えっ、また本の話?と思われるかもしれない。夏休み前に『生きる哲学としてのセックス』を紹介させてもらったが、その後、この本に関連して書いておきたいことが思い浮かんだのだ。おつきあい願えればありがたい。


 「人間いかに生くべきか」は、哲学の代表的な主題である。哲学ならば「思索」によってその答えを見つけようとするだろう。けれども、思索ではなく「セックス」で「人間いかに生くべきか」のヒントをつかもうというのが本書である。


 ただし、このタイトルはひとつの矛盾をはらんでいる。読んでもらえればわかるが、僕は人間の行動原理として「思考」「感情」「本能」という3つを定義している。現代は“思考至上主義”とでも言うべき時代で、何事にも「思考」が優先される。勉学にいそしむ学校は言うに及ばず、社会に出てからも……。


 セックスに関してもそれは同様で、現代においてはどうしても思考が入り込んでくる。たとえば愛撫を受けながら「舌使いが巧い……」と相手のテクニックを分析するのも思考なら、自分が抱かれたい(あるいは抱きたい)スターやアニメの主人公としていることを妄想しつつパートナーとするのも思考である。


 先ほどの3要素で言えば、「思考」と「本能」でセックスしている人が圧倒的に多いけれど、セックスのときには「思考」を休ませて、「感情」と「本能」ですべきなのだ。もっと言えば、相手と本当に溶け合うようなセックスにおいて「思考」はまったくもって必要ない。


 タイトルがはらんでいる矛盾とは、「生きる哲学」というタイトル前半はまさに「思考」の専門域を示唆しながら、後半の「セックス」で「思考」は要らないという結論がパラドキシカル(逆説的)なのである。


 ところが、最近「禅」に関する本を何冊か読んでいるのだけれど、あながち逆説でもないのか……とも思い始めている。鈴木大拙『禅』(工藤澄子訳、ちくま文庫)にこんな件(くだり)がある。


 「問いは知性的に起こされるのであるが、答えは体験的でなくてはならぬ」


 知性上の答えは必ず次から次へと問いを呼び求め、最後の答えに到り着くことがない、そのうえ、たとえ知性の解決というものが得られたとしても、それはつねに知性の上に留まり、おのれ自身の存在を揺り動かすものとはなり得ないと大拙は言う。


 彼の言わんとすることが、そのまま当てはまるかどうかは僕にはわからないけれど、思考にはやはり限界があると思う。「人間いかに生くべきか」という問いは知性(思考)から起こってくるけれど、だったらこうすればいいという答えを、思考の中で探してみても結局見つからないのではないだろうかと。


 ここまでは、このブログにおいても言い方は違えどくり返し述べてきたことだから、「ああ、思考至上主義へのアンチテーゼね」とお察しの方も多いはずである。今回書いておきたかったのは、じつは次のことだ。


 同じく鈴木大拙の言葉に「無分別の分別」というのがある。いったいどんな意味なのか? まず「分別(ふんべつ)」だが、これは日常的にも使われる。たとえば「あの人は分別がある」といえば「道理をよくわきまえている人だ」という意味である。しかし、仏教でいう「分別」は(というか「分別」はもともと仏教から生まれた言葉だが)、前述の「常識がある」とか「きちんとしてる」といったニュアンスではなく、「対象を識別する」という意味である。


 「識別する」とは「見分ける」ことだから、対象は1つではない。たとえば、上と下、右と左、表と裏、善と悪、主体と客体……、そう、これは前回のブログにも書いた文章である。この世は「二元性の世界」だから「迷う世界」でもあると。


 それに対して「無分別」とは何か? 「分別」の逆で「対象を識別しない」の意である。同じく前回、「一元性の世界」を「悟り」と呼ぶと書いたけれど、対象を識別せず、主体(自分)も客体(識別する対象)もない「無分別」とは、悟りの境地に至ったときに初めて得られるものだろう。


 何が言いたいかというと、思考が邪魔をしているからオーガズムを体験できないと僕はずっと言い続けてきた。それはここで言うところの「分別」にも通じる。オーガズムでは自分と相手が溶け合うという表現もたびたび使ってきたが、それは主体と客体が分かれていないということでもある。


 ただし、悟ってしまって、そこにそのまま浸(ひた)っているのは幽霊屋敷にいるようなもんだと大拙は言う。要するに悟っただけじゃあダメで、動き出すこと、動かなければ意味がないというわけだ。それが「無分別の分別」である。


 たとえばベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンは、確かに動いている。「微笑みの瞑想」という話でも書いたが、ベトナム戦争で焼け出された農民を助け、荒れ果てた村を立て直し、子どもたちには学校を作って教えた。そしてアメリカに渡って、戦争終結の和平提案まで行ったのだから。


 いずれにしても、知性を超えた先の世界である。






Aito-sei-long