「マインドフルネス」と「右脳の世界」の話である。ちなみに、アマゾンで「マインドフルネス」を検索すると360件を超える関連書籍や雑誌がヒットする。また、企業においても、グーグル、アップル、P&Gなど、社内研修でその手法を積極的に取り入れているところがたくさんあるという。


 「マインドフルネス」とは、いったい何なのか? 結論から言ってしまうと「瞑想法」である。2500年前から上座部仏教で行われていた「ヴィパッサナー瞑想」が「マインドフルネス」のそもそもの起こりだとされている。余談だが、古い友人が日本人としては珍しくスリランカで上座部仏教の僧侶として修行中ということもあり、僕はこの瞑想法に興味を覚えた。


 ヴィパッサナーは、1960年代、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンによって、その実践法がアメリカに伝えられた。彼は「歩くこともまた瞑想である」と言ったが、たとえば歩くことに意識を集中してその瞬間の足の感覚を感じ取るという方法論がマインドフルネスにもある。


 70年代に入り、アメリカでは患者の慢性的な痛みを緩和させるためにヴィパッサナーの技法を取り入れた「マインドフルネスストレス低減法」が開発される。そして、これをうつ病患者向けに転用したのが「マインドフルネス認知療法」。


 このように「ヴィパッサナー」はアメリカで宗教色を抜かれ、「マインドフルネス」に名を変えることで、世界中に広がっていった。そして前述のように、医療現場で、あるいは産業界や経済界で現在も大いに活用されている。


 それに水をさすつもりは毛頭ないが、言わせてもらえばちょっと違和感もあるのだ。ヴィパッサナーにしてもマインドフルネスにしても、そもそも瞑想とは「右脳の世界」であるはずだ。社会性に根づいた左脳から自由になること。けれども、それにしては社会性がますます強くなっているように感じるのは僕だけだろうか。


 ヴィパッサナーの「ヴィ」は「客観的に、ありのままに」という意味で、「パッサナー」は「観察する、観る」だそうである。このようにヴィパッサナーは、つねに自分を客観的に観察する必要がある。換言すれば、覚めてなきゃいけないわけだ。


 一方、上座部仏教には「ヴィパッサナー」と並んで「サマタ」という瞑想法がある。スリランカで修行中の友人に「サマタ瞑想は呼吸が主という考え方はありですか?」と訊いたら、「ありです」という答えが返ってきた。つづけて「マインドフルネスの方法論において、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の混同を僕は感じてしまうのだけど、そのへんはどうなのか教えを乞いたい」と訊いたら、「まず、サマタ瞑想で集中力を高める訓練をしてから、ヴィパッサナー瞑想に移行するのもよいでしょう」という返事が戻ってきた。


 仏教に「止観」という言葉がある。「止」とは心の動揺を止めること、そしてそのうえで「観」、つまり真理にそくして正しく観察することが重要だといわれている。おそらく「止」にあたるのが「サマタ瞑想」で、「観」にあたるのが「ヴィパッサナー瞑想」ということなのだろう。


 ちなみに「サマタ瞑想」は快楽に耽(ふけ)ってしまいがちで、なかなか悟りが開けないと言う人もいる。しかし、つねに覚めてるよりは、たとえ快楽であれ、ひとつのことに耽ってしまったほうが、「右脳の世界」に近づけるんじゃないかと僕は思うのだけれど……。


 ヴィパッサナーも(マインドフルネスも)、そしてサマタも、呼吸法が基本にある。これは原始仏教の時代から呼吸法が重要視されてきた証左ではあるけれど、呼吸法自体は次のステップに移るための準備段階という色合いが強い。けれども、僕自身の体験からも、呼吸法だけで「右脳の世界」に行くことは充分可能だ。それは呼吸そのものと一体化したときであり、一体化しているという意識すらなくなったときである。







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