以前アテナ映像に勤めていたスタッフから本を送ってもらった。彼の友人が書いたそうだ。木全公彦『スクリーンの裾をめくってみれば』(作品社)。副題に「誰も知らない日本映画の裏面史」とある。


 この本の中に、俳優・三國連太郎が1964年に製作・監督した映画「台風」の話が出てくる。どんな内容なのかを要約するのがなかなか難しい。というのも、企画段階から内容がたびたび変遷を遂げ、結局「台風」としては公開されなかった作品だからだ。


 著者はその過程をよく調べ、わからない部分は推測とその論拠も示しつつ綴っているが、長くなるのでごくごく端折って書くと、舞台は巨大台風に襲われた村。道路も遮断されて孤立した状況の中、山林伐採をめぐり村は二派に分かれて抗争をくり広げる……。とでもなろうか。


 著者も書いているけれど、極限状況とも言うべき中、被災者たちが心配すべきはまず命であり、道路も復旧する前から山林伐採で抗争するのか!というツッコミは確かにあるものの、僕が関心を持ったのは一人の女優のオナニーシーンだった。


 この本には、そのオナニーシーンにまつわる資料として当時の新聞や書籍等からの引用がある。少しだけ紹介させてもらう。


 〈三國監督がふとアタマにひらめいて急きょこのシーンを設定することになった。「果たしてこのショッキングシーンはドラマの中に必然性はあるんですか――」と演じる三木はこばんだが、論議の末、三國は「台風のため断絶された村の状況と、貧しい環境ゆえにそこから脱出できない女の欲求をこのシーンで表現したい」と力説。とうとう三木を口説いてOKさせてしまった〉「内外タイムス」1964年9月1日付より


 〈一九六四年、自ら独立プロダクションをつくり『台風』という映画を製作したが、その劇中で新人会の三木弘子にオナニーの演技をつけて、本人から削除を要求される。連太郎ちっとも動ぜず、「自慰は女性の必然的行為」と称し、週刊誌にオナニー論争を巻き起こした〉竹中労『芸能人別帳』(筑摩書房)より


 オナニー論争なのである。今から54年前、「女性がオナニーするのは当たり前のことじゃないか」という三國のような見方は少数派も少数派で、「女性蔑視だ!」「女性をそういう目で見るのか!」が大半であったということだ。


 僕が子どもの頃、夫や息子が戦地に赴(おもむ)いている家族が隣近所にも住んでいた。夫や息子は国家のため、異国の地で命をかけて戦っている。そういう社会において「女性は貞淑であれ」という空気が国全体を覆っていた。そして女性たちもそれを生きた。この呪縛は終戦から20年を経た60年代にも人々の心に色濃く残っていたのではないだろうか。


 82年に「ザ・オナニー」を撮ったときでさえ、「女は本当にオナニーをするのか?」という疑問が男たちの中に依然として存在した。ピンク映画にオナニーシーンはあったけれど、あれはあくまで演技であり、結局、男の妄想じゃないのかとどこかで男たちは思っており、女性は女性で「私はオナニーしてます」なんて、とても人には言えない状況だった。


 だからこそ、女性が本気でオナニーするところを見てみたかった。そのとき、女性はどんなイヤラしい格好でするのだろう。秘められた「メスの領域」。開けてはならないはずの扉を開けさせたのは、オスとしての僕の好奇心だった。最初は嫌がっていたバイブを手に取り、胸にあて、クリトリスに押しつけ、挿入して本当にイッてしまうまで、ときには懇願し、延々と目の前の女性に語りつづけた。女性が本気でヨガる「ザ・オナニー」はフイルムに起こされ、映画館でも多くの男たちに衝撃を与えた。


 だが、ビデオはその後、刺激を追い求め、どんどんエスカレートしていった。それこそオナニーのオカズとして、より過激なものを人々が求めた結果とも言える。今は女性も、片手にスマホ・片手に電マの時代である。現実においても、面倒くさいのはスッ飛ばして気持ちよければいいと言う人が増えた。


 『スクリーンの裾をめくってみれば』を読んでも、日本の性表現におけるターニングポイントは、日活ロマンポルノ裁判(72~80年)だったとあらためて思う。日活ロマンポルノの4作品が猥褻図画公然陳列罪容疑で起訴されたが、一審二審とも無罪。検察が上告を断念して最終的に無罪が確定した。ここから性表現が一気に花開いていったのだ。


 その延長線上に“今”がある。はたして本当にこれでよかったのだろうか。被告の1人だったから言うわけではないが、権力が猥褻の定義などできるわけがないと今でも思っている。だから、あの裁判は無罪になって当然だった。しかし、もしも有罪になっていたとしたら、性表現は非常に厳しいものにならざるを得なかったはずだ。


 「結婚するまでは……」とかつてはほとんどの女性が思っていたし、時代が変わり、結婚を待たずしてセックスするようになってからも「好きな人に……」という思いは残っていた。そこには感情というものが伴っており、心とセックスは共にあったと言える。ところが今や、2つは切り離され、セックスは快楽の手段として一人歩きを始めた。責任の一端はビデオにもある。だから僕は、あの裁判がもし有罪になっていたら……と詮ないことを時おり思うのだ。


 だが、悪いことばかりではない。この業界の中からも、見世物ではない本当の性を伝えていこうという動きが生まれている。たとえば、産婦人科医・上村茂仁&AV男優・森林原人による「スマホ世代向け〈学校では教えてくれない〉本当の性教育~誰も傷つかないための知識~」というプロジェクトは、その最たるものと言えるだろう。ぜひ成功させてほしいと心から思う。






Aito-sei-long