もう30年以上前になるが、僕はミクロネシアのヤップにハマッていた。ヤップに最初につれていってくれたのは、日本ヤップ友好協会の会長をしていたSさんである。彼は夏休みになると、日本からヤップへ子どもたちをつれて出かけた。小学生ばかりで、男の子と女の子を合わせたら十数人はいただろうか。


 ヤップ本島までは親も一緒である。着くなり、親たちからは「え、こんなところ?」と溜め息まじりの声が聞こえた。電気こそ通っているものの、エアコンはうるさいだけで冷えないから扇風機だし、ベッドからはスプリングがはみ出している。もし南国のリゾートを思い描いていたならば、完全に肩透かしをくらう。


 だが、子どもたちが10日前後を過ごすのは、このヤップ本島ではない。ここからさらに舟でマープ島という、もっと小さな島に渡る。ただし、親は同行できないルールだ。しかも、マープ島には電気が来ていない。Sさんや現地の人々はいるが、子どもたちだけの自給自足の生活が始まるのである。


 水道のない島で子どもたちの飲み水といえば、若いヤシの実のジュースである。まず水分を確保すべくヤシの木の登り方から始まって、海への入り方、魚の獲り方を教わってゆく。主食となるタロイモ掘りは重労働であり、ヤブ蚊との戦いだ。もちろん料理も自分たちで作る。


 そればかりか、島の人がニワトリを絞めたり、ブタをつぶしたりするところも、子どもたちは目にすることになる。食べるという行為は、生きていくうえでいちばん根っこにあるものだが、そこを一から教え込まれる。そして、それは他の尊い命をいただいたうえに成り立っていることも、Sさんは子どもたちに伝えていくのである。


 サンセットは毎日異なる自然のパノラマを見せてくれるし、電気のない島の夜は、凪いだ海に満天の星が映る幻想的な異空間が訪れる。かと思えば、スコールが嵐のように子どもたちを襲う。自然は美しいばかりでなく厳しい。


 言葉だけでは決して理解することのできないものがある。子どもたちは体験を通してその多くを学んでゆく。10日間が過ぎると、彼らはまるで別人のように逞しくなっている。男の子も女の子も面構えが違うし、なによりその瞳には自分の意思という光が宿っているのだ。


 なぜこんなエピソードを書いたかというと、食べることが生きるうえでの根っこならば、性もまた同様だと僕は思うのだが、大人は「性はいかにあるべきか」を子どもにきちんと伝えているだろうか?


 食べることはある意味、残酷さも併せ持っているわけだが、性はといえば、セックスしている当人たちは気持ちよくて幸せであっても、それを客観的に社会性の中で見たときには、無様だし、なにより下品である。


 だから、親はわが子に対してなかなか踏み込めないのだろう。そればかりか、可愛いわが子に対して、性のことなど想像すらしたくないのかもしれない。だが、それを覆い隠せば、どんどんイケナイこととして子どもの中に位置づけられてゆく。そして、かつて保育園児のエピソードにも書いたように、イケナイことはあっと言う間に横に広がってゆくのである。


 いま売らんがための情報は、ネットを中心にそこかしこに溢れている。きちんとした性教育をしなければ、子どもは溢れている扇情的な情報のほうを取ってしまう。表層的なことだけに右往左往して、対症療法でどんどん法律を作り取り締まったところで、そういうものはなくならないばかりか、地下に潜るだけである。厳しく禁じたものは付加価値を呼び、高値で取り引きされる裏の社会があるからだ。


 誤解のないように書いておくと、僕は売らんがための扇情的な情報が必要だと言いたいのではない。そうではなくて、なくならないという前提に立ったとき、子どもたちが今後生きていくうえで自ら何を選び、何を選ばないのか、その判断の基準を彼らに示さなければ、何も始まらないではないかと思うのだ。


 ただし、性はもともと本能に根ざしているから、思考のブレーキだけでは手に負えない。単に社会性の善悪や正邪では割り切れないものが必ず残るのである。性は人間を幸せにしてくれるけれど、不幸にもする。そんな諸刃の剣を、大人でさえ持て余しているものを、子どもたちにどう伝えていくのか。


 長い道のりの第一歩は、まず大人が自分の性との向き合い方を見つめ直すことではないかと僕は思う。児童ポルノを成り立たせているのは、本能が未成熟な大人たちである。性の対象は内なる自分の合わせ鏡みたいなもので、中身(本能)が大人になりきれていないからこそ、同じ子どもに欲情するのだ。その意味では、大人の異性と向き合える人間力、それを育む制度づくりのほうが先決の問題に違いない。「ドラえもんのしずかちゃん」の入浴シーンを「調査研究」する前に。


(2013年8月2日掲載)


 アダルトビデオも、かつては性の教科書となる可能性を秘めていたと思う。とりわけ第三者機関のビデ倫が健全に機能していた頃には……。作り手が「売るため」を最優先にし、なにも種を蒔かなくなってから、その可能性は閉ざされた。






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