもの。多数の証言(証人喚問)や文書記録を調査すればたいていは明らかになりますが、それが出来ない場合、第三者は全体の状況を踏まえて「常識=良識」で判断しましょう。片や忘れたい理由があり、片や忘れられない理由があるはず。その理由を踏まえて判断すればよいのです。加計学園問題と同じです。第三者(国民)の「常識=良識」の直観力や推理力を見くびってはいけません。権力をはばかってマスコミが口ごもっていることだって、この「常識=良識」は見抜いています。
 この歌の場合なら、語り手は今でも「美代ちゃん」が好き、「美代ちゃん」はもう語り手に関心がない、むしろ他に好きな人が出来て、何かというと子供のころの思い出を持ち出す語り手の執着はちょっと迷惑、といったところでしょう。それでも語り手は未練たらたら。そこにほほえましいユーモアがにじみます。
 「すぎた十九の年月に」記憶が「消えた」というので、論理的に考えれば、仲よしだった時期から十九年が過ぎた、ということになります。すると現在の年齢は少なく見積もっても二十四五歳? 守屋浩(昭和13年生れ、この時25歳)にはふさわしくとも、歌謡曲としてはちょっと年齢が高すぎる感じ。ここは青春歌謡にふさわしく、現在の年齢が十九歳なのだと考えておきましょう。
 幼いころの思い出の中の「美代ちゃん」は、「かすりの袖」、つまり着物姿で「おかっぱ」頭で、「鼻緒」つまり下駄履き。昭和39年の19歳なら、彼らは敗戦の年、昭和20年の生まれ。小学校入学が昭和26年ごろ。まだ占領下日本の田園風景の中の子供たちなのでした。
 実は「家の光」(s39-4)に掲載された歌詞では、歌い出しは「かすりの袖に菜の花が」でした。「菜の花」ならまぎれもなく田園風景。発表月(レコード発売月)の四月にもふさわしい。
 それがレコードの歌詞では「コスモス」に変更されたのでした。変更理由は不明ながら、「コスモス」では季節が秋になってしまう上に、何より田園らしさが薄れます。深読みかもしれませんが、菜の花→コスモス、すなわち田園→都会、オリンピック直前、都会志向へ舵を切りつつあった時代の傾向を感じます。
 (他にも、「家の光」では一番四行目は「知らん顔」。レコード歌詞ではなぜか「知らぬ顔」。しかし実際の守屋の歌唱は「知らん顔」のようです。)

 この詞で案外大事なのが二番の「おかっぱ」と「筒井筒」。
 「筒井筒」は井戸(円筒状の井戸)のそばで仲よく遊んだ幼なじみの少年少女の恋を描いた「伊勢物語」の話を踏まえた表現。樋口一葉「たけくらべ」もこの逸話を踏まえたタイトル。舟木一夫「初恋」の項で書いたのですが、あらためて記します。
 幼なじみの二人、年頃になって恥じらい合って会わなくなって「年月」がたちました。
 男が思い切って歌を詠んで送ります。
  筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹(いも)見ざるまに
 あなたも覚えているでしょう、子どものころ、筒井(丸い筒の井戸)の井筒と比べて遊んだ僕の背丈は井筒よりずっと高くなりましたよ。(つまり大人になりました。結婚しましょう。)
 女の承諾の歌。
  比べ来(こ)し振り分け髪も肩すぎぬ君ならずして誰(たれ)か上ぐべき
 あなたも覚えているでしょう、いつもあなたと髪の長さを比べていた私の振り分け髪(左右に分けて肩のあたりで切りそろえた髪型)も肩を過ぎて長くなりました。もう髪上げ(女子の成人儀式)をする時期。あなたのために髪上げします。(つまりプロポーズをお受けします。)
 「伊勢物語」の男は幼いころの思い出に訴えかけてプロポーズし、成功したのです。
 「おかっぱ」は現代版の「振り分け髪」みたいなもの。そこで「伊勢物語」を思い出したこの歌の語り手は、「おかっぱ」につづけて「筒井筒」と歌ったのです。
 実は彼も幼なじみの思い出に訴えかけて「美代ちゃん」の気を引こうと、「伊勢物語」の男と同じことをしているのに、「美代ちゃん」はとぼけて幼い日々の記憶など忘れたふりをしている、というわけです。
 こんなユーモラスな歌詞にも、さりげなく、古典の教養がにじみ出る。今から53年前、日本語の古典と伝統が大衆の中に生きていた時代の歌でした。

521 平尾昌章「ミヨチャン」 追悼・平尾昌晃 高校生バンザイ! 恋愛篇(番外2) 「みよちゃん」の歌(1)

 作曲家・平尾昌晃氏が7月21日に亡くなったそうです。79歳。
 平尾昌章s34-5平尾氏はまず「平尾昌章」名でロカビリー歌手としてデビュー、甘いルックスもあって大人気、ミッキー・カーチス、山下敬二郎とともに「ロカビリー三人男」の一人に数えられ、まもなく歌謡曲に転身して「星はなんでも知っている」(s33-7)が大ヒット。ロカビリーから歌謡曲への転身の先駆けになりました。(右は「ミュージック・ライフ」誌の昭和34年5月号表紙。プレスリー風の平尾昌章。)
 青春歌謡期には低迷したものの、自分で作曲し自分で唄った「おもいで」を布施明に提供したのを機に、以来、作詞家・水島哲と組んで作曲家として布施明の売り出しに成功し、作曲家に転身します。布施明「霧の摩周湖」の項で書いたように、おそらく転身の決意表明だったのでしょう、昭和41年秋ごろ、平尾昌章から昌晃に改名。70年代に入ると五木ひろし「よこはま・たそがれ」(1971-3)、小柳ルミ子「わたしの城下町」(1971-4)「瀬戸の花嫁」(1972-4)など、和洋折衷(ポップス+歌謡曲)的曲調によるヒット曲を次々に生んで大成功。作曲家としての地歩をゆるぎないものにします。
 ロカビリー歌手から歌謡曲歌手へ、さらに作曲家へと、見事な才能の展開でした。

 高校生の恋を取り上げて来たこのブログが、追悼を兼ねてとりあげるのは、もちろん「ミヨチャン」。
 こちらで聴きながらお読みください。朱殷麟さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケット画像の下は、三田明のヒット曲の映画化「若い港」(s39-5-13公開)にブラスバンド部の先輩役で出演した平尾昌章(&三田明&山内賢)。平尾はこの時期、三田明と同じビクターレコードの所属でした。)

平尾昌章「ミヨチャン」
  昭和35年5月発売
  作詞:平尾昌晃&音羽たかし
  補作・編曲:平尾昌章&津々美洋

平尾昌章・ミヨチャン/あの日から (セリフ)
  皆さん マア 僕の話を聞いて下さい
  ちょうど僕が高校二年で……
   あの娘も…… ミヨチャンも
     高校二年の時でした
 一 僕のかわいい ミヨチャンは
   色が白くて ちっちゃくて
   前髪たらした かわいい娘
   あの娘は 高校二年生  
 二 ちっとも美人じゃ ないけれど
平尾昌章in映画「若い港」s39-5&三田明&山内賢   なぜか僕を ひきつける
   つぶらなひとみに 出会う時
   なんにも言えない 僕なのさ
 三 それでもいつかは 会える日を
   胸に描いて 歩いていたら
   どこかのだれかと よりそって
   あの娘が 笑顔で話してる
 四 父さん母さん 恨むじゃないが
   も少し勇気が あったなら
   も少しきりょうよく 生れたら
   こんなことには なるまいに
 (セリフ)
  そんなわけで
  僕の初恋は見事失敗に終りました
  こんな僕だから
   恋人なんて何時のことやら……
  でも せめて夢だけは何時までも
      持ちつづけたいんです
 五 今にみていろ 僕だって
   素敵なかわいい 恋人を
   きっと見つけて みせるから
   ミヨちゃんそれまで サヨウナラ
          サヨウナラ…………  
  
 青春歌謡に先立つ昭和35年(1960年)の曲ですが、おそらく、高校生同士の恋を歌った歌謡曲として60年代最大のヒット曲。ただし一方的な片想いの失恋。
 大好きだからこそ声もかけられない。現代なら内気すぎると思われもしましょうが、この内気さこそ青春歌謡のもの(たとえば舟木一夫)。
 内気とは、欲望を行動で発散充足させることなく、心の中で感情として純化する心の傾向。つまり純情を培養する気質。青春歌謡の重要な一面である感傷も抒情もこの内気さと切り離せません。それどころか、人間特有の「愛」という観念さえもこの内気さの中ではぐくまれるのです。
 (心情を介することなく欲望から行動に直結するのはただの「動物」。東浩紀というちょっと嘘っぽい社会学者の『動物化するポストモダン』によれば、80年代以後の若者は刹那的な欲望充足に走る「動物化」状態なのだそうです。それが本当なら、もう感傷も抒情もありゃしない。「動物」はそもそも「人間」じゃない(ホントかな?))
 欲望の解放を日本の若者に教えたのはいつだってアメリカ。戦前なら昭和初期のジャズ・ブーム。戦後なら占領下のジャズと昭和30年代初期のロカビリー。ロカビリーで欲望の解放をストレートに叫んでいた平尾昌章がこの内気な純情高校生を歌う、これが青春の歌謡曲。
 「星はなんでも知っている」のメルヘンとこの「ミヨチャン」の内気な純情、まさしく平尾昌章は60年代青春歌謡の先駆けなのでもありました。
 (ところで、以下、ちょっと曲解めいた無用の一言を書くので「ミヨチャン」ファンはこの一節を読まずに飛ばしてください。
 最後の五番がちょっと変。「今にみていろ僕だって」「それまで」サヨウナラ、と歌う彼は、ひょっとして、「素敵なかわいい恋人」が出来たら、彼女を連れてわざわざミヨチャンに会いに行くつもりなのでしょうか? 何のために? 見返してやるために?
 それならこれは、内気な愛情が内向してこじれたあげくの復讐心ではありませんか。まるで、恋人・お宮を金満家に奪われた貫一が、お宮を見返すために高利貸しになろうとする尾崎紅葉『金色夜叉』みたいな心境。貫一はそのとき、「今にみていろ僕だって、大金持ちになってみせるから、それまで宮さんサヨウナラ」と心に復讐を誓ったのでした。
 というわけで、この五番、もうちょっと何とかならなかったものか、と惜しむわけです。)

 とにかく「ミヨチャン」は「星は平尾昌章・ミヨチャン・ジャケット裏なんでも知っている」につづく平尾昌章の歌謡曲での大ヒット。セリフが入るのも「星はなんでも知っている」に似ています。
 加えてこれは、一般には、平尾昌章自身の作詞作曲歌唱、として通っています。つまり平尾昌章はシンガー・ソングライターの先駆けでもあったのでした。
 ただ、上掲レコードジャケット画像でおわかりのとおり(右画像のとおりジャケット裏の歌詞カードも同じ)、もともとの表記は、
  平尾昌章・音羽たかし作詞
  平尾・津々美 補作・編曲

 (歌唱は、演奏も含めてでしょう、「平尾昌章とオールスターズ・ワゴン」)
 誰の「作曲」かちゃんと書いてないという変な表記ですが、昭和41年の4曲入り平尾昌章・ミヨちゃんs41の4曲入りLPよりレコードでは、右画像のとおり、作曲だけは平尾昌晃単独名。
 「音羽たかし」はキングレコードのディレクターが日本語訳詞をする際に用いたペンネームだそうで、一人ではなく何人もいたらしいというので、歌詞に「音羽たかし」の手が入っているのはまちがいないでしょう。
 津々美洋は、当時平尾のバックバンドをつとめていた「オールスターズ・ワゴン」のギタリストにしてリーダー。(この頃、ポップス系歌手には、たとえば「小坂一也とワゴン・マスターズ」など、歌手専属のバックバンドが付く例がけっこうありました。)後にはバンドは「津々美洋とオールスターズ・ワゴン」と名乗ったりもします。「星はなんでも知っている」を作曲したのも津々美洋。
 そうすると、歌詞に「音羽たかし」の手が入ったのと同様、作曲の際にも津々美洋の助言を採用したりしながら作った、というのが実情なのではなかったでしょうか。なにしろ平尾としては初めての作詞作曲だったでしょうから。

 ともあれ、歌詞も素人風の口語的発想で親しみやすく、メロディーラインもロカビリーのかけらもないほど単純で歌いやすい。この親しみやすさが大成功の理由だったでしょう。
 そして、とりわけ親しみやすいのが、「ちっとも美人じゃないけれど」と歌われるこの「ミヨチャン」の庶民的な親しみやすさ。本名は「美代子」でしょうか。それを「ミヨチャン」と愛称で呼ぶのも親しみやすい。
 たしかに、あの時代、「美代子」はとてもポピュラーな名前。美人じゃないけどかわいい「ミヨチャン」は誰の身近にもいました。そしてまた、「も少しきりょうよく生れたら」の嘆きもこの年代の多数の男子共通の思い。ああ、こんなふうに書いていると、なんだか私「遊星王子」にも、片想いに終わった「僕のかわいいミヨチャン」がいたような気が……。
 なお、「ミヨチャン」は前回の「ツンツン節」と同様、後にザ・ドリフターズがカバーしています(s44-5)。ドリフの「ミヨチャン」も「平尾昌晃作詞・作曲」となっていますが、何しろアドリブ的な突っこみを多用した歌詞になっています。
 最後に、「ミヨチャン」の歌、青春歌謡の時代にも、守屋浩「おとぼけ美代ちゃん」(s39-4)という田園ソングがあることを記しておきます。

518 望月浩「泣かないで」 高校生バンザイ! 恋愛篇(1) タカオカンベ=渡舟人?

 総じて勉強は嫌いだった(笑)青春歌謡の高校生たち、では恋愛は?
 望月浩「泣かないで」。こちらで聴きながらお読みください。8823 time travel さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (レコードジャケット画像の下は、望月浩&叶修二&東山明美の修学旅行! 「明星」昭和40年5月号から。)

望月浩「泣かないで」
  昭和40年5月発売
  作詞:タカオカンベ 作曲・編曲:萩原哲晶
望月浩・泣かないで 一 少し行っては 立ち止る
   胸につかえる おくり道
   赤い夕日に 叱られそうな
   二人は初恋 まだ高校生
   いいね 泣かないで
   涙をふいてから
   お別れを お別れを
   もう一度
 二 白い優しい 君の手を
望月浩s40-5明星より&東山明美&叶修二   そっと離した 曲がり角
   右と左に 幸せわけて
   この次逢う日の 約束を
   いいね 泣かないで
   涙をふいてから
   指切りを 指切りを
   もう一度
 三 遠く聞えた 海鳴りも
   いつか消えてる 近道を
   帰りいそいで つまずきそうに
   なっては振りむく セーラー服
   いいね 泣かないで
   涙をふいてから
   微笑みを 微笑みを
   もう一度

 「一人ぼっちが好きなんだ」(s40-2)でデビューした望月浩の二枚目シングルA面。高校生同士の初恋というテーマが望月浩の声の甘さにぴったり。
 実は、青春歌謡の時代、はっきり高校生同士の恋だとわかるヒット曲は珍しいのです。舟木一夫「君たちがいて僕がいた」(s39-3)以来何度も書いたように、「学園ソング」では恋愛もあくまで友情の枠内にとどめるのが基本だったからです。ましてや同じ高校、同級生、とでもなればなおさらのこと。
 萩原哲晶の曲は「ああ~」の女声コーラスをあしらって正統青春歌謡調。ポップス(カバー・ポップス)を得意とした東芝レコード(東芝音工)でのこの正統青春歌謡調も、実はとても珍しい。
 (デビュー曲「一人ぼっちが好きなんだ」も女声コーラスが入りましたが、「ヤンヤンヤン……」、つまりポップス調。3枚目の「太陽だって僕等のものさ」(s40-7)はリズム歌謡風で女声コーラスも「ズンズンジンジン……」。青春歌謡の女声コーラスはやっぱり「ランラン……」か「ああ~」でなくちゃ(笑)。)
 タカオカンベの詞もすばらしい。ことに「赤い夕日に叱られそうな」が秀逸。「叱られそうな」と感じるのは、たぶん彼らが親や教師の目を気にしているからですが、しかし、「赤い夕日に」はそういう現実配慮は消えてファンタジーになります。初々しいカップルの様子にまるで夕日も照れて赤くなっているようです。
 
 ところで、作詞したタカオカンベの名、私が最初に知ったのは高倉健「網走番外地」(s40)の作詞家としてでした。あのやさぐれた世界を書いたタカオカンベがこんなさわやかな青春歌謡を書いていたとは驚きです。
 ただ、タカオカンベ、こちら漣健児の証言によれば、実は早くからポップスの訳詞家として活動していたのだそうです。あの有名な「サンタが街にやってくる」(♪ さあ あなたから メリー・クリスマス……)もタカオカンベ(神戸孝夫)の訳詞、尾藤イサオ「悲しき願い」(s40 ♪ ……誰のせいでもありゃしない みんな俺らが悪いのか)もタカオカンベの訳詞なのでした。なるほど名(タカオ)と姓(カンベ)の順序を逆にしたのもポップスの訳詞家にふさわしくガイジン(アメリカ人)風にした、ということだったのでしょうか。
 訳詞といっても実際は「超訳」みたいなものでしょう。オリジナルをベースにしてかなり自由に創作する一種の「二次創作」。そういえば「網走番外地」も元は巷の歌で、それを「二次創作」的に映画主題歌にふさわしく仕立て直したという点では訳詞(超訳)に似ています。
 そして、さらに驚いたことに、こちらのページによると、タカオカンベと渡舟人(わたり・ふなんど)は同一人物なのだそうです。
 渡舟人はこのブログでも森山加代子「じんじろげ」(s36-1)や「パイのパイのパイ」(s36-5)の作詞家として紹介しました。両曲とも演歌師の歌っていた元歌があって、それをもとにして書き変えたもの。つまりこれらもオリジナルあっての「二次創作」。そしてまた「ロカビリー三人男」の一人山下敬二郎「ダイアナ」(s33-4 ♪……死んでも君を離さない地獄の底までついていく)の訳詞も渡舟人らしいのです。
 ご参考までに、渡舟人について一番詳しいネット上の記事はたぶんこちらです。それによれば、渡舟人は東芝音工の社員だったらしいとのこと、2010年12月19日に94歳で亡くなったとのこと。
 どなたかタカオカンベ(渡舟人)のWikipediaを書ける人はいないでしょうか。
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