November 2007

不思議の師弟

 先日How toの絵と解説を書いたのだが(おっけー出ました)ボクに言わせればこの解説ほど厄介なコトは無い。単純に個人の資質の問題であり、ボクがこうした事に向いていない人間である、というだけの話だ。実際ボクの書いた解説はいささかも解説にはなっていなかったりする。幸い、この辺の所は編集部の方で手を入れてくれるので基本的には問題ない。ボク自身が解説になっていない事を全面的に認めているので、編集作業は躊躇無く全面的に編集部に委ねられた。

 さて、ではなぜボクの書く解説が解説にならないのか?答えは簡単、ボク自身がボクがやっている事に何の魔術的効力も全く無い事を熟知しており、種や仕掛けはどこにも無いからだ。
 が、第三者から見ると話は別である。ボクにとって自明の理である事が、何か特別な技法、特殊な道具、特殊な段階を経ているように感じられることがままあるらしいからである。

 まずはっきりさせておこう。ボクは特別な事はしていない(とボクは信じている)。特段、取り立てて特殊な訓練を受けたわけでもない(むしろ逆だ)。さらに、普段仕事で利用するPainterとPhotoshopに至っては、極めて古いヴァージョンの頃からある基本的な機能しか用いていない(新しい機能を覚える気力は全く無いし、昔ながらのの使い方で充分快適に作業出来る)。

 が、第三者の目から見ると摩訶不思議らしい。ついでに担当編集者に言わせると「一般的な尺度からすると、クオリティーと作業速度の関係が異常である」らしい(速すぎると言う事のようだ)。このことについてはボクにはよく分からない。何の手品も使っていないし、秘技を行っているわけでもない。ただ描いた、それだけである。もし、この「ただ描く」という行為が他者よりも速いとすれば、それは極めて単純な訓練の積み重ねの結果に過ぎない。
 単純な訓練とは何か?素描である。しかも非常に主観的な素描。所謂、陰影法とか遠近法とか言われる類いのものですらない。美大を受験する時のようなデッサンの訓練をボクはした事が無いし、この先も恐らくしないだろう。これは純粋にボクの性格に起因するものであり、それ以上でもそれ以下でもない。だから、解説が解説にならないのである。

 ボクにとって「どうしたらこんな風に、しかも短時間で出来てしまうのですか?」という問いは「どうしたら呼吸が出来るでしょうか?」という問いに等しい。そういう次元の考え方の持ち主が、どうして自分の作業を解説出来るだろうか?無理に決まっている。だが、問いを発する側にとっては重要な事である事もボクは何となく理解出来るし、そうした問いに対して否定的な立場を取るつもりは無い。が、いざ解説しようとすると上記した以上の事は決してボクの口から発せられる事は無いのである。質疑者は途方に暮れるだけ、何の解決にもならない。

 今回のように、間に編集者が入ってくれて翻訳(というしか無いではないですか)してくれる場合はまだマシである。直接ボクから聞かされた質疑者は煙に巻かれた気分を味わい、そして悩み、悄然とするであろう。つまり、ボクは教育者として不適合なわけである。

 そもそも、私的唯物論的機能主義というのが理解しづらいらしい。

 当たり前である。ボクがボクの性格、能力に応じてボク自身のために最適化した思考方法であり、普遍性とか真理とかとは程遠い所にある考え方だからだ。だが、ナニかを教えようとすればボクはこの歪な思考法に頼らざるを得ない。ボクにとって合理的でも、人によっては非合理のインゴットのように思われても仕方が無いのだ。
 この事をボクは熟知しているし、そもそもこの私的唯物論的機能主義はボクのオリジナルでもなんでもなく、ボクが勝手に師匠と拝む方から教えられた事にバウハウスの機能主義を強引に結びつけて発展させたに過ぎないのだ。

 で、実際師匠の考え方を完全に理解し実践に移せる人間というのは限られているだろう。ボクはたまたまそういう僥倖に恵まれた(というか師匠同様、変人だった)だけである。似た者同士にならすぐに分かるが、少しでも外れるとあっという間に異端の思考と化し、下手をすると魔術的、或いは神秘的な奇跡になってしまう。
 この点については師匠も同感らしく「説明すれば分かってはくれるんやけど、いざ実際に作業となると、どうも違う。君ぐらいやなぁ、最近では」
 まぁ、変わり者で天の邪鬼じゃないと無理、というのが我々の統一見解である、呵々♪

 はっきりさせておこう。ボクは何も隠さないし、何よりも私的唯物論的機能主義は本来ありとあらゆる方向に常に開示されている。理解出来るか出来ないか、それだけの話である。が、「それだけの話」だけにややこしいことになるようだ。

 「不思議やなぁ・・・」と呟く師弟なのだ。

病院にて

 珍しく、ちびっ子@タスマニアンデビルの虫刺され痕がなかなか治らないので病院へ。かぶれてたみたい。行ったのは先週で、今日は治癒状態の確認。ばっちり (・ω・)v

 それはともかく、病院の待ち合わせ室で久しぶりに民放のニュースを見た。そもそもテレビはほとんど見ない上に、たまに見ても某国営放送のみなので(それも相撲か、ゆうがたクインテット、おじゃる丸ぐらい)、コマーシャルが珍しかった。たまたまやっていたのが、収賄の容疑で逮捕された容疑者の搬送風景。最近はヘリコプターで上から追っかけるのか・・・パパラッチやんか、ほとんど・・・それに無意味だし。首都高速を走るバンを追跡するだけ。頭悪いの丸分かりな最低の報道やな・・・こんなん皆見てるんか・・・アホらしい・・・

 異人である事を再確認できた、呵々♪

わっ!

 昨日、柄にも無く鞄など持って出かけたため銀行通帳をどこかで落とす。出る時から「やばいなぁ・・・どっかで落ちたりしぃひんかなぁ・・・落としそうやなぁ・・・」と危惧はしていたのですが、予定通り(?)三つの銀行の通帳をどこかで落とした。チャリやったし・・・

 まぁ、すぐに各銀行に手を打っておいたので問題は無いし、悪用しようにもそもそも残高が限りなく0に近いものばかりなので、見られて格好悪いだけの話。

 それはともかく何で通帳の再交付に\1,050も払わなあかんねん・・・こっちの方がよっぽどショックだし・・・

穏やかに働き、読書にふける日

 ちびっ子@タスマニアンデビルとヨメはおばあちゃんちに遊びに行ってしまったので、仕事部屋に散乱した資料を片付け(足の踏み場も無い状態だった。ももちは面白がってったけど)、ストーブを出し、How toの解説を書いてしまう。

 ももちはおとおさんがお仕事をしているときにお昼寝をするのが大好きな上に、ストーブでぬくぬくしていたので、日がな一日寝っぱなし。ちなみにBGMはPeter Brötzmann だったり、Werner Lüdiだったり山下洋輔トリオだったりするのだが、安眠できるようである。変な子・・・

 お昼から「金剛般若経」やら「維摩経」やらの仏典を読むがイマイチピンと来ない。『金光明経』『理趣経』『大日経』の方が気質にあうのかしらん???

 重ねていうが頭はぼーずだが別に仏教徒でもなんでもない。そもそも神仏など信じていないのだが、こうした経典類はやはりインド発祥のものの方がボクの気質には受け入れやすい。まぁ、動機が自分にとって都合のいい所、オイシいとこ取りなので不純といえば不純だが、私的唯物論的機能主義に応用する事は可能なのである。あくまでもボク的にはね。とことん抽象化された思想は仏教用語でいうところの「現世利益」という形で具現化されるので唯物論的には何の問題も無い、というのがボクの見解である。マジメな僧侶が聞けば怒髪天をつく事間違い無しだが、ボクは宗教家でも思想家でもない、ただの絵描きである。私的唯物論的機能主義はあらゆる哲学、思想、宗教から都合のいい所をパクる。それでいいのである。

 理論武装をしているワケではない。単純な好奇心のなせる業である。

 まぁ、色々いいわけをしても仕方が無いのだが、要は読書に耽溺していた、というだけの話である。

思索の日

 久しぶりに一日ゆっくりと読書を楽しみつつ思索にふける。

 ジャンルと言っても、カテゴリーといっても、ブランドと言っても看板といっても良かろう事についてである。思索の内容は横に置く。私的唯物論的機能主義が弁証法的に展開された、と言う事だけは告白しておく。ボク個人に措いては必然的な答えである。

 それはともかく、しみじみとこの得体の知れない何かを受け入れる事の出来る世間というものがボクには理解出来ない。ボクが異人なのであろう。そして、異人はしばしば混乱し、混乱を周囲にまき散らす。自明の理である。「異」であるが故に同化出来ないからだ。ちなみに「異」とはボクにとって苦痛以外の何ものでもない。

 「異」は本来あるべき所にいないために「異」となる。こういうことはままある事であろう。「異」である以上は今いる場所の中心部に赴く事は避けるべきである。むしろ周縁部においてやや安心出来る、といった程度のものであり「異」である事に変わりはない。

 まぁ、のどかな日ではあったな、呵々♪

今日も働くぼーず

 昨日、途中でストップさせたHow toネタ用の絵を描き上げる。さくさく、送ってお返事待ちの間に雑事をし、アルト(2号ちゃんの方)をチューンナップさせるべく楽器屋さんに持っていく。キーをさらに低くセッティングするのだ。「音がつまりますよ」と言われるが新品なので容赦はしない。他の楽器より元々鳴らないのを選んだのである。しかも他の楽器よりキーは高く設定してあった。鳴らないのでキーを上げたのだろうが、ボクに言わせれば折角のポテンシャルが台無しである。全部のキーを限界まで下げて再調整。1週間で退院予定、呵々♪

 夕方、How toのお返事がある。担当曰く「早すぎっ!」らしい・・・エエやん、問題なければ。

 というワケでこれから気絶 (・ω・)v

やれる内にどんどんやる。

 久しぶりにHow toネタの執筆依頼。もちろん引き受ける。とにかく、依頼されれば何でもする。どんどん、さくさく、すいすい、すらすら、ほいほい引き受ける。ネタは現在熟考中。なにをしてやろうか・・・

 一方、某企画のための解説も書く。すらすらと随筆風に纏めたかったのだが、内容をソリッドで端的なモノにしようとしていたら、エラく硬い文章になってしまった。論文の紀要じゃないんだから・・・参考文献を添付していたら大学院時代にエラくお世話になった先生の訳書がばんばん出て来た。挿絵とは全く縁の無い研究をしていらっしゃる先生だが、学問的興味に関しては実に柔軟かつ的確に把握してくれ、非常にいいアドバイスを頂いた事を思い出し、当時を懐かしむ。学問というのは素朴な興味、あるいは疑問からスタートする、ということをご教示いただき今でもボクは先生の教えを守っている。

 いきなり難しくてややこしい所に首を突っ込む事は無いのである。素朴な興味が、未知の知的体験へと緩やかに誘ってくれる。一つの疑問が解決すると、また新しい素朴な疑問が浮かぶ。そして学ぶ。学問とはそういうものである。ややこしい専門用語の解釈などは必要無い。素朴な疑問を解決しているうちに、こうしたややこしい理論は自ずと氷解して行く。飛躍的な発想よりもこうした地に足がついた思考方法の方が往々にしていつの間にかある種の体系を生み出すのである。

 装幀挿絵画家としての本分であるボクの一連の特殊な思考・作業はこのようにして自然発生的、かつ必然的に生まれた。これも先生の薫陶よろしきを得た結果である。
 だから、ボクはこの道をただひたすらに突き進むだけである。

 10月から色々な企画、連載が一気に進行し始めた。時間が惜しい。うだうだ言っていないでとにかく没頭する。いつ、寿命が尽きるのかは知らないし、興味も無い。日々を勤勉に過ごすだけである。そのためにはもっとスピードが欲しい。「もう充分早いやん」とよく言われるが、やるべき事は山積している。さらにこれらのコトを現実化するためにはとにかく日々の仕事で成果を上げるしか無いのである。

 どこまで行けるかは分からないが、今直面している事を地道に真摯に解決するだけである。

七五三

e2e437f7.jpg 一山超えた・・・

 それはともかく、やはり七五三などは女の子のためにあるようなもので、こういう風に着飾らせるのは実におもしろい、呵々♪一々、所作を教えなければいけないのが面倒といえば面倒だが、変な着方をされるのも個人的にはかなんので、歩き方から、座り方から教える。
 が、まぁ普段着慣れないものを着ているので仕方が無いといえば仕方がなかろう。

 で、何でボクが口を出す事になるのか、という点についてはてきとーに想像していただきたい。理屈よりも身に付いているかどうか、というただそれだけ、というヒントは記しておこう。

エンジンは止まらない、ボケも進行な日

 今朝何時に起きたのか忘れた・・・(´-ω-`)

 ってか、今日長編Bをやっていたはずなのだよ、そうそう。絵は日が昇る前に描けて・・・ああ、そういや2時頃に起きたっけ?・・・ちょこっと仮眠しようと思ったけど、何だか全然眠れなくて、もたもた『悪魔が来りて笛を吹く』を読了したらいつの間にか寝てて、気がついたらお昼をまわってて、それでもやっぱり気が立ってるのでアルトを鳴らしに行って・・・

 自分用監視カメラが必要かも・・・

急制動っ!

 このペースでやっていると、さすがにしんどい。再三再四書いているのがだそれでも一度点火したエンジンは止まる事を知らない。基本的にはナニかにぶつかって止まるか、空中分解するかのどちらかである。本当に不器用なのは困る。大体、身体にも神経にも悪いし、時間感覚が無茶苦茶になるので、ももちはエンジンがかかる度に右往左往しないといけなくなる。さすがにおねえちゃんは心得たもので「おとおさんの例のヤツが始まった」で片付けてくれる。内心は心配してくれているようだが・・・

 それはともかく長編Bである。長編Aのボクの作業は終了していて、後は助っ人ちゃん待ちなので気楽と言えば気楽。

 長編Bは親本もボクがやっていて、例のナニをどアップで描いたのだが、今回はこうしたニュアンスネタを先に封じられてしまった。というワケで、もろにナニを描かないといけないのですが、いくらナニがあれでも、ナニはナニであって、どう繕おうとナニである事には変わりないのである。しかも絵の様式まで決まってしまっているので、ナニをその様式に沿ってアレらしく描いてもやっぱりナニはナニなのである。
 おまけに著者のT中H文氏はビジュアルイメージをほとんど考えずに、ただ思いついた事をねちねち、すいすい書いてしまうので、ビジュアル的にはかなり矛盾が多く発生するのだ。ちなみにこうした氏の傾向に関しては、京都山岳地帯に住む某作家も呆れている上に、著者本人が認めているので、事実であると言い切ってもよかろう。

 さて、ナニをアレらしく、しかも著者の矛盾に満ちた描写をベースに決められた様式で描くというのはかなり辛い。いつもなら、後先考えずにどんどん描いてしまうのだが、今回はエスキースを昨日二枚ほど(しかも何度も描き直した上での二枚である)を描き、今日やっと本作業に突入出来た。矛盾した部分をどうにかこうにか誤摩化しつつ、それでもナニをアレらしくするのはそれだけでも十分大変なのだが、まぁやっと納得出来る下絵が描けた。
 普段ならそのままフィニッシュに向って驀進する所なのだが、今月は微妙な時間差をおいて三度もエンジンを点火した上に、フィニッシュはかなり大掛かりになりそうなので、今日はエンジンを逆噴射させるという暴挙に出た。

 肉体的な疲労はまだどうにかなるのだが、神経はどないもならない。ボクはこうしたコントロールというか加減が基本的に出来ないので、エンジンが轟音をあげて暴走しだすと当然神経には過負荷がかかる。神経にも限界というか負荷に対する許容量というのはあるワケで、この限界を超えてしまうと焼き切れる。私的唯物論的には当たり前なのだが。

 先日、主治医にもしっかりこの事は言われ「フジワラさんは極端に集中してしまうからなぁ・・・本当にちょっとした手抜きが出来れば大分楽にはなるだろうけフジワラさんには無理な相談やな」と苦笑されてしまった。つまり、治療不可能なワケだ。これは仕方がないので自分でどうにかするしかない。

 今日も本当ならフィニッシュまで持っていきたかったのだが(体力的には可能だった)、ものすごく脆弱な意志を総動員してエンジンを逆噴射して、アイドリング状態に何とかおさめた。明日は再加速である。おまけにいらんコトまでまた思いついてしまったので、後二日がかりぐらいになりそう・・・文庫の狭い面積の絵にも関わらず、ここまで構想が膨大になるというの、正直ショーバイとしてはかなり問題があるのだが、まぁ仕方がない。

 で、昼過ぎからアイドリング状態に入っていた所に吉報が届いた。ほぼ5年越しでどないかならんか、と気をもんでいた企画が某社の編集会議を無事通過したらしい。まだ決定ではないが嬉しい事には変わりなく、後は営業会議、役員会議の二つの関門を通り抜けると、やっと陽の目を見る事が出来るのである。

 となると、いまやっている長編Bも俄然気合いが入るワケで、今週末は無事廃人と化しているでしょう、呵々♪
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フジワラヨウコウ/...

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