遊星王子の青春歌謡つれづれ

歌謡曲(青春歌謡)がわかり、ついでに文学と思想と歴史もわかってしまう、とてもためになる(?)ブログ。青春歌謡で考える1960年代論。こうなったらもう、目指すは「青春歌謡百科全書」。(ホンキ!?)

寮歌

 「遊星王子」は遠い星からやってきました。ふだんは東京の街角の靴磨き青年に身をやつしています。アメリカの大都会の新聞記者になりすましているスーパーマンに比べると貧乏くさいけれど、これが日本、これが戦後です。
 宇宙から日本にやって来た正義の味方としては、スーパー・ジャイアンツには遅れましたが、ナショナルキッドよりは先輩です。
(またの名を落日の独り狼・拝牛刀とも申します。牛刀をもって鶏を割くのが仕事の、公儀介錯人ならぬ個人営業の「解釈人」です。)

 「青春歌謡」の定義や時代区分については2011年9月5日&12月31日をお読みください。暫定的な「結論」は2012年3月30日に書きました。
 この時代のレコードの発売月は資料によってすこし異なる場合があります。
 画像や音源の多くはほぼネット上からの無断借用です。upされた方々に多謝。不都合があればすぐ削除しますのでお申し出下さい。
 お探しの曲名や歌手名・作詞家名があれば、右の「記事検索」でどうぞ。
 なお、以前の記事にも時々加筆修正しています。
 遊星王子にご用のある方は、下記アドレスの○○を@に変えてメールでどうぞ。 yousayplanet1953○○gmail.com(22-8-1記:すみません。5月初めにパソコンを新調して以来、なぜか自分でもこのアドレスに入れません。)
 *2015年2月23日
 「人気記事」を表示しました。直近一週間分の集計結果だそうです。なんだかむかしなつかしい人気投票「ベストテン」みたいです(笑)。
 *2015年7月25日
 記事に投稿番号を振ってみました。ブログ開始から3年と11か月。投稿記事数426。一回に数曲取り上げた記事もあるので曲数は500曲ぐらいになるでしょう。我ながら驚きます。
 *2017年6月17日 累計アクセス数1,000,000突破。
 *2017年10月16日、他で聴けない曲に限ってyoutubeへのアップ開始。
  https://www.youtube.com/channel/UCNd_Fib4pxFmH75sE1KDFKA/videos
 *2022年11月29日 累計アクセス数2,000,000突破

小林旭「北帰行」  戦時下の抒情(2) 満州国の青春

 では、「惜別の唄」に続いて戦時下の抒情の二曲目。「惜別の唄」のA面で小林旭が歌った「北帰行」。
 こちらで聴きながらお読みください。Glory7Dfさんに感謝しつつ無断リンクします。(当時のモノラル音源で聴けるのはここだけのようです。)

小林旭・惜別の唄小林旭「北帰行」
  昭和36年10月発売
  作詞・作曲:宇田博 編曲:狛林正一
 一 窓は夜露に ぬれて
   みやこ既に 遠のく
   北へ帰る 旅人ひとり
   涙流れて やまず
 二 夢はむなしく 消えて
   今日も闇を さすらう
小林旭・渡り鳥北へ帰る   遠き想い はかなき望み
   恩愛 我を去りぬ
 三 今は黙して ゆかん
   何を亦 語るべき
   さらば祖国 いとしき人よ
   あすは いずこの町か…

 これも歌声喫茶で歌われていたもの。そして、以下に記すようにもともとは戦時中に作られたもの。
小林旭・渡り鳥北へ帰るより・郷鍈治 一年前の大ヒット曲「さすらい」(昭35-9)の世界を踏襲して完璧に小林旭のものになっています。(右は「北帰行」を主題歌に使った昭和37年の正月映画「「北帰行」より 渡り鳥北へ帰る」の一場面。「渡り鳥」シリーズの最後の作品となった本作のライバルは宍戸錠でなく、宍戸錠の弟・郷鍈治。)
 「さすらい」は「夜がまた来る」こちらは「窓は夜露にぬれて」、「さすらい」は「どうせ死ぬまでひとりひとりぼっちさ」こちらは「恩愛我を去りぬ」。深い絶望を抱いて孤独な旅人は北へさすらいます。
 三番の「さらば祖国」だって、日本を離れて「北へ帰る」のなら故郷はアラスカかサハリンかシベリアか、などと今は亡き人生幸朗師匠なら突っ込むところかもしれませんが、「日活無国籍アクション」のヒーローが歌うのだと思えばまったく気になりません。むしろ、国境を越えてさすらう「無国籍」のデラシネ(故郷喪失者、根なし草)ぶりこそ「渡り鳥」にふさわしい。
 (ちなみに、オリジナル音源では旭は「恩愛(onai)」を「おんない」に近く発音しています。フランス語のリエゾンに似て「a」が直前の「n」と結合して「na」に近づくのです。正統にこだわる人が「万葉集」を「まんにょうしゅう」と発音するのと同じです。しかし、再吹き込みのステレオ盤(70年代)ではもうはっきり「おんあい」と歌っています。昭和30年代の日本語はまだ伝統を尊重していたのだ、と言いたくなります。これもまた、「荒城の月」三番の「松に歌ふは」を舟木一夫は正しく「うとうは」と歌い、70年代の倍賞千恵子は「うたうは」と歌っていたのと同じく、70年代に日本語の正統が崩れてしまったことの事例です。)
 ところで、「さすらい」は「西沢爽作詞/植内要採譜/狛林正一補作曲・編曲」でした。実はこれも原曲は戦時下の歌。フィリピン・ルソン島に派遣された第16師団の兵隊たちが歌っていた「ギハロの浜辺」という歌だそうです。(詳細はこちらのページ。)だから「採譜」「補作曲」。
 小林旭はこの頃、「さすらい」「北帰行」「惜別の唄」と、三曲つづけて、戦時下の抒情を60年代歌謡曲の世界によみがえらせたのでした。

 さて、「北帰行」の原曲が作られたのは昭和16年(1941)5月の満州・旅順
 日中戦争は泥沼化してもうまる四年近く、5月16日には「日本文芸家協会」が「文芸銃後運動」を開始しました。さかのぼってこの年の年頭には「戦陣訓」が発表され、言論統制・思想統制は強化されて、米国との交渉は行き詰まり、日米開戦近しの暗雲が垂れこめ(いやいや、米英討つべしのから元気の無責任な叫びが高揚し)、この翌月6月には独ソ開戦、満州では7月2日に対ソ戦準備のために大本営が関特演(関東軍特別演習)で満州の野に70万人の兵力を集結させ、年末にはいよいよ日米開戦、という時代です。
 作者の宇田博は当時旅順の旅順高等学校二年生。満州の奉天一中から四年終了で東京の一高を受験するが失敗し、新京の建国大学予科に入学したが半年で校則違反によって退学となり、開校したばかりの旅順高校に入学したのでした。
 旅順高校は昭和15年3月開校。大日本帝国が最後に設立した官立高校。宇田はその一期生。(『アカシアの大連』で知られる詩人・小説家の清岡卓行も宇田と同じ旅順高校一期生でした。清岡は一年生の夏休みに大連に帰省したまま退学して東京の一高に移ります。)
 宇田のあこがれていた往時の旧制高校の自由バンカラの校風は戦時体制下の満州の新設高校にはかけらもなく、校則は二百八十条もあったそうで、宇田は寮の門限破りや飲酒を繰り返し、あげく、女の子とのデート現場を教官に見つかって「性行不良」で退学処分になります。それが昭和16年の5月でした。
 宇田が旅順高校との別れに際して作ったのがこの歌。友人たちに披露するや、旅順高校の第二寮歌のようにして歌い継がれたといいます。
 ちなみに、宇田の作った原曲は5番まであって、小林旭の歌詞は元の歌詞から一、三、五番を抜粋して、さらに一部を修正したものです。
 非公式の第二寮歌として歌われていた歌詞はこちら「二木紘三のうた物語」に紹介されています。その原曲の二番「建大 一高 旅高/追われ闇を旅ゆく」は宇田自身のたどった軌跡にほかなりません。
 元の歌詞にもどってみれば、「みやこ既に遠のく」の「みやこ」は東京。「さらば祖国」の「祖国」は日本、「北へ帰る」の「北」は満州国。(あるいは旅順を去る宇田自身に置き換えても旅順より「北」の奉天の親元に帰るので意味は通ります。)
 満州国建国から9年経過していますが、国籍法が不備だったため満州在住の日本人は満州国籍を取得することなく、みな日本国籍のままでした。つまり、どれほど長く満州で暮らしていようが(多数の日本人の満州暮らしは日露戦争後の満州利権獲得にまでさかのぼります)、彼らの帰属先はあくまで日本でした。遠く「祖国」を離れて来たのだという流離の思いは誰の胸底にもあったでしょう。ことにも若い高校生たちのこと、「北へ帰る」も「さらば祖国」も彼らの流離の思いを刺激したはずです。
 そしてまた、宇田のように反抗を行為で示さずとも、息苦しい学校管理体制への反抗心(それはまた、息苦しい戦時体制への反抗心とも気脈を通じるものです)は周囲の学友たちにも共有されていたでしょう。だからこそ、失意流浪の思いを歌った「不良学生」宇田の別れの歌が、そのまま彼らエリート高校生たちの第二寮歌のように歌い継がれたのです。
 (正規の寮歌では天下国家を担う「公的」意識を歌い、非公式の第二寮歌では青年期の「私的」な感傷や反抗心を歌う、というのは寮歌にはよくあることです。やはり宇田博が作詞作曲した旅順高校の第一寮歌は日露戦争の「父母奮戦の地」を訪ねて「旅高健児の意気」を新たにし、「新東洋」建設の柱石たらんと志す「公的」な内容でした。以前紹介した東北大学有朋寮の「有朋愚連隊の歌」もエリートたちの不良気取りを歌う「私的」な第二寮歌です。またこの公私の使い分け(歌い分け)は、西郷輝彦「若鷲の歌」&「或る晴れた日に」の項で書いたように、戦時下の兵隊たちが「公的」な軍歌に隠れて「私的」な替え歌を歌っていたこととも共通します。)
 建国大学予科退学から旅順高校退学に至る宇田の一連の反抗的行動は、しかし、明確な政治的信条によるものではなかったようです。
 赤坂憲雄『北のはやり歌』宇田の自伝的エッセイ『大連・旅順はいま』の内容も紹介していて興味深いものですが、そこで赤坂は「宇田少年にはおそらく、反戦平和の思想やらマルクス主義にたいするシンパシーといったものはなかったにちがいない。そこにあったのは、ただ強圧的な権威や力の誇示を嫌悪し退けようとする、少年の反抗心だけではなかったか」と書いています。その推測は当っているでしょう。
 赤坂の紹介するところでは、宇田は当時、退学の引き金になった少女と清純なデートを繰り返すかたわら、出征兵士の妻との肉体関係を継続していたそうです。宇田の反抗心とデカダンスは表裏一体のものでした。
 「反戦平和の思想」や「マルクス主義」によって正面から権力にぶつかった年長の若者たちは、昭和10年前後に徹底的に弾圧されてしまっていました。それは文学でいえば、埴谷雄高や野間宏、武田泰淳といった第一次戦後派の世代です。
 大正末年近くの生まれだった年少世代の宇田博の「反抗」は、校則で禁止されていた喫茶店に入りびたったり「異性交遊」をつづけたりして「不良」視されていた、安岡章太郎などの第三の新人たちのささやかな「反抗」に近かったようです。

舟木一夫「荒城の月」 秋は月(13) 付・土井晩翠小論&近代詩史小論

 季節はずれは承知で続けてきた「秋は月」、最後は有名な「荒城の月」で締めくくります。
 舟木一夫が歌っています。こちらで聴きながらお読みください。jewel5522さんに感謝しつつ無断リンクします。
 (詩は歌詞カードではなく土井晩翠の詩集から旧かな遣いで引用します。)

舟木一夫「荒城の月」
  昭和43年9月発売
  作詞:土井晩翠 作曲:滝廉太郎 (編曲:松尾健司)
 一 春高楼の花の宴
舟木一夫・荒城の月   めぐる盃影さして
   千代の松が枝わけ出でし
   むかしの光いまいづこ。
 二 秋陣営の霜の色
   鳴き行く雁の数見せて
   植うるつるぎに照りそひし
   むかしの光今いづこ。
 三 いま荒城のよはの月
   変らぬ光たがためぞ
   垣に残るはただかづら
   松に歌ふはただあらし。
 四 天上影は変らねど
   栄枯は移る世の姿
   写さんとてか今もなほ
   あゝ荒城の夜半の月。

舟木一夫LPひとりぼっち第2集 「赤とんぼ」三木露風作詞/山田耕筰作曲)とのカップリング(両面とも松尾健司の編曲)。抒情歌だけのシングル盤は舟木一夫としては初めてでした。リズムとエレキと都市的快楽の時代にあえて亡びゆく日本の抒情を選択したことになります。こうして舟木一夫はますます反時代的に「あはれ」を深めていきます
 (右の画像は「荒城の月」「赤とんぼ」他、抒情歌だけを収録したLP「ひとりぼっち第2集 舟木一夫想い出の歌」(昭43-11発売)。)
 さて、土井晩翠の詩は、「明治三一年頃東京音楽学校の需(もとめ)に応じて作れるもの、作曲者は今も惜まるる秀才滝廉太郎君」という前書があるとおり、最初から作曲されることを前提として書かれた詩でした。それゆえ初出も明治34(1901)年刊の東京音楽学校編『中学唱歌集』。
 仙台出身の晩翠は仙台城(青葉城)と会津若松の鶴ヶ城をイメージしてこの詩を書き、滝廉太郎は小学校時代を過ごした大分県竹田市の岡城址をイメージしながら曲を作ったといわれます。
 例によって無用の解説。
 一番は城中で催された春の酒宴の景。爛漫の桜花を愛でながらの華やかな宴です。「千代の松が枝」(千年も常緑を保つ松の枝)はこの栄華の「千代」にもつづく永続性を寿ぐかのようでもあったでしょう。松に託して千寿万寿の繁栄を祝うのは「めでためでたの若松さまよ」などと俗謡にも歌われる予祝の定型です。(なのに、いまは城は無人なのです。)
 転じて二番は秋の戦陣の景。ここは上杉謙信の著名な七言絶句「九月十三夜陣中作」の初二行「霜満軍営秋気清/数行過雁月三更(霜は軍営に満ちて秋気清し/数行の過雁月三更)」を踏まえたもの。「植うるつるぎ」は一番の「松が枝」と対比させて、林立する刀槍を樹林にたとえたのでしょう。
 一番も二番も、この城が栄華を誇っていた戦国の世です。末尾のリフレイン、「昔のひかり今いづこ」は、昔の月光は今どこにあるか、ですが、それはいわば修辞疑問。むしろ、この城の昔の栄光は今どこにあるか、の意を下に潜めます。あくまで視点は現在からの回顧です。
 三番の「いま」がその現在をあらわに示します。今はもう人住まぬ荒れ果てた城。昔と変わらぬ月光は誰のために照らすのか。文明開化、廃藩置県になって無用の長物化した各地の城が次々に民間に売却された(あの姫路城さえも)のが明治という時代です。
 四番は三番の感慨を一種形而上的な想いにまで高めます。天上の月光は変わらぬが栄枯盛衰移ろうのがこの地上の運命。月はその無常の運命を映しだすかのようだ、というのです。自然の永遠性に対する人事無常の思いです。
 歴史を回顧して無常を詠嘆する、という主題は晩翠が得意としたものでした。たとえば、「三国志」の英雄・諸葛孔明の死を歌って人口に膾炙した長編「星落秋風五丈原」も、万里の長城に立って始皇帝の偉業と亡びを回顧した長編「万里長城の歌」も、そういう詩でした。その意味で、「荒城の月」は歌曲用に書かれた短詩ですが、晩翠の世界を凝縮した詩だと言えるでしょう。
 (なお、三番の「松に歌ふは」、舟木一夫は「うとうは」と歌っていますが、倍賞千恵子の歌唱を聴いたら「うたうは」と歌っていました。これは「au」を「oo」と長音化する舟木が伝統として正しい歌い方です。倍賞千恵子の歌唱はたぶん1970年代でしょう。60年代まで保たれていた日本語の正統が70年代以後に崩れた証拠の一つです。同様の崩れは小林旭「北帰行」でも生じています。)

 土井晩翠は英文学者にして詩人。「学匠(学者)詩人」の先駆けです。明治30年代前半、島崎藤村と並び称されていました。
 藤村も晩翠も広義のロマン主義ながら、世界はまったく違いました。藤村は女性的で晩翠は男性的、藤村は和文脈で晩翠は漢文脈、藤村は抒情詩的で晩翠は叙事詩的、恋愛詩の多かった藤村の世界は「私的」で歴史回顧に名詩の多かった晩翠の世界は「公的」、さらには、藤村の「美」に対する晩翠の「崇高」藤村の等身大の抒情に対して晩翠の英雄主義に傾く抒情藤村の個人主義的ロマン主義に対して晩翠のナショナリズムを含みこんだロマン主義、等々といった対比が可能です。
 しかし、その後の近代詩は藤村の路線の延長上で進み、現在では晩翠が顧みられることはまったくありません。
 理由はいくつかありますが、なにより重要なのは漢文脈の伝統が明治時代で命脈が尽きること。本来「詩」といえば漢詩を指したのですが、近代日本語が漢詩漢文の伝統を棄てるのです。
 それに伴って、「詩は志」(『書経』や『詩経』)という漢詩の重要な観念も消えていきます。「志」には政治や社会にかかわる「公的」な思想も含まれます。歴史というものも民族や国家の命運にかかわる「公的」なものです。「公的」な主題が消えるとき、「私的」な抒情だけが残ることになります。主情的な「うた=和歌」の伝統だけが残る、と言ってもよいでしょう。
 以後、近現代詩はひたすら藤村流の「私的」な思いの表現に向かうのです。この点では象徴主義だってシュールレアリスムだって、表現技巧は複雑化しても、「私的」モチーフであることに変わりありません。
 もちろんそれが近代というものです。近代文学、とりわけ近代詩は「私的」なもの、個人の「自己表現」です。自己を突き詰めない表現はとかく空疎な文飾に流れやすい。晩翠の詩にもそういう弱点がありました。
 しかし、個人の生は「公的」なものと無関係ではいられません。なにしろ「大日本帝国」の時代です。大日本帝国も個人主義を容認しました(弱肉強食の資本主義を支える私有財産制は個人主義の法的・経済的基礎です)が、反面で家族主義、国家主義によって個人の自由を厳しく制限していました。しかも国家や民族という「全体」の命運にかかわる戦争も繰り返します。
 そういう時代、文学表現の主流から消えた土井晩翠の世界は、たとえば旧制高校寮歌の歌詞に引き継がれます。彼らエリート高校生たちにあっては、個人の栄達は天下国家を担う使命感と不可分です。「私的」なものと「公的」なものとは、彼らの「立身出世」において結びついているのです。だから、彼らが寮というエリート共同体の理想を謳い上げた寮歌には晩翠の詩句や晩翠的な漢文脈の修辞が多く取り込まれました。
 そしてまた、国家改造の「志」を歌い上げた「昭和維新の歌(青年日本の歌)」(三上卓作詞)が「星落秋風五丈原」など、晩翠の詩句を多く引用=換骨奪胎していることも有名です。
 逆にいえば、そうした「公的」なものを歌う語彙や修辞を提供できるすぐれたモデルが晩翠詩以外になかった、ということでもあります。さらにいえば、「自己」によって十分に裏打ちされていない晩翠の詩句は、「型」を踏んで「型」を出ること少なく、それゆえ他人の詩(歌)の文脈に引用=移植されやすかったのだ、とも云えます。
 「昭和維新の歌」は右からの「志」でしたが、左から国家改造の「志」を歌えばプロレタリア詩になります。プロレタリア文学は、いわば、下(下層階級)から「公的」なものに関わろうとした文学です。
 そして、日中戦争から大東亜戦争へと歴史が進行する中で、左翼も自由主義者も個人主義者も弾圧され、「公的」な世界を打ち棄ててきた詩人たちが戦争翼賛の「公的」表現ばかりを歌うようになります。なにしろ、昭和16年1月8日に陸軍大臣東条英機が示達した「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を含むあの「戦陣訓」の校閲(文章推敲)に、かつての「公的」詩人だった土井晩翠のみならず「私的」詩人だった島崎藤村も従事したのです。戦争という国家最大の「公的行事」は詩人たちの言葉の力をも動員しました。日本近代詩史の皮肉です。
 なお、舟木一夫はこの三年後、「初恋」(昭46-9)で、今度は島崎藤村の世界を歌うことになります。
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