遊星王子の青春歌謡つれづれ

歌謡曲(青春歌謡)がわかり、ついでに文学と思想と歴史もわかってしまう、とてもためになる(?)ブログ。青春歌謡で考える1960年代論。こうなったらもう、目指すは「青春歌謡百科全書」。(ホンキ!?)

スノビズム

 「遊星王子」は遠い星からやってきました。ふだんは東京の街角の靴磨き青年に身をやつしています。アメリカの大都会の新聞記者になりすましているスーパーマンに比べると貧乏くさいけれど、これが日本、これが戦後です。
 宇宙から日本にやって来た正義の味方としては、スーパー・ジャイアンツには遅れましたが、ナショナルキッドよりは先輩です。
(またの名を落日の独り狼・拝牛刀とも申します。牛刀をもって鶏を割くのが仕事の、公儀介錯人ならぬ個人営業の「解釈人」です。)

 「青春歌謡」の定義や時代区分については2011年9月5日&12月31日をお読みください。暫定的な「結論」は2012年3月30日に書きました。
 この時代のレコードの発売月は資料によってすこし異なる場合があります。
 画像や音源の多くはほぼネット上からの無断借用です。upされた方々に多謝。不都合があればすぐ削除しますのでお申し出下さい。
 お探しの曲名や歌手名・作詞家名があれば、右の「記事検索」でどうぞ。
 なお、以前の記事にも時々加筆修正しています。
 遊星王子にご用のある方は、下記アドレスの○○を@に変えてメールでどうぞ。 yousayplanet1953○○gmail.com(22-8-1記:すみません。5月初めにパソコンを新調して以来、なぜか自分でもこのアドレスに入れません。)
 *2015年2月23日
 「人気記事」を表示しました。直近一週間分の集計結果だそうです。なんだかむかしなつかしい人気投票「ベストテン」みたいです(笑)。
 *2015年7月25日
 記事に投稿番号を振ってみました。ブログ開始から3年と11か月。投稿記事数426。一回に数曲取り上げた記事もあるので曲数は500曲ぐらいになるでしょう。我ながら驚きます。
 *2017年6月17日 累計アクセス数1,000,000突破。
 *2017年10月16日、他で聴けない曲に限ってyoutubeへのアップ開始。
  https://www.youtube.com/channel/UCNd_Fib4pxFmH75sE1KDFKA/videos
 *2022年11月29日 累計アクセス数2,000,000突破

429 井上ひろし「煙草が二箱消えちゃった」 付・タバコの歌

 この機会に井上ひろしをもう一曲。
 「煙草が二箱消えちゃった」。これもいまyoutubeにはありません。

井上ひろし「煙草が二箱消えちゃった」
  昭和35年6月発売
  作詞:関沢新一 作曲:前田利克 編曲:柳田六合雄
井上ひろし・煙草が二箱消えちゃった/雨に咲く花 一 町の時計が アクビをしてら
   いつまで待たせる ひとなのサ
   JIRASU JIRASU ンー JIRASU
   捨てた吸がら 男の吐息
   煙草が二箱 あゝ 消えちゃった
 二 いっそ逢わずに 帰るも恋サ
   来るまで待つのも 恋なのサ
   JIRASU JIRASU ンー JIRASU
   なンてこったよ 弱気じゃないか
   とっくに消えてら あゝ 町あかり
 三 煙草がわりに 小指をかんで
   あきらめちゃうには もうおそい
   JIRASU JIRASU ンー JIRASU
   バカに見えたら 笑っておくれ
   これでも俺らは あゝ 本気だぜ

 「地下鉄(メトロ)は今日も終電車」(s34-12)と並ぶ井上ひろしの代表曲です。
 リバイバル「雨に咲く花」(元歌はs10-12関種子)とのカップリング。ジャケット画像のとおり、レコードではオリジナル曲のこちらの方がA面扱い。しかし、皮肉なことにB面の「雨に咲く花」の方がもっとヒットしてリバイバル・ブームのきっかけになったのは前回書いたとおりです。
 思えば井上ひろしは雨に縁があったようで、そもそも水島哲がソロ・デビューする井上のために最初に書いた詞が「雨は泣いている」(s34-10)でした。あまくてやわらかい歌声が雨の情緒にぴったりだと判断したのでしょう。水島のその判断は見事に正しかったわけです。「雨に咲く花」のヒットを承けて、井上はさらに「小雨の丘」(s35-12、元歌はs15-8小夜福子)や「並木の雨」(s36-5、元歌はs14-7ミス・コロムビア)をリバイバルさせることになります。
 さて、これは彼女が来ない待ち合わせ。ケータイなんかもちろんない、相手がアパートの一人暮らしだったりすれば電話だってない、あったってせいぜい呼び出し電話、そんな時代の待ち合わせです。
 なぜか待ち合わせに現れない恋人。映画「君の名は」や「あの橋の畔で」や「銀座の恋の物語」のような悲恋ものなら、ここから残酷な運命のドラマが始まります。
 しかしこれは青春ソング。焦点は相手の事情ではなく、「俺ら」の心情。
 町の灯りが「とっくに消えてら」というので、夜更けまで待ってしまったわけでしょう。自分のことをちょっと不良っぽく「俺ら」と呼ぶこの主人公、この恋には純情で「本気」、しかも一途で辛抱強い。いつの世も「不良の純情」は娘ごころをくすぐるはず。(その青春映画の典型は吉永小百合&浜田光夫の映画「泥だらけの純情」s38-2。)
 タバコはもちろん「不良」の必須アイテム。けれども喫った煙草が二箱40本とは、よっぽどのヘビースモーカー、どころかおそるべきチェーンスモーカーです。
 作詞したのは関沢新一。一行目の「町の時計がアクビをしてら」から詞に遊び心が入っています。「ひとなのサ」「恋サ」「恋なのサ」と語尾の「サ」をカタカナ書きしているのも、語尾の「サ」が都会(東京)らしさ、若者らしさのシンボルみたいなものだったから。
 聞かせどころはもちろん「ZURASU ZIRASU ンー ZIRASU」。「じらす」という日本語をアルファベットで横文字書きしたのはロカビリー系らしいカッコよさ狙い。(バカげた勘違いですが、以後60年代末からさらに拍車がかかり、80年代にいっそう加熱して、今は「グローバリズム」とかいう美名のもとであたりまえみたいになってしまいました。この件については、日本文化の根に食い入った「スノビズム」「モダニズム」の問題としてこのブログで何度も書きました。)
 ただし、井上はべつだん外国語めかして発音するわけではなく、「ンー」があるのでちょっと甘えてすねたような感じ。いわば「甘えてすねる不良」です。ここも娘ごころをたまらなくくすぐったはず。
 そういう遊び心の詞として読めば、この二箱40本にもちょっと誇張は入っているでしょう。まさかクレイジー・キャッツのように喫った煙草が「五万本」(青島幸男作詞「五万節」s37-1)、とまでは云いませんが(「五万節」には「パチンコで取ったピースが五万箱」というフレーズもあります。)。
 そのちょっとほら話めいた誇張感があるので、歌の主人公にはせつない状況でも、悲恋にはならず、この歌はなにやら楽しいのです。
 とはいえ、こんなタイトル、こんな歌詞、いまなら書けないしレコード化もできないでしょう。ましてや街灯の下で男の足元に吸い殻の散らばるジャケットのイラスト、たちまち美化運動に(だけ?)熱心な人たちからのクレームが殺到して発売禁止になるのは必定です。
 (しかも井上ひろしは昭和16年8月生まれ。レコード発売時にはまだ18才。日本では明治33年以来、満20才未満の喫煙は法律で禁止。18才が歌うこのチェーンスモーカーの歌、よく許可されたなぁ。(笑))

 タバコはいろんな名曲を生んできました。
 たとえば戦後間もなく、清水みのるが書いた「星の流れに」(s22-10)の「煙草ふかして口笛吹いて」。タバコをただ「吸う」のでなく、これ見よがしに「ふかす」そのしぐさ、夜の街角で男を誘うしかなくなった女の捨てばちな悲しみが浮き彫りになります。
ポパイ あるいは石本美由起が書いたマドロス歌謡の傑作「ひばりのマドロスさん」(s29-9)。「縞のジャケツのマドロスさんは/パイプふかして/アー タラップのぼる」。あの船乗りポパイがいつもパイプをくわえていたように、マドロスさんにパイプはつきものです。しかもここには、昭和20年8月30日、厚木飛行場に降り立ったマッカーサーにまでさかのぼる戦後史さえ隠れています。なんといっても敗戦国民・日本人の心にパイプのカッコよさを刻印したのは勝利者・占領者たるマッカーサーだったのですから。
 一方、連合国の巨頭・チャーチルのトレード・マークは葉巻。「和製チャーチル」と呼ばれた吉田茂も葉巻。
 パイプは洋物。日本人は南蛮渡来のタバコが普及した江戸の昔から煙管(キセル)に刻みタバコ。花魁にキセルは必需品。助六なら「キセルの雨が降るようだ」。浜松屋で居直ってみせる弁天小僧だってキセルがなくちゃ様になりません。タバコは文化です
 近代庶民は紙巻きたばこ。町角のあちこちに煙草屋がありました。
 岸井明と平井英子が掛け合いで歌った愉快な「煙草屋の娘」(s12-6)は戦前のヒット曲。園ひさし作詞で「向う横丁のタバコやの可愛い看板娘」に恋してしまった若者が毎日タバコを買いに通いつめるお話です。昭和36年には佐川ミツオと渡辺マリの掛け合いでリバイバルされました。(もっとも「可愛い看板娘」がいる煙草屋はまれで、たいていは爺さんや婆さんが店番でしたが。)
 (ちなみに、例によってこちらで検索すると、岸井明と平井英子の歌のタイトル表記は「タバコやの娘」。これ以前に昭和5年から6年にかけて「煙草屋の娘」という別な曲が2曲あり、さらに昭和16年9月には高峰秀子も清水みのる作詞の「煙草屋の娘」という曲を歌っているのでした。町角に煙草屋のある風景、これこそなつかしい日本の町の風景なのです。)
 そもそも国家に功労あった者には菊の紋章入りの「恩賜の煙草」を賜ったのが近代日本(2006年に廃止)。紙巻きたばこは天皇公認の栄誉さえ担っていたのでありました。くりかえします。タバコはまぎれもない文化なのです。
 というわけで、ほんとうはタバコの歌を何曲か取り上げたかったのですが、青春歌謡は「品行方正」。どうもタバコの歌が見当たりません。
 こうしてみると、橋幸夫&吉永小百合のデュエット「若い歌声」(s38-11)の台詞部分で橋が「(たばこ)とてのめばはかなや」と語っていたのは実に実に貴重だったことになります。(このとき橋幸夫は20才と6カ月。)
 タバコはなんといっても「大人」(成人)のもの。未成年歌手の多かった青春歌手が歌えなかったのは仕方ありません。
 そういえば、青春歌謡の時代、沢たまきが大人のムードたっぷりに歌った「ベッドでタバコを吸わないで」(岩谷時子作詞)は昭和41年4月の発売でした。名曲ですが、消防署の告知みたいな「吸わないで」の禁止形(正確には禁止おねだり形)が私にはどうも気に入りません。しかしひるがえって考えれば、禁止形ならいまでもタバコの歌を歌える、ということ。誰か、禁止形で実はタバコの快楽をこっそり伝える反語法の歌を作ってくれませんかね。
 (ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「名曲」、「スモーキン・ブギ」(1974₋12)みたいなものは絶対いけません。あれじゃタバコの不良イメージを助長するばかり。これからは「健全な大人」の「健全な嗜好品」としてのタバコを称える精神で作らなきゃ(笑)。)

 ところで、映画監督の市川崑はヘビー・スモーカーながら享年92歳。世に喧伝されるタバコの害など本当でしょうか。ましてや副流煙が人を肺ガンにするというのなら、市川崑の周辺は癌患者の死屍累々、ほとんど市川は大量殺人犯だったでしょう。どうも現代の嫌煙・禁煙「ブーム」は、神経症的な衛生思想のあらわれのような気がしてなりません。
 市川崑の母親は広島で被爆したのに90歳を超える長命だったことから、市川は「(放射能の害に比べれば)ニコチンの害などたいしたものではない」と公言していたとか。([wikipedia市川崑])
 原発の再稼働が始まりました。東京オリンピックに向けて東京を全面禁煙にせよと騒ぐ政治家どもが、一方では率先して原発再稼働を進めています。タバコには厳しく、原発には寛容に。(ついでにカジノ賭博にも寛容に。)
 たしかに放射性物質はタバコの煙のようには目にも見えず臭いもしませんからね。お上品で清潔好きな現代人は臭うタバコより臭わない「クリーン」な放射性物質の方が好きなんでしょう。

コロムビア・ローズ(二代目)「白ばら紅ばら」 青春歌謡は花ざかり(15)

 「花の女王」といえば薔薇の花。今日は二代目コロムビア・ローズのデビュー曲「白ばら紅ばら」。
 こちらで聴きながらお読みください。rocky04smさんに感謝しつつ無断リンクします。

コロムビア・ローズ(二代目)「白ばら紅ばら」
  昭和37年8月発売
  作詞:西條八十 作曲・編曲:上原げんと
コロムビア・ローズ・白ばら紅ばら 一 歌の紅薔薇 さみしく消えて
   白い野薔薇か 幼いわたし
   あゝお姉様 お姉様
   せめて あなたの お名前継いで
   踏むも恥かし 初舞台
 二 赤いライトに マイクの蔭に
   見えるあなたの 振袖姿
   あゝお姉様 お姉様
   遠くはげます 優しい瞳
   山の桐生は 雲幾重
 三 乙女(むすめ)十九は まだ純情と
   君がデビューの あの日の歌を
   あゝお姉様 お姉様
   想いだしつつ 胸はずませて
   歌うマイクの 春よ春

 初代の引退を受けて二代目コロムビア・ローズとしてデビューする、その心境そのものを歌うという設定。いわば新人歌手の自己紹介を兼ねた一種の「私歌謡」。とても珍しい企画です。
コロムビア・ローズ初代・覆面 初代コロムビア・ローズは昭和27年に覆面歌手としてデビューしました。(戦前の覆面歌手ミス・コロムビア=松原操に倣ったコロムビアの企画です。デビュー時には、こちらのページから無断借用した右の画像のとおり実際にマスクを着けていました。)デビュー曲「娘十九はまだ純情よ」(s27-4)以来、「リンゴの花は咲いたけど」(s27-10)「どうせ拾った恋だもの」(s31-11)「東京のバスガール」(s32-10)「ロマンス・ガイド」(s34-10)など、多くのヒット曲を出しましたが、昭和36=1961年に引退します。
 初代の引退後、二代目のオーディションが行われ、応募者3,500人の中から選ばれた二代目がデビューしました。(ただ、二代目が覆面をつけた形跡はありません。二代目コロムビア・ローズのデビューと引退の経緯については、彼女の代表曲「智恵子抄」「二十才」の項で書きました。ご参照ください。)
 初代のデビュー曲「娘十九はまだ純情よ」を手掛けた西條八十と上原げんとのコンビが二代目のデビュー曲も手掛けます。
 西條の詞は、初代を「ローズ」の名にちなんで「歌の紅薔薇」と呼び、二代目の自分を「白い野薔薇」にたとえます。多くのヒット曲をもつ華やかな「紅薔薇」に対して、歌謡界という花園にはまだ新参の初々しくも「幼い」野育ちの「白い野薔薇」です。
 初代を姉と慕っての「あゝお姉様 お姉様」の呼びかけがことに印象的。
 「お姉様」という呼びかけは、宝塚少女歌劇団的な、あるいは戦前の女学校的な、また少女小説的な、上流家庭の(擬似)姉妹関係の設定です。大正末年以来多くの少女小説を書いた西條八十ならではの世界設定だともいえましょう。もちろん、薔薇の花もまた、近代の少女たちの愛した花でした。いっぱいの薔薇の花で縁取られた少女マンガの画面を思い浮かべてみてください。
 (もっとも、こうした「上流意識」は、つまるところ、近代の「成り上り」意識とスノビズムとの混合です。「夢見る」少女たちなどというものも、吉永小百合「人の知らない花」&高石かつ枝「この花を誰に」の項で書いた無力を強いられた近代少女たちの境遇を無視していえば、その多くは、「上流」イメージに憧れるただの無自覚なスノッブ予備軍です。
 ただ、大正から昭和戦前のこうした「上流意識」に評価すべき点があるとすれば、その言葉づかいやふるまいにおいて、国民のモラルや文化の指標として「教育的=感化的」役割を果たしたという点でしょうか。そうした役割は戦後の「大衆的=庶民的」欲望を解放するプロセスの中で消失します。60年代は、「お姉様」「お兄様」「お母様」「お父様」といった言葉づかいが「良き家庭」の表徴として受け入れられた最後の時代だったでしょう。モラルや文化の指標としての役割を失えば、「上流意識」はただの俗物的な「金持ち意識」になり下がります。したがって、70年代に入れば、これらの呼称は、映画やテレビドラマで、いささか特殊な家庭を表示する滑稽な響きなしには使われなくなります。70年代、本格的な「大衆社会」の到来です。「大衆社会」とは、大衆が大衆であることに満足して居直る社会のことです。)
 二番で「桐生」という地名が入るのは、初代が群馬県桐生市の出身だったから。「雲幾重」はミス・コロムビア=松原操と霧島昇がデュエットした西條の名作「旅の夜風」(昭13)の「愛の山河雲幾重」と同じ(松原と霧島は翌年結婚)。いわば覆面歌手の「先々代」へのオマージュ。幾重もの雲を隔てた遠い桐生から、引退した「先代=初代」が「優しい瞳」で見守り励ましてくれている、というイメージです。
 三番の「乙女(むすめ)十九はまだ純情と」は、初代のデビュー曲タイトル「娘十九はまだ純情よ」を表記だけ変えたもの。(ちなみに初代はデビュー時に満19歳。二代目自身は昭和19=1944年4月生まれなので、このとき満18歳、数えなら19歳。)さらに末尾の「春よ春」は、これも西條八十作詞のミス・コロムビア=松原操のヒット曲「十九の春」(昭8)からの引用(「ながす涙も輝きみちし/あはれ十九の春よ春」)。
 これらの「引用」はすべて、先々代、先代へのオマージュ(リスペクト)。言霊呪術的に、先々代、先代の言葉(ヒット曲)の力が彼女を守護するのだといってもよいでしょう。
 自己紹介を兼ねた「私歌謡」と書きましたが、歌詞はひたすらに、その名を継承した「お姉様=初代」を慕い、その愛情と励ましにすがるけなげでいじらしい妹ぶり。自己紹介に通常ともなう自己アピール(自己主張)はかけらもありません。西條八十はむしろ、引退した初代への別れの心情の方を濃厚にこめたかのようにさえ思われます。(さらに、自らが手がけたコロムビア覆面女性歌手の系譜へのオマージュをも。)それが結果的に、この「白い野薔薇」たる新人の謙虚で控えめな好印象を演出しました。
 ひるがえって、二代目自身の心情を推測すれば、華やかなスターだった「初代=お姉様」の名声を重圧として背負いながらの不安なデビューでもあったでしょう。
 その重圧によく耐えて、しかも初代と異なる自分の特性もよく生かして、二代目コロムビア・ローズもまた、大輪の花を咲かせました。比喩でいえば、野育ちの素朴な「白い野薔薇」は歌謡界の花園に咲く見事な「白薔薇」になりました。そして、初代のつややかで深みと色香のある歌声と、どこまでも清潔感を失わない二代目の澄んだ歌声とを思い比べてみれば、初代を華やかな「紅薔薇」に二代目を清楚な「白い」薔薇にたとえた西條八十の眼は、実に確かなものでした。
 なお、二代目コロムビア・ローズの2枚目のレコードは初代のヒット曲のリバイバル「東京のバスガール/ロマンス・ガイド」(昭37-10)。さらに、5枚目のレコードでは、初代が本名「斎藤まつ枝」名で作詞作曲した二曲「さよならあの人/小さな幸せを」(昭37-11)を歌っています。まことにいじらしい「妹」でした。

舟木一夫「敦盛哀歌」(下) 悲劇の青春(2) ロラン・バルトの愛した敦盛

源義経・グラフNHK40-12-15源義経・静御前・藤純子・絵葉書
 さて、舟木一夫が平敦盛を演じたのは昭和41年のNHK大河ドラマ「源義経」でした。義経を尾上菊之助、弁慶を緒形拳。藤純子が静御前を演じ、後に菊之助と藤純子が結婚する機縁にもなりました。舟木は二年前の「赤穂浪士」での矢頭右衛門七役に次ぐ二度目の大河ドラマ出演です。
 「源義経」は原作者の村上元三が脚本も手がけました。村上元三はいうまでもなく戦後大衆文学の大家ですが(吉川英治や白井喬二以来、「大衆文学」の本流は時代小説です)、二年前の大河ドラマ「赤穂浪士」(原作は大佛次郎)の脚本も手掛けていて、右衛門七役にデビュー間もない舟木を指名したのも村上元三だったそうです。敦盛役も村上の推薦だったでしょう。
 「敦盛哀歌」はその村上元三自身が作詞しました。村上初の歌謡曲の作詞だったかもしれません。
 では、その「敦盛哀歌」、こちらでjewel5522さんの作品映像とともにお聴きになれます。感謝しつつ無断リンクします。

敦盛哀歌10舟木一夫「敦盛哀歌」
  昭和41年5月発売
  作詞:村上元三 作曲:古賀政男 編曲:安藤実親
 一 須磨の浜辺に 波白く
   よせて返らぬ 十六の
   花のいのちは 匂えども
   俤あわれ 公達は
   無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ
 二 一の谷吹く 風さむく
   吹けば悲しき 横笛の敦盛哀歌4
   月の調べは 流れても
   名こそ残れる 公達は
   無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ
 三 ひよどり越えに 雲荒れて
   弓鳴り渡る 戦いの
   雲の流れは 消えたれど
   まゆずみ薫る 公達は
   無官の大夫 敦盛ぞ あゝ敦盛ぞ

 なんとも格調高い詞に、横笛、鼓、琴に琵琶と、曲も高雅にして悲壮な時代色を醸し出します。琵琶はもちろん平家琵琶にちなんで使用したもの。
 詞は全篇文語によって「俗」を排し、見事な様式性で統一されています。
 「須磨」「一の谷」「ひよどり越え」と、『平家物語』で知られる敦盛最期の舞台にゆかりの有名な地名を各連に配し、それぞれの地名にちなむ風景の描写から、縁語や掛詞を用いて敦盛の肖像描写に転じ、その名を詠嘆して閉じます。各連「匂えども」「流れても」「消えたれど」と異なる逆接の助詞によって敦盛の名の不朽性へとつなぐ技巧も見逃せません。

 一番は須磨の浜辺に寄せる波。この「寄せる」には、軍勢が押し寄せる意も掛かっています。波は寄せては返すものですが、敦盛の「花のいのち」は二度と「返らぬ」と転じるのです。年齢を十六とした理由はわかりません。「じゅうなな」も「じゅうしち」も音の響きがよくありません。数えで十七歳は満で十六歳なのでかまいません。
 一の谷の合戦は春まだ浅い旧暦2月7日、「一の谷吹く風さむく」です。風が「吹く」を受けて「吹けば悲しき横笛」へと移動します。「月の調べ」は笛の曲名かもしれませんが、須磨の陣営の夜毎の月に流れていた笛の調べ、と解しておけばよいでしょう。「流れて」消える笛の音と千載に残る「名」の対比は、「百人一首」でも有名な藤原公任(きんとう)の和歌「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」を踏まえてもいるでしょう。
 義経の激烈果敢な逆落としで知られる急峻なひよどり越えは一の谷合戦を象徴する地名です。それゆえ「雲荒れて」の「雲」は戦雲でもあります。その激しい戦雲は消えてもゆかしい黛の香りは残る、と歌いおさめます。
 舟木一夫の古典的様式性、その「雅(みやび)」の美学については、「あゝりんどうの花咲けど」の項で「御三家雅俗論」と題して記述しましたが、この「敦盛哀歌」こそは舟木の「雅」の代表作だと言えましょう。

 平敦盛に託して言うなら、「雅」とは、たんに嫋々(じょうじょう)としてはかなく頽(くず)れる貴族的な「文弱」ではありません。「文弱」な王朝貴族というものが、命惜しさにどんなに陰険な権謀術策を弄するものかは、ほかならぬ『平家物語』が教えてくれます。
 昨日書いたとおり、平家は武人でありながら深く王朝文化に薫染していました。平家のすぐれた武人においては、いわば文と武とが一身において統一されていたのです。「青葉の笛」が歌う敦盛と忠度の最期がそれを示しています。
 敦盛は沖の船に乗らんとすでに五、六段(50メートル近く)ばかり海に馬を泳がせていたところを、熊谷直実に呼びかけられて、敢えて馬を曳き返して熊谷と戦ったのでした。また、息子・小次郎を思い出してためらう熊谷に対して、組み伏せられながら、「ただとく(早く)とく頸を取れ」とも促したのでした。
 つまり、敦盛の体現する「雅」とは、「文(文学・芸術)」を解し、気品と抑制をそなえた、はかない、しかし、虚無(死)をたじろがずに受け入れることのできる勁(つよ)さをも秘めた姿勢です。それは美学にして人間の生き方(死に方)、倫理の規範でもあります。平忠度が体現するのも同じです。
 (60年代末、「雅=様式」が滅びた時、美学=倫理も滅びます。「御三家雅俗論」でも、三島由紀夫の美学と左翼の「スタイル」を対比しておきました。「革命=大義」の名において些細な瑕疵を責めて同志を「総括=リンチ殺人」しつづけながら、自らは不用意に逮捕された連合赤軍の指導者・森恒夫や永田洋子、浅間山荘で放水を浴びて「濡れネズミ」になって逮捕されたその他の「戦士」たちの姿を思い起こせば、連合赤軍事件こそ、美学=倫理の無残な滅びを体現した事件でした。そういえば、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」でイデオロギーに閉ざされた息苦しい密室劇を撮った若松孝二が、今度は三島由紀夫事件を描いた「11、25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を公開するそうです。)

平敦盛・舟木一夫ショー・パンフ・浅草国際劇場s41-5 ところで、ロラン・バルトという記号論・テクスト論で知られたフランスの思想家が、昭和41年から43年にかけての数度の訪日体験を基に、ユニークな日本文化論『表徴の帝国』(1970、邦訳1974)を上梓したとき、巻頭と巻末に大きく掲げられたのは、平敦盛役の舟木一夫の顔写真でした。
 左の画像は浅草国際劇場での舟木一夫ショーのパンフレット写真ですが、バルトが掲げた写真はほぼこれと同じ写真です。
 バルトの日本文化論は、中心に皇居をおく大都市・東京を「空虚の中心」と名づけ、それを日本文化の構造のメタファーにも転じて有名になりました。たしかに、戦後の象徴天皇制における天皇は「中心」でありながら「空虚」です。
 文化は「表徴=記号」の体系ですが、記号は眼に見える(表層の)形と隠された(深層の)意味とで出来ています。「空虚の中心」とは、その意味の領域を統括する中心が欠如しているということです。それゆえ記号たちの表層的で自由な「戯れ」が可能になります。「中心」を唯一絶対の「神」が占拠しているユダヤ-キリスト教的な文化の桎梏から逃れようとしていたバルトには、日本は不思議で魅惑的な別天地のように見えたのでしょう。

 以前、アレクサンドル・コジェーヴのいう「スノビズム」の文化について、安達明「女学生」や吉永小百合「フレッシュ東京」の項で言及しました。バルトのいう「表徴の帝国」はスノビズムの国でもあります。
 スノビズムとは、「意味」の不在を「様式=美学」が代償する文化です。空虚の表層を美しいイメージが薄く蔽うのです。
 生も死も、最終的に意味づける「神」は不在です。「神」がなければヨーロッパ人には一切が虚無でしょう。しかし日本では、代わりに、生も死も美学によって美的に受容されるのです。それが、たぶん、ユダヤ-キリスト教には理解不能な日本人の「倫理=美学」です(でした)。

 『表徴の帝国』の舟木=敦盛の写真は、全く同じ正面からの顔写真ですが、巻頭は口元を結び、巻末ではかすかに唇を開いています。バルトは巻末写真に、「ほとんどほほえんでいる……」とコメントを残しています。おそらく、バルトには、謎の微笑、神秘の微笑と見えたのでしょう。つまり、ロラン・バルトが巻頭と巻末に舟木=敦盛の写真を掲げたのは、それがバルトの眼に、「謎」のまま、「意味」不明なままに魅惑的な、「美」としての「日本」の顔(=表徴)と映ったからです。
 ロラン・バルトは、こうして、「表徴の帝国」としての日本の美=文化を、合わせ鏡のようによく似た舟木一夫=平敦盛の二つのイメージのあいだに封じ込めたのでした。 

 後日記:
 2018年スカパー「チャンネルNECO」で「舟木一夫、時代劇を語る」が放送されましたが、その冒頭、
 インタビュアーの徳光和夫が舟木に、こういう本があるのをご存知ですか、とバルトの本(現在の邦題は『記号の国』)を差し出して、敦盛に扮した写真を示します。
 そして女性のナレーション。
 「バルトは本の最初と最後を舟木さんの二つの表情で挟みます。その表情のなかに何を見たのでしょうか。」
 『表徴の帝国』(『記号の国』)についてこんなことを書いたのはこのブログが初めてで唯一。あきらかに、「チャンネルNECO」の製作スタッフは私のこのブログを読んで知ったのでしょう。
 私には何の連絡もなく、もちろん謝礼もありませんでしたが(笑)、舟木一夫の役に立ったのであれば満足です。

舟木一夫「あゝりんどうの花咲けど」 御三家雅俗論または様式の死

舟木一夫・あゝりんどうの花咲けど舟木・りんどう
 ポップス系とナンセンスから一転します。『日本近代歌謡史』(前回参照)の西沢爽に敬意を表して、今日は舟木一夫の「あゝりんどうの花咲けど」。
 「高校三年生」で舟木を世に送り出した遠藤実が舟木のために作曲したA面曲の最後の曲でもあります。(舟木一夫「花の応援」の項参照。)
 こちらで聴きながらお読みください。kazuyan679さんに感謝しつつ無断リンクします。http://www.youtube.com/watch?v=dluurN0SwQI 

舟木一夫「あゝりんどうの花咲けど」
  昭和40年6月発売
  作詞:西沢爽 作曲・編曲:遠藤実
 一 さみしく花に 口づけて
   君は眠りぬ 永遠(とこしえ)
   あゝ りんどうの
   うす紫の 花咲けど
   高原わたる 雲あわく
   白き墓標は 丘の上
 二 やつれし君の 枕辺に
   花を飾りし 日はいずこ
   あゝ りんどうの
   うす紫の 花咲けど
   かえらぬ君を 泣くごとく
   露を宿して 揺れる花
 三 白樺道に ひとり聞く
   歌はかなしき 風の歌
   あゝ りんどうの
   うす紫の 花咲けど
   初恋あわれ いまはただ
   誰に捧げん この花ぞ

 今は亡き恋人を花のイメージに託すという詞は青春歌謡に多くあります。
 そもそも私が「青春歌謡の時代」の始まりを画した曲とみなした橋幸夫の「江梨子」(昭37-1)がそうでした。(9月5日および9月8日参照)
 伊藤左千夫の「野菊の墓」とも間テクスト的な連想を結ぶ(12月5日参照)「江梨子」は、美しく死んだ女性を野菊のイメージに託していました。
 舟木一夫はりんどうです。りんどうの花言葉は、「悲しんでいるあなたを愛する」だそうです。「あなたの悲しみに寄り添う」とか「淋しい愛情」とかいう言い方もあるようです。
 西沢爽の詞が文語体で統一されていることに注目しましょう。この詞の格調の高さはその文語体に由来します。舟木も末尾の「誰に」を「たれに」と澄んで歌っています。(「たれ」についてはこの項の末尾に追記しました。)
 繊細で抒情的で哀愁があって、私はこの時期の舟木の歌声が一番好きです。
 一方、昨年9月8日に書いたとおり、「江梨子」の詞は口語体です。そこで書いたことをもう一度引用しておきましょう。
 「文語は自分自身の正しい規則(文法)に則って表現の世界を純粋に統一しようとしますが、口語は時代の風俗に合わせてどんなふうにでも平気で崩れることを厭いません。文語と口語の違いは、そのまま舟木一夫と橋幸夫という二人の歌手の違いにつながるように思います。
 以前、御三家について誰かがどこかでこんなことを書いているのを読んだ記憶があります。(どこで読んだ誰の文章だったか思い出せません。)
 舟木一夫は女性的(陰)、西郷輝彦は男性的(陽)だったが、橋幸夫は男性性と女性性の両方を、つまり陰陽両面を兼ね備えていた、というのです。
 陰陽論を用いたなかなか穿(うが)った見解でした。それに倣って、しかし、歌詞の表現と文体に焦点を当てるこのブログらしく、私の御三家論は次のようになります。
 舟木一夫は「雅」。西郷輝彦は「俗」。橋幸夫は「雅俗折衷」。
 「雅」は「みやび」です。王朝以来の日本文化の美の理念です。文体でいえば文語体です。伝統的な美の様式性を尊重します。(もちろん文語体で統一された詞は舟木の歌のごく一部です。しかし、舟木の最初の恋愛歌のタイトルが「まだみぬ君を恋うる歌」(昭39-6丘灯至夫作詞)だったように、文語志向は舟木の詞の特徴です。)
 橋の「雅俗折衷」は、9月8日の「江梨子」の項以来何度も指摘してきたとおり、佐伯孝夫の文体の特徴です。そこでは文語体とぞんざいな俗語調、口語調とが平然と混在しています。(これは、後日「白い制服」で書く予定ですが、昭和35年にデビューした橋が、昭和戦前以来の歌謡曲の名残りを纏っていたこととも関係があります。)
 西郷輝彦には文語体を用いた詞はほとんどありません。かろうじて「我が青春」(昭39-12水島哲作詞)の「それが若さと知るや君」(これは文語の反語法です)ぐらいではないでしょうか。詩吟を使って文語調を打ち出した「薩南哀歌」(昭40-1星野哲郎作詞)にしても、「青年おはら節」のB面扱いですし、完全に文語体で統一されているわけでもありません。(ただし、西郷が「俗」だというのはいわゆる「俗っぽい」というけなし言葉ではないのでご注意ください。あくまで文体の特徴です。「俗」は口語体。口語体は同時代の「現在」です。西郷は60年代後半という同時代の若者の「現在」への志向がいちばん強い、ということです。)
 なお、橋も西郷も、忠臣蔵や西南戦争といった歴史上の若者たちの悲劇を歌う際には文語体で歌っています。舟木ももちろんそうです。(この件については舟木「敦盛哀歌」に始まる一連の「悲劇の青春」シリーズでご確認ください。)しかし、「あゝりんどうの花咲けど」は現代の悲恋です。舟木はそれを文語体で歌うのです。
 舟木一夫は最晩年の西條八十に愛された(3月1日からの「舟木一夫と西條八十の世界」参照)だけでなく、劇評家・安藤鶴雄、時代小説作家・村上元三、俳優・伊志井寛といった大衆文化・大衆芸能の世界の長老たち・大立者たちからも愛されました。たぶん彼らは、舟木一夫という歌手に、彼らがそのなかで生き、それを愛し、それの滅びを予感しつつあった一時代の文化の後継者、最後の希望を見出していたのだろうと思います。
 伊志井寛が舟木を新派に入るよう強く誘ったというのは象徴的です。新派劇はその名の通り旧劇(歌舞伎)に対する新しい劇として発足しましたが、しかし、西洋近代のリアリズムに立つ後発の新劇(当初は翻訳劇中心でした)とは違い、様式性を多く残した演劇スタイルでした。 舟木の演技にはリアリズムよりも様式美が似合います。 伊志井寛は歌手・舟木一夫の役者としてのそういう本領も見抜いていたのでしょう。
 (舟木はテレビ時代劇「銭形平次」の主題歌を歌い、主演の大川橋蔵にも愛されました。大川橋蔵は、並び称された中村錦之助が「宮本武蔵」五部作を契機にリアリズムをも吸収して大成したのに対して、最後まで様式美の役者でした。そのことは錦之助と橋蔵の殺陣(たて)を比べればよくわかるでしょう。)
 つまり、滅びつつあった一時代の文化とは、一言でいえば、「様式=型」の文化、ということです。
 文化とは生活様式である、とはイギリスの詩人T.S.エリオットの定義でした。文化とはなにも高嶺の花ではない、米飯を茶碗と箸で喰うことが、そしてその箸の上げ下ろしの作法が、文化なのだ、ということです。洗練された「様式=型」としての芸能や芸術も、この生活様式としての文化という土壌から育って花ひらくのです。
 1960年代とは、経済の高度成長の結果、日本人の生活様式が大きく変化し、伝統的な生活様式が壊れ崩れていくプロセスでもありました。モデルは豊かな物質文明としてのアメリカです。この場合、アメリカとは、欲望追求の自由と快楽解放の代名詞にほかなりません。しかし、「様式=型」は「抑制」を受け入れることなしにはありえません
 「抑制」を前提とする「様式=型」の文化を決定的に崩し壊したのは、60年代末、「純粋戦後世代」の若者たちの「自己解放運動」としての全共闘運動です。(私はあれを「政治運動」とも「革命運動」とも思っていません。あれが「政治」や「革命」なら極めて幼稚で無責任なものです。むしろ一種の、半分無自覚な、「文化運動」だったというべきでしょう。それにしては代償も大きかったわけですが。)
 「純粋戦後世代」としての新左翼運動・全共闘運動に危機感をもって対抗したのが三島由紀夫でした。三島のやったことも「政治運動」というよりは、政治的有効性などは最初から無視した「美的」な、つまり「文化的」な運動でした。(そもそも、政治と美学・美意識とが不可分に結びついているのが三島の「右翼」思想だというべきかもしれません。)
 三島には「文化防衛論」という文章がありますが、三島が「防衛」しようとした「文化」とは、宮廷=天皇の「雅(みやび)」を理念とする「様式=型」の文化です。それはあの「楯の会」のファッショナブルな制服を見ればわかります。あれは三島らしく現代風に装われた「雅=様式」の表現なのです。
 対して、新左翼・全共闘は、Gパンに安手のジャンパー、ヘルメットをかぶりタオルで覆面し軍手をはめてゲバ棒を振るいました。こちらはドブネズミ集団のごときものです。様式美などかけらもありません。もちろん「左翼」は「貧乏」だからですが、しかし強調したいのは、彼らは彼らの「思想」以前に、その服装・スタイルにおいて、三島由紀夫的な美学そのものに対抗していたということです。
 実際、「全共闘世代」は「革命」幻想からはたちまち撤退「転向」して日常生活に復帰しましたが、70年代以後の日本人のライフ・スタイルだけは、確実に変えました。「ライフ・スタイル」などという言葉も70年代以後の言葉です。「ライフ・スタイル」はもちろん「生活様式」のことです。しかし、「生活様式」という言葉を使わずに「ライフ・スタイル」というカタカナ言葉を使うこと自体、日本人の「生活様式=文化」が変わったことの証拠です。
 1970年11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷自衛隊駐屯地で割腹自殺します。ハラキリとは極めて日本的な、様式的な死に方です。そこでは、ただ死ねばよいのでなく、その死に方、死の作法こそが大事です。つまり、死の実質以上に、様式性・形式性・儀式性が重視されます。アレクサンドル・コジェーヴの言葉を使っていえば、スノノビズムとしての死です。(スノビズムについては昨年11月4日の安達明「女学生」、今年1月6日の吉永小百合「フレッシュ東京」の項をご参照ください。)
 三島由紀夫はあのハラキリにおいて、なによりも、「雅」に連なる伝統の「様式=型」の美学に殉じたのです。そのことによって、伝統的様式美そのものの終焉を実演してみせたのです。
 そして、歌謡曲における様式美の最後の光芒が、「雅」の歌い手としての舟木一夫でした。青春歌謡の時代の終焉は「様式=型」の文化の終焉でもあったということです。
 これが私の「青春歌謡の時代」としての1960年代論の「結論」です。
 (もっとも、「結論」が出てもブログは続きます。)

*2012年8月28日追記
 先日カラオケで霧島昇の「誰か故郷を想はざる」(昭15 西條八十作詞/古賀政男作曲)を歌おうとして「たれか」で検索したら出てきません。「だれか」で検索し直したら出てきました。画面の歌詞テロップも「誰」に「だれ」と濁点付きでルビが付いていました。バカです。読み方として「だれ」がまちがいだとは言いませんが、「たれ」と読めない者は、文化的にはバカ者です。こういう無自覚なバカ者どもが現代の文化商品を生産し、文化の劣化に拍車をかけます。こうして文語体=雅の文化は完全に死にました。死んだことすら忘れられました

吉永小百合「フレッシュ東京」&ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」他 東京讃歌(6) 東京→トーキョー→TOKYO→TOKIO

吉永小百合・フレッシュ東京日野てる子・ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー
 今日はオリンピック直前にもどって、吉永小百合の「フレッシュ東京」を紹介します。
 これもいまyoutubeにはありませんし、ヒット曲というわけでもないのですが、話の流れとして押さえておきたいのです。題名どおり、曲調は軽快な行進曲風。明るくさわやかでシンプルです。

吉永小百合「フレッシュ東京」
  昭和39年2月発売
  作詞:佐伯孝夫 作曲・編曲:吉田正
 一 フレッシュな朝がくる また朝がくる
   どうして東京 こんなにも
   うっとりさせるの ひきつける
   うっとりさせるの ひきつける
   歌う東京 花の街々
   今年こそ 今年こそわが東京は
   世界の東京 フレッシュTOKYO
 二 フレッシュなスタイルで またスタイルで
   あの娘(こ)もこの娘(こ)も いい好み
   生き生きしてるよ 明るいよ
   生き生きしてるよ 明るいよ
   ヤング東京 空はみどりに
   今年こそ 今年こそわが東京は
   世界の東京 フレッシュTOKYO
 三 フレッシュな夜がくる また夜がくる
   あなたのおしゃれは 月よりも
   しずかでしとやか みやびやか
   しずかでしとやか みやびやか
   夢の東京 そぞろ歩かん
   今年こそ 今年こそわが東京は
   世界の東京 フレッシュTOKYO
   フレッシュTOKYO

 若い娘(たち)の東京讃歌です。
 「今年こそ 今年こそわが東京は 世界の東京」です。もちろんこれはオリンピック開催を指しています。東京は世界中の注目を浴び、世界中からの観光客を迎える「世界の東京」になるのです。そうやって世界にデビューする国際都市・東京が、「フレッシュ」で「ヤング」な東京だということです。
 実は今日は、歌詞の内容よりも曲名に注目したいのです。
 この時期、「フレッシュ東京」の他にも、  「ウナ・セラ・ディ東京」 、「ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー」 のように、カタカナの修飾語の付いた東京の歌がヒットします。先日(12月31日)一言触れた高木たかしの「東京ア・ゴー・ゴー」も同じ流れの中にあります。
 「ウナ・セラ・ディ東京」(昭39-9岩谷時子作詞/宮川泰作曲/東海林修編曲)は昭和38年11月にザ・ピーナッツが「東京たそがれ」と題して発売したものの、あまりヒットせず、翌年、タイトルを変え、アレンジを変えて発売したら大ヒットになりました。Una Sera-di Tokio はイタリア語で「東京のある一夜」という意味。実は昭和39年に「カンツォーネの女王」と言われたイタリアの歌手・ミルバが来日してこの曲を歌ったのがきっかけでブームになったので、タイトルをイタリア語に変えて再発売したものだそうです。([wikipediaウナ・セラ・ディ東京]参照)経緯からして「国際的」です。ザ・ピーナッツ以外にも、和田弘とマヒナスターズ、西田佐知子、坂本スミ子らも歌う競作となりました。
  「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」 (鈴木道明・作詞作曲)の方は英語ですね。 越路吹雪はこの曲で昭和40年のレコード大賞歌唱賞を受賞しましたが、もともとは「東京たそがれ」と同じころに発売されたものです。これもやはり、マヒナスターズもザ・ピーナッツも日野てる子も歌いました。このタイトル、「ワン・レイニー・ナイト・イン東京」となっているものもありますが、越路吹雪版はカタカナの「トーキョー」です。
 ところで、冒頭の吉永小百合のレコードジャケットをご覧ください。(クリックすると拡大されます。)「フレッシュ東京」というタイトルよりも大きく、「Fresh Tokyo」と白く英語で書かれていることにお気づきでしょう。歌詞の表記も「フレッシュTOKYO」です。
 同じビクターから昭和39年の10月に発売された田辺靖雄の「東京の夜」も、ジャケットには「NIGHT IN TOKYO」と英語が書かれています。また、曲名自体、「東京の夜(ナイト・イン・トウキョウ)」と登録されています。(田辺靖雄「東京の夜」はこちらで聴けます。そのレコード画像でご確認ください。natsukikenji2さんに感謝しつつ無断リンクします。 http://www.youtube.com/watch?v=UtIIWwL--Ps )
 「フレッシュ」は日本語(日本語の語彙目録と音韻体系に取り込まれた外来語)ですが、「Fresh」は英語です。同様に、「トウキョウ」や「トーキョー」は日本語ですが、「Tokyo」は英語です。国際化とは、「東京」が「トーキョー」になり「Tokyo」「TOKYO」になることです。
 ( 日本語の曲名と英語タイトルとを併記するのはポップス系レコードの形式です。ポップス系は欧米曲の日本語カバーが多かったからです。つまり、歌謡曲レコードがポップス系レコードの真似を始めたということでもあります。 )
 もちろん「Fresh」と書いたところで、日本人はみな「フレッシュ」と日本語のアクセントと音韻で発音しています。「Una Sera-di Tokio」も「One Rainiy Night in Tokyo」も同じことです。みんな「ウナ・セラ・ディ・トーキョー」「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」と日本語で発音しているのです。
 文字は言葉の形式です。包装・パッケージです。形式(包装・パッケージ)を外国風に変えると、同じ東京でも何だか新しくかっこよくなったような気がするのです。欧米に憧れつづける近代日本の、これがモダニズムです。東京オリンピックは日本人のモダニズムを加速させました
 実質よりも見かけ上の形式の美に魅惑されてしまうのが日本文化の特質だ、と述べて、それを「スノビズム」と名づけたのはアレクサンドル・コジェーヴでした。コジェーヴは武士の切腹という儀式性・様式性を重視した死を例に挙げていますが、11月4日の安達明「女学生」の項で書いたとおり、井口時男はこのスノビズム文化を完成させたのは平安朝の貴族だと述べています。それなら、佐伯孝夫が「フレッシュ東京」の三番で、「フレッシュ」で「ヤング」なモダンな娘たちの夜の装いを「みやびやか」と書いたのも当たっていることになります。「みやび(雅)」とは「宮び」、つまり宮廷風、平安貴族文化の美的理念でしたから。期せずして、佐伯孝夫は、モダニズムの根っこにスノビズムがあることをその詞で示していたのです。
 TPP参加問題のように、グローバル化する資本主義への対応を迫られて「第三の開国」ともいわれる近年、企業名や商品名がどんどん、カタカナ書きどころかアルファベット書きになっていきます。「国際化」です。
 しかし、文学の観点でいえば、この文字表記上の「国際化」を可能にしているのが、漢字、ひらがな、カタカナ、さらにアルファベット(ローマ字)を平然と取り込んで、それぞれの文字体系の見かけ上の差異に文化的意味合いをこめて使う日本語の文字体系であることは忘れないようにしましょう。モダニズムもスノビズムも文字体系の差異を利用しているのです。そのかぎりで、「東京」も「トーキョー」も「Tokyo」も、すべては日本語の文字体系、つまり、日本文化の中にあります。この文字体系が、「国際化」の中で日本文化を最後に護っている伸縮自在な保護膜なのだということもできるでしょう。
ザ・ピーナッツ・ウナ・セラ・ディ東京沢田研二・TOKIO
 ところで、こちらでザ・ピーナッツの歌う「ウナ・セラ・ディ東京」を聴いてみてください。hiromiflower25さんに感謝しつつ無断リンクします。http://www.youtube.com/watch?v=UtIIWwL--Ps 
 「東京」が「トーキョー」ではなく「ト・キ・ヨ」と聴こえます。いくぶんイタリア語発音を意識したせいでしょうか。
 (ついでに、「東京たそがれ」はこちらで聴けます。 http://www.youtube.com/watch?v=K6JdkhLKRpA さらに、Milvaの歌う「Una Sera di Tokyo」もこちらで聴けます。 http://www.youtube.com/watch?v=xJx4HBi1kKE  upされた方々に感謝しつつ無断リンクしておきます。聴きくらべてみてください。)
 「トーキョー」が「トキヨ」になりました。発音も「国際化」しました。ジャケットのイタリア語表記はTOKIOです。
 この延長上に、ついに1980年、沢田研二の歌う「TOKIO」が出現します。ここではアクセントも発音も、どこの外国語でもない「トキオ」です。その意味ではどこにもない架空の「スーパーシティ・トキオ」です。その「トキオ」が空を飛んじゃいます。全国の「ときお」君たちはこそばゆかったのではないでしょうか。田舎者の「ときお」君だっていっぱいいるんですから(笑)。
 そしてとうとう、80年代末には「TOKIO」と名乗るアイドル・グループまで出現してしまいます。日本(東京)のモダニズムもここに極まったようです。あとは英語を公用語にするだけでしょう。
 (そういえば沢田研二は1975年にザ・ピーナッツの姉・伊藤エミと結婚(87年に離婚)したのでしたね。「トキヨ」から「トキオ」への東京の「進化?」はこの結婚によって決まっていたのかもしれません。(笑))

安達明「女学生」 スノビズム・モダニズムと青春歌謡

安達明・女学生安達明・女学生の友40-3いしだあゆみ
 女学生の話題となればこの曲に触れないわけにはいきません。安達明の「女学生」です。
 安達明は昭和39年5月に「潮風を待つ少女」でデビューしました。15歳でした。三田明以来定着した低年齢化ですね。「女学生」は彼の二枚目のシングルで最大のヒット曲となりました。
 なお、安達明氏は今年5月20日に亡くなられたそうです。63歳とのこと。まぎれもない団塊の世代の一人でした。ここに御子息が書かれた告知記事があります。http://yoshikawa.mypl.net/space/000000083627/ 
 こちらでお聴きください。吉永小百合の女学生姿がたっぷり堪能できますよ。(flint8823さんに感謝しつつ無断リンクです。なお、私が最初に安達明氏の訃報を知ったのも、flint8823さんの以前のページでした。そのことにも感謝。)http://www.youtube.com/watch?v=is2jlu9urAI
 (本日の画像右は、当時の雑誌「女学生の友」昭和40年3月号から。安達明といしだあゆみです。雑誌「女学生の友」については、次回書きます。)

安達明「女学生」
  昭和39年8月発売
  作詞:北村公一 作曲:越部信義
 一 うすむらさきの 藤棚の
   下で歌った アベ・マリア
   澄んだひとみが 美しく
   なぜか 心に残ってる
   君はやさしい 君はやさしい
   女学生
 二 セーラー服に 朝霧が
   流れていった 丘の道
   赤いカバーの ラケットを
   そっと小脇に かかえてた
   君は明るい 君は明るい
   女学生
 三 はるかな夢と あこがれを
   友とふたりで 語った日
   胸いっぱいの しあわせが
   その横顔に 光ってた
   君はすてきな 君はすてきな
   女学生

 アベ・マリアを歌ったこの女学生もミッション系の学校でしょうか。9月15日に西郷輝彦「君と歌ったアベ・マリア」の項で書いたとおり、キリスト教(というより、イメージとしてのキリスト教)は、青春歌謡の本質に喰い入っています。「アベ・マリア」は純潔のシンボルです。なんといってもマリアは「処女」のまま懐胎しました。そしてマリアは「聖母」です。この女学生は、慈愛に満ちたマリアのように「やさしい」のです。
 二番の彼女は、ひんやりと清潔な朝霧の中、セーラー服姿に「赤いカバーのラケット」を小脇にかかえて登校します。バドミントン部ではありません。これはテニス・ラケットです。スポーツ好きの、明るく健康的な少女なのです。おまけに知的でもあるのでしょう。
 テニスは、皇太子と正田美智子(9月21日参照)の軽井沢での「テニスコートの恋」以来、若々しいエロティシズムを発散する白いスコート姿とも相まって、知的で清楚で健康的な「お嬢様」イメージと結びつきました。同じくラケットをもち、白いスコートを着用しても、バドミントンではこうはいきません。(バドミントン愛好の方々、非礼をご容赦。)
 二十歳の浅丘ルリ子が米軍基地の町の女子高生役を演じた「十六歳」(s35)という映画があります。お下げ髪に白いブラウス、黒の(紺かな? モノクロ映画です)スカート姿の浅丘ルリ子、一見の価値があります(笑)が、16歳の彼女は高校のバドミントン部員でした(スコートではなく白い短パン姿でシャトルを追っていました)。しかし、結局彼女は、憧れの教師(葉山良二)とは結ばれず、嫌いな教師(長門裕之)に犯されて、転落して哀れな末路をたどることになります。その転落のドラマのきっかけは、貧乏な彼女が買いたくても買えなかったラケットでした。
 「赤いカバーのラケット」は、この女学生の知的で健康的で育ちがよくて「明るい」イメージを印象づけるアクセサリーです。その意味では、一番の「アベ・マリア」も宗教心とは関わりのないアクセサリーのようなものです。つまり「やさしい」女学生イメージを作るための記号です。
 青春歌謡の中では、風景も小道具も服装も、たいがいは実質のない記号なのです。それらの記号が協力して作り上げるイメージが聴き手を誘惑するのです。
 実質・内容(中身)ではなく、イメージ・形式(外見)に誘惑されるのは、べつだん、青春歌謡のファンばかりではありません。アレクサンドル・コジェーヴという思想家は、それこそ日本文化の特色だといって、「スノビズム」と名づけました。日本文化はスノビズムの文化です。日本人はみんな「スノッブ」です。「スノッブ」とは、上流の文化を模倣する軽薄な気取り屋のことです。
 文芸評論家の井口時男は『柳田國男と近代文学』という本で、この文化を完成させたのは実は平安朝の貴族たちだといっています。労働という実質を軽蔑し忌避した彼らは、ただただ美的な形式だけを洗練させたのです。彼らのその文化を「雅=みやび」といいます。「雅=みやび」とは都会風であることです。江戸時代にはそれは「粋=いき」と呼ばれました。都会人である「粋」な江戸の町人たちが軽蔑したのは「野暮=やぼ」です。田舎者は「野暮」の典型でした。江戸のいろはがるたに「花より団子」という札がありますが、「花=美」よりも「団子=実質」を選ぶのが「野暮」というものなのです。(いろはがるたは世相と人間のうわべの下に隠されたものを風刺します。「粋」を気取っていても、本音は「団子」の方に手が出てしまうのが人情だ、というわけです。)
 日本の都会文化はいつの時代も、ファッションでも音楽でも、美的な形式・イメージによって「野暮」を軽蔑し、軽蔑された「野暮」な田舎者は、都会の「雅」や「粋」な文化にうかうかと誘惑されて、文化的な上昇欲望を刺激されてきました。
 開国してヨーロッパ文化に接触すれば、かつての「雅」も「粋」も色あせて、京都も江戸(東京)も、日本全体が世界の中の「田舎=野暮」に転落します。そうなるとスノッブどもはたちまち、海の向うからやってくる外国の文化に憧れます。外国の文化は進んだ近代(モダン)の文化ですから、外国文化を模倣するモダンへの上昇志向は「モダニズム」と呼ばれることになります。おわかりのとおり、「モダニズム」も「スノビズム」の一種です。
 「モダニズム」というカタカナ用語がつかわれるのは大正末・昭和初めからでした。関東大震災で江戸の名残をのこした下町が壊滅したあとに復興した近代都市・東京が「モダン東京」と呼ばれたのがきっかけみたいなものです。文学上にも都会風俗を描く「新感覚派」が登場します。レコード産業と結びついた歌謡曲が誕生するのも同じころです。アメリカ音楽・ジャズが流行し、「モボ」(モダンボーイの略称)「モガ」(モダンガールの略称)と呼ばれる新風俗の若者たちが闊歩しました。何だか東京が大改造されて「世界の東京」になった東京オリンピック前後、つまり青春歌謡の時代に似ています。歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として、といったのはマルクスの名言ですが、二度どころか、歴史は懲りずに何度でも繰り返すのです(笑)。
 青春歌謡の時代、モダニズムは、ロカビリーからポップス、エレキ(ビートルズ、ベンチャーズ)という系譜をたどりました。9月26日に「青春ア・ゴーゴー」の項で書いたとおり、青春歌謡とは、そういう若者文化のモダニズム志向と演歌系の伝統とが譲歩し調和し共存して出来上がった歌謡曲でした。
 そして、10月2日の吉永小百合の「草を刈る娘」の項で書いたように、青春歌謡の時代の前半、東京オリンピックごろまでは、かろうじて、青春歌謡も田舎の素朴さを肯定していました。決定的に変質するのは東京オリンピック以後です。オリンピック以後、都会が決定的な勝利を収めるのです。以後、敗北した田舎は無視されることになります。汚い比喩で申し訳ありませんが、鼻もひっかけられなくなります。若者たちがみんな東京に憧れて出て行ってさびれてしまう漁師町(舟木一夫が歌った「浜の若い衆」(10月5日)の住む町だと思ってくれてもかまいません)が、どうしようかと悩んだあげく、補助金目当てや若者の就職機会を増やそうと原発を誘致したりします。しかし、都会=東京の勝利という問題は、後日のテーマとしましょう。
 (なお、コジェーヴの日本論=スノビズム文化論は、1959年に来日した時の印象をベースにしたものですが、彼はまた、人類の未来はアメリカ(物質文明)ではなく日本(スノビズム)にある、とも「予言」しました。アメリカ型の物質文明は「暖衣飽食」、つまり実質を追究する欲望です。日本の経済成長も実際にはアメリカを追いかけたものです。しかし、「暖衣飽食」を達成した今や、クール・ジャパンが世界への日本文化の輸出品です。クール・ジャパンの中心は、マンガとアニメ。つまり、西洋近代絵画の遠近法的・三次元的な写実とは異なる平安朝の絵巻物や江戸の浮世絵以来の平面的・二次元的な世界です。村上隆などという世界的な売れっ子画家が描くのもアニメ的で平面的・二次元的な絵画です。二次元的表現には三次元世界の実質(現実世界の写し)はありません。ただ形式(デザイン性)があるだけです。たしかに世界中が日本化し始めているのかもしれません。)
 「女学生」の歌詞にもどりましょう。三番です。「はるかな夢と憧れ」を「友と語った」のは誰でしょう。また、この「友」は誰でしょう。
 彼女の「澄んだひとみが美しく/なぜか心に残ってる」という一番の語り手は、彼女のすぐ傍にいたようです。そうすると、ここには淡い恋愛感情のようなものを推測したくなります。では、三番の語り手は?
 語り手がその場にいたとすると、彼女が彼女の「友」(たぶん同性でしょう)と語っているのを横から見ていたのでしょうか。「友とふたりで」というのに三人目がその場にいたことになるのは変です。
 語り手自身が主語で、語り手が彼女のことを「友」と呼んでいるのでしょうか。それなら、何度か書いたように、恋愛感情を示唆しながら友情の圏内に収める学園ソングのやり方だということになります。でも、目の前にいる「君」をわざわざ言葉を変えて「友」と呼ぶのはひどく不自然です。
 ここの隠された主語は、やはり「君」なのだと思います。女学生である「君」が、「君」自身の「友」(たぶん同性)と語っていたのです。では、詞の語り手はどこにいたのでしょう。語り手はその時、ただ、「胸いっぱいのしあわせ」が光る彼女の「横顔」を見ていたのです。しかし、すぐ傍にいたのではなく、遠くから見ていたのです。遠くからなのに彼女の表情がよく見えたのは、語り手がもう、超越的な、姿なき語り手になっているからです。
 この詞の中で、語り手はいつでも彼女を見ています。見守っている、といった方がよいかもしれません。語り手がこの詞の世界の内部にいると考えると、彼女と語り手の関係が気になります。同級生か友人か恋人未満のボーイ・フレンドか。しかし、そういう関係の推測はしない方がよいのだと思います。全体として、少なくとも二番以後、もう語り手は詞の世界の内側にはいないのだ、と思った方がよいのです。つまり、語り手は、世界の外側から、この女学生を見守って、彼女の若さを、汚れのない「やさしさ」「明るさ」「すてきさ」を、讃美しているのです。
 歌謡曲の歌詞における語り手の位置は歌手本人の位置と重なります。まだ笑顔もあどけない清潔感ただよう少年歌手・安達明に見守られ、「君」と呼びかけられて讃美されて、同年代の女学生たちがうれしくなるのは当たり前です。
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  • 769 西郷輝彦「海の子守唄」 追悼・山本陽子 「日活三人娘」の陰で
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  • 769 西郷輝彦「海の子守唄」 追悼・山本陽子 「日活三人娘」の陰で
  • 769 西郷輝彦「海の子守唄」 追悼・山本陽子 「日活三人娘」の陰で
  • 769 西郷輝彦「海の子守唄」 追悼・山本陽子 「日活三人娘」の陰で
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  • 768 仲宗根美樹「昨日の雲は帰ってこない」 追悼・仲宗根美樹(2) 昼メロ主題歌
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  • 767 仲宗根美樹「雲は流れる」 追悼・仲宗根美樹 「川は流れる」再び
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  • 766 田代みどり「白い雲と少女」 13歳の少女らしく 歌う日活(14)
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  • 765 田代みどり&浜田光夫「憧れの東京」 東京讃歌&東京見物 歌う日活(13)
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  • 764 田代みどり「京舞妓」(日活「舞妓の上京」主題歌) 13歳、中学一年生の舞妓はん 歌う日活(12)
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  • 763 高橋英樹「夕焼け山脈」 これも「青い山脈」だ! 歌う日活(11)
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  • 762 舟木一夫「踊ろうぼくと」 「舟木一夫お兄さん」の歌
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  • 761 高橋英樹「エデンの海」 歌う日活(10) 瀬戸内海の「青い山脈」
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  • 760 浅丘ルリ子「青空さんゴメンナサイ」 歌う日活(9) 付・浅丘ルリ子のデビュー(歌手&子役)は?wikipedia存疑
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  • 759 宍戸錠「黒い馬に跨る男」(「早射ち野郎」主題歌) 歌う日活(8)  宍戸錠のウエスタン
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