前回のブログで、僕は女の子より男優とのつきあいのほうが長いと書いた。他社の単体ものでは、女の子を何カ月にもわたって拘束し、男優を作品ごとに替えてゆくのに対して、僕の場合は逆だと。


 これまで幾度となく「なぜ売れてる女優で撮らないのか?」と多くの人から訊かれた。そう言ってくれる人は、無名でとりわけ美人というほどでもないフツーの女の子でこのくらい売れるのなら、美人でバリューがあればもっと売れるだろうに、と思っているのかもしれない。


 ホンネを言えば、きっと僕はそこに抵抗があったのだろう。監督として、売れている女の子に頼るということに。そうでなければ、かつて愛染恭子を手もとに置いて、もっと使っていたように思う。


 当時、僕が運営するプロダクションにいた愛染は、武智鉄二監督の「白日夢」に主演したことにより、本番女優として一躍有名になった。日活時代から一緒に組んでいたカメラマンから「彼女でやってみたら」と言われて撮ったのが「愛染恭子の本番生撮り」シリーズであり、これが僕にとって初のビデオ作品である。


 だが、僕はこのシリーズを5タイトルしか撮っていない。売れなかったわけではない。売上は僕の予想を超えて大きなものになった。もしも月に1タイトルでも同シリーズを撮りつづけていれば、十分それで利益が出たはずだ。


 でも、僕は次から次へと新人に行った。愛染に限らず、有名になるとその女優のイメージというものが形成される。これが僕にとっては曲者(くせもの)なのだ。イメージはまわりが抱いているだけでなく、本人も無意識のうちにその枠からはみ出せなくなってくる。


 それに加えて、ある程度その女の子が見えてしまうと、僕自身が飽きてしまうというのも大きい。がまんして同じ子を撮りつづけるのは、やはり苦痛なのである。


 なぜなら、これはすでに撮ったから、次はどういう見せ場を作っていこうかと、自分の中で義務が生まれてくる。それにひきかえ、新しい子ならば、それをまったく考えなくていい。とにもかくにも未知なのだから。


 では、なぜ男優とは長くつきあえたのだろう?


 アダルトビデオが男優で売れるのではないというのも、そこには影響しているだろう。ただし、男優も売れっ子になっていくと、女優と同様に自分のイメージからはみ出せなくなる者もいる。そうなると、やはり僕の中では拒絶反応が起きる。


 実際に、ある作品では複数の男優が登場したが、そのうちのひとりが自分の作り出したものに縛られて、それを否定するような行動がいっさい取れなくなっていた。僕はファインダー越しに彼のカラミを見ていて、ああ、これじゃあダメだなと思った。結局、彼が出ているシーンは、編集段階でまるまる捨てざるを得なかったのである。


 そうかと思えば、人気が出ても、自分で自分を縛らない者もいる。たとえば、前回書いた太賀麻郎は「いんパフォ」のとき人気があったが、自分のタガには、ついぞはまらなかった。なぜ、彼はその落とし穴にはまらなかったのだろうか? 僕もそうだが、やはり何も考えちゃいなかったからだろうか……。


(更新日:2010年4月16日掲載)


 人間の性という宇宙を探っている僕は、無心で臨んでくれる人につい重きを置いてしまう。だが往々にしてそういう人は、作品の中で異彩を放ち、時として新たな気づきさえ与えてくれるものである。


(*「週刊代々木忠」は年末年始のお休みをいただきます。次に読んでいただけるのは1月27日になります。どうかよい年をお迎えください)





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